総括報告書報道噴火の様子降灰状況地震二次災害(土砂災害・水害)二次災害(地殻変動・地盤沈下)
記念碑は上記にまとめてあります
2021/04/27 垂水護国神社で発見!

 史料にみる桜島大正噴火(1)

閉塞される瀬戸海峡(宮原垂水郵便局長撮影)
勅令「主務大臣職権ヲ縣知事ニ委任スルノ件」
 大正3年(1914)1月12日の桜島大正噴火は20世紀にわが国が経験した最大の火山噴火でした。明治維新以来半世紀、近代科学も発展してきましたし、折からの大正デモクラシー、新聞報道も活発に行われていました。写真機も上流人士には普及し始め、職業写真家でなくても写真記録が残せるようになっていました。明治21年(1888)磐梯山噴火と異なる点です。何よりも大都市の眼前で展開されましたから、記録が多数残されているものと考えられがちです。しかし、戦前鹿児島市は海軍基地を持つ軍港、第二次世界大戦における米軍機の空襲により徹底的に焼き払われてしまいました。議会議事録は何のためにどのくらいの費用を支出したのか、具体的に分かる一級史料ですが、残念ながら県議会議事録大正3年分は欠本です。また、昭和・平成と度々町村合併が繰り返されたため、合併を機に貴重な公文書が廃棄されてしまいました。鹿児島県には県立公文書館がないのです。かえって東京など県外に残されていることがありました。陸海軍など縦組織はすべて中央に報告が上がっていたため、防衛研究所に水雷艇出動命令の電報など、事細かな情報がすべて保管されていました。内閣府中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会で「1914桜島噴火」報告書を取りまとめた際、それら諸史料を収集してアーカイブを構築しました。その中からいくつかを紹介します。
 その前に当時の統治システムを略述しておきます。明治維新により中央集権的な国家が生まれましたが、内治は主として内務省(初代内務卿大久保利通)が所管しました。土木・衛生から警察・消防まで広範囲を所管していて、「官庁の中の官庁」と呼ばれ、強大な権限を有していました。地方行政は国→県→郡→市町村といった階層構造を採っており、県・郡にはそれぞれ官選の知事・郡長が置かれています。郡は明治32年(1899)~大正15年(1926)の間だけ存在した組織で、府県で処理するには小さく、町村で処理するには大きい事務を処理する中間機関です。実務行政官はこの郡にいたようで、桜島大正噴火の場合には、どうも郡役所が前面に出て対応したようです。
 もちろん、天皇制ですから、勅令という超法規的措置も可能でした。前年大正2年の北海道・東北地方の凶作と桜島噴火に対処するために、内務大臣・大蔵大臣・文部大臣の地方行政に関する職権を県知事に委任する勅令を6月に発しています。これにより、県知事はかなり自由な裁量権と財源を行使できるようになりました。

 総括報告書

鹿兒島縣(1927)囎唹郡役所(1916)鹿兒島測候所(1916)九州鐵道管理局(1914)鹿兒島新聞(1914)
 桜島噴火は大事件でしたから、直後に公的機関によって総括的な報告書が刊行されましたし、地元紙鹿兒島新聞(現南日本新聞)もルポルタージュの単行本を出版しました。もちろん、学術調査も行われ、地震学者大森房吉東京帝大教授や地質学者小藤文次郎東京帝大教授の総括的な英文論文が発表されています。その後発行された市町村誌などは、ほとんど県の『櫻島大正噴火誌』を引用しています。代表的なものを列挙すれば次のようです。

