人的被害建物被害インフラ被害農業被害
記念碑は上記にまとめてあります
2021/04/27 垂水護国神社で発見!

 史料にみる桜島大正噴火(2)

 人的被害

市町村名死者負傷者行方不明
鹿児島市1396-
鹿児島郡159-
東桜島村1-23
西桜島村11-
谷 山 村16-
牛 根 村4--
櫻島大正噴火誌(1927)
市町村名死者負傷者
鹿児島市1396
鹿児島郡159
東桜島村240
西桜島村11
谷 山 村16
   
桜島地震(今村,1920)
市町村名死者負傷者行方不明
鹿児島市1396-
鹿児島郡159-
東桜島村1-23
西桜島村114
谷 山 村16-
牛 根 村4-1
3月末現在(鉄道管理局,1914)
町村人数町村人数町村人数町村人数
鹿兒島市14西國分村-東櫻島村32垂水村2
谷山村6清水村-西櫻島村5百引村-
伊敷村1福山村-  高隈村-
西武田村1   牛根村2
中郡宇村2   市成村-
喜入村-   野方村-
東市來村1   恒吉村-
伊作村1   西志布志村-
日置村2   上屋久村1
下伊集院村1     
上伊集院村1     
死者行衛不明者に対する御下賜金(櫻島大正噴火誌,1927)
 人的被害については、さまざまな機関から統計が発表されていますが、それぞれ多少異同があります。もちろん発表時期にもよります。鹿児島県の公式見解である『櫻島大正噴火誌』では、噴火と地震合わせて58名となっており、これが現在でも引き継がれている数字です。これに牛根村死者4名となっていますが、3月6日、避難先の牛根村海潟で洪水の犠牲となった東桜島村黒神の学童3名大人1名を指します。このように犠牲者を出身地にカウントするか犠牲地にカウントするかの違いもあったようです。あるいはダブルカウントがあったかも知れません。鹿児島市が建立した照国神社前の石碑には、「天神ヶ瀬戸ノ崩壊ノ如キ一時二十名ヲ斃シ其數六十二名ニ及ベリ」とあり、天神ヶ瀬戸の犠牲者数は、その1で述べたように、地元西武田村誌の10名の倍になっています。この石碑の原案執筆者は今村明恒ですが、犠牲者総数も自分の論文「九州地震帯」よりも4名多くなっています。なお、行方不明者は、逃げ遅れて沖合の沖子島(おこがしま)に泳いで渡ろうとしたり(13名)、瀬戸海峡を泳ぎ渡ろうとしたり(9名)して溺死した人たちや、避難途中行き倒れになった人たちです。
 皇室からも御下賜金がありました。『櫻島大正噴火誌』には、3月と6月の御下賜金配分額が列挙されています。死者行衛不明者に対して下賜された分を抜き出すと、右表のようになります。同じ報告書なのに、前述の58名という公式見解と整合性がありません。1列目の鹿兒島市および鹿兒島郡・日置郡は恐らく地震の被害によるものでしょう。2列目の姶良郡は人的被害はありませんでしたが、「倒壊・埋没・亡失」とありますので、地盤沈下や液状化に伴う被災に対して下賜されたのでしょう。3列目の櫻島はもちろん火山噴火です。4列目の肝属郡および曾唹郡は土石流や洪水の二次災害です。屋久島は純粋の風水害で、桜島噴火とは無関係ですから、これを除いて他をすべて桜島噴火・地震による犠牲者だとすると、合計71名ということになります。
 その1で述べたように二次災害は10年近く続きましたから、どこまでを桜島大正噴火関連災害の犠牲者と見なすか、統一見解はないようです。噴火終息直後に発行された郡役所の記録に比べ、県の報告書『櫻島大正噴火誌』は13年後に刊行されましたから、より長期間の記録が記載されていそうですが、鹿児島側に住んでいる県庁職員の意識を反映してか、大隅半島の被災状況はかなり等閑視されています。
