文化地質学とは砥石硯石仏像・神像墓石文化財建材

 文化地質学

 文化地質学とは

 地質学の1分科に「文化地質学」があります。聞き慣れない言葉ですが、文化地質研究会では、その設立趣意書に次のように述べています。
 文化地質学は人類の文化・文明が地質とどのように関わっているかを研究する学問分野である。人が地球に住む生物である以上、人々の生活や社会、そしてその上に花開いた文化・文明は、必ず地球と関わりがある。人々は大地の上に住み、土地を耕し、地質の上に歴史と文化を築いてきた。人々は地質を資源として利用し、さまざまな道具や機械を製作してきた。人々はそびえ立つ山に畏敬の念を抱き、神格化した。このようにみると、文化地質学は単なる地質学の一分野ではなく、地球に住む人類のあり方を問う総合科学である。
 これには「単なる地質学の一分野」ではないとありますが、元々はザルツブルク大学のF. Vetters教授が言い出したようです(Vetters, 2004)。石器時代という言葉があるように、人類は石材としてさまざまな用途に石を使ってきましたが、一方でストーンサークルや石像のように信仰の対象ともしてきました。確かに物質生活だけでなく精神生活にも深く関わってきました。古神道(原始神道)も奈良県の三輪山のように山自体をご神体として崇めてきたのが始まりと言われています。しかし、現状では文化財や日常品に使われている石材に関する研究が多いようです。例えば、「地質学と考古学」の「薩摩塔の由来」をご覧ください。なお、文化財の風化防止や保存対策、遺跡の探査などにも地質学は深く関わっています(朽津,2007)。

