火砕流台地と畑地潅漑事業

 鹿児島は火山国です。新旧いろいろな時代の火砕流堆積物に覆われ、火砕流台地が各地に形成されています。とくに約3万年前の入戸火砕流の分布は広く、県本土の約6割を覆っています。こうした火砕流台地は、水に乏しく、古くから農民達は水を得るのに苦労してきました。稲作は夢のまた夢、カライモ(甘藷)くらいしか作れなかったのです。第二次大戦の敗戦により海外領土を失って、狭い4つの島で多くの人口を養うのは喫緊の課題でした。そこで、国営畑地潅漑事業が各地で展開され、当時の農林省にいた地質官らが活躍しました。水文地質学が花開いたのです。小貫義男(後に東北大学教授)・山本壮毅(後に東教大教授)・蔵田延男(後に地質調査所応用地質部長)らの人材を輩出しました。この国営畑地潅漑事業の第1号に笠野原台地が選ばれました。

 笠野原台地と高隈ダム

火砕流台地と地下水(岩松ほか,1989)笠野原台地の水理地質断面図(久保田ほか,2005)
串良町の土持堀大隅湖の現在(桜とアジサイの名所)
 火砕流台地と水との関係については、いろいろのタイプがあります(岩松ほか,1989)。ここでは鹿児島で一番広い鹿屋市の笠野原台地を見てみましょう。シラスの単一層型に当たります。入戸火砕流の噴出源は姶良カルデラ(鹿児島湾奥部)ですから、シラスは北西部で厚く、南東へ行くほど薄くなります。川に近いところでは、毎日台地の崖を下りて川まで水汲みに出かけました。山坂達者の精神はこんなところで生まれたのでしょう。遠いところでは深井戸を掘るしか手がありません。右の写真は今も残る県指定史跡土持堀(つっもっぼい)です。深さ64m、径90cmあります。文政年間~天保年間(1818-1841)に掘られたと言われています。いくらシラスが軟らかいとはいえ、こんな狭くて深い穴をどのようにして掘ったのでしょうか。このくらい深いと人力では汲めないので、牛馬を使って釣瓶を引きました。当然、この井戸の前には100m近い直線の牛馬道があります。深さ30m程度だと、数人の人力で引いたそうです。
 そこで、串良川に高隈ダムを建設することになりました。昭和30年(1955)のことです。水没地の世帯数が204戸と多かったこと、地元負担金に対する不安などがあって、大規模な反対運動が起こり、地域を2分する争いになりましたが、昭和42年(1967)完成(大隅湖:総貯水量1,393万m3)、4,807haの畑が潤いました。今では穀倉地帯になっています。

 南薩台地と畑地潅漑事業


南薩畑潅事業全図(九州農政局ウェブサイトによる)
大野岳から望む南薩台地
南薩のシンボル開聞岳(植生垂直分布に注意)
 島津77万石は加賀100万石に次ぐ大大名でしたが、火砕流台地のような痩せ地が多く、実高37万石と言われています。とくに南薩台地は阿多溶結凝灰岩の上に水を通しやすいシラスが載り、さらに開聞岳の噴出物であるコラが載っています。コラ層は鍬が歯が立たないほど硬く、逆に水を通しにくいので、農地としては最低のところでした。そこで安政4年(1852)、幕末の名君と言われた斉彬公の時代に、池田湖の水を疎水する計画が立案されます。明治維新後、士族救済の事業として明治5年(1872)から5年の歳月をかけ、池田湖の開削と疏水工事が続行され、37.9haの開拓地が造成されました。それに伴い、当初約70mだった池田湖の水位が3mほど下がって、66~67mの水位となりました。その後も大正末期~昭和初期の全国的干ばつに伴い、水位は低下し続けました。
 戦後、昭和45年(1970)から15年かけて、国内2番目の規模を誇る大規模な畑地潅漑事業が行われました。総受益面積6,072haと言われています。池田湖は九州一の大きな湖ですが、集水面積が小さいのと、火山地帯で漏水が多いため、それほど多量の取水は期待できません。そこで、馬瀬川、高取川、集川の余剰水や洪水時の水を池田湖に導水して、いわば池田湖を巨大な調整池として利用するという案が考えられたのです。現在では、お茶・エンドウ・そら豆・菜種・スイカなど、各種野菜の名産地となっています。

文献:

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参考サイト


更新日:2015/8/14