薩藩御城下絵図吉利郷惣図元禄絵図伊能大図伊能小図日本国地理測量之図英国水路部:日本Shiebold日本帝国図Colton商会刊:日本藩政時代鹿兒島市街圖西海道全圖内國地圖明治17年鹿児島市街略図郡分合ニ関スル府県地図大日本帝國豫察西南部地質圖20万分の1地質圖幅「鹿兒島」大日本帝國大隅薩摩土性圖Geological Map of the Japanese Empire余談:苦心の末の薩摩の地圖(奇傑 大久保彦左右衛門)

 鹿児島の古地図・古地質図

 2018年は伊能忠敬没後200年です。昔、自分たちの国をどのように認識していたのか、関心が高まっています。そこで鹿児島の古い絵図や地質図を見てみましょう。

 薩藩御城下絵図「鹿児島」掛軸

薩藩御城下絵図「鹿児島」(県立図書館蔵)
 鹿児島城下の最も古い絵図は、鹿児島県立図書館にある寛文十年(1670)頃の「薩藩御城下絵図」です。島津氏の居城が鶴丸城に移転した頃の様子がよくわかります。当初は上山城(城山)とその麓に築かれた居館からなっていました。城山の位置に「鹿児島城」とあります。南林寺(現松原神社)が海に面していますから、ちょうど市電通付近が海岸線だったのでしょう。海に出っ張っているのは易居町です。

出典:鹿児島県立図書館貴重資料の紹介 『鹿児島城下のあゆみ-上町・下町・西田町を中心に』
謝辞: この絵図の掲載をご許可いただいた鹿児島県立図書館に感謝します。

 薩州日置郡吉利郷惣繪圖

薩州日置郡吉利郷惣繪圖明治35年測図5万分の1地形図「伊集院」(赤線は吉利村村界)
 『維新前土木史』(鹿兒島縣土木課,1934)には、「元祿十二年(1695)實測し調整したるも汚損したるを以て寳暦三年(1753)淨寫したるものなり圖は縦横一丈餘の大幅にして縮尺約千七百十四分一或は千八百五十七分一、…(中略)…境界山川耕地等の形狀、陸地測量部刊行五萬分一地圖に酷似す」とあります。明治時代の地図と比べてみてください。小字がどちらの村に入るかといった土地争いもその間にあったかも知れませんが、大局的には吉利郷と吉利村の領域はよく似ています。街道筋もだいたい合っています。
謝辞: この絵図の掲載をご許可いただいた日置市教育委員会に感謝します。現物は日吉中央公民館にあるそうです。
蛇足: 幕末、吉利郷は大政奉還で有名な小松帯刀の領地でした。墓地は園林寺(おんりんじ)跡にあります。

 元禄絵図


 江戸時代、慶長・正保・元禄・天保の4回、幕府の命で全国規模の国別地図が作成されました。 このうち元禄国絵図は、元禄15年(1702)までにほぼ完成したといわれています。1里を6寸とする縮尺でした。桜島が南北に少々長い気がしますが、本土はよく描けていると思います。離島の精度が悪いのは致し方ないでしょう。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ

 大日本沿海輿地全図(伊能大図)

海上保安庁所蔵「二百九号薩隅内海圖」原寸伊能大図(2005年鹿児島アリーナにおける伊能図展)
 有名な伊能忠敬によって海岸線の実測により作製された地図です。測量は、寛政12年(1800)から文化13年(1816)にかけて江戸幕府の事業として行われました。伊能は文化15年(1818)に死去しましたが、弟子達の手によって、文政4年(1821)「大日本沿海輿地全図」として完成しました。鹿児島には文化6年(1809)に来ていますが、屋久島に渡れなかったため、文化8年(1811)再度来鹿しています。手書きの彩色地図ですが、次の3種類があります。

出典:海上保安庁海洋情報部 伊能大図「二百九号薩隅内海圖」

アメリカ議会図書館所蔵版「伊能大図」

伊能大図「鹿児島」(アメリカ議会図書館所蔵)
(御城下の海岸線が合うようにジオレファレンスしてあります。紙の伸縮・折り皺などのため、細部までは現在の地形図と合いません。)
出典:アメリカ議会図書館

 伊能小図

 2005年伊能図展で展示された伊能小図です。

参考:伊能小図 西日本図(文化遺産オンライン)
   東大総合研究博物館 伊能中図「九州南部」→現在修復作業中

 日本国地理測量之図

 上図は伊能小図をもとにして作成された「日本国地理測量之図」です。文政7年(1824)以降の作成と言われています。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ

