シラス地形の三要素シラス台地に関する文化シラス急崖に関する文化シラス低地に関する文化2人の甘藷翁余談:しらすの日

 シラス文化

 シラスは白色の火山性砂質堆積物を指す鹿児島地方の方言です。年の暮れに庭にシラスを撒いて清め新年を迎える習慣・正月どん迎え(しょがっどんむけ)もありました。戦前から地図帳には南九州の台地に「シラス台地」と記載されていました。しかし、学術的に定義されていなかったので、①火砕流堆積物の非溶結部、②降下軽石、③白色凝灰質砂層(水成シラス)、④上記の二次堆積物(二次シラス・成層シラス)などすべてを指し、混乱していました。工学系の人は名称などどうでも良いと考えていましたが、名称が異なれば成因も存在する場所も異なり、災害に対する意義も異なりますから、①大規模火砕流堆積物の非溶結部に限って使うよう提案し(岩松ほか,1989)、現在では定着しています。鹿児島の場合、本土の過半を覆うシラスは入戸火砕流堆積物ですので、狭義にはこれを指します。昔は十和田シラス・支笏シラスなどといった使われ方もしましたが、今では死語になりましたから、狭義のシラスだけに限るほうが良いかも知れません。
 そうなるとシラスは南九州特有の地質ということになり、その地質が作り出す独特の景観は南九州に特異な文化を育みました。「シラス文化」という語は桐野利彦(1986)が提唱したもので、桐野が主宰したシラス台地研究会(後にシラス地域研究会)で使われ、門下の橋村健一(1997)は『シラス文化―発想の驚異』を著しました。桐野は次のように述べています。
 シラスの土地で生きることは生やさしいことではなかった。南九州人はありったけの知恵を出し、大変な努力をしてシラスの土地で生き抜いてきたのである。その人間活動の成果には目を見張るすばらしいものが多々ある。筆者はその人間活動の成果をシラス文化と呼んでいる。
 以下、桐野(1988)に従って見ていきましょう。

 シラス地形の三要素

シラス地形模式図(桐野,1988)
 桐野(1988)は、右図のようにシラス地形を模式化し、シラス堆積原面と高位段丘からなる①シラス台地、台地を縁取る②シラス急崖、低位段丘や氾濫原からなる③シラス低地と三大別し、これをシラス地形三要素と呼んでいます。入戸火砕流の総噴出量は400km3と言われており、シラス台地(シラス堆積原面)の比高は、姶良カルデラからの距離にもよりますが、一般に80~150mもあります。シラスは非溶結ですから、大変もろく捻り鎌でも容易に削れます。したがって浸食にも弱いのに、シラス崖は直立しているのが特徴です。浸食に弱いからこそ、雨滴に対する暴露面積が最小になるよう鉛直になるのだと言われていますが、定説はありません。シラスが自立するのも、非溶結とはいえ若干熱でくっついているのだという説や、火山ガラスがインターロッキングしている(かみ合っている)のだという説などがあります。もちろん、いつまでも直立しているわけではありません。喜入町前之浜にある現在の海食崖は70~80度に直立していますが、鹿児島旧市街地を囲む城山~武のシラス崖は40~50度です。これは縄文時代の海食崖だったのでしょう。6000年の間に浸食されて緩くなったのです。
蛇足: 九州自動車道の切り取り法面は約45度になっています。直立させるかどうかで議論がありましたが、運転者の圧迫感など交通事故につながる恐れがあるとして、浸食防護策を施した上、多少寝せたのだそうです。

