五大石橋の石材

西田橋拓本(西田橋を拓本でのこす会)
名称竣工アーチ石壁石・橋面高欄
玉江橋嘉永2年(1849)小野石小野石小野石
新上橋弘化2年(1845)小野石小野石小野石
西田橋弘化3年(1846)小野石小野石河頭石
高麗橋弘化4年(1847)小野石反田土石反田土石
武之橋嘉永元年(1848)花棚石・反田土石・小野石など反田土石反田土石
 鹿児島は石文化圏です。長崎に近く西洋文明が入ってきやすかった事情もあるでしょうが(あるいは中国の影響かも知れませんが)、何よりも加工しやすい溶結凝灰岩がどこでも入手できたからでしょう。石蔵・石塀・石橋などが各地に造られました。鹿児島市甲突川には、肥後の石工岩永三五郎によって建設された5つの石橋が架かっており、趣を添えていました。しかし、1993年のいわゆる8・6水害で新上橋と武之橋が流失したため、水害防止の観点から、残りの3つの石橋も撤去され、祇園之洲の石橋記念公園に移設されました。実用に供されない橋は剥製の鳥のようで、ちょっと残念です。
 五大石橋はいずれも溶結凝灰岩が使われていますが、運搬の便を考えてのことでしょう、近くの山から切り出して使いました。すなわち、上流の3つはすぐ近くにある小野や河頭こがしらの石切場から、下流の2つは、花棚けだな反田土たんたどなど吉野方面から、恐らく舟も使って運ばれました。
 溶結凝灰岩は、高温(約800度)の火砕流堆積物が自分自身の熱と重みでくっついたものですから、堆積面に平行に軽石がぺしゃんこに煎餅状につぶれ、火山ガラスのレンズになっています。右下写真の黒い縞模様(黒曜石レンズ)は真横から見たもので、軽石のなれの果てです。ユータキシティック構造と言います。したがって、堆積面に平行な方向に割れやすいのですが、堆積面に直交する方向の強度はコンクリートと同程度もあります。ですから、力のかかる石橋のアーチ石はすべて堆積面と直交するように組まれています。昔の人はこの性質をよく知っていたのでしょう。また、石橋に一番多く使われている小野石は、溶結凝灰岩の中では比較的弱溶結で柔らかいものです。産地が近いこと、未熟な技術でも加工しやすいことなどが多用された理由でしょうが、力が集中するアーチに使った場合、多少デコボコでも尖った部分がつぶれて適当にアジャストし、応力集中を緩和するという利点もありました。ダイヤモンドカッターで真っ平らに切れなかった時代の知恵です(もっともあまりデコボコがひどい場合、ひびが入っているところもありますが)。強溶結の石でしたら、加工しにくいですし、応力集中を緩和できません。しかし、石材としては高級ですから、高欄などの飾り石として使われました。

参考:
  小野石、郡山石…上部加久藤火砕流堆積物(33~34万年前)→噴出源は加久藤カルデラ
  花棚石、反田土石…吉野火砕流堆積物(約54万年前)→噴出源は鹿児島湾
  河頭石、小山田石、入来石…下部加久藤火砕流(樋脇火砕流・下門火砕流・桑の丸火砕流)堆積物(約55万年前)→噴出源は南方の鹿児島湾周辺?

 岩永三五郎の治水思想

 岩永三五郎は単なる石工ではありませんでした。今でいえば河川工学の専門家でした。橋を架けただけでなく、甲突川の治水について、次のような水防戦略を持っていました。 余談:
西田橋に祭祀された七福神(西田橋を拓本でのこす会)
 西田橋解体に際して、橋の中央部から女石が発見されました。水切り石(水制工)の6基が男石に相当します。西田橋を拓本でのこす会の野添宗男氏は、これらを七福神と見なし、武家である島津氏が七福神を西田橋に祀ったのではないかと推測しています。ちなみに、西田橋は参勤交代の際、お殿様が通る橋でした。
文献:
  1. 知識博美・奥田 朗・牟田神宗征(1997), 8.6水害に対する甲突川の治水対策及び石橋保存対策. 土木史研究, Vol., No.17, p.583-592.
  2. 鹿児島県教育委員会(1969), 甲突川の五大石橋. 鹿児島県教育委員会, 22pp.
  3. 鹿児島青年会議所(1985), 甲突川の五大石橋. 鹿児島青年会議所, 28pp.
  4. 増留貴朗(1986), 五大石橋を考える―21世紀からの鹿児島市づくりと五大石橋―. 南日本新聞開発センター, 346pp.
  5. 大木公彦(2015), 鹿児島に分布する火砕流堆積物と溶結凝灰岩の石材. 鹿児島国際大学考古学ミュージアム調査研究報告, Vol.12, p.17-30.
  6. 横田修一郎(1996), 甲突川石橋の石材. 鹿児島県地学会誌, No.74, p.13-21.


初出日:2015/05/10
更新日:2018/04/16