過去の特筆災害

 桜島大正噴火

 わが国が20世紀に経験した最大の火山噴火が桜島大正噴火です(火山爆発指数VEI4)。大正初期は、真幸地震(1913)、日置地震(1913)、霧島御鉢噴火(1913)などが相次ぎ、南九州は地学的な活動期に入っていました。桜島島内でも1911年7月に有村集落で二酸化炭素事故がありましたし、暮れになると井戸水が涸れる(つまり地盤の隆起)などの異常がありました。1914年1月10日頃から有感地震が頻発し、井戸の水位上昇や温泉湧出などの前兆現象も見られました。ところが、測候所は霧島の噴火に気を取られていたのか、「桜島に噴火なし」と言い続けていました。しかし、1月12日午前10時5分頃、東西両山腹から相前後して割れ目噴火が起きました。爆発音を伴う猛烈な黒煙が全島を覆い尽くし、午後6時29分にはM7.1の地震も発生しました。翌日午後8時14分には火砕流を出し、以後、溶岩流出へと移行しました。西山腹から流出した溶岩は15日には沖合500mにあった烏島を埋没させ、約2ヶ月で活動を終了しました。東山腹からの溶岩は1月末頃瀬戸海峡を閉塞し、大隅半島と陸続きになりました。こちらの活動は翌15年春頃まで断続的に続きました。島内の犠牲者29名、地震による主として鹿児島市内の犠牲者29名、計58名の犠牲者が出ましたが、直接の火山活動による犠牲者は2名~数名とみられています。
 犠牲者が出なかったので忘れられているのが地盤沈下です。桜島のマグマ供給源は姶良カルデラですから、カルデラを中心に地盤沈下が発生しました。姶良市や霧島市の湾岸部では数10cmも沈下し、護岸も決壊、塩田や江戸時代の干拓地などが水没しました。鹿児島市内でも地盤沈下しています。また、大量の軽石・火山灰が、折からの西風に乗って大隅半島方面に分厚く積もったので、植生は破壊され山地は荒廃しましたから、高隈山地を水源とする河川では土石流(ラハール)が発生、それによって河床も上昇したので、洪水も頻発しました。3月6日には串良川下流の豊栄橋が流失しています。当然、田畑や灌漑用水路も荒廃に埋まりましたから、当時の基幹産業である農業は壊滅的な打撃を受けました。堤防修復と耕地整理は急務でした。当年、東西両串良村では合同で土木事務組合を結成して河川改修に当たったのですが、1974年「スベテノ組合事務ヲ完了シタノテココニ解散スル」と記念碑に彫り加えられています。実に半世紀を要する難事業でした。
 溶岩に埋まったところや降灰量が甚大で復旧不能なところでは、移住しか道はありません。指定移住地には、大隅半島・種子島・小林市・朝鮮全羅道などの国有林が当てられました。国は国有林を県に無償払い下げを行い、県は罹災者に貸与、開墾終了後一定の年数を経たら、土地所有権を無償譲渡する仕組みでした。国有林ですから山奥の僻地です。尋常小学校が3校新設されました。
噴火状況
(山口鎌次撮影,産総研所蔵)
閉塞寸前の瀬戸海峡
(宮原景豊撮影,県立博物館所蔵)
鹿児島市内の震害
(大正噴火誌,1927)
帖佐塩田の水没
(鹿児島専売支局要覧,1915)
鹿児島市内の震度分布
(今村,1920)
姶良カルデラの地盤沈下
(Omori, 1916)
降灰と河川災害(下川,1991から作成)
赤丸は土石流、青色河川は水害
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 昭和13年肝属川大水害


鹿屋市串良町

決壊した東串良町俣瀬橋
 1938年10月14日台風が大隅半島に上陸、翌15日午前11時までに高山町(現鹿屋市)で400mm、田代村(現錦江町)で450mm、鹿屋町(現鹿屋市)で389mmの雨量を記録しました。そのため、肝属川本川及び支流の高山川・姶良川などの流域で山腹崩壊が多発、水害も発生しました。桜島大正ボラの存在が影響したのではとの説もあります。その結果、死者行方不明者435人、全半壊家屋1,018戸、流失家屋514戸、浸水家屋5,067戸の大被害を出しました。写真の出典は国交省大隅河川国道事務所です。
 肝属川は桜島大正噴火のため荒廃し、民間や県の手で修復が行われていましたが、手に余ったため、1937年から国の直轄事業として改修が行われていた矢先のことでした。以後、蛇行した河川の直線化、堤防構築、鹿屋分水路の建設などが営々と今日まで続けられ、最近ではほとんど水害は克服されました。 ↑頁トップに戻る