 シラス台地に関する文化

 上記のようにシラスは火砕流堆積物の非溶結部ですから、火山ガラスが主で腐植質に乏しく、その上、空隙率が高いため保水力も乏しく、地下水位は極めて低いという特徴があります。さらに鹿児島は台風銀座ですし、シラス台地は標高が高いため、四季を通じて風当たりが強いのです。灌漑の発達しなかった江戸時代までは、粗放農業をせざるを得ませんでした。こうしたシラス台地に主として栽培されたのは、甘藷(からいも・さつまいも)、大豆、菜種、粟、麦類、陸稲、蕎麦などでした。桐野は次の作物を「シラス台地の三大作物」と称しました。この3つで必須栄養素は補えたのです。
作物栄養素備 考
甘藷炭水化物水分の多くを空中から取るため乾燥に強く、無肥料でも育ち、根菜なので台風の被害を受けない。8公2民の高率年貢の藩政時代、農民の主食。
大豆タンパク質根粒菌が空中窒素を固定し、貧栄養のシラス土壌でも育つ。薩摩藩では畑高の算定には大豆高を用いる定め。
菜種脂肪菜種に必要なリン酸肥料はシラスにない(糞尿中のリン酸は水に溶けて地下浸透してしまう)のでシラス台地には不適。大坂・琉球等からの骨粉輸入によって耕作可能。砂糖黍と並ぶ主要商品作物(大阪市場で換金)、灯火用にも不可欠。
鹿屋市笠野原の水汲み風景(三国名勝図会)シラス台地の宅地化(鹿児島市内)
 なお、乏水地帯のシラス台地に住むには、水をどうして得るかが大問題です。天水を貯めて使うか、100mの急坂を上り下りして低地まで水汲みに行くか、深井戸を掘るか、3つしか方法がありません。そこでシラス台地には一大深井戸群が形成されました。しかし、人力で深井戸を掘削するのは80mが限界ですから、それ以上地下水位が深い場合には、馬に水樽を背負わせて台地下の湧水まで水汲みに行くしかありませんでした。深井戸も大人1人で汲めるのはせいぜい深さ30mまで、30~50mは数人で、それ以上は牛馬で釣瓶を引かせて水汲みをしました(右図参照)。『三国名勝図会』には「この地水なし、井を穿つこと大凡三十餘尋、皆轆轤を施して是を汲む」と書かれています。こうした深井戸群もシラス文化です。詳しくは「火砕流台地と畑潅事業」をご覧ください。

 シラス急崖に関する文化

 シラス台地を縁取る急崖部は居住や生産の場になり得ませんが、これに関わる文化としては、中世の山城と近世の山坂達者の教育を挙げることができます。中世の主要な武器は弓矢でしたから、高所から射かけるのが有利でした。楠木正成の千早城の戦いが典型例ですが、天険の地に山城を構え、上から大石を投げ落としたり、煮たぎった油や糞尿を撒いたりして、ひるんだところに矢を射かけるのです。シラス急崖は天然の城壁で、ガリは天然の空堀でした。鹿児島にある山城はシラスの浸食地形を利用したり、それを拡幅したりして築きました。典型例が国指定史跡知覧城です。詳しくは「中世の山城」をご覧ください。なお、平生は山城には居住せず、近くの麓集落に住んでいました。
郷中教育の流れを継ぐ鹿児島市西田の自彊学舎野太刀示現流の稽古場(自彊学舎)
 藩政時代の教育として郷中(ごじゅう)教育が大変有名です。郷中(同一地域内)に住む武家の子弟が集まり、先輩が後輩を指導する自治の教育制度でした。学問だけでなく武芸も鍛え、しつけも行いました。その中心をなしたのが「山坂達者の教育」でした。シラス急崖は手頃な急崖で、ここの山坂道を上り下りすることによって心身を鍛えました。今でも照国神社から城山展望台に毎朝登り、ラジオ体操をするグループがあります。なお、城山展望台は高位段丘、テレビ塔のあるところがシラス堆積原面だそうです。

