鶴丸城と地質地形
鶴丸城
天保14年城下絵図(文献13による) | 島津御本丸前面景(文献13による) |
鶴丸城屋形配置図(三木,2014) | |
鶴丸城地形図(三木,2014) | 大正5年測図2.5万分の1地形図「鹿兒嶋北部」 |
鶴丸城の縄張(三木の上図をトレースしたもの、堀は文献14による) | |
城山遺構(文献14)(緑:曲輪,茶:土塁,橙:空堀)(濃色のみ現存) |
東西に鹿兒島城山を切れる斷面 (岩崎,1904) |
照国神社水神(橫堀井戸跡) |
坑内地質縦断面図(橫田ほか,1995) |
なお、現在の地形図(右図)で見ると、後背地の城山団地が平坦で、防備が薄いように見えますが、当時は、旧版地形図に示されているように、現城山団地には草牟田の深い谷が幾筋も入り込んおり、険しい地形でした。すなわち、城山団地は1970年代の人工的な谷埋め造成地なのです。
鶴丸城御楼門建設協議会の復元図(文献14) |
安政6年(1859年)の鹿児島城図によると、本丸と二之丸との間の内堀がありません。実は内堀の延長上には、城山の小さな沢があり、常に湧水が出ています。内堀はその排水を兼ねていたのですから、ここを埋め立てたことによって本丸の地下水位が上がり、高石垣の孕み出しなど問題を起こしています。
<参考>
鶴丸城御楼門建設協議会(2016)による縄張の復元図は右の通りです。三木(2014)と多少違います。普通、土塁は盛土で構築するのですが、城山の地質はシラス、切土で造成したのだそうです。土塁と一番北の空堀のみ現存しています。なお、堀の建設時代はいろいろで、すべて築城時から存在したわけではないようです。
薩英戦争本陣跡 | 西南戦争の弾痕 |
鶴丸城移転の際、義弘等は海岸に近すぎて防衛上弱点があると反対したそうですが、幸い家康によって本領安堵され、戦争にはなりませんでした。しかし、文久3年(1863年)の薩英戦争に際しては、常盤2丁目の千眼寺に本陣を移しました(写真左)。鶴丸城は艦砲射撃の射程圏内だったからです。鶴丸城が戦火を浴びたのは明治10年(1877年)の西南戦争です。今も弾痕が生々しく残っています(写真右)。
鶴丸城の地質
城山の地質(大木,2017) (青・桃・黄緑:城山層、黄:鳥越火砕流堆積物、 橙:入戸火砕流堆積物、紫:桜島薩摩テフラ) |
露頭写真と解説がポップアップします。 (:海成層、:火砕流堆積物、:テフラ、:地形) (縮小すると、シームレス地質図も表示) |
地下では標高約3m以下に吉野火砕流(約50万年前)上位のフローユニットflow unitと思われる火砕流堆積物が存在します。一部溶結しています。その上に海成層の城山層(約13~12.5万年前)が載ります。シルト岩・砂岩からなり、カキなどの貝化石や生痕化石を多産します。したがって、潮間帯の浅海堆積物です。城山層は標高約30m付近にまで存在しますから、1万年に2.4mほどの割合で隆起したことになります。
その上に鳥越火砕流堆積物が載りますが、水中堆積の兆候が認められますので、城山層堆積中に鳥越火砕流が海底を覆ったのでしょう。この鳥越火砕流の噴出源は未定ですが、地質時代的には阿多火砕流とほぼ同時期です(内村ほか,2014)。これらを覆って約3万年前の入戸火砕流堆積物、いわゆるシラスが厚く覆っており、城山の主体を構成します。
上記すべてを覆って、約13,000年前(縄文草創期)の桜島薩摩テフラが載っています。薩摩降下軽石と呼ばれることもありますが、噴出源である桜島に近いところでは、火砕サージpyroclastic surgeが見られます。横なぐりの高速乱流です。斜交葉理などからサージの来た方向を推定すると、城山でも桜島側の谷を駆け上がって吹き抜けていったことが認められます。この約13,000年前のテフラが城山全山を風呂敷をかぶせたように覆っていますので、縄文人は現在とほとんど違わない城山の姿を見ていたことになります。
なお、鶴丸城屋形付近には、標高7m付近に沖積層が確認されていますし、照国神社付近には海食台らしい地形も観察されますから、縄文時代の海岸線はこの付近だったのでしょう。
謝辞: この項については大木公彦鹿大名誉教授にご教示いただきました。記して謝意を表します。
文献:
- 五味克夫(1998), 鹿児島城の沿革―関係資料の紹介―. 「鹿児島(鶴丸)城本丸跡」鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書, p..