 平成5年鹿児島豪雨災害

 1993年は気象庁が一旦出した梅雨明け宣言を撤回したら、平成5年8月豪雨などや台風が続き、そのまま秋になってしまい、「夏がなかった年」と言われました。全国的な冷害のため、お米の緊急輸入が行われた年としても記憶されています。2年前のフィリピン・ピナトゥボ火山の噴火(VEI6)に伴うエアロゾルが全球を覆ったためとも言われています。この年の災害は大きく次の5回に分けられます。
・6月12日~7月8日
 6月12日~7月8日にかけて梅雨末期の集中豪雨がありや浸水・家屋損壊などが相次ぎ、JRが不通になるなど混乱が続きました。6月27日には姶良町(現姶良市)で1人、7月5日には佐多町(現南大隅町)1人の犠牲者が出ました。7日にも鹿児島市・山川町(現指宿市)・頴娃町(現南九州市)・末吉町(現曽於市)・大隅町(現曽於市)・松山町(現霧島市)の1市5町で園児1人を含む7人の犠牲者が出ています。
・7月31日~8月2日
 7月9日に九州南部地方の梅雨明け宣言が出されましたが、7月27日に台風5号が大隅半島に上陸、さらに7月30日未明に台風6号が長崎に上陸しました。これに伴って7月31日から8月2日にかけて前線の活動が活発化しました。とくに降雨は県中北部に集中したため、8月1日土砂崩れが続発、国分市(現霧島市)7人、隼人町(現霧島市)6人、霧島町(現霧島市)4人、姶良町(現姶良市)1人、吉田町(現鹿児島市)4人、薩摩町(現さつま町)1人、計23人の犠牲者が出ました。
・8月5日~8月6日
 8月5日夜半から鹿児島地方を中心に豪雨があり、鹿児島市では6日19時30分までの1時間雨量63.5mm、6日の日雨量259mmを記録しました。この豪雨により市内中心部を流れる甲突川が氾濫、市中心部が浸水しました。これが上述の8・6水害です。6日夕刻には鹿児島市竜ヶ水の姶良カルデラ壁では無数の表層崩壊が発生、国道10号は寸断されて、車800台約2,500人が孤立し、深夜の海上からの救出劇がありました。すぐ近くの花倉病院では土石流のため、患者など15人が犠牲となりました。なお、甲突川上流の郡山町(現鹿児島市)では、同じような豪雨だったにもかかわらず、災害同報無線により事前に避難していたため、1人の犠牲者もありませんでした。
・8月9日~8月10日(台風7号)
 まだ、後片付けも終わらないうちに8月9日大型で非常に強い台風7号が昼頃奄美大島を通過し、夜半、薩摩半島西方の東シナ海を北上しました。速度が遅かったため、大隅半島では一晩中暴風雨が吹き荒れ、垂水市の姶良カルデラ壁では土石流が発生、5人の犠牲者を出しています。その後も国道220号は長期間不通となり、牛根地区は孤立状態となりました。
・9月3日(台風13号)および9月20日
 秋になり、生活再建が軌道に乗ろうとしていた矢先、9月3日戦後最大級と形容された超大型の台風13号が鹿児島を直撃しました。16時に薩摩半島に上陸、金峰町扇山(現南さつま市)では土砂崩れにより避難中の人たち20人が犠牲となりました。川辺町小春(現南九州市)でも土石流により小学生1人を含む9人の犠牲者が出ました。9月20日には日吉町(現日置市)で花崗岩の山が地すべりを起こし、2世帯5人が生き埋めになり、3人は助け出されたものの母子が犠牲となりました。この日の雨量はわずか13mmでした。
 結局、この災害の犠牲者は全部で死者121人・重軽傷者349人、被害家屋64,000棟、被害総額3,002億円でした。また、前述のように国道10号が寸断されただけでなく、国道3号は鹿児島市小山田で甲突川の河岸が決壊し不通になりました。九州自動車道も桜島パーキングエリアの裏山が崩れるなど、数箇所で被災、不通となりました。そのため、鹿児島市は一時陸の孤島と化したことは記憶されるべきことです。
『平成5年度鹿児島豪雨災害の記録』(鹿児島県)による。写真左は鹿児島市竜ヶ水、右は金峰町扇山
文献:
  1. 内閣府中央防災会議(2011), 「1914桜島噴火報告書
  2. 岩松 暉(2011), 1914桜島噴火~20世紀最大規模の噴火~. 中央防災会議「災害教訓の継承に関する専門調査会」編『災害史に学ぶ』, p.37-48.
  3. 文部省科学研究費突発災害調査研究成果自然災害総合研究班(研究代表者 岩松 暉)(1994), 平成5年8月豪雨による鹿児島災害の調査研究研究成果報告書. 文部省自然災害総合研究班, 190pp. 付浸水図A0判1葉.
  4. 1993年豪雨災害鹿児島大学調査研究会(研究代表者 下川悦郎)(1994), 「1993年鹿児島豪雨災害の総合的調査研究」報告書. 鹿児島大学, 229pp.
  5. 鹿兒島縣(1940), 昭和十三年肝屬地方風水害誌. 鹿兒島縣, 402pp.
  6. 今村明恒(1920), 九州地震帯. 震災豫防調査會報告, No.92, p.1-94.
  7. Omori, F.(1916), The Sakura-jima eruption and Earthquakes Ⅱ Chap.VII. Level change and horizontal displacement of the grond caused by the Sakura-jima eruption of 1914. Bulletin of the Imperial Earthquake Investigation Committee Vol.8 No.2, Vol., No., p.152-179.
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初出日:2015/05/30
更新日:2019/04/24