 砥石

古墳時代の砥石(鹿大遺蹟出土)
(鹿大博物館蔵)
 石器時代も下って磨製石器の時代になると、石を磨く砥石が必要になります。さらに下って鉄器時代には砥石は更に重要になります。古代の戦士は戦場に必ず砥石を携行したのだとか。刃物を鋭利に研ぐには、きめ細かな砥石が必要で、珪質頁岩や泥岩、凝灰岩が最適です。しかし、大陸は、地質学的には片麻岩などからなる安定陸塊cratonか、それらを石灰岩等がほぼ水平に覆った卓状地platformがほとんどで、砥石にはあまり向かない石ばかりです。良質な砥石は日本のような変動帯にしか産出しないのです。そのため、一説によれば、日本では引き切るタイプの鋭利な日本刀が生まれ、中国ではたたき切る青竜刀falchionが、ヨーロッパでは騎士の持つ両刃の剣swordのような刺突を主とする武器が使われたのだそうです。
鳴滝砥石(地質標本館蔵)
 砥石は荒砥・中砥(なかと)合砥(あわせと)に分けられます。荒砥はきめの粗いもので、研ぎ始めの荒研ぎに使われます。合砥は仕上砥とも言われ、大工道具や剃刀など鋭利な刃物の研磨に使われます。京都丹波帯の砥石型珪質頁岩を用いた鳴滝砥が有名です。中砥は中間的なもので、一般家庭や農家で使われる包丁や鎌の研磨に用います。これまた京都の青砥が有名です。なお、鳴滝砥石は日本地質学会が京都府の岩石に指定しています。
 近年は主に酸化アルミニウムおよび炭化ケイ素を用いた安価な人工砥石が普及したため、天然砥石は絶滅寸前の状態にあります。図は1950年代の天然砥石の産地だそうです(佐藤,2005)。鹿児島では藩政時代、どこの石を使っていたのでしょう? 「三国名勝図会」の甑島土石類の項に青砥石が出てきますので、古第三紀の頁岩が使われていたことは確かなようです。少し柔らかすぎますが、永野層の泥岩も仕上げには使われたかも知れません。
分類名称位置岩石
荒砥銚子砥千葉県銚子市外川および海鹿島白亜紀青灰色細粒砂岩
紀州砥*和歌山県西牟婁郡白浜町富田半島各地新第三紀淡黄-淡青色細粒砂岩
平島砥長崎県西海市崎戸町平島古第三紀淡褐色砂岩
中砥志戸前砥岩手県岩手郡雫石町御明神志戸前風化した角閃石安山岩
前森砥山形県最上郡最上町東小国第三紀淡緑色凝灰岩
滝ノ原砥福島県南会津郡南会津町滝原デイサイト岩床
助川砥茨城県多賀郡多賀町諏訪古生層中の粘板岩
大泉砥茨城県桜川市大泉八溝山地ジュラ系の青黒色粘板岩
荒内砥栃木県芳賀郡茂木町深沢八溝山地ジュラ系の青色粘板岩
上野砥群馬県甘楽郡下仁田町中小坂風化した角閃石安山岩
沼田砥・虎砥群馬県甘楽郡南牧村砥沢熱水変質を受けた鮮新世のひん岩
福平砥富山県黒部市福平風化した角閃石安山岩
名倉砥愛知県北設楽郡設楽町神田第三紀灰黄色凝灰岩
合掌寺砥静岡県伊豆の国市大仁第三紀灰黄色凝灰岩
米山砥静岡県下田市箕作第三紀白-淡褐色凝灰岩
宮川砥京都府亀岡市宮前町宮川および神前丹波山地ジュラ系の青黒色粘板岩
目透砥京都府亀岡市宮前町猪倉丹波山地ジュラ系の青黒色粘板岩
伊予砥**愛媛県伊予市上唐川風化した雲母安山岩
合砥三河白愛知県新城市砥沢第三紀白色凝灰岩
鳴滝砥***京都府右京区梅ヶ畑町丹波山地のジュラ系に含まれる砥石型珪質頁岩
日本の砥石産地(佐藤,2005)* 有数の荒砥産地 ** 青砥の標識地 *** 合砥の標識地(佐藤,2005) 地名は現行地名に変更
合砥の葉理に垂直な面の電顕写真
(竹村ほか,2009)
合砥で研磨した金属(鉄)表面
の電顕写真(竹村ほか,2009)
 風化した砥石型珪質頁岩である鳴滝砥を電顕で見てみます(竹村ほか,2009)。直径200μmほどの楕円型に押しつぶされprerssure shadowを伴う石英粒が顕著に認められます。この合砥で研磨した金属の表面を電顕で見ると無数の筋が見えます。1本中の幅は約1μmです。これらの筋は粘土鉱物の隙間に存在していた石英粒によるものと考えられます。この砥粒として作用する石英粒が剥がれやすくもなく剥がれにくくもない適度な力で保持されている必要があります。
 なお、砥石型珪質頁岩を産する砥石層は、遠洋性海洋生物の 大量絶滅のあったペルム-トリアス境界(P-T境界:古生代と中生代の境界)付近に伴うことが指摘されており,地質学的側面からは付加コンプレックス形成時のデコルマ面としての役割が注目されています(中江,1993)。