- 畠中 彬(1992), 鹿児島城について, 黎明館調査研究報告, No.6, p..
- 東 和幸(2013), 鹿児島(鶴丸)城前後の城と町づくり. 縄文の森から, No.6, p.25-30.
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- 鹿児島市地盤図編集委員会(1995), 鹿児島市地盤図. 鹿児島大学地域共同センター・(社)鹿児島県地質調査業協会, 132pp.
- 三木 靖(2014), 島津藩の本城としての鹿児島城. 鹿児島国際大学考古学ミュージアム調査研究報告, Vol.11, p.39-50.
- 大木公彦・早坂祥三(1970), 鹿児島市北部地域における第四系の層序. 鹿大理紀要(地学・生物学), Vol.3, No., p.67-92.
- 大木公彦(1974), 鹿児島市西部地域における第四系の層序. 鹿大理紀要(地学・生物学), Vol.7, No., p.15-22.
- 大木公彦・内村公大・中島一誠・稲田 博(2013), 鹿児島市城山岩崎谷の城山層と鳥越火砕流堆積物. 鹿児島県地学会誌, No.103, p.25-27.
- 大木公彦・古澤 明・中原一成(2016), 鹿児島城趾のボーリング調査で見つかった火砕流堆積物の一考察. 鹿大理紀要, Vol.49, p.31-39.
- 大木公彦(2017), 鹿児島城の地形・地質学的背景. 鹿児島国際大学考古学ミュージアム調査研究報告, Vol.14, p.13-20.
- 大塚弥之助(1931), 第四紀. 岩波講座(地質・古生物), 岩波書店, 107pp.
- 徳永和喜(2008), 鹿児島(鶴丸)城築城にみる思想―家久の「城認識」と展開を中心に―, 黎明館調査研究報告, No.21, p..
- 鶴丸城御楼門建設協議会(2016), 鹿児島(鶴丸)城跡保存活用計画. 鹿児島県, 141pp.
- 内村公大・鹿野和彦・大木公彦(2014), 南九州,鹿児島リフトの第四系. 地質学雑誌, Vol.120, No.Supplement, p.S127-S153.
- 横田修一郞・成尾英仁・森脇 広・乙須 稔・小倉 順(1995), 照国神社境内の橫堀り井戸. 鹿児島県地学会誌, No.71, p.1-9.
- (), . , Vol., No., p..
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参考サイト:
- 鶴丸城御楼門
- 史料に見る鶴丸城(平成23年度県立図書館所蔵貴重資料紹介)
- 鹿児島(鶴丸)城跡保存活用計画の策定について(鹿児島県鶴丸城御楼門建設協議会)
- 鹿児島県立図書館貴重資料の紹介 『鹿児島城下のあゆみ-上町・下町・西田町を中心に』(「薩藩御城下絵図」「正徳三年御城絵図」あり)
- 鹿児島(鶴丸)城跡保存活用計画概要版(鹿児島県)
- 城山公園を次の世代へ引き継ぐために~ 鹿児島市城山公園保全計画を策定しました ~(鹿児島市)
- 城山公園自然の森再生事業の概要(鹿児島市)
初出日:2017/06/01
更新日:2020/11/27