 Japan - Nipon, Kiusiu and Sikok, and a part of the coast of Korea

 Hydrographic Department, Great Britain(英国水路部)が1827年に発行した日本地図です。シーボルト事件(1828)の前ですので、まだまだ不正確です。図は部分です。図をクリックすると全体図がご覧になれます。

出典:Wikimedia

 Karte vom Japanischen Reiche

 Ph. F. Siebold(1840)の日本図です。シーボルト事件で地図は没収されたはずですが、写しを取っていたのでしょう。故国に帰ってから出版しました。図は部分です。下記長崎大学付属図書館のサイトで全体図をご覧いただけます。

出典:Karte vom japanischen Reiche, nach Originalkarten und astronomischen Beobachtungen der Japaner;die Inseln Kiusiu, Sikok und Nippon. / Philipp Franz von Siebold.(長崎大学付属図書館)

 Japan - Nipon, Kiusiu, Sikok, Yesso and the Japanese Kuriles

 J. H. Colton & Co.が1855年に出版した日本地図です。シーボルトが持ち帰った伊能図の成果がかなり取り入れられていますが、同年に英国海軍が出版した海図The Islands between Formosa and Japan with the Adjacent Coast of Chinaに比べると少々お粗末です。図は部分です。図をクリックすると全体図がご覧になれます。

出典:Wikimedia

 藩政時代鹿兒島市街圖

 昭和9年(1934)鹿兒島縣土木課が発行した『維新前土木史』に掲載されていた藩政時代の絵図です。

 西海道全圖

 明治10年(1877)に陸軍參謀局によって発行された伊能中図と同じ縮尺216,000分の1の地形図です(左図は部分:個人蔵)。西南戦争の必要性から迅速測図されたのだそうです。伊能図に内陸部の地形を補い、道路などを朱書追加したものです。下記、佐賀県立図書館のウェブサイトで全図がご覧になれます(Adobe Flashが必要)。

出典:東京地学協会編著(1998), 『伊能図に学ぶ』, 朝倉書店, 265pp.
参考:佐賀県立図書館

 内國地圖―西海道

 明治11年(1878)に滋賀縣平民大島細吉が編輯し、京都府平民田中治兵衛が出版した地図です。もちろん、奄美もあります。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 明治17年鹿児島市街略図

 鹿児島市史3巻(昭和46年2月発行)に載っていた市街地の地図です。

出典:鹿児島市史3巻

 郡分合ニ関スル府県地図「鹿児島」

 この「郡分合ニ関スル府県地図」は、明治24(1891)年第2回帝国議会に、3府30県の郡分合法案として提出(解散のため審議未了・廃案)された際の府県地図です。出水郡・薩摩郡・伊佐郡・姶良郡・噌唹郡・肝属郡・鹿兒島郡・日置郡・川辺郡・揖宿郡・熊毛郡・大島郡といった現在も使われている郡が登場しています。なお、郡には郡役所が置かれました。

出典:国立公文書館デジタルアーカイブ

 大日本帝國豫察西南部地質圖


 明治15年(1882)ナウマンの建議により地質調査所が農商務省に設置されました。国立研究所第1号です。前身の内務省地理局地質課時代から全国の20万分の1地質図の作成作業が進められていましたが、明治14年(1881)、日本の地質構造の全体像把握のため、40万分の1「大日本帝国予察地質図」(全5葉)も作製することになりました。明治19年(1886)ナウマン自身の手により、「予察東北部地質図」が先ず完成します。予察図の中では最後に、明治28年(1895)「予察西南部地質図」が完成しました。著者は巨智部忠承・山下傳吉・中島謙造・奈佐忠行・鈴木 敏・山上萬次郎です。筆頭著者の巨智部は地質調査所の生え抜きです。人材も育っていたのです。なお、北海道は別にライマン(1876)による日本蝦夷地質要略之図が北海道開拓使から刊行されていました。
 さて、地質ですが、鹿児島県の大部分は火山岩とされています。出水山地・甑島・高隈山など、現在の白亜紀層(四万十層群・姫浦層群など)分布域は秩父古生層、古第三紀日南層群は第三紀層とされ、花崗岩は大隅半島にだけ分布するとされています。出水平野だけ第四紀層となっています。道路事情の悪かった時代、短期間に大局をまとめたのはさすがと言うべきでしょう。