東京電話
 ○ 勅使
櫻島慘狀に關し、天皇陛下には痛く御軫念(しんねん)遊ばされ狀况視察のため十三日左の如く侍從御差遣の御沙汰ありたり
        侍從日野根要吉郎
 鹿兒島縣下へ差遣はさる
右に付同侍從は十五日午前八時三十分新橋發列車にて宮内属齋藤久次氏を隨へ同地に急行の筈なり
            (十四日)
日野根侍従・大森東京帝大教授・谷口県知事のスケッチ(山下兼秀画伯のサインあり)(東,1914による)
 そこで『櫻島爆發肝属郡被害始末誌』で補ってみたいと思います。ただし、発行された1915年までのデータです。なお、曾唹郡役所の『櫻嶌爆發誌』によると、曾唹郡では人的被害はなかったようです。
 今回の大災害に対して、肝属郡には皇室から御救恤金の御下賜が6月・9月・11月の3回ありました(人的被害以外は省略)。これによると、大隅半島では上記以外にも犠牲者があったようです。
(イ)櫻島爆發被害に關するもの(6月交付)
(一)死者及行衛不明者 二十二人 此金四拾八圓(世帶主一人金貳拾五圓・非世帶主一人金貳拾圓)
 内
  牛根村 二人(非世帶主二人)
  垂水村 三人(世帶主一人、非世帶主二人)
  新城村 四人(世帶主二人、非世帶主二人)
  鹿屋町 三人(非世帶主三人)
  田代町 一人(世帶主一人)
  佐多町 五人(世帶主三人、非世帶主二人)
  大根占町 四人(世帶主二人、非世帶主二人)
(ロ)暴風雨被害に關するもの(9月交付:6月暴風雨、11月交付:8月暴風雨)
(一)東櫻島村死亡者行衛不明者にして非世帶主たるものゝ分(一人當二〇圓)
  佐多村 二人
  大根占村 二人
  新城村 二人
  鹿屋町 三人
  垂水村 一人
(二)郡内の死亡者、行衛不明者にして非世帶主たる者の分(一人當金額二〇圓)
  垂水村 一人
  牛根村 二人
(三)東櫻島村死亡者行衛不明者にして世帶主たるものゝ分(一人當金額二五圓)
  田代村 一人
  佐多村 三人
  大根占村 二人
  新城村 二人
(四)郡内の死亡者行衛不明者にして世帶主たる者の分(一人當金額二五圓)
  垂水村 一人
(八)大正三年六月三日暴風雨被害に於ける倒潰住家死亡者等の分(一戸當金額四圓)
  高山村 死亡 一戸
(九)大正三年八月下旬暴風雨被害のもの
  死亡者なし
 (イ)(一)の櫻島爆發被害に關するものは、明らかに桜島の爆発被害に対して下賜されたものですが、遺族の移住先で交付されたので、肝属郡の住所になっています。当然、県の統計に含まれています。(ロ)のうち、東櫻島村死亡者行衛不明者にして云々の計18名は、桜島から移住してきて、移住先で暴風雨の犠牲になった気の毒な人たちなのでしょうか(桜島爆発の犠牲者に再度下賜したのだったら22人と18人で数字が合いません)。郡内の死亡者行衛不明者にして云々の分がもともと肝属郡に住んでいた人たちです。6月の暴風雨で少なくとも5人犠牲になったようです(高山町は正確には人数は分かりません)。この郡の記載には漏れていますが、『垂水村郷土誌』(1915)には、2月15日水害で行衛不明者1人、3月6日水害で溺死者1人を出しています。この2冊の史料だけで、大正噴火誌に記載されている公式統計以外に、二次災害で少なくとも25人の方が亡くなられています<注>。これも桜島大正噴火の犠牲者に含められるべきでしょう。なぜなら、これら暴風雨や水害は、単なる風害や洪水災害ではなく、桜島噴火の二次災害としての土石流・洪水によるものと思われるからです。垂水村郷土誌には、次のように述べられています。