 シラス低地に関する文化

鹿児島市吉田町竹山貫(橋村,1997)曽於市上鶴橋
 シラス台地は乏水地帯でしたが、シラス低地は清冽な湧水が豊富でした。氾濫原は低湿で居住には向きませんが、稲作には最適でした。低位段丘に居住して、台地下の湧水を飲料とし、水田を耕作したのです。後年になると、湧水から灌漑用水路を導き、低位段丘上も水田化しました。こうした水に関わる文化もシラス文化と言えましょう。
 一般にシラス台地の浸食は谷頭浸食head erosionに始まり、雨裂rill→ガリgullyと進んで、やがて広がって谷底平野valley plainになります。鹿児島では迫と呼びます。関東で谷津・谷戸、東北では谷地と呼ばれるものも同じような成因です。普通の平野と比べると狭長ですが、水が豊富に得られるので、水田化されます。迫田です。もともと狭長なところをなるべく広く耕地化したいので、河川や灌漑用水路は付け替えられて脇へ追いやられます。そのとき、台地凸部をショートカットするために隧道((ぬっ))が至るところで掘られました。非溶結ですから、シラスは人力でも比較的容易に掘削できたのです。貫には所々明かり取りの孔が崖面から掘られていました。「アカシ」と呼ばれています。換気や補修用の通路として使われました。もちろん、水路を浚った浚渫土砂もここから排出しました。なお、自然の川を横断する際にはサイフォンの仕組みを利用したところもあります。
注: 写真の中鶴橋は霧島ジオパークの新しいジオサイト候補地に挙がっています。自然に出来たものではなく、恐らく元々貫だったと思われます。なぜなら、上述のようにシラスの浸食は上方から始まり、深く狭いガリが形成されることが多く、下方浸食によるへこみ・ノッチnotchもありますが、トンネルを穿つまでに至ることはあまりありません。その前に崩落してしまうからです。
鹿屋市笠野原周辺低地の古村と門(桐野,1988)
 このようにして台地下の湧水を巧みに利用して水田耕作が行われていましたが、当然、水の得やすいところから開発されましたので、古村はシラス台地が浸食された谷状凹地(桐野の舌状地)に立地しています。ここで薩摩藩の農地種目について見てみましょう。大きく次表のようにまとめられます。
古田(かど) 地百姓に門の組織を作らせ強制耕作させた藩財政の基盤
(うき) (めん)士族給養のための自作自収地で租米を納める熟地
新田(かけ) 地士族の自費仕明した私有地で租米を納める
永作地士民の自作仕明した租納義務のある永代作職の蔵入地
溝下地不毛地を士民が自費仕明したもの。長期無税の後、見掛にする不熟地
 (かど)は藩財政の基幹となるものですから、追加説明をします。薩摩藩は門割(かどわり)制度という独特の農村組織を持っていました。門は数名の農民からなり、各門の長を名頭(みょうず)といい、他を名子(なご)といいました。いずれも藩が任命しています。藩は各門に20~40石(02~4町)の土地を割り当て、名頭が名子を指揮して耕作させ、連帯責任で所定の年貢を納めさせました。農地は場所によって地味が違います。そこで定期的にクジによって土地を割り替えていたそうです。
 島津藩は秀吉によって3州に閉じ込められるまでは、一時九州一円まで勢力下に置きましたので、武士の数は大変多かったのです。関ヶ原で敗北して外様大名になりましたから、いつ徳川に攻められるかわかりません。それで武士をリストラすることなく抱え込んだからでしょうか、武士の比率は他藩に比して圧倒的に高かったのです。明治維新時に士族戸数43,119戸があったと言われています。郷士という屯田制度も取っていましたが、それでも多額の費用がかかりました。そのため、一般の藩における年貢は6公4民と言われていますが、薩摩藩では8公2民と大変過酷だったそうです。なお、俗に「薩摩77万石」と言われていますが、実勢は約35万石ほどだったそうです。
 この門地は藩の財政基盤をなす重要なところですから、当然のことながら肥沃な平野やシラス低地に位置しています。笠野原の図でいえば、古村と呼ばれる水の一番得やすい熟地です。上の表でいうと、上から下の種目に向かって順に不熟地になり、それは土砂災害や水害など自然災害に対して危険なところになります。災害には階級性があるのです。