出典:産総研地質調査総合センター貴重資料データベース
参考:九州大学図書館付設記録資料館「大日本帝国予察西南部地質図」

 20万分の1地質圖幅「鹿兒島」


 明治30年(1897)に発行された20万分の1鹿児島図幅です。高隈山に花崗岩が塗色されています。

出典:産総研地質調査総合センター貴重資料データベース

 大日本帝國大隅薩摩土性圖


 明治30年(1897)に発行された農商務省鑛山局地質課早川元次郎による1:100,000の土性図です。最も広く分布しているのが「火山灰及灰石(Volcanic Ash and Mud Lava)」で、灰石というのは現在の火砕流堆積物・溶結凝灰岩を指します。地質は予察図の成果を取り入れています。

出典:産総研地質調査総合センター貴重資料データベース

 Geological Map of the Japanese Empire on the Scale of 1:1,000,000

 予察図をもとに1902年に発行された100万分の1地質図英文版です。

出典:鹿大総合研究博物館所蔵
参考:産総研地質調査総合センター貴重資料データベース

余談:苦心の末の薩摩の地圖
 島津公が帰国に際して、旗本大久保彦左衛門に別れが辛いと言ったところ、彦左は、勝手奉公の身だから、薩摩までお供をすると返事。しかし、出立の日に仮病を使って、同行できなくなったと使いを出しました。島津公は残念に思い、全快次第来るようにと、「此者儀國内を通行致すとも苦しからざるもの也」との書付を与えました。彦左は3・4日後、繪圖引の名人窪田源蔵を伴って薩摩に行き、鹿児島本城には入らず、国内の山川城池砲台の有様などを残らず写し取って、そのまま江戸に帰り、図面を将軍に提出すると共に、絵草紙屋からドンドン売り始めたそうです。翌年、島津公は参勤交代で出府し、そのことを知ると、「余を(たばか)りおって國の秘密を(あば)いたな」と怒りました。彦左は、徳川の旗本として当然のことをしただけと平然としており、「二心(ふたごころ)なき御奉公、畢竟は御當家の爲めでござる」と言ってのけました。島津公は「其方は實に徳川の柱石(ちうせき)ぢや、守護神ぢや」と感服したそうな。
 数ある彦左衛門の逸話の一つでしょうが、真偽のほどは分かりません。詳しくは下記の原文をお読みください。こうした話が流布するほど薩摩藩は入国規制が厳しく、「鎖国の中の鎖国」と言われていました。それで伊能忠敬の薩藩測量に際して厚遇したことがいぶかられたのです。

出典:『奇傑 大久保彦左衞門』武俠世界社編輯所編(1913)(国立国会図書館デジタルコレクション)

文献:

  1. 五味克夫(1970), 旧薩藩御城下絵図解説. 鹿島出版会, 5pp.
  2. 五味克夫(1980), 旧薩藩御城下絵図解説. 鹿児島県立図書館, 5pp.
  3. Imperial Geological Survey of Japan(1902),Outlines of the geology of Japan : descriptive text to accompany the geological map of the Japanese Empire on the scale 1:1,000,000. 251pp.
  4. 鹿兒島縣土木課(1934), 維新前土木史. 鹿兒島縣土木課, 260pp.
  5. 鹿兒島市教育會(1935),薩藩沿革地圖. 鹿兒島市教育會, 21pp.
  6. 中島謙造(1897),鹿兒島圖幅地質説明書. 139p.
  7. 薩摩藩(1859), 旧薩藩御城下絵図マップ. 鹿児島県立図書館, 61pp.
  8. 塩満郁夫(2001), 旧薩藩御城下絵図索引. 鹿児島県史料拾遺, 144pp.
  9. 清水靖夫(1967),明治十年西海道全図について. 地図, Vol.5, No.2, p.37-40.
  10. 山田直利(2012),最古の九州-西中国地方地質図―「大日本帝国予察西南部地質図」(巨智部ほか,1895)の紹介―. GSJ地質ニュース, Vol.1, No.2 p.40-57.
  11. 山田直利(2012),40 万分の 1 大日本帝国予察地質図(1886–1895)の概要. GSJ地質ニュース, Vol.1, No.6, p.161-164.
  12. von Siebold, Ph. F.(1840),Karte vom Japanischen Reiche nach Originalkarten und astronomischen Beobachtungen der Japaner;die Inseln Kiusiu, Sikok und Nippon.(長崎大学)
  13. 鹿児島市史編さん委員会(1971),鹿児島市史第3巻. 鹿児島市, 1013pp.
  14. (),. , Vol., No., p..
  15. (),. , Vol., No., p..

参考サイト:



初出日:2016/01/15
更新日:2023/10/02