避難救援復興移住
記念碑は上記にまとめてあります
2021/04/27 垂水護国神社で発見!

 史料にみる桜島大正噴火(3)

 避難

 大正噴火は大噴火だった割りには被害が少なくて済みました。それは自主避難と的確な救援が行われたためです。当時は半農半漁で小舟を持っている家庭が多かったのも幸いしました。『大正噴火誌』で、その様子を見てみましょう。
 東桜島村
科学不信の碑(東桜島小学校)
 噴火前日の11日、「大小の地震頻發」「土砂岩石の崩壊」「御嶽七合目からに噴煙昇騰」などの前兆現象があったので、「黑神、瀬戸、脇、湯之等の部落に於ては村民評定の結果、避難の準備手配り等を定め、先づ舟を所持せざる者の老幼婦女を第一とし舟を所持する者の家族及主人之れに次ぎ舟を所持せざる家長及壯者を最後と定め順次對岸なる垂水、牛根地方を指して續々避難を始めたり」と自主避難を開始しました。一方、有村集落には村役場があり、村長・学校長・駐在巡査・郵便局長などの有力者が住んでいました。彼ら知識階級は鹿兒島測候所の「櫻島には異變なし」との言を信用し、住民に「避難の必要なし」と通達すると共に、自らも最後まで踏みとどまったため、逃げ遅れて冬の海へ飛び込むなど「慘憺たる混亂の狀況」になりました。海で溺死した人たちの中には、川上村長の実弟や山下収入役・大山書記なども含まれていました。噴火10年後、故川上村長の遺志を汲んで後任の野添村長がいわゆる科学不信の碑を建立しました。村議会では「測候所の判断には決して従うことなく、急いで避難せよ」との文言を入れることで意見がまとまっていたそうですが、執筆を依頼された鹿兒島新聞の牧暁村記者が測候所の体面も考慮して「住民は理論ニ信頼セズ」と婉曲な言い回しに変更したのだそうです。
 西桜島村
船による避難(山下兼秀絵巻,1914)
(鹿児島市立美術館図録)
 「由來西櫻島なる横山、小池、武、の各部落に於ては由緒ある家柄少からずして比較的日進の教育を受けたる連中多く爲めに測候所の判定に基く村長其他有力者の告達を信頼し、前日より避難を爲したる者は極めて少數なりき。從て噴火當時の混亂も亦一層甚しかりき。」という状況だったようです。幸い鹿児島市の前面に位置していましたから、「公力を以て灣内碇泊の各汽船を徴發し直に横山、赤水、小池、其他各方面に向って救護船を出さしめ」救助したようです。なお、島の北方、西道・松浦・高免方面では、「各部落の靑年會員結束奮闘し十一日以來重富、加治木、福山地方へ避難せしめたる爲大なる混亂を免れたるものゝ如し」だったようです。
 鹿児島市
逃げ惑う人々(山下兼秀絵巻,1914)
(鹿児島市立美術館図録)
 対岸の鹿児島市民にとっては最初は文字通り対岸の火事でしたが、「須臾にして噴煙は益々強大となり岩石飛び、爆聲熾に起るに至り次第に危惧の念を起し、何時如何なる危險災害の及ばんも計り難しとて憂慮し居たる折柄流言飛語盛んに起り或は毒瓦斯到りて窒息の息(?)れありと言ひ或は海嘯襲來せんなど口から口へ傳はり市民恐慌の念は更に一層の度を高め」ていましたが、同日夕刻午後6時29分マグニチュード7.1の地震が発生、家屋や石塀の倒壊が相次ぎ、市民はパニックになりました。「七萬の市民愕然狼狽し號泣の聲は四方に起り或は伊敷方面に或は伊集院、市來、串木野方面にと次ぎより次ぎに避難するに至り伊敷國道筋は車馬人影を以て滿たされ又鹿兒島武兩驛の如きは空前の雜沓を來せる」状態になり、「斯くの如くにして鹿兒島市は殆ど一般市民は人影を絶ち萬戸扉を閉ぢ街頭寂として聲なく唯軍隊歩哨と警察官の時々巡羅せるのみ」になりました。