 報道

鹿兒島新聞號外(1月12日)(田村,2015による)
大阪朝日新聞號外(1月13日)
 地元鹿児島には鹿兒島新聞と麑島朝日新聞とがありました(いずれも現南日本新聞)。鹿兒島新聞は社屋が地震で損壊したにも関わらず噴火当日に号外を発行しています。南日本新聞社にその号外が残っていませんでしたが、島津宗家の地元家令から東京公爵邸への報告書の中にスクラップしてあるのが発見されました(田村,2015)。それによると、前日来の地震について駐在所から報告があり、鹿児島警察署は地震の震源は桜島と推測し、測候所に通知する<注>と共に、12日午前9時、警察署長らが現地に赴きました。同紙記者も同行したとのことです。しかし、桜島到着の直前10時5分、大爆発に遭遇します。着岸を諦め、救助船の組織化が急務と判断して、鹿児島港に帰ったようです。見出しは「安永8年以来の桜島大噴火」となっています。
 それでは、県外ではどのように報道されたのでしょうか。九大医学部の医師や医学生の追憶記には、「鹿児島市全滅」との福岡日日新聞(現西日本新聞)号外の報道に驚いて、早速救援に向かったとありますが、西日本新聞社には、そのような号外は残っていませんので、確認できませんでした。なお、福日13日通常号では、「時々凄じき大音響を發し全嶋の全滅は目前に迫りつゝあるものゝ如し」とあり、「鹿児島全滅」とは書いてありません。
 九州外の新聞についても、横浜にある日本新聞博物館でいくつか調べてみましたが、たとえば、大阪朝日新聞(現朝日新聞)の13日号外では、「海嘯襲來す」「有毒瓦斯發生」「櫻島死傷者は百四名」などとデマや誇大な数字が報道されています(翌日の第三號外では「海上に大爆發」の報も)。
<注> 鹿児島測候所には旧式のミルン式地震計1台しかなく、地震火山の専門家もいなかったため、「震源地点は4・5里の陸上にありて、客年の伊集院地震に関連せる震源に発したるものの如し」として、桜島噴火の危険性を一貫して否定し続けていました。10年後東桜島小学校にいわゆる「科学不信の碑」が建立された原因です(その3参照)。

 噴火の様子

白陽画(加治木郷土館所蔵)篠本二郎?のスケッチ(東大理学部蔵)
 噴火を記録した写真や絵画は結構残されています。撮影者が判明している写真では、大森房吉(東京帝大)・山口鎌次(鹿児島女子師範)・宮原景豊(垂水郵便局)・W. L. Schwalz(七高)などが残っていました。Schwalzの写真は新発見でした。
 たまたま帰省中だった洋画界の重鎮黒田清輝や黒田の弟子山下兼秀(山形屋)の油絵などもあります。宮原を除き、多くの写真や絵画は鹿児島市側から見た光景ばかりですが、珍しいものでは、加治木の旧家に日本画が残されていました(白陽画)。加治木は桜島の真北に位置します。東西両山腹の同標高附近から噴煙を上げています。割れ目噴火をよく示しています。東大理学部地球惑星科学科小藤文庫には、小藤のフィールドノートの他に、5冊のスケッチブックが保存されています。大噴火前の午前8時30分の「南嶽ノ山頂ヨリ細キ二條の蒸氣昇リ…」から始まっていますので、小藤来鹿以前の時刻ですから、小藤の描いたものではありません。七高(現鹿大)地質学鉱物学講師の篠本二郎のハガキが貼り付けられていますから、恐らく篠本が恩師にプレゼントしたのでしょう。篠本は測候所の「櫻島には異變なし」との見解に反対した人で、大噴火前から前兆現象に気づいて記録していたことになります。5冊にわたってスケッチと共に記載もありますから、画家の目と違って科学者の目による長期観察ですので、大変貴重です。
櫻島爆發紀念(東桜島村有村)有村一同祖先歴代之總塔(有村)
 噴火の様子は上記総括報告書や報道あるいは学術論文に詳しく述べられていますが、ここでは地元民の実感を記念碑にみてみましょう。1つだけ挙げます。
櫻島爆發紀念(東櫻島村有村;大正5年建立)
 東櫻島村有村氣候温暖土地豐饒五穀砂糖煙草瓜柑橘ノ類總テ穰ラサルナク村民永ク其天然ノ慶澤ニ依ラン亊ヲ期セリ大正三年一月十一日午前十一時ノ頃ヨリ絶へス地大ニ震フ一分時平均三回人心戦々兢々タリ翌十二日午前九時半西櫻島村赤水ノ直上東櫻島村鍋山ヨリ殆ント同時ニ白煙起ル十時五分天地ヲ碎ク大鳴動ト共ニ此處櫻島ハ凄惨ナル大爆發ヲ始メ全島悉ク阿鼻叫喚ノ巷ト化シ終夕島民生色ヲ失ヒ或ハ自ラノ船ニ或ハ救護ノ船ニ乗ジテ倉皇難ヲ對岸ニ避ク爾來鳴動噴煙憩ムコトナク村民ハ空ジク袖手他人ノ同情ニ生クルノミ九旬ノ後危険漸ク減ゼシヲ以テ故山追懐ノ念ニ駆ラレテ歸リミレバ哀レ天然ノ豊土ハ忽チニシテ累々タル熔岩ト化シ家モ畑モ舊態尋ヌルニ由ナシ此ニ於テカ有村百五戸村民六百有余多クハ肝属郡花岡村残余ハ種子島ノ官有地ニ移住ス(後略)
 なお、有村集落の墓地は溶岩に埋没してしまいましたので、噴火2年後、有村集落を見下ろす場所に「有村一同祖先歴代之總塔」という共同墓碑を建立しました。

