史料にみる桜島大正噴火(3)
避難
大正噴火は大噴火だった割りには被害が少なくて済みました。それは自主避難と的確な救援が行われたためです。当時は半農半漁で小舟を持っている家庭が多かったのも幸いしました。『大正噴火誌』で、その様子を見てみましょう。東桜島村
科学不信の碑(東桜島小学校) |
西桜島村
船による避難(山下兼秀絵巻,1914) (鹿児島市立美術館図録) |
鹿児島市
逃げ惑う人々(山下兼秀絵巻,1914) (鹿児島市立美術館図録) |
救援
被害其ノ他ノ概況(内務省警保局,1914) | |
櫻島噴火一件(海軍省,1914) | 天災地変(陸軍省,1914) |
陸軍次官は第六師団(熊本)参謀長へ次のように打電します。「救護人員派遣ヲ實施セラルゝ際ハ救護實習ノ目的ノ下、傷者ノ救護ニ従事セシムル趣旨ヲ以テ經費ハ演習費支辨トシ追テ増額セラル」
現地鹿児島では「衞戍司令部ヲ照国神社内ニ置キ、警戒隊十一個ヲ編制シ市内ヲ十一区に分チテ警戒を擔任セシメ警察官ト共ニ市民避難后ニ於ケル火災豫防治安保持ノ任ニ当リ」ました。また、「練兵場及ヒ其附近ニ避難セシモノ一時千余名ニ及ヒシヲ以テ之ニ對シ焚出ヲ開始セシ」と炊き出しもしたようです。
海軍次官も第一艦隊(佐世保)長官へ「櫻島噴火ニツキテハ即時第二艦隊及利根第八派遣隊第十五艦隊同方面ニ向ヒ助力、差当り充分ナルベキ見込ナリ爲念」と指示します。右電報はそれを受けて出航した時のものです。佐世保鎮守府より特派された軍艦利根、駆逐艦白露・三日月・夕立、水雷艇鶉、工作舩振天丸等は13日午後には入港して任務に当たります。沖縄県中城湾から帰航途中の第二艦隊も鹿児島に向けて回航させ14日には入港しています。
当時、県・郡も警察も内務省の下部組織でしたから、内務省警保局の文書「大正三年一月櫻島爆発ニ関スル被害其ノ他ノ概況」に要領よくまとめられていますので、それを見てみましょう。
島民の救助は、上記のように民間船舶の徴用で行い、残存者の救助は海軍艦艇で行いましたが、「罹災民ハ直ニ之ヲ東西本願寺縣會議事堂及神職會堂等ニ収容シ市内商人ニ請負ハシメ焚出シヲ開始シタリシカ仝日午後六時ノ激震以來市民ノ殆ント全部ハ難ヲ恐レテ市外各方面ニ四散シタリシヲ以テ十三日以後は縣廳吏員自ラ焚出シニ從事セリ」といった状況だったそうです。
救援はこうした官憲や軍隊が行っただけではありません。当時は地縁社会が健在で、青年会・婦人会・在郷軍人会等の組織も機能していました。垂水や姶良・加治木方面から桜島の爆発を遠望した漁民や青年会員が、われ先に小舟を出して一斉に救助に向かいました。さまざまな美談も生まれています。谷山の
傷病者の救護に関しては、「縣廳、赤十字社支部及当時滯麑中ナリシ沖縄派遣軍隊ニ於テ直チニ救護準備ヲ整ヘシモサシタル死傷者ナカリシハ寔ニ不幸中ノ大幸ナリ」とあります。
また、「避難民中勞働ニ堪へ得ヘキ者ニ対シ職業ヲ與フル為メ労働紹介所ヲ開始シ漸次帰來スル市民ノ需メニ應スルコトゝ為セシ」と職業の斡旋も行ったようです。
避難生活
櫻島罹災民加治木収容所(柁城28号口絵,1914) |
垂水村避難所配置図(肝属郡役所,1915) |
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鹿新独自の義捐金募集 | 東北九州災害救済会 |
当初、避難者は前述のように寺院・議事堂・学校などさまざまな施設に収容されましたが、やがて、各地に罹災民収容所、今でいう仮設住宅が建設されます。こうした事態を受けて、国は災害復旧費190万円(貸付、県に利子補給)、移住費62.5万円(特別補助)、教員俸給4万円(低利貸付)の罹災救助金を支出します。県の救済基準は次のようなものでした。