 硯石

スレートの顕微鏡写真
 中国・朝鮮・日本など漢字文化圏は墨書文化圏でもあります。墨をする硯は必需品でした。一番有名なものは中国広東省広州の肇慶市から産する端渓硯でしょう。中部デボン系の粘板岩です。石眼と称する石紋が入ったものは珍重され、高額で取引されています。
 わが国では、宮城県牡鹿半島の雄勝(おがつ)石が有名です。二畳系登米(とよま)層群の粘板岩(スレートslate)が使われています。登米スレートは、褶曲に伴う軸面劈開axial cleavageにより、μオーダーで薄く剥ぐことが出来ます。そのため、硯石としてだけではなく、昔は屋根材としても多用されました。東京駅の駅舎が代表格です。現在では玄昌石という名称でタイル材として使われています。この登米層群を不整合に覆う三畳系稲井層群の石灰質スレートも「井内石」として硯石や石碑に使われています。
 雄勝硯が圧倒的シェアを持っていますが、国産硯には次のようなものも有名です。寺谷(1987)のリストに地質を付記しました。
名称産地地質名称産地地質
木葉石秋田県北秋田市森吉中新世黒色泥岩高島石滋賀県高島市安曇川(あどがわ)ジュラ紀付加体粘板岩
紫雲石岩手県一関市東山町デボン系鳶ヶ森層群紫赤色粘板岩清滝石京都府京都市ジュラ紀付加体粘板岩
玄昌石宮城県雄勝町二畳紀系登米粘板岩那智黒石三重県熊野市神川町中新世熊野層群黒色頁岩
大子(だいご)茨城県大子町中新世黒色泥岩諸鹿石鳥取県若桜町諸鹿中新世泥岩
奴奈川石新潟県糸魚川市中新世西頸城層群黒色頁岩高田石岡山県眞庭郡勝山町ジュラ紀泥質片岩
雨畑(あまばた)山梨県南巨摩郡早川町雨畑(あめはた)古第三紀付加体瀬戸川層群黒色粘板岩土佐石高知県幡多郡三原村白亜紀須崎層黒色粘板岩
竜渓石長野県上伊那郡辰野町ジュラ紀付加体の川岸粘板岩赤間石山口県宇部市関門層群赤褐色輝緑凝灰岩
鳳来寺石愛知県新城市鳳来山赤渓(こうけい)宮崎県延岡市北川町川内名八戸白亜紀付加体四万十層群頁岩
鳳足石福井県小浜市新保ジュラ紀付加体粘板岩若田石長崎県対馬市厳原町佐須川漸新世~中新世対州層群泥岩
 なお、付加体の岩石には、海底地すべりやプレート沈み込みに伴う構造運動によって生じた剪断泥質岩がしばしば見られます。これらは硯石としては不適ですので、整然層の部分が使われています。
原石採取地(地質図:井上ほか,2005)
 それでは鹿児島ではどこの石を硯石に使ったのでしょうか。上記の日本の硯石を見ると、粘板岩~珪質頁岩~黒色泥岩などが一般的です。この条件に当たるものは鹿児島県内では獅子島から甑島にかけて分布する古第三系~白亜系の陸棚堆積物が筆頭に挙げられます。
 実は天璋院篤姫の婚礼に先立ち島津斉彬が将軍家に献上した品の中に上甑島産の硯がありました。『斉彬公史料』に次のように記載されています。
篤姫君将軍家結婚ノ際国産ノ大硯献呈ノ事実
篤姫君後天璋院殿ト称ス御入輿ニ付テ、種々ノ品物献呈セラレタリ、中ニ就テ有名ナル甑島瀬上村ニ産スル硯石冷泉石ト名ツケラレタリハ石質無比、紋理白斑種アリテ、世ニ賞セラルゝハ僉人知ルカ如シ、然レトモ大硯ノ材料ハ希有ノモノナルニ、適々一大料ヲ得、江戸ヨリ有名ナル彫刻工ヲ傭下セラレ大砲鋳製造場ニ於テ彫刻シ、最良ノ大小二硯ヲ製造セリ、其大ナルモニハ長五尺余、幅三尺余、厚九寸余、目方百八十余斤、水三斗余ヲ容レ、四人担キノモノニテ、表裏トモニ別ニ彫粧モナク、自然ノ紋脈斑理竜蛇ノ播珵美麗ナル目ヲ驚カセリ、小ナルモノハ長二尺四寸、幅一尺五寸余、高サ六寸四五分許リ、目方七十斤余、水壱斗五升ヲ容レ、二人ニテ担ケリ、是モ同シク紋斑種々顕ハレ、美観ヲ極メタリ、大小硯皆方形ニシテ雅致、而シテ硯ノ盖台共ニ江戸ニ於テ製造セシメラレタリ…(中略)…其際ノ御言ニ大小名数多ノモノカ善美ヲ尽シ、我劣ラシト争フテ献スルモノ悉ク些細モノナリ、此度ハ弄物ナカラ雅大ノモノヲ持セ遣ストキハ後世ノ譚ニモナルベシ、又文具ノ一ツナレハ粗末ニ棄置クコトモアルマシ、其上将軍家ニ文学ヲ勧ルノ意ヲ表スルニ足ルベシトノ仰セアリシトナム、(後略)