 降灰状況

Omori(1920)鹿兒島縣?(島津家文書)肝属郡役所(1914)囎唹郡役所(1916)
Koto(1916)佐藤傳蔵(1914? 噴火誌による)金井(1920)
小林・溜池(2002)Todde et.al.(2017)
1尺(30cm)等層厚線
:Koto,:佐藤,:金井,:小林,:Todde
 桜島大正噴火では、桜島島内および大隅半島においては、火山噴出物による災害が大きく、鹿児島市街地側では地震による災害が大きかったという特徴があります。火山噴出物のうち溶岩は浸食に強いため、現在もそのまま残っており、史料に頼る必要はありません。降下火砕物について、史料を見てみましょう。肝属郡役所と曽於郡役所は、代表的な地点の層厚を記載しています。とくに、曾於郡役所の『櫻嶌爆發誌』には、軽石層と火山灰層と分けて定量的な記載が載っています。県は両者を取りまとめたようで、島津宗家の文書に県知事報告として降灰図が載っています(内務省警保局の文書にも同一の図面が載っています。県も内務省の下部組織ですから、出所は県でしょう)。これには軽石降下区域は区別してあり、降灰区域は層厚に応じてグラデーションで示されています。大正噴火誌では、軽石層・火山砂層・火山灰層に分けて数字で記載されています。
 一方、学者の論文では、等層厚線図isopach mapが採用されています。等層厚線は点データから内挿して描くもので、それほど厳密ではありません。したがって、細かに異同を論じても意味はありませんが、ジオレファレンス<注>して現在の地形図に落としてみました。右図は1尺ライン(21世紀の論文はメートル法なので内挿して30cmラインを作図)を示したものです。なお、地震学者大森房吉も等層厚線図を描いていますが、現地踏査したわけではなく市町村の報告に基づいて作図したらしく、あまりに大雑把なので除外します。また、金井眞澄の図は鹿児島高等農林の研究報告に書いたもので、サーキュレーションが極めて悪く、理学系の火山学者には全く知られていませんでした。今回のアーカイブ作業で発見されました。噴火直後調査に訪れた地質学者小藤文次郎(東京帝大)と佐藤傳蔵(地質調査所)の等層厚線はよく一致しています。また、この分布主軸の方向は島津家文書の軽石降下区域の主軸とほぼ一致しています。一方、鹿児島高等農林の金井(土壌学者?)は、東京から短期間訪れた地質学者たちと違って、地元の地の利を生かして長期間克明に調査したでしょうから、この図が一番信頼性が高いものだろうと考えられます。地質学者の図より大きく南に張り出しています。大森の等層厚線図を見ると、国分方面と鹿屋方面に張り出していますから、大局的には金井の図と似ています(小藤や佐藤の図でも薄い部分は国分方面に張り出しが見られます)。ちなみに近年の地質学者の描いた等層厚線図を示します(小林・溜池,2002; Todde et.al., 2017)。両者ともほぼ一致します。しかし、大正時の地質学者の図と比較すると、かなり明瞭な差異が認められます。21世紀のデータは大正時のデータに比し、30cm(1尺)コンターの分布面積が極端に狭い、つまり層厚が薄いという点が目立ちます。分布主軸の方向も大正時はESE方向なのに対し、21世紀のデータはほぼE方向です。
 さて、これをどのように見れば良いのでしょうか。層厚が薄いのは圧密と雨風による浸食が原因でしょう。人為的な排土も影響しているかも知れません。主軸の方向については、誤差の範囲と見るにはあまりに違いがはっきりしているように思います。安井ほか(2007)は、大正噴火を3つのステージに分けています。ステージ1は1月12日午前10時過ぎからの約30時間で、プリニー式噴火により大量の軽石を噴出しました。ステージ2は、14日~1月末頃までで、東西両山腹から溶岩が溢流した時期です。火山灰を噴き上げる噴火もしばしばありました。ステージ3は、2月から翌年9月頃までで、東側山腹の穏やかな溶岩溢流で特徴づけられます。時には断続的な火山灰噴火もありました。一方、一番新しいTodde et. al.の論文ではテフラを火山礫lapilliサイズの軽石を含むT1~T3のユニットに分け、さらにそれらを覆う火山灰だけのT4ユニットを識別し、南縁だけに分布するとしました。これらのことを勘案すると、Kotoや佐藤らはステージ1の主としてプリニー式噴火の堆積物を観察しただけだったのに対し、金井は地元にいたので、広範囲長期間にわたる堆積物の観察が可能でした。そこで、ステージ2~3の火山灰層も記載に含めたため、分布が異なるのだろうと考えられます。風向きがステージ1とは異なり、Todde et. al.の示したように、南に偏ったのかも知れません。しかし、金井の図では、国分や隼人にもかなり厚く降灰があったようですから、風向きは長期間、姶良~国分~鹿屋方向の間を変動したのでしょう。近年の地質学者の図と大正時代の地質学者の図とで分布主軸が異なるのは、主軸の南側が高隈山系であり、串良川などの源流に当たる点が効いているように考えられます。ここでは後述のように、10年近く土石流や洪水が頻発しました。露頭は道路の切り割りで見られることが多く、その道路は谷沿いに造られることが通例ですから、浸食しつくされて、現在では露頭があまり残っていないからではないでしょうか。また、金井の主要関心事は農地でしたから、山麓斜面の農地調査も行いました。しかし、農地の露頭は消滅することが多く、地質学者の目には留まりません。
謝辞: 地図のジオレファレンスについては、日本地図センター田中圭氏のお手を煩わせました。記して謝意を表します。
2つの埋没鳥居黒神埋没鳥居3Dモデル牛根埋没鳥居3Dモデル
(マウスで回転・拡大・縮小は自在にできます。原口強氏提供)