一、避難所費は實費九十日以内
一、食料費は下白米にして年齢十五年以上七十年未満の男一日三合、七十年以上十五年未満の男女一日二合宛九十日以内但し時宜に依り他の慣用食品を以て代用し又食料費の半額以内に於て盬、味噌、漬物等の副食物を併給することを得
一、小屋掛費は一戸に付價格拾貳圓以内
一、就業費は一戸に付價格拾圓以内
小屋掛費(住宅建設費)や就業費を計上しているところをみると、短期は食住を保障し、極力自力での住宅建設・生業の回復を目指していたようです。
さて、現在の仮設住宅は、建築完了から2年以内を供与期間と定めています。当時はこの避難所が何時まで維持されたのでしょうか。肝属郡新城村の収容所は2月7日建設申請、同8日認可、数日で竣工、5月24日廃止されていますから、やはり基準通り90~100日程度だったようです。現在のように給与所得者が多い時代とは異なり、大部分が農民でしたから、農地がなければ将来設計が立てられません。移住を最優先としたのでしょう。
このような被災者に対して手を差し伸べたのは国や県だけではありません。江戸時代からあった施行の風習がまだ残っていましたから、地方篤志家の寄付もありましたし、一般市民からの義援金も多数寄せられました。新聞社を通じた義援金や東北九州災害救済会(総裁松方正義)による義援金など全国的な支援の輪も広がりました。
復興
櫻嶋爆發土地復舊工事 紀念碑(桜島武) | 久米芳季翁頌徳碑 (桜島港) |
西桜島村では、噴火直後村長に就任した大窪氏は、西櫻島村耕地整理組合を組織、国から約15万円を無利息で借り受け、復旧工事に取りかかります。軽石を地下に埋め込み、肥沃な耕土を掘り出して客土するいわゆる天地返し(「シラス文化と災害文化」参照)も行ったそうです(孫の大窪三郎氏談)。重機などなかった時代、全部人力に頼るしかありませんでした。南方神社境内の記念碑には次のように書かれています。
櫻嶋爆發土地復舊工事紀念碑
(前略)三々伍々歸村シタル罹災村民ハ食フニ食ナク住ムニ家ナク耕スニ一片ノ土地アルナシ實ニ當時村民ノ窮乏ノ悲惨ノ狀況ハ能ク筆舌ニ盡シアタハザル所ナリキ災害土地ノ復舊耕地ノ回復整理ハ最モ緊急ヲ要スル事ニ属セリ、此ノ秋ニ際シ大窪宗輔氏窮乏困憊ノ後ヲ承ケ本村長ニ就任シ鋭意人心ノ安定ト資力ノ復興産業ノ再建ニ努メ村會議員有志ト相諮リ耕地復舊ヲ急(旧字体)ギ苦心惨憺熱誠力策シ遂(旧字体)ニ同年十二月十二日主務官廳ノ許ヲ受ケテ我カ西櫻島村耕地整理組合組織セラレ組合長ニ村長ヲ擧各業務執行員ニ村有志ヲ推シ協心膠力事ニ從ヒ復舊工事費トシテ政府ヨリ無利息ヲ以テ十四萬八千二百十八圓三十六錢ヲ借入レ鋭意排灰除石耕地復舊ノ工事ニ奮躍勉勵シ遂(旧字体)ニ耕地七百三十町八反二畝十八歩ヲ復舊シ村民漸ヤク其ノ堵ニ安ンジテ生業ニ從事シ得ルニ至レリ(後略)
大窪氏からバトンタッチしたのが久米氏です。桜島は水稲には不向きですから、水はけのよい火山麓扇状地を利用した桜島大根と島ミカンが主要作物でした。ところがそれらは鹿児島の市場に出荷され、鹿児島市の問屋に安く買いたたかれていました。高い口銭を取られたり、前近代的な搾取の慣行もありました。久米氏はこれに対抗して自前の「桜島青果卸市場」を開設します。流通網を確保し果樹園芸の先進地となります。昭和47年(1972)頃までは「宝の島」と呼ばれ、昭和46年は農家1戸当たり農業所得が県下第1位となりました<注>。また、村営バスや村営船(現桜島フェリー)のような新規事業も立ち上げ、観光ブームをもたらします。フェリー乗り場には頌徳碑が建っています。