「更に恐るべきは降雨にして一度急雨沛然として至らんかセメント質を帶ひて凝結せる灰砂に覆はれたる土地は吸収力なく停滯力なく降るに從ひ低きを求めて滔々流下し山林よりは巨大なる根扱きの樹木及巨巌大石を押流せし慘状普通の洪水と比すべくもあらず」
<注> 暴風雨の被害者25人のうちに占める桜島移住者の比率が多すぎます。もともと古くからの住民は適者として比較的安全な場所に住んでいたのに対し、移住者は今まで人が住んでいなかった未開地、つまり災害に対してリスクの大きな場所に住まざるを得なかったからではないのでしょうか。あくまでも推測ですが。
 以上見てきたように、統計にはかなりばらつきがありますが、現在も引き継いでいる(『桜島大正噴火100周年記念誌』)、鹿児島県の公式見解58名という数字よりも、かなりたくさんの方々が犠牲になったようです。それにしても20世紀最大の火山噴火だった割りに犠牲者が少ないように思われます。それは地震など前兆現象に驚いて自主避難した人が多かったためですが、直接の火山災害の犠牲者はどのくらいだったのでしょうか。西桜島村赤水で火風のため焼死したとの記録があります。恐らく火砕流に巻き込まれたのでしょう。どうも直接の火山噴火現象による犠牲者は数人以下だっただろうと言われています。

 建物被害

郡市名住家学校等
全潰半潰埋没一部破損全潰半潰一部破損
桜島2,029-501,17116-2
鹿児島郡2131----1
鹿児島市29117-9,405--38
姶良郡32-----
曽於郡9--1,878---
肝属郡276-9151-4
家屋被害(:溶岩に伴う,:焼失,:倒壊,:無被害)
1,50768716941235-151-5
住家全半倒燒失軒数(『櫻島大正噴火誌』)
 家屋の被害も甚大でした。『大正噴火誌』のデータを掲載します。郡別と町村別の表があり、矛盾するところもありますが、細かなことは問わないことにします。郡別のものは住家と学校等を抜き出して右表に示します。町村別のデータは地図に落としてみました。従来、桜島大正噴火で島内が、桜島地震で市街地が被災したと言われてきましたが、被害程度は軽くとも、結構、広範囲に被害が出ているのに気づきます。蒲生村(現姶良市蒲生町:ただし半倒1軒のみ)から喜入村(現鹿児島市:1軒御下賜金交付)までの南北ラインは恐らく地震による被害です。喜入町生見(ぬくみ)には「護岸記念碑」があり、明治時代の塩田跡地が被災したとありますから、液状化があったのかも知れません。鹿児島湾奥部沿岸部は主に埋立地の液状化被害でしょう。堤防復舊記念碑などが点在しています。大隅半島は、主として二次災害としての土石流・洪水によるものと思われます。牛根村(現垂水市牛根)は土石流の他に、積もった降下火砕物の重量による倒壊もあったようです。垂水村郷土誌には、牛根村松ヶ崎尋常小學校は12日午後「屋上に堆積した降石灰のため」倒壊したとあります。
 桜島島内では、溶岩による埋没、火砕流による焼失、降下火砕物の重みによる倒壊などが発生しましました。桜島島内の原因別建物被害を集落ごとに地図に示します。東桜島村(1925)・西桜島村(1964)をコンパイルしたものですが、一部非住家なども含まれやや不正確です。棒グラフの全長が集落総戸数で、青が無被害です。クリックすると集落名と総戸数が表示されます。なお、東桜島村の役場は有村に、西桜島村の役場は福山にありました。また、当時の有村は一大温泉街でした。

 インフラ被害

 鉄道
鐡道院總裁の内閣總理大臣宛報告