 救援

被害其ノ他ノ概況(内務省警保局,1914)
櫻島噴火一件(海軍省,1914)天災地変(陸軍省,1914)
 桜島は1914年1月12日に爆発しましたが、前日は日曜日、お役所は休日でしたので、対応が若干遅れました。別項その1に載せた新聞号外にあるように、最初に動いたのは警察でした。桜島接岸の直前噴火が始まったので、方針を転換、「湾内ニ碇泊セル大小汽舩ニ命シ救護ニ向ハシメ」たそうです。
 陸軍次官は第六師団(熊本)参謀長へ次のように打電します。「救護人員派遣ヲ實施セラルゝ際ハ救護實習ノ目的ノ下、傷者ノ救護ニ従事セシムル趣旨ヲ以テ經費ハ演習費支辨トシ追テ増額セラル」
 現地鹿児島では「衞戍司令部ヲ照国神社内ニ置キ、警戒隊十一個ヲ編制シ市内ヲ十一区に分チテ警戒を擔任セシメ警察官ト共ニ市民避難后ニ於ケル火災豫防治安保持ノ任ニ当リ」ました。また、「練兵場及ヒ其附近ニ避難セシモノ一時千余名ニ及ヒシヲ以テ之ニ對シ焚出ヲ開始セシ」と炊き出しもしたようです。
 海軍次官も第一艦隊(佐世保)長官へ「櫻島噴火ニツキテハ即時第二艦隊及利根第八派遣隊第十五艦隊同方面ニ向ヒ助力、差当り充分ナルベキ見込ナリ爲念」と指示します。右電報はそれを受けて出航した時のものです。佐世保鎮守府より特派された軍艦利根、駆逐艦白露・三日月・夕立、水雷艇鶉、工作舩振天丸等は13日午後には入港して任務に当たります。沖縄県中城湾から帰航途中の第二艦隊も鹿児島に向けて回航させ14日には入港しています。
 当時、県・郡も警察も内務省の下部組織でしたから、内務省警保局の文書「大正三年一月櫻島爆発ニ関スル被害其ノ他ノ概況」に要領よくまとめられていますので、それを見てみましょう。
 島民の救助は、上記のように民間船舶の徴用で行い、残存者の救助は海軍艦艇で行いましたが、「罹災民ハ直ニ之ヲ東西本願寺縣會議事堂及神職會堂等ニ収容シ市内商人ニ請負ハシメ焚出シヲ開始シタリシカ仝日午後六時ノ激震以來市民ノ殆ント全部ハ難ヲ恐レテ市外各方面ニ四散シタリシヲ以テ十三日以後は縣廳吏員自ラ焚出シニ從事セリ」といった状況だったそうです。
 救援はこうした官憲や軍隊が行っただけではありません。当時は地縁社会が健在で、青年会・婦人会・在郷軍人会等の組織も機能していました。垂水や姶良・加治木方面から桜島の爆発を遠望した漁民や青年会員が、われ先に小舟を出して一斉に救助に向かいました。さまざまな美談も生まれています。谷山の中山(ちゅうざん)尋常小学校(現鹿児島市立中山小学校)には生徒達の作文集が残されています。桜島からの避難民が谷山地区にも殺到します。各家庭で一夜の宿を提供したり、米・味噌・大根などの食糧や薪などを分け与えたり、子供たちもお小遣いを寄付したりしたようです。
  傷病者の救護に関しては、「縣廳、赤十字社支部及当時滯麑中ナリシ沖縄派遣軍隊ニ於テ直チニ救護準備ヲ整ヘシモサシタル死傷者ナカリシハ寔ニ不幸中ノ大幸ナリ」とあります。
 また、「避難民中勞働ニ堪へ得ヘキ者ニ対シ職業ヲ與フル為メ労働紹介所ヲ開始シ漸次帰來スル市民ノ需メニ應スルコトゝ為セシ」と職業の斡旋も行ったようです。