 軽石と火山灰の量比
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降灰層厚(櫻嶌爆發誌から岩松作図,単位:寸)
(金井の等層厚線図の単位はcm換算)
市成村
市成
第一層八分細微灰白色火山灰
第二層一寸五分粟粒大火山砂及輕石
第三層一寸二分細微灰色火山灰
第四層八寸蠶豆大乃至拳大輕石
全層厚中に占める軽石層の割合
(『櫻嶌爆發誌』より岩松作図)
 軽石も火山灰も火山学的には降下火砕堆積物ですが、物性が違いますので、災害に対する影響は全く異なります。全堆積物のうち軽石はどのくらいの割合を占めているのでしょうか。堆積物の内容について詳しく記載しているのは、曾唹郡役所(1916)の『櫻嶌爆發誌』だけですので、再掲しておきます。曽於郡は降下火砕物の分布主軸から離れた縁辺部ですが、それでも軽石の積もったところがあります。各集落ごとに、表層から順に第一層~第四層と記載しています。このうち第二層と第四層が軽石で第一層と第三層が火山灰層です。たとえば、曽於郡で一番桜島に近い市成村市成の記載は表のようになっています。「降灰の變遷」を読むと、第三層と第四層は1月12日午前10時20分~13日午前8時に降ったもので、第一層と第二層は14日午前2時~15日午後2時に降ったもののようです。つまり、前2者は安井ほか(2007)のステージ1の堆積物、後2者がステージ2の堆積物です。ステージ2でも火山灰だけでなく、粟粒大ですが軽石も積もったようです。軽石の大きさは米粒大とか大豆大あるいは蠶豆(そらまめ)大とかいろいろ記載されていますが、一括して、火山灰と軽石に分けてプロットしてみました。軽石が含まれる場合、全層厚の70%~80%を占めているようです。ただし、前述のように、曽於郡は主軸から離れた縁辺部であることにご留意ください。ちなみに分布主軸に近い垂水村高峠の鹿兒島高等農林學校高隈演習林においては、「全堆積物深さ二尺二寸に及び下層輕石は一尺九寸、上層灰量三寸なり」。つまり、全層厚中86%は軽石でした。