 九州鐵道管理局は、「鐵道被害の大部分は十二日午後六時二十九分の烈震に因るものとす」としています。線路の被害は、姶良カルデラ壁の麓を通る鹿児島本線の重富~鹿児島間とシラス台地浸食谷を通る川内線の武(現鹿児島中央駅)~伊集院間に集中しており、「山上の岩石墜落したるに因りて釀したる損害なり」と述べています。当時はSL車でしたから、給水井戸の変状も致命的でした。「水底地盤突起し、ポンプ鐡管に多量の砂を吸入したる爲に故障を生じ」とあります。周辺地盤の地盤沈下と液状化が起こったのでしょう。その他、「軌條折レ、電線斷エ、輸送杜絶シ通信全ク閉塞セリ」という状況だったようです。また、火山灰の侵入による可動性低下・部品の摩耗・牽引負荷の増大などが車輌運行に少なからず影響を与えたようです。また、「降灰雨に混じて碍子に積り、漏電多量重富嘉例川間最甚しかりき」の状況があり、送電網にも支障が出たようです。なお、郊外電車(現市電谷山線)も停電のため、5日間運休しました。
 道路・橋梁
交通被害(青線:鉄道不通,緑線:郊外電車不通,赤線:道路不通,×:橋梁被害)
 道路網も被害を受けました。鹿児島市街地側は地震による被害です。橋梁も被災しています。大隅半島側では、主として大量降灰による道路閉塞や、その後の土石流・洪水による破壊が相次ぎました。なお、佐多街道の戸柱鼻(現桜島口)は、溶岩流による閉塞が原因です。上図に主要道路の閉塞状況を図示します。旧道の確認など時代考証していませんので、トレースもラフにしました。参考程度と考えてください。被災橋梁は『大正噴火誌』『肝付郡始末誌』に記載されているものですが、恐らくごく一部でしょう。不通区間は当然のことながら軽石が厚く積もった地域の道路です。志布志など比較的遠方で、主として火山灰が積もった地域でも不通になったところがあります。細かい火山灰が排水を妨げ、泥状化したことが原因のようです。「降灰の量厚ければ厚き丈土地の吸収力減少せる爲一旦降雨に遭遇せば忽泥化し爲めに日光を蔽ひたる並木筋の乾燥惡しき縣道筋は泥濘甚しく且乾燥惡しき爲め復活も又平時より困難なるを認めたり」と述べられています。また、その後に続いた水害も被害を拡大したそうです。
<蛇足> 1993年、いわゆる8・6水害により、国道3号・10号および九州自動車道が不通となり、鹿児島市は陸の孤島と化したことがありましたが、大正当時も一時的に陸の孤島となったのです。
 電力・通信
臨時郵便局(山下兼秀絵巻,1914)
(鹿児島市立美術館図録)
 市内に電気を供給していた鹿兒島電氣株式會社の発電所で地震によって「本線と架空接地バブド線と混觸し爲に過大電流發生し、自動遮斷器を働作せしめたるによりて、電燈全部滅失するに至れり、翌十三日之か修理を了へ、十四日より一般に點火支障なき程度に至りしも當時市民の殆ど全部避難し居りたるにより空家に點火することは、保安上危險なりしとて其筋よりの注意に從ひ官公署及諸會社を除く外は送電を見合せ」という状況で、一般に停電が回復したのは18日夜になってからでした。いわゆる通電火災を心配したのかも知れません。
 鹿兒島郵便局舎は地震により危険になったため、県庁構内に移転、テントを張って臨時事務を行いました。上述のように鉄道・道路だけでなく船便も休航になったため、郵便業務は数日間混乱しました。電話局も危険建物になったので、電話交換業務も9日間にわたり混乱しました。
 食料・飲料水
 水道は鹿児島市街地の一部には普及していましたが、郊外や郡部では井戸に頼っていました。水道水源地は「震動の結果一時湧出水に變化を來し其地盤強固(市中の地質とは非常なる差異あり)にして構造完全なるが爲め比較的早く舊に復したるものと見做すを得べく」とあり、導水管の破損も部分的だったようです。1月23日には正常に復しています。