 2人の甘藷翁

日本甘藷栽培初地之碑(種子島)甘藷翁頌徳碑(徳光神社)前田利右衛門墓(岡児ヶ水)甘藷先生墓(目黒不動)甘藷試作跡(東大植物園)
 「甘藷翁」というと、鹿児島の人は前田利右衛門を想いますし、関東の人は青木昆陽を想います。甘藷が本邦に伝来した経緯や全国的普及については、それぞれ諸説あるようですが、一例を述べておきます。薩摩では「カライモ」と呼ばれ、全国的には「サツマイモ」と呼ばれている理由に関わる話です。
 琉球王尚寧の命により野国という総管が甘藷を明から持ち帰ったのが1605年(明万歴33年)、琉球王尚貞が種子島領主久基に贈ったのが1698年(元禄11年)で、これが薩摩藩に甘藷が伝わった最初だそうですが、藩内に広く普及したのは、頴娃(えい)郡大山村(現指宿市山川町)の漁師利右衛門が琉球から持ち帰った1705年(宝永2年)以降のことだそうです。シラス台地に適していたため、瞬く間に広がりました。出身地の山川町岡児ヶ水(おかちょがみず)に墓があり、徳光神社に頌徳碑があります。甘藷翁(からいもおんじょ)と発音します。
 一方、青木昆陽は、8代将軍徳川吉宗に甘藷栽培を命じられ、小石川薬園(現東大小石川植物園)と下総国千葉郡馬加村(現千葉市花見川区幕張)および上総国山辺郡不動堂村(現千葉県山武郡九十九里町)で試験栽培をしました。また、1735年(享保20年)には『蕃薯考』を著しています。その結果、関東地方に広く普及、天明の大飢饉では、多くの生命を救ったとされています。墓は目黒区の瀧泉寺(目黒不動)にあります。なお、幕張には昆陽神社が、九十九里には「関東地方甘藷栽培発祥の地」の碑があります。
謝辞:日本甘藷栽培初地之碑の写真は鮫島(2011)より引用させていただきました。記して謝意を表します。

 余談:しらすの日

 ウナギやカタクチイワシ・アユなどの稚魚を「しらす(白子)」と呼びます。これに因んで「しらすの日」がいくつか設けられています。

§ 10月4日:ちりめん・しらすの日

 鹿児島県機船船曳網漁業者協議会(ちりめん・しらす生産者の協議会)が10月4日を「いわし」と語呂合わせで読み、「ちりめん・しらすの日」と制定しました。

§ 5月4日:しらすの日

 愛媛県佐田岬の水産会社朝日共販株式会社が制定したものです。5月がしらす漁の最盛期なのと、4日がしらすの「し」と語呂合わせしたのだとか。

§ 4月30日:湘南しらすの日

 4()月30(ラスト)日ともじったのだとか。ちょっと苦しい気もします。湘南しらす協議会が制定。

文献:

  1. 五代秀尭・橋口兼柄 共編(1843) (山本盛秀, 1905), 三国名勝図会
  2. 原口 泉・永山修一・日隈正守・松尾千歳・皆村武一(2011), 鹿児島県の歴史. 山川出版社, 322pp.
  3. 原口虎雄(1980), 鹿児島県の歴史 2版. 山川出版社, 269pp.
  4. 橋村健一(1997), シラス文化―発想の驚異. 高城書房, 230pp.
  5. 岩松 暉・ 福重安雄・郡山 榮(1989),シラスの応用地質学的諸問題. 地学雑誌,Vol.98, No.4, 379-400.
  6. 岩松 暉・原口 泉(1994), しらす文化と自然災害史. 第29回土質工学研究発表会(1994年)特別セッション講演集, p.21-26.
  7. 岩松 暉・北村良介・原口 泉・矢ヶ部秀美(1995), 鹿児島県の風土. 1993年鹿児島豪雨災害―繰り返される災害―. 土質工学会1993年鹿児島豪雨災害調査委員会編, (社)土質工学会, p.9-26.
  8. 桐野利彦(1988), 鹿児島県の歴史地理学的研究. 徳田屋書店, 518pp.
  9. 古在豊樹・久保田智惠利・北宅善昭(1979), サツマイモ技術と21世紀の食糧, エネルギー・資源および環境問題. 農業気象, Vol.34, No.2, p.105-114.
  10. 南日本新聞社編(2002), 再発見、からいもの魅力. 南方新社, 296pp.
  11. 農商務省農務局 編(1922), 小作参考資料 : 舊鹿児島藩門割制度他. 帝国農会, 325pp.
  12. さつまいも伝来300年祭実行委員会(2006), 2005甘藷翁前田利右衛門のさつまいも伝来300年祭記念誌, さつまいも伝来300年祭実行委員会, 35pp.
  13. 鮫島安豊(2011), 写真で見る種子島の歴史. たましだ舎, 80pp.
  14. 山田尚二(1994), さつまいも : 伝来と文化. かごしま文庫(春苑堂出版), 228pp.
  15. 横山勝三(2003), シラス学―九州南部の巨大火砕流堆積物. 古今書院, 177pp.
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  17. (),
参考サイト:

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初出日:2016/04/21
更新日:2019/01/09