久米芳季翁頌徳碑
(前略)英邁な資性は良く世情の推移を洞察して大正十二年村農会長に就任するや鹿兒島市小川町に青果市場を創設して販路の拡張品種の改良に又産業組合の振興に寝食を忘れて奔走し村経済発展の基礎を確立し昭和四年村長に推されるや村営交通事業を開始して子弟の勉学に資し村民の対外発展の礎を樹てると共に噴火の災害に備える基本財産造成に着手した
昭和十四年バス事業を開始し袴腰港の埋立をなし車輌の航走をも始め大隅開発の一助ともなし又今日本村唯一の特殊財源として行政を円滑ならしめた(中略)翁の治績三十五年其の高邁な識見と崇高な人格は村今日の隆盛を致し村百年の基礎を確立した(後略)
注1: 西桜島村、後の桜島町は、大変豊かで税金も安く、東桜島町が鹿児島市に合併した後も、平成の大合併まで、鹿児島市への合併を拒否し続けました。
注2: 昭和30年(1955)から南岳が活発な山頂噴火を繰り返します。とくに昭和47年(1972)からは最盛期を迎え、連日のように“ドカ灰”を降らします。これが農業に決定的なダメージを与え、昭和48年(1973)以降は県内96市町村のうち、農業所得は81~88位と低迷します。
霧島市牧之原のボラ山 (鹿児島地方気象台提供) | 山重太吉翁頌徳碑(曽於市大隅町) |
農業復興
当時の基幹産業は農業でしたから、大部分の人々は農業に依存して暮らしていました。農業の復興なくして災害の復興はあり得ませんでした。そこで、農商務省農事試験場や県の農事試験場では、降下堆積物の物理化学的性質や用水路の水質、個々の作物に与える影響など多面的な調査研究を行い、応急対策から抜本対策まで、懇切丁寧な営農指導を行ったようです。移住
:指定移住地(ポップアップのカッコ内は現在の地名) |
肝属郡 | 熊毛郡 | 宮崎縣 | 朝鮮 | 計 | ||||||||
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国有林 | 北野 | 名邊迫 | 内之牧 | 大中尾 | 大野原 | 中割 | 國上 | 現和 | 夷守 | 昌明寺 | ||
町村 | 新城 | 大根占 | 田代 | 小根占 | 垂水 | 北種子 | 北種子 | 北種子 | 小林町 | 真幸 | ||
戸数 | 88 | 71 | 92 | 244 | 84 | 106 | 99 | 43 | 53 | 12 | 10 | 1,001 |
人数 | 541 | 463 | 575 | 1,539 | 486 | 1,330 | 567 | 289 | 328 | 73 | 54 | 6,245 |
種子島北種子村古仁ヶ田代地区には移住に関する文書が「桜島移住民書籍」として大切に保管されています。それを見てみましょう。
移住計画
第一条 | 移住ハ左記各号ノ事項ヲ達成セシムルヲ以テ目的トス | |
一 | 罹災者ヲ救助シ独立自営ノ者タラシム | |
二 | 既成町村ニ従属セシメ永ク其地ニ定住セシム | |
第二条 | 移住者の条件(略) | |
第三条 | 指定国有林地列挙(略) | |
第四条 | 移住地ハ其ノ用途ニ従ヒ左ノ十種ニ区分ス | |
一 | 宅地 | |
二 | 耕地 | |
三 | 燃材林及採草地 | |
四 | 地区附属地(防風林・水源保護林地) | |
