鶴丸城と地質地形

 鶴丸城

天保14年城下絵図(文献13による)島津御本丸前面景(文献13による)
 鎌倉時代から明治維新まで下克上がなく同じ国を治め続けたのは唯一島津氏だけでした。あともう一人毛利氏も鎌倉時代から続いていますが、安芸から萩へ転封になっています。島津氏の居城は、鹿児島地域内ではありますが、東福寺城(現多賀山公園)→清水城(現清水中学校)→内城(現大龍小学校)→鹿児島城(鶴丸城)と変わりました。鶴丸城を築城したのは慶長6年(1601年)、島津家久(忠恒)の命によります。関ヶ原の戦いで西軍に属し敗北したため、徳川の脅威に備えるためでした。しかし、幕府への恭順の意思表示として、天守閣を備えることはなく、屋形づくりでした。後詰めの城として城山を控えた平山城です。慶長9年(1604年)に完成しています。
鶴丸城屋形配置図(三木,2014)
鶴丸城地形図