鹿児島の埋立地1

 江戸時代の埋立

俊寛堀跡薩藩水軍軍港跡江戸汐留仙台藩邸の日比谷入江埋立工法
(江戸東京博物館)
 島津氏の居城は、東福寺城(現多賀山公園)→清水城(現清水中学校)→内城(現大龍小学校)→鹿児島城(鶴丸城)と変わりました。鶴丸城を築城したのは慶長6年(1601年)の江戸時代最初期、これ以降城下町は拡大を続けます。しかし、後背地はシラス台地ですから、必然的に海岸部の埋立が行われました。平安時代、俊寛僧都が薩摩硫黄島に配流された際(1177年)船出した俊寛堀は、現在では繁華街の真ん中です。また、慶長14年(1609)、いわゆる琉球侵攻の際薩藩水軍が出港した軍港は今では内陸の春日神社になっています。当時、どのような工法で埋立を行ったのかよく分かりません。写真の剥ぎ取り標本は、東京汐留の仙台藩邸跡で発掘されたものです。日比谷入江を埋め立てるときに、先ず杭を打ち込み、それらを竹で編んで埋立土砂(海砂)の流亡を防ぎました。鹿児島も同様な方法が使われたのでしょうか。江戸湾と違って、溶結凝灰岩が手近で入手できる利点がありますから、石も併用したのかも知れません。なお、港にあった御船手(船を取り扱う役所)は春日神社のところから新屋敷の船魂神社付近に移り、最後は天保山中学校前に移りました。
塩竈神社(南林寺)御船手跡與次郎ヶ濱塩田跡
塩釜神社(小松原)波之平刀匠遺蹟(東谷山)父島跡(七ツ島)
 しかし、江戸時代の埋立はまだ御城下が中心でした。郊外はほとんど手つかずの自然の渚が残っていました。天保年間、荒田村の平田与次郎は、藩命により播州赤穂の製塩技術を学んできて、天保14年(1843)現在の与次郎ヶ浜一帯に広大な塩田を開きました。その他、南林寺や谷山塩屋などにも塩田があり、明治以降も栄えていました。跡地に製塩の神様塩釜神社が鎭座しています。谷山の波之平地区(東谷山1丁目)には薩摩の名刀として有名な波之平刀匠が住み着きました。海岸の砂鉄、燃料の木炭、焼刃渡しの水が容易に入手できるところだったからだそうです。『三國名勝圖繪』に「景致佳勝」の地と讃えられている谷山の七ツ島も、今は埋め立てられ、一番大きかった父島だけが保存されています。昭和初期まで一口蛸が名産だったそうです。保存記念碑の裏面には「月の夜乃七ツ島に流しふね 三味線太鼓さかなに小蛸」の句が刻んであります。
 下記の通り、江戸時代の伊能大図(文化7年測量)と明治時代の地形図と比べてみると、文化7年(1810)~明治35年(1902)の92年間に御城下の埋め立てが進んだことが分かります。また、甲突川と新川の河口が張り出していることも相違点です。伊能忠敬の御城下測量後、甲突川改修が行われ、浚渫土砂によって甲突川河口右岸に天保山(天保年間に築かれた山という意味です)が築かれました。新川が、川奉行平田平右衛門によって田上川にドッキングさせられたのは、伊能測量に先立つ文化3年(1806)のことでしたが(「シラスダム」参照)、新川の何倍も広い集水域をもつ田上川をドッキングさせたのですから、その後流出土砂量が激増し、新川河口が張り出したのでしょう。
 伊能忠敬以前の御城下の様子は寛文十年(1670)頃の「薩藩御城下絵図」が最古ですが、絵図ですので現在の地形図と比定するのは困難です(「鹿児島の古地図古地質図」参照)。
伊能大図(部分:鹿児島)(アメリカ議会図書館所蔵)明治35年測圖2万分の1地形圖「伊敷村・鹿兒嶋・谷山」海岸線(赤線:伊能図,青線:明治35年地形図)
明治以降の海岸線の変遷については、「鹿児島の埋立地2」をご覧ください。また、伊能大図については、「伊能忠敬の薩藩測量」をご覧ください。

文献:

  1. 五味克夫(1970), 旧薩藩御城下絵図解説. 鹿島出版会, 5pp.
  2. 五味克夫(1980), 旧薩藩御城下絵図解説. 鹿児島県立図書館, 5pp.
  3. 鹿兒島市教育會(1935),薩藩沿革地圖. 鹿兒島市教育會, 21pp.
  4. 中島謙造(1897),鹿兒島圖幅地質説明書. 139p.
  5. 薩摩藩(1859), 旧薩藩御城下絵図マップ. 鹿児島県立図書館, 61pp.
  6. 塩満郁夫(2001), 旧薩藩御城下絵図索引. 鹿児島県史料拾遺, 144pp.
  7. (), . , Vol., No., p..
  8. (), . , Vol., No., p..

参考サイト:



初出日:2017/07/29
更新日:2020/12/01