 食料も自給自足に近い生活をしている世帯が大部分だったと思われますので、物流が途絶えたことによる混乱はあまりなかったようです。

 農業被害

降下物の厚さ被害の割合
8寸以上9割
5寸~8寸7割
3寸~5寸5割
2寸~3寸3割
1寸~2寸1割5分
5分~1寸5分
2分~5分2分
百引村麥畑ノ積灰(大正噴火誌,1927)西串良村の湛水した田畑(肝付郡役所,1914)
~1,000町1,000~2,000町2,000~3,000町3,000~4,000町4,000町~
農地被害高(『櫻島大正噴火誌』(1927)による)
 鹿児島県は現在も農業県ですが、当時は農業が基幹産業でした。水稲・麦・甘藷・菜種・蔬菜・茶・果樹(枇杷・柑橘)・煙草などの他、養蚕も盛んでした。溶岩に埋まったところは当然全滅でしたし、土石流や洪水の二次災害で被災したところも全滅でした。一方、軽石・火山灰など降下火砕物で覆われた農地では、覆った火砕物の厚さや、植え付け作物が根菜類か葉菜類か、春蒔きか秋蒔きかで、影響はさまざまでした。
 『櫻島大正噴火誌』(1927)には、土地被害面積や被害金額が田地・畑地・宅地と分けて町村別にまとめられています。右図は田地と畑地の合計を面積で示したものです。もとの面積が分からないと被害程度は分かりません。4,000町歩以上の被害があったところは溝邊村・鹿屋町・末吉村・西串良村です。その1で述べた降下火砕物の分布とは必ずしも一致しません。元々広大な農地のあった町村なのでしょう。この図で注目すべきことは、今ではすっかり忘れ去られている姶良郡(国分・加治木方面)の被害です。金井(1920)の図でも同方面には火山灰がかなり降っています。霧島市・姶良市方面の方々にとって、桜島噴火は他人ごとではないのです。一方、このように町村別にまとめてしまうと、元々の農地の広さのほうが前面に出てしまいますが、曾於郡役所(1916)の『櫻嶌爆發誌』によれば、降下物の厚さと土地被害の程度には一般に上右表のような関係があったそうです。ただし、曽於郡は降灰の分布主軸から離れた縁辺部に当たっていることに留意が必要です。
 『櫻嶌爆發誌』には、作物に関しては次のように述べられています。
 「蕓薹(あぶらな)ハ大崎末吉財部ノ三村ヲ除クノ外ハ殆ント皆無ニ歸シ水陸稻粟大豆小豆ノ如キハ降砂灰ノ除去ヲ行ヒ耕作上注意ヲ拂ヒタルモ一般ニ收穫充分ナラズ甘藷ハ降砂灰ニ對スル關係少ナク却テ收穫多量ニシテ大根葱ノ如キ根菜類モ何レノ種類ヲ問ハス生育良好ナリキ」
 『櫻嶌爆發誌』は別項でも取り上げたように土層の詳細な記載がありますし、農業と蚕業を別編として取り上げているところを見ると、どうも統計担当部署が書いたものではなく、農業担当部署が書いたようですので、以下、この『櫻嶌爆發誌』に従って代表的な作物の状況を見てみましょう。
 水稲
 普通ノ時期ニ植付且ツ灌水充分ニシテ肥料ノ施用量平年ニ異ナラザルモノハ其成育却テ良好ナリ、之レ爆發當年ニ於ケル天候ト害蟲ノ發生少ナキハ至大ノ關係アリシナリ
 麥
 噴火當時作付シアリシ麥ハ二、三村ヲ除クノ外全滅ノ慘害ヲ被リ種子モ他郡ヨリ購入スルノ止ムヲ得サルニ至レリ、然ルニ翌年即チ大正三年ノ作付ニ係ル麥ハ近年稀ナル良生育ヲ見タリ
 大豆及小豆
 荳科植物ハ酸類ニ對スル抵抗力最モ弱キヲ以テ大ニ憂慮シ大正三年ニ於テハ迚モ之レガ栽培ハ見込ナキモノゝ如ク考ヘラレシヲ…(中略)…爆發當時降下セル灰砂中ニ含有セル酸ハ降雨ノ爲メ其大分ハ地下深ク滲透セシ結果發芽ニハ別ニ甚シキ被害アルヲ認メス…(中略)…開花中ニ於ケル降灰ハ結實ニ至大ノ關係アリシヲ以テ本年ハ草丈ニ比シ著シク收穫ヲ減セシノミナラズ品質劣等ナリキ