 避難生活

櫻島罹災民加治木収容所(柁城28号口絵,1914)
垂水村避難所配置図(肝属郡役所,1915)
 内務省警保局
(1/20現在)
爆震記
(2/28現在)
鹿兒島市1,4825,357
鹿兒島郡約6,0004,410
姶良郡約3,0003,056
日置郡約3,000900
肝属郡約5,0004,870
揖宿郡-68
川邊郡-71
薩摩郡-16
出水郡-3
伊佐郡-6
曾唹郡-522
宮崎北諸縣郡-194
鹿新独自の義捐金募集東北九州災害救済会
 救援の後は長く続く避難生活が待っています。避難者数は統計により日にちによりまちまちですが、一例を挙げれば右表のようです。当然のことながら鹿児島市周辺に集中しています。当初の混乱が収まった後、日置郡や鹿児島郡から市内へ帰り市内避難所に入った人たちもかなりいたようです。
 当初、避難者は前述のように寺院・議事堂・学校などさまざまな施設に収容されましたが、やがて、各地に罹災民収容所、今でいう仮設住宅が建設されます。こうした事態を受けて、国は災害復旧費190万円(貸付、県に利子補給)、移住費62.5万円(特別補助)、教員俸給4万円(低利貸付)の罹災救助金を支出します。県の救済基準は次のようなものでした。
 一、避難所費は實費九十日以内
 一、食料費は下白米にして年齢十五年以上七十年未満の男一日三合、七十年以上十五年未満の男女一日二合宛九十日以内但し時宜に依り他の慣用食品を以て代用し又食料費の半額以内に於て盬、味噌、漬物等の副食物を併給することを得
 一、小屋掛費は一戸に付價格拾貳圓以内
 一、就業費は一戸に付價格拾圓以内
 小屋掛費(住宅建設費)や就業費を計上しているところをみると、短期は食住を保障し、極力自力での住宅建設・生業の回復を目指していたようです。
 さて、現在の仮設住宅は、建築完了から2年以内を供与期間と定めています。当時はこの避難所が何時まで維持されたのでしょうか。肝属郡新城村の収容所は2月7日建設申請、同8日認可、数日で竣工、5月24日廃止されていますから、やはり基準通り90~100日程度だったようです。現在のように給与所得者が多い時代とは異なり、大部分が農民でしたから、農地がなければ将来設計が立てられません。移住を最優先としたのでしょう。
 このような被災者に対して手を差し伸べたのは国や県だけではありません。江戸時代からあった施行の風習がまだ残っていましたから、地方篤志家の寄付もありましたし、一般市民からの義援金も多数寄せられました。新聞社を通じた義援金や東北九州災害救済会(総裁松方正義)による義援金など全国的な支援の輪も広がりました。