五 | 雑種地(牛馬埋葬地・伝染病牛馬埋葬地)及墓地 | |
六 | 道路敷 | |
七 | 学校敷実習地及学林地 | |
八 | 欠如 | |
九 | 寺院又ハ説教所敷及其ノ附属地 | |
十 | 公共用地及附属地・巡査駐在所敷・伝染病舎敷 | |
第五条 | 移住者ニハ左記標準ニ拠リ県有地ヲ貸与シ自費ヲ以テ開墾セシム | |
一 | 宅地ハ一戸ニ対シ五畝歩以内トシ地形ニ応ジ之ヲ定ム | |
二 | 耕地ハ一戸ニ対シ平均壱町七反歩以内トシ家族数ヲ斟酌シテ之ヲ定ム |
第六条 | 前条貸付地ノ事業ハ貸付ノ時ヨリ五ヶ年以内ニ完成セシムルモノトス 但シ特別ノ事由アルモノハ二ヶ年ヲ限リ延期ヲ許可スルコトアルベシ 貸付地内ノ耕適地ニシテ地形其他ノ関係ニヨリ許可ヲ得テ他ノ目的ニ利用シタルモノハ事業ヲ完了シタルモノト見做ス 事業完成拾年後ニハ県所有権ヲ移住者ニ与フルモノトス | |
第七条 | 貸付地事業ニシテ予定期間内ニ完成セサルモノハ特殊ノ事由アルモノノ外土地所有権ヲ譲渡セサルモノトス | |
第八条 | 燃材料及採草地ハ一戸当リ五反歩ノ割合ヲ以テ地積ヲ定メ適当ナル管理方法ニ依リ移住者ヲシテ之ヲ利用セシム | |
移住事業完了後ニ於テハ県ハ其ノ所有権ヲ地元町村ニ附与シ前項ニ準シ利用セシム |
第十六条 | 耕地及宅地内ノ立木ハ県ニ於テ直接之ヲ処理シ必要ノ程度ヲ斟酌シ各移住者ニ分与ス 但シ矮小ノ雑木ハ借地人ヲシテ便宜処理セシムルコトアルベシ | |
第十七条 | 移住者には左ノ通リ給与ス | |
一 | 小屋掛料ヲ給シ一時的ノ小屋ヲ建設セシム | |
二 | 移住ニ要スル実費旅費ヲ給ス | |
三 | 生活ニ直接必要ナル家具及農具費ヲ給ス | |
四 | 荷物ノ運搬費ヲ給ス | |
五 | 相当期間食費並ニ油類代ヲ給ス | |
六 | 差当リ必要ナル種苗及肥料ヲ給ス | |
七 | 共同浴槽ヲ給ス | |
第十八条 | 水質ヲ検シ水量ヲ調査シ戸数ノ多寡ヲ斟酌シ飲料水ノ設備トシテ井戸ヲ掘鑿シ又ハ簡易水道ノ設備ヲ為ス |
国有林の測量(大中尾小学校蔵) | 種子島中割 | 錦江町桜原 | 垂水市大野原 | ||||
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「移住地の多くは樹林地なるを以て開墾に困難を極め豫定の如く進捗せざりしのみならず作付の時期後れたると又昨年數度の風害に加ふるに旱魃の爲農作物非常なる被害を受け其收穫著しく減少し粟作及陸稻の類は殆ど皆無の狀態なりしに依り食料費は豫定期間より延長給與せざるを得ざるの狀況に陷れり」
結局、食料費は大正4年1月まで支給し続けたようです。また、国有林は山麓斜面に立地していることが多く、飲料水の確保に難儀しました。朝夕の谷川までの水汲みは女子供の仕事、大変な重労働でした。錦江町
上記第六条にあるように、事業完成後10年後には所有権が移住者のものになる決まりでした。垂水市
なお、人里離れた国有林ですから、学童の通学が問題となります。遠距離登校が不可能なところには尋常小学校が新設されました。北種子村の
文献:
- 今村明恒(1920), 九州地震帯. 震災豫防調査會報告, No.92, p.1-94.
- 岩松 暉・橋村健一(2014), 桜島大噴火記念碑―先人が伝えたかったこと―, 徳田屋書店, 291pp.
- 岩松 暉(2013), 石碑にみる桜島大正噴火の災害伝承. WESTERN JAPAN NDICニュース, No.49, p.15-24.