 地震

震度階:Ⅰ(微震),Ⅱ~Ⅲ(弱震),Ⅳ(強震)(背景地図は伊能大図)
 桜島噴火による死者数は58名と言われています(異説あり)が、そのうち半数の29名は、大噴火当日の夕刻18時29分に発生したマグニチュード7.1と推定されている地震によるものです。桜島地震とも呼ばれています。内訳は、当時の鹿児島市内が13名、谷山村が1名、その他、鹿児島郡が15名です。今村(1920)は震度階を図示し(当時の震度階では、Ⅰ:微震,Ⅱ~Ⅲ:弱震,Ⅳ:強震,Ⅴ:烈震です。今村の原図は「火山災害」をご覧ください。)、江戸時代の絵図と比較して、人工埋立地で震度が大きいと指摘しています(震災と人工埋立地との関係を論じた恐らく世界で最初の論文でしょう)。右図は伊能大図の上に今村(1920)の震度階をオーバーレイしてみましたが、伊能忠敬の薩藩測量は江戸時代末期ですので、はっきりしません。しかし、平安時代俊寛僧都が鬼界ヶ島に流されるときに船出した俊寛堀は印で、確かに震度Ⅳ強震のところです(ちなみに印は江戸時代の御船手跡)。具体的に倒壊個所を特定するデータは乏しいのですが、松原稲荷神社が倒壊したことははっきりしています。境内の記念碑(印)には、「偶々大正寅三年一月櫻島ノ爆發ニ際シ神殿ノ崩(さい)ニ逢ヒ」と記されています。震度Ⅲのところでした。
 市街地だけでなく、郊外でも被害が出ています。西武田村誌には、次のような液状化をうかがわせる記述があります(西武田村は1889年、西ノ別府村・武村・田上村が合併してできた村で、現在の鹿児島市武・田上地区)。
「田上川の堤防には長さ數間に及ぶ數十の大龜裂を生じ、田上尋常高等小學校(右図印)の校庭にも處々龜裂を生じ其の裂口より濁水滔々と湧き出で瞬間にして脛を没するに至り當日宿直して熱心に救護に從事中の松元訓導の如き全く海嘯の襲來と仰天せし程なりと。」
 また、同誌には、地震による崖崩れの記述もあります。 「天神が瀬戸(右図印)數十間に亙りて崩壊し折からの月明をたどりて谷山方面へと連續して遁れ行く避難者を地下十三間の底に壓死せしめたり。道路傳へて數十人の慘死者あるべしと、谷口知事命じて晝夜兼行して発掘せしむ。而も爆震は未だ止まざれば尚破壊するの恐ありて危險甚だし。村靑年會員危險を冒して一月十五日より発掘に着手し二十三日に全部死體を掘り出すを得たり。埋沒者十名左に其の氏名及原籍地を錄せん。
鹿児島市盬屋町3名、鹿児島市山ノ口町1名、鹿児島市新町1名、谷山村五ヶ別府5名(氏名・年齢略)
 この住所を見ると、桜島の人は誰もいません。恐らく津波襲来のデマに惑わされて避難した人たちだったのでしょう。なお、天神ヶ瀬戸のどこで崩壊があったのかハッキリしませんが、田上自動車学校の下あたりではないかと言われています。

 二次災害(土砂災害・水害)

 大正噴火記念碑
凡 例

 爆発の経緯・教訓
  (30基)

 地震
  (1基)

 耕地整理・河川改修
  (17基)

 地盤沈下・護岸修復
  (8基)

 移住
  (13基)

 その他
  (2基)