 復興

櫻嶋爆發土地復舊工事
紀念碑(桜島武)
久米芳季翁頌徳碑
(桜島港)
 前述の「科学不信の碑」には、次の文言があります。「本島ノ爆發ハ古來歴史ニ照シ後日復亦免レサルハ必然ノコトナルヘシ住民ハ理論ニ信頼セス異變ヲ認知スル時ハ未然ニ避難ノ用意尤モ肝要トシ平素勤倹産ヲ治メ何時變災ニ値(ママ)モ路途(ママ)ニ迷ハサル覚悟ナカルヘカラス」。つまり、桜島が再度噴火することは必然だから、異変を察知したときには事前避難が肝心なこと、何時災害に遭っても路頭に迷わないよう、日頃から殖産興業に励めということです。それを実践した人に、西桜島村長の大窪宗輔氏と久米芳季氏がいます。
 西桜島村では、噴火直後村長に就任した大窪氏は、西櫻島村耕地整理組合を組織、国から約15万円を無利息で借り受け、復旧工事に取りかかります。軽石を地下に埋め込み、肥沃な耕土を掘り出して客土するいわゆる天地返し(「シラス文化と災害文化」参照)も行ったそうです(孫の大窪三郎氏談)。重機などなかった時代、全部人力に頼るしかありませんでした。南方神社境内の記念碑には次のように書かれています。
櫻嶋爆發土地復舊工事紀念碑
(前略)三々伍々歸村シタル罹災村民ハ食フニ食ナク住ムニ家ナク耕スニ一片ノ土地アルナシ實ニ當時村民ノ窮乏ノ悲惨ノ狀況ハ能ク筆舌ニ盡シアタハザル所ナリキ災害土地ノ復舊耕地ノ回復整理ハ最モ緊急ヲ要スル事ニ属セリ、此ノ秋ニ際シ大窪宗輔氏窮乏困憊ノ後ヲ承ケ本村長ニ就任シ鋭意人心ノ安定ト資力ノ復興産業ノ再建ニ努メ村會議員有志ト相諮リ耕地復舊ヲ急(旧字体)ギ苦心惨憺熱誠力策シ遂(旧字体)ニ同年十二月十二日主務官廳ノ許ヲ受ケテ我カ西櫻島村耕地整理組合組織セラレ組合長ニ村長ヲ擧各業務執行員ニ村有志ヲ推シ協心膠力事ニ從ヒ復舊工事費トシテ政府ヨリ無利息ヲ以テ十四萬八千二百十八圓三十六錢ヲ借入レ鋭意排灰除石耕地復舊ノ工事ニ奮躍勉勵シ遂(旧字体)ニ耕地七百三十町八反二畝十八歩ヲ復舊シ村民漸ヤク其ノ堵ニ安ンジテ生業ニ從事シ得ルニ至レリ(後略)
 大窪氏からバトンタッチしたのが久米氏です。桜島は水稲には不向きですから、水はけのよい火山麓扇状地を利用した桜島大根と島ミカンが主要作物でした。ところがそれらは鹿児島の市場に出荷され、鹿児島市の問屋に安く買いたたかれていました。高い口銭を取られたり、前近代的な搾取の慣行もありました。久米氏はこれに対抗して自前の「桜島青果卸市場」を開設します。流通網を確保し果樹園芸の先進地となります。昭和47年(1972)頃までは「宝の島」と呼ばれ、昭和46年は農家1戸当たり農業所得が県下第1位となりました<注>。また、村営バスや村営船(現桜島フェリー)のような新規事業も立ち上げ、観光ブームをもたらします。フェリー乗り場には頌徳碑が建っています。
久米芳季翁頌徳碑
(前略)英邁な資性は良く世情の推移を洞察して大正十二年村農会長に就任するや鹿兒島市小川町に青果市場を創設して販路の拡張品種の改良に又産業組合の振興に寝食を忘れて奔走し村経済発展の基礎を確立し昭和四年村長に推されるや村営交通事業を開始して子弟の勉学に資し村民の対外発展の礎を樹てると共に噴火の災害に備える基本財産造成に着手した
昭和十四年バス事業を開始し袴腰港の埋立をなし車輌の航走をも始め大隅開発の一助ともなし又今日本村唯一の特殊財源として行政を円滑ならしめた(中略)翁の治績三十五年其の高邁な識見と崇高な人格は村今日の隆盛を致し村百年の基礎を確立した(後略)
注1: 西桜島村、後の桜島町は、大変豊かで税金も安く、東桜島町が鹿児島市に合併した後も、平成の大合併まで、鹿児島市への合併を拒否し続けました。
注2: 昭和30年(1955)から南岳が活発な山頂噴火を繰り返します。とくに昭和47年(1972)からは最盛期を迎え、連日のように“ドカ灰”を降らします。これが農業に決定的なダメージを与え、昭和48年(1973)以降は県内96市町村のうち、農業所得は81~88位と低迷します。