 意表を突いた巨大な硯の献上品ですが、寸法をメートル法に換算すると、大きな硯は150cmX90cmX27cm,108kgで、小さなものは72cmX 45cmX19cm,42kgになります。今はこの硯、どこにあるのでしょう。徳川家にあるのでしょうか、それとも皇居でしょうか。原石採取地は薩摩川内市上甑町瀬上にあり(地質図参照)、看板が出ています。古第三紀上甑島層群瀬上層の頁岩です。なお、「三国名勝図会」の甑島土石類の項には、蛇眼石・石綠靑・盆山石・靑砥石が列挙されています。冷泉石は盆山石の別名のようです。また、『石の俗称辞典』には上甑島の浅海石も硯材として挙げられています(「雲根志」参照)。現在では屋久島硯が売り出されているとのことです。熊毛層群の黒色頁岩です。熊毛層群は古第三紀付加体の堆積物ですから、剪断泥質岩の多いところですので、もしかすると屋久島花崗岩の熱変成を受けてややホルンフェルス化した部分を使っているのかも知れません(見たわけではないのであくまでも推測ですが)。

 仏像・神像

川上の田の神(県有形文化財)谷山清泉寺磨崖仏坊津一条院(県史跡)仁王像
 敦煌の石窟のように、中国には岩山を穿って寺院を作ったり、仏像を彫刻する風習がありました。それが伝わってきたのでしょう、わが国にもたくさん磨崖仏などがあります。鹿児島に広く分布する溶結凝灰岩は、柔らかくてノミやタガネで容易に加工できますので、石材としては打ってつけでした。他地域では寺院の山門を守る仁王様は木像がほとんどですが、鹿児島では珍しい石像があります。廃仏毀釈がなかったなら、もっとたくさんあったことでしょう。
 神道ではご神体は鏡が多く、神像を造って拝むことはしません。しかし、薩摩藩内(鹿児島県と宮崎県の一部)では田の神様(たのかんさあ)が、田圃を暖かく見守っています。江戸時代、イナゴなどの虫害はもっとも恐れられていた自然災害でした。農薬などなかった頃ですから、神様にお願いするしか方法がなかったのでしょう。

 墓石

西郷家墓地島津斉彬夫妻の墓(福昌寺)
 わが国では墓石としては一般に御影石(花崗岩)が好まれます。鹿児島には花崗岩もありますが、いずれも15Maの新第三紀花崗岩で、中生代の広島花崗岩と異なり、石材としてはあまり良質ではありません。また、花崗岩は硬くて、昔の技術では文字の彫刻が困難でした。
 鹿児島には柔らかくて加工しやすい溶結凝灰岩が無尽蔵にありますから、墓石にも石碑にも溶結凝灰岩が多用されました。しかし、溶結凝灰岩は風化しやすい欠点があります。経年劣化で文字が読めなくなるのです。下級武士だった西郷家の墓地は溶結凝灰岩を使用しているようです。
 一方、お殿様は特別に山川石が用いられました。指宿市山川町福元に分布する福元火砕岩類(川辺・阪口,2005)のうち、淡黄色の凝灰岩・軽石凝灰岩の部分です。見た目が美しい上に、ノコギリで切れるほど柔らかいのに、風化に強い特徴があります。そこで、島津家の菩提寺である福昌寺墓地では、歴代当主に限って使われてきました。

 文化財建材

鹿児島市中央公民館白金酒蔵酒蔵朝鮮から持ち帰った石臼・手水鉢
 加治木石は鍋倉火砕流(大塚・西井上,1980)の溶結部で、関東の人が好む大谷石に似て、多孔質な凝灰岩ですが、大谷石が帯緑色なのに対し淡褐灰色をしています。やや固いようです。右の写真は鹿児島市中央公民館と重富にある白金酒造の酒蔵です。いずれも加治木石で造られ、国登録有形文化財に指定されています。
 姶良市の指定有形文化財に「朝鮮より持ち帰った手水鉢と石臼」があります。文禄の役の時陣僧だった椿窓寺の鳳山和尚が、帰り船の底荷(バラスト)として積み込んだものだそうです。精矛神社にあります。文化財なのでハンマーで欠くことは出来ませんが、どなたか鑑定していただけませんか。どこから船出したか分かるかも知れません。
 今や文化財ですが、かつては日用に供されていた石橋にも溶結凝灰岩が使われています。別項「五大石橋」をご覧ください。

文献:
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参考サイト:


初出日:2019/10/13
更新日:2020/08/03