マーカーをクリックすると写真のサムネイルがポップアップします。碑文等、詳しくは知的散策マップをご覧ください。
 火山災害というと、噴火活動に伴う直接の被害が注目されがちです。報告書や研究論文も噴火終息直後に集中的に刊行されます。そのため、長期にわたる二次災害の記録がなかなか残されていません。噴火が終息し、研究者や行政から忘れられようと、地元住民にとっては直接苦しめられた災害は忘れることができません。それは石碑という形で残されます。
堤塘工事紀念碑(観音淵)第二回河川紀念碑(高隈中央)
 桜島大正噴火に関わる石碑は今のところ72基見つかっています。もちろん、爆発や噴火を記念したものが一番多く、30基ありました。今まで注目されてこなかった耕地整理や河川改修に関する石碑に桜島噴火の記述が多数あるのを発見しました。図に示すように串良川沿いに上流から下流まで13基もあったのです。串良川の源流は高隈山系、多量の軽石が積もって山地が荒廃、土石流が頻発したのです。土石流は河床を上げ、洪水も誘発しました。たとえば、鹿屋市観音淵の「堤塘工事紀念碑」には、「櫻嶋爆發シ降流灰砂殆ド四尺ニ及ヒ河川濁流シ為メニ魚族全滅シタリ殊ニ爆發后ノ大洪水ハ未曽有ノ大氾濫ヲナシ堤塘ヲ決潰シテ土砂ヲ流シ以テ沿岸ノ耕地ヲシテ一望荒凉タル砂漠ト化セシメタリ」とあります。
 中には高隈中央のように同じ場所に改修記念碑と第2回改修記念碑と2基もあるところもありました。重機のない時代、地域住民の勤労奉仕で修築したのが、打ち続く土石流で毀され、再度やり直しをしたのです。碑文末尾には「運搬寄附 高隈小學校兒童」とありました。
大正土石流堆積物()と氾濫河川()(下川・地頭薗,1991)
 降灰分布図が示すように、高隈山・高峠高原・鵃岳(びしゃごだけ)などの山地に大量の軽石火山灰が積もりましたから、土石流が頻発したであろうことは容易に想像されます。早くも噴火翌月の2月8日には最初の土砂災害が牛根村・垂水村・百引村で発生しています。垂水村郷土誌には2月15日の土石流について、次のような記載があります。
「一度急雨沛然として至らんかセメント質を帶ひて凝結せる灰砂に覆はれたる土地は吸収力なく停滯力なく降るに從ひ低きを求めて滔々流下し山林よりは巨大なる根扱きの樹木及巨巖大石を押流せし慘狀普通の洪水と比すべくもあらず」
また、3月6日には桜島からの避難者が犠牲になったようです。
「三月六日夜の大豪雨は各河川共夥しき增水を來し洪水と變し家屋多數を流失せしめ市木にては女一人溺死し海潟に於ける櫻島罹災民収容所にては爆發當時同樣の騒擾を演出し孰れも悲鳴をあげて避難したるが其内兒童參名男一名は洪水に押流されて無慘の溺死を遂けたり」
 こうした文献の記載では、土石流発生河川名は分かるものの具体的発生地点は特定できません。そこで、下川・地頭薗(1991)は、大正軽石を含み、かつ、大正テフラで覆われていない堆積物の分布を現地踏査により明らかにしました。上図は小さな論文付図をトレースしたものですから、GISの精度はありません。参考程度と考えてください。やはり高隈~鵃岳山系に集中しています。当初は源流域で発生していましたが、被害地域は東串良村など下流域に拡大しました。水害です。その後、発生頻度は減少しつつも、大正15年頃まで長期にわたって土石流・洪水が続きました。

 二次災害(地殻変動・地盤沈下)

霧島市小村新田「堤塘竣工記念碑」
姶良市塩釜公園「塩田の碑」桜島大正噴火時の地盤沈下(Koto,1916)
 鹿児島湾奥部の沿岸では地盤沈下の被害もありました。霧島市の小村新田は江戸時代の干拓地ですが、桜島噴火に伴い地盤沈下しました。「堤防復舊記念碑」には「沿岸一帶ノ土地沈降海水ハ三尺餘ノ高潮□來シ地區内ニ海水侵入水田ノ大半ハ一大沼海ト變ズルニ至リ」とあります。正しく「土地沈降」と認識していますが、津波と勘違いしたところもあったようです。塩田跡地である姶良市塩釜公園には「塩田の碑」があり、「当時の製塩家は一二〇余戸で盛況を呈していたが、大正三年桜島爆発の際大津波が襲い堤防は忽ち決壊し塩田は一面の海となり復旧の術もなかった。」と書かれています。
 実は幸いなことに、大正噴火に先立って明治年間に陸地測量部が桜島と鹿児島湾周辺の水準測量や三角測量を実施していましたし、鹿児島県による鹿児島港の潮位観測も行われていました。噴火後、大森房吉や震災豫防調査会の要請を受け、直ちに再測が行われます。その結果、姶良カルデラを中心に大規模に沈降したこと、水平変位は割れ目噴火と整合的で、桜島の北側は北へ、南側は南に変位し、東西にはほとんど変化が見られないとのデータが得られました。