霧島市牧之原のボラ山
(鹿児島地方気象台提供)
山重太吉翁頌徳碑(曽於市大隅町)
 軽石火山灰が降ったのは桜島ばかりではありません。大隅半島側でも田畑は埋まり、灌漑用水路は詰まって機能しませんでした。用地の狭い桜島島内では天地返しが行われましたが、広々とした大隅では、排除した軽石を畑の一隅に積み上げる「ボラ起こし」が行われます。やはりモッコ担ぎの重労働だったそうです。現在でもその跡がボラ塚(ボラ山)として残っています(「シラス文化と災害文化」参照)。曽於市大隅町荒谷には、全私財を投じて用水路工事と開田に努めた山重太吉翁の頌徳碑が建っています。
 農業復興
 当時の基幹産業は農業でしたから、大部分の人々は農業に依存して暮らしていました。農業の復興なくして災害の復興はあり得ませんでした。そこで、農商務省農事試験場や県の農事試験場では、降下堆積物の物理化学的性質や用水路の水質、個々の作物に与える影響など多面的な調査研究を行い、応急対策から抜本対策まで、懇切丁寧な営農指導を行ったようです。

 移住

:指定移住地(ポップアップのカッコ内は現在の地名)
 溶岩で埋まった土地は天地返しもできません。残された道は移住だけです。県は噴火直後から移住やむなしとして、台湾・朝鮮・北海道から宮崎・種子島まで移住可能性を問い合わせ、県内や宮崎県には移住候補地の調査に吏員を派遣します。国も移住費として国庫より625,893円を特別補助します。移住には、県が斡旋する指定移住と、縁故をたどる任意移住とがありました。『大正噴火誌』によれば、指定移住地と人員は表の通りです。
 肝属郡熊毛郡宮崎縣朝鮮
国有林北野名邊迫内之牧大中尾大野原中割國上現和夷守昌明寺  
町村新城大根占田代小根占垂水北種子北種子北種子小林町真幸  
戸数8871922448410699435312101,001
人数5414635751,5394861,33056728932873546,245
 指定移住の方法はどこも同じで、国が国有林等の官有地を県に無償で払い下げる、県は罹災者に分割貸与して開墾させ、一定の年限を経過したら、移住者に無償譲渡するという方式です。
 種子島北種子村古仁ヶ田代地区には移住に関する文書が「桜島移住民書籍」として大切に保管されています。それを見てみましょう。
 移住計画
第一条 移住ハ左記各号ノ事項ヲ達成セシムルヲ以テ目的トス
 罹災者ヲ救助シ独立自営ノ者タラシム
 既成町村ニ従属セシメ永ク其地ニ定住セシム
第二条 移住者の条件(略)
第三条 指定国有林地列挙(略)
第四条 移住地ハ其ノ用途ニ従ヒ左ノ十種ニ区分ス
 宅地
 耕地
 燃材林及採草地
 地区附属地(防風林・水源保護林地)
 雑種地(牛馬埋葬地・伝染病牛馬埋葬地)及墓地
 道路敷
 学校敷実習地及学林地
 欠如
 寺院又ハ説教所敷及其ノ附属地
 公共用地及附属地・巡査駐在所敷・伝染病舎敷
第五条 移住者ニハ左記標準ニ拠リ県有地ヲ貸与シ自費ヲ以テ開墾セシム
 宅地ハ一戸ニ対シ五畝歩以内トシ地形ニ応ジ之ヲ定ム
 耕地ハ一戸ニ対シ平均壱町七反歩以内トシ家族数ヲ斟酌シテ之ヲ定ム
第六条 前条貸付地ノ事業ハ貸付ノ時ヨリ五ヶ年以内ニ完成セシムルモノトス 但シ特別ノ事由アルモノハ二ヶ年ヲ限リ延期ヲ許可スルコトアルベシ
貸付地内ノ耕適地ニシテ地形其他ノ関係ニヨリ許可ヲ得テ他ノ目的ニ利用シタルモノハ事業ヲ完了シタルモノト見做ス
事業完成拾年後ニハ県所有権ヲ移住者ニ与フルモノトス
第七条 貸付地事業ニシテ予定期間内ニ完成セサルモノハ特殊ノ事由アルモノノ外土地所有権ヲ譲渡セサルモノトス
第八条 燃材料及採草地ハ一戸当リ五反歩ノ割合ヲ以テ地積ヲ定メ適当ナル管理方法ニ依リ移住者ヲシテ之ヲ利用セシム