 甘藷
 甘藷ハ他作物ト其趣ヲ異ニシ降灰砂ニ對スル關係至テ少ク七、八寸以上ノ降灰地ニシテ之レガ除去ヲ爲スコト無ク直接栽培セルモノニシテ普通畑地ニ於ケル平年作ノモノヨリ塊形大キク且ツ收量多カリシ實例アリ…(中略)…降下物四寸内外ノ所ニシテ耕地ト混和シタル土地ニ栽培セルモノハ郡内各町村共收穫著シク增加シタルヲ以テ見レバ櫻島爆發ニヨル降下物ハ甘藷作ニ對シテハ有益ニシテ無害ナリシト云フヲ得ベシ
 大根
 大根ハ爆發當時ニアリテハ殆ンド全部收穫後ナリシモ…(中略)…其儘圃地ニ放置セルモノハ地上露出部ヨリ漸次黑褐色ニ腐敗セリ然レ𪜈(合略仮名)翌三年ノ秋播種セルモノハ(降下物ヲ除去セル土地)其生育至テ良好ニシテ非常ノ豐作ヲ見タリ大根ノ外人參牛蒡里芋等ノ如キ根菜類ハ其ノ何レノ種類トヲ問ハス生育良好ナリキ
 茶
 新芽發生後ハ著シキ害ヲ被リ恰モ火ニ焦レタル如ク芯芽ハ黑褐色ニ變シ乾燥スルニ至レバ甚ダ脆ク更ニ再發芽伸長スト雖モ一度降灰ニ逢ヘバ直ニ前述ノ被害ヲ繰リ返セリ…(中略)…其後ニ於テハ降下物ノ深淺ハ別ニ茶樹ニ何等關係ナシ
 果樹類
 其種類ノ異ナルニ從ヒ降灰砂ニ強弱ノ別アリ即チ次ノ如シ
  最モ弱キモノ…梅、桃、柿
  稍々強キモノ…各種ノ柑橘類(温州ネープル夏橙等ハ比較的弱シ)
  最モ強キモノ…梨
 養蚕
 当時、養蚕業は農業の中では特別な比重を持っていましたから、『櫻嶌爆發誌』の中では、別編を設けて詳述しています。降灰の影響は、食用となる桑葉に対する影響と、蚕に与える生理的影響に分けられます。ただし、噴火は1月でしたから桑樹は休眠中でしたので、「何等障害ヲ蒙ムリタルコトナク…(中略)…無事ニ發芽伸長シタルハ仕合ナリキ」という状態でした。発芽後は、「本年ハ種類ノ何タルヲ問ハス黄色ヲ帶ヒ發芽セリ而モ其桑葉ヲ蠶兒ニ給スルとき(合略仮名)ハ好ンテ食セス只桑葉中ノ養分ヲ吸收スルガ如キ狀態ナリ」だったそうです。県当局は桜島の噴火が継続することを心配し、農事試験場などで、さまざまな条件で試験飼育をしたようですが、噴煙活動は1914年11月頃には止んだため、「本年ノ養蠶ハ別條ナク豐作」で終わったそうです。
 煙草
 鹿児島は江戸時代から煙草の名産地です。專賣局鹿兒島試験場(1921)によれば、「煙草の被害ハ降灰石量ト殆ド比例スルコトナク、比較的少量ナリシ姶良郡横川地方(降灰石量二分)ノ如キモ、尚四割ノ被害あり。其ノ他ハ全滅或ハ之ニ近キモノ大部分ヲ占ム」ような状況だったそうです。灰のこびりついた葉を河川水で洗浄しても強酸性のため傷害が甚だしかったようです。
 林業
牛根村杉林の被害(大正噴火誌)
 軽石・火山灰の厚く積もった肝属郡・曽於郡方面では林業も多大な被害を受けました。『櫻島爆發肝属郡被害始末誌』は次のように述べています。
 「森林の樹木は被覆せられ、林内の萱草等は、其灰石の下に埋まり、天然林の鬱蒼たる樹木は、其葉に降灰附着して、全山灰色を呈し。(ママ)漸次黃色と變して、遂には全葉悉く脱落したるのみならず、其の甚しき所のものは、降石の爲めに、幹枝を折られ、樹皮を損傷せられ、以て枯死の悲境に陥るにはあらざるかの觀を呈したり。」
 とくに人工林で被害が著しかったようです。
 水産業
 瀬戸海峡が溶岩で埋め立てられ、桜島は大隅半島と接続しましたから、海底地形も変わり、潮流も変化しました。海面を漂っていた軽石もやがて海底に沈殿し、底質も変わりました。当然、水産業にも影響があったものと思われますが、そう単純ではなく、『大正噴火誌』には次のように書かれています。