文献:
  1. Biass, S., Todde, A., Cioni, R., Pistolesi, M., Geshi, N. & Bonadonna, C.(2017), Potential impacts of tephra fallout from a large-scale explosive eruption at Sakurajima volcano, Japan. Bull. Volcanol., Vol.79, No.10, p.1-24.
  2. 今村明恒(1920), 九州地震帯. 震災豫防調査會報告, No.92, p.1-94.
  3. 井村隆介(2020), ディープネットワークを用いた桜島大正噴火映像のカラー化とそれを用いた啓発活動. 鹿児島大学地震火山地域防災センター令和元年度活動報告書, p.113-118.
  4. 岩松 暉・橋村健一(2014), 桜島大噴火記念碑―先人が伝えたかったこと―, 徳田屋書店, 291pp.
  5. 岩松 暉(2013), 石碑にみる桜島大正噴火の災害伝承. WESTERN JAPAN NDICニュース, No.49, p.15-24.
  6. 岩松 暉(2019), 史料にみる桜島大正噴火. 自然災害科学, Vol.38, No.3, p.289-306.
  7. 鹿兒島郡東櫻島村役場(1925), 大正三年櫻島爆發遭難録. 鹿兒島郡東櫻島村役場, 21pp.
  8. 鹿兒島縣編(1927), 櫻島大正噴火誌. 鹿兒島縣, 466pp.
  9. 鹿兒島縣肝属郡役所(1915), 櫻島爆發肝属郡被害始末誌. 鹿兒島縣肝属郡役所, 524pp.
  10. 鹿兒島縣立圖書館(1925), 櫻島噴火記(大正14年版) 附 噴火年表並近國噴火 噴火記念室及噴火に關する圖書. 鹿兒島縣立圖書館, 22pp.
  11. 鹿兒島縣囎唹郡役所(1916), 櫻嶌爆發誌. 鹿兒島縣囎唹郡役所, 164pp.
  12. 鹿兒島市役所編纂(1924), 鹿兒島市史. 鹿兒島市役所, p.291-323.
  13. 鹿兒島新聞記者十餘名共纂(1914), 大正三年櫻島大爆震記. 櫻島大爆震記編纂事務所, 340pp. + 16pp. + 4pp.
  14. 鹿兒島測候所(1916). 大正三年櫻島大噴火記事・第一編・第二編. 附録 大正三年櫻島山大噴火實寫圖(松田和集), 鹿兒島測候所, 28pp. + 26pp. + 13pp.
  15. 金井眞澄(1920), 大正參年度に於ける櫻島火山の噴火状況並に噴出物及作物栽培に關する調査試驗報文. 鹿兒島高等農林学校「櫻島火山の大正三年に於ける噴火状況並噴出物に關する調査報文」, 付図.
  16. 肝属郡垂水村教育會(1915), 垂水村郷土誌 附録第六 大正三年櫻島爆發概要. 肝属郡垂水村教育會, p.325-356.
  17. 小林哲夫・溜池俊彦(2002), 桜島火山の噴火史と火山災害の歴史. 第四紀研究, Vol. 41, No.4, p.269-278.
  18. Koto, B.(1916), The great eruption of Sakura-jima in 1914. Jour. Coll. Sci., Imperial Univ. Tokyo, Vol.38, Art.3, p.1-237.
  19. 九州鐵道管理局編纂(1914), 大正三年櫻島噴火記事. 九州鐵道管理局, 327pp.
  20. Koto, B.(1916), The great eruption of Sakura-jima in 1914. Jour. Coll. Sci., Imperial Univ. Tokyo, Vol.38, Art.3, p.1-237.
  21. 松本榮兒(1915), 西武田村誌. 田上尋常高等小學校, 283pp.
  22. 内閣(1914), 御署名原本・大正三年・勅令第百十九号・町村行政ニ関シ主務大臣許可ノ職権ヲ県知事ニ委任スル件. 国立公文書館アジア歴史資料センター.
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参考サイト:


初出日:2019/04/14
更新日:2022/10/19