 移住事業完了後ニ於テハ県ハ其ノ所有権ヲ地元町村ニ附与シ前項ニ準シ利用セシム
第九条~第十五条 地区附属地など各種土地種目について貸与面積・利用法・完了後の所有権などが記載されていますが省略します。
第十六条 耕地及宅地内ノ立木ハ県ニ於テ直接之ヲ処理シ必要ノ程度ヲ斟酌シ各移住者ニ分与ス 但シ矮小ノ雑木ハ借地人ヲシテ便宜処理セシムルコトアルベシ
第十七条 移住者には左ノ通リ給与ス
 小屋掛料ヲ給シ一時的ノ小屋ヲ建設セシム
 移住ニ要スル実費旅費ヲ給ス
 生活ニ直接必要ナル家具及農具費ヲ給ス
 荷物ノ運搬費ヲ給ス
 相当期間食費並ニ油類代ヲ給ス
 差当リ必要ナル種苗及肥料ヲ給ス
 共同浴槽ヲ給ス
第十八条 水質ヲ検シ水量ヲ調査シ戸数ノ多寡ヲ斟酌シ飲料水ノ設備トシテ井戸ヲ掘鑿シ又ハ簡易水道ノ設備ヲ為ス
 以下、農事組合を組織させるとか、県農業技手を所轄郡衙に駐在させて営農指導に当たらせるとか、元の住所に所有する土地家屋の処分は自由だとか、いろいろなことが列挙されています。
国有林の測量(大中尾小学校蔵)種子島中割錦江町桜原垂水市大野原
新設大中尾尋常小學校(大中尾小学校蔵)最後の桜島大根コンテスト
(2013/2/5 大中尾小HPより)
 以上のように、移住民の立場に立って、きめ細かな配慮が行われたようです。しかし、それでも国有林の原野を開拓するのは大変でした。『大正噴火誌』は次のように述べています。
「移住地の多くは樹林地なるを以て開墾に困難を極め豫定の如く進捗せざりしのみならず作付の時期後れたると又昨年數度の風害に加ふるに旱魃の爲農作物非常なる被害を受け其收穫著しく減少し粟作及陸稻の類は殆ど皆無の狀態なりしに依り食料費は豫定期間より延長給與せざるを得ざるの狀況に陷れり」
 結局、食料費は大正4年1月まで支給し続けたようです。また、国有林は山麓斜面に立地していることが多く、飲料水の確保に難儀しました。朝夕の谷川までの水汲みは女子供の仕事、大変な重労働でした。錦江町桜原(さくらばい)の櫻島爆發移住記念碑の側面には「水道記念 大正十三年三月廿九日開通」と刻まれています。水道開通が如何に待たれていたかを物語っています。
 上記第六条にあるように、事業完成後10年後には所有権が移住者のものになる決まりでした。垂水市大野原(おおのばる)には、「土地所有權移轉紀念碑」があります。昭和11年5月20日に無償譲渡されました。なぜ遅れたのか不明ですが、実に移住21年後のことです。
 なお、人里離れた国有林ですから、学童の通学が問題となります。遠距離登校が不可能なところには尋常小学校が新設されました。北種子村の鴻峰(こうのみね)尋常小学校、小根占村の大中尾尋常小学校、垂水村の大野尋常小学校の3つです。しかし、いずれも現在では閉校になりました。写真の大中尾小学校も最後まで残っていて、桜島大根づくりコンテストなどを行っていましたが、2013年佐多小学校へ統合されてしまいました。大崎町野方角堂には個人が建てた記念碑が藪の中に残されています。副碑に「然れども昭和も末期とならんとするに若者は何故か知らこの土地を捨て光求めて散開しさびれ行く角堂部落となり」とあります。

文献:
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  10. 鹿兒島市役所編纂(1924), 鹿兒島市史. 鹿兒島市役所, p.291-323.
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参考サイト:



初出日:2019/04/14
更新日:2020/10/14