- 岩松 暉(2019), 史料にみる桜島大正噴火. 自然災害科学, Vol.38, No.3, p.289-306.
- 鹿兒島郡東櫻島村役場(1925), 大正三年櫻島爆發遭難録. 鹿兒島郡東櫻島村役場, 21pp.
- 鹿兒島縣編(1927), 櫻島大正噴火誌. 鹿兒島縣, 466pp.
- 鹿兒島縣肝属郡役所(1915), 櫻島爆發肝属郡被害始末誌. 鹿兒島縣肝属郡役所, 524pp.
- 鹿兒島縣立圖書館(1925), 櫻島噴火記(大正14年版) 附 噴火年表並近國噴火 噴火記念室及噴火に關する圖書. 鹿兒島縣立圖書館, 22pp.
- 鹿兒島縣囎唹郡役所(1916), 櫻嶌爆發誌. 鹿兒島縣囎唹郡役所, 164pp.
- 鹿兒島市役所編纂(1924), 鹿兒島市史. 鹿兒島市役所, p.291-323.
- 鹿兒島新聞記者十餘名共纂(1914), 大正三年櫻島大爆震記. 櫻島大爆震記編纂事務所, 340pp. + 16pp. + 4pp.
- 鹿兒島測候所(1916). 大正三年櫻島大噴火記事・第一編・第二編. 附録 大正三年櫻島山大噴火實寫圖(松田和集), 鹿兒島測候所, 28pp. + 26pp. + 13pp.
- 金井眞澄(1920), 大正參年度に於ける櫻島火山の噴火状況並に噴出物及作物栽培に關する調査試驗報文. 鹿兒島高等農林学校「櫻島火山の大正三年に於ける噴火状況並噴出物に關する調査報文」, 付図.
- 川畑龍雄(1964), 大正噴火五十周年記念誌, 西桜島村, 74pp.
- 肝属郡垂水村教育會(1915), 垂水村郷土誌 附録第六 大正三年櫻島爆發概要. 肝属郡垂水村教育會, p.325-356.
- 小林哲夫・溜池俊彦(2002), 桜島火山の噴火史と火山災害の歴史. 第四紀研究, Vol. 41, No., p.269-278.
- 九州鐵道管理局編纂(1914), 大正三年櫻島噴火記事. 九州鐵道管理局, 327pp.
- Koto, B.(1916), The great eruption of Sakura-jima in 1914. Jour. Coll. Sci., Imperial Univ. Tokyo, Vol.38, Art.3, p.1-237.
- 松本榮兒(1915), 西武田村誌. 田上尋常高等小學校, 283pp.
- Omori, F.(1916), The Sakura-jima eruption and Earthquakes Ⅱ. Chap.Ⅴ. Bulletin of the Imperial Earthquake Investigation Committee, Vol.8 No.2, p.113-133.
- 桜島町郷土誌編さん委員会(1988), 桜島町郷土誌. 桜島町, 964pp.
- 田村省三(2015), 櫻島爆發報告書類, 尚古集成館紀要, No.14, p.7-40.
- Todde, A., Cioni, R., Pistolesi, M., Geshi, N. & Bonadonna, C.(2017), The 1914 Taisho eruption of Sakurajima volcano: stratigraphy and dynamics of the largest explosive event in Japan during the twentieth century. Bull. Volcanology, Vol.79, No.10, p.1-22.
- 内田孝蔵/〔ほか〕(1937), 大正三年櫻島噴火探検二十五周年追憶記. 飯島診療所, 42pp.
- 陸軍省(1914), 天災地変. (アジア歴史資料センター)
- 海軍省(1914), 櫻島噴火一件. (アジア歴史資料センター)
- 内務省警保局(1914), 大正三年一月櫻島爆発ニ関スル被害其ノ他ノ概況.(国立国会図書館デジタルコレクション)
- (), . , Vol., No., p..
- (), . , Vol., No., p..
参考サイト:
- 桜島大噴火記念碑
- 桜島大正噴火100周年記念誌(鹿児島県)
初出日:2019/04/14
更新日:2020/10/14