 「或種の漁業に於ては例年に比較し變化を認めず却て好況を呈せるあり、或種の漁業に至ては損害甚しく又漁獲の減少せるありて一様ならず」「其他一般に潮流の主要流域となれる灣内西岸に豐漁を傳へ其反對に東岸の漁場は槪して不漁を喞つの聲多き傾向にありき。」

文献:
  1. Biass, S., Todde, A., Cioni, R., Pistolesi, M., Geshi, N. & Bonadonna, C.(2017), Potential impacts of tephra fallout from a large-scale explosive eruption at Sakurajima volcano, Japan. Bull. Volcanol., Vol.79, No.10, p.1-24.
  2. 東 弧竹(1914), 大正三年櫻島大噴火記. 若松書店, 252pp. + 山下畫伯記念スケッチ拾貳葉
  3. 今村明恒(1920), 九州地震帯. 震災豫防調査會報告, No.92, p.1-94.
  4. 岩松 暉・橋村健一(2014), 桜島大噴火記念碑―先人が伝えたかったこと―, 徳田屋書店, 291pp.
  5. 岩松 暉(2013), 石碑にみる桜島大正噴火の災害伝承. WESTERN JAPAN NDICニュース, No.49, p.15-24.
  6. 岩松 暉(2019), 史料にみる桜島大正噴火. 自然災害科学, Vol.38, No.3, p.289-306.
  7. 鹿兒島郡東櫻島村役場(1925), 大正三年櫻島爆發遭難録. 鹿兒島郡東櫻島村役場, 21pp.
  8. 鹿兒島縣編(1927), 櫻島大正噴火誌. 鹿兒島縣, 466pp.
  9. 鹿兒島縣肝属郡役所(1915), 櫻島爆發肝属郡被害始末誌. 鹿兒島縣肝属郡役所, 524pp.
  10. 鹿兒島縣立圖書館(1925), 櫻島噴火記(大正14年版) 附 噴火年表並近國噴火 噴火記念室及噴火に關する圖書. 鹿兒島縣立圖書館, 22pp.
  11. 鹿兒島縣囎唹郡役所(1916), 櫻嶌爆發誌. 鹿兒島縣囎唹郡役所, 164pp.
  12. 鹿兒島市役所編纂(1924), 鹿兒島市史. 鹿兒島市役所, p.291-323.
  13. 鹿兒島新聞記者十餘名共纂(1914), 大正三年櫻島大爆震記. 櫻島大爆震記編纂事務所, 340pp. + 16pp. + 4pp.
  14. 鹿兒島測候所(1916). 大正三年櫻島大噴火記事・第一編・第二編. 附録 大正三年櫻島山大噴火實寫圖(松田和集), 鹿兒島測候所, 28pp. + 26pp. + 13pp.
  15. 金井眞澄(1920), 大正參年度に於ける櫻島火山の噴火状況並に噴出物及作物栽培に關する調査試驗報文. 鹿兒島高等農林学校「櫻島火山の大正三年に於ける噴火状況並噴出物に關する調査報文」, 付図.
  16. 川畑龍雄(1964), 大正噴火五十周年記念誌, 西桜島村, 74pp.
  17. 肝属郡垂水村教育會(1915), 垂水村郷土誌 附録第六 大正三年櫻島爆發概要. 肝属郡垂水村教育會, p.325-356.
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  21. 松本榮兒(1915), 西武田村誌. 田上尋常高等小學校, 283pp.
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参考サイト:



初出日:2019/04/14
更新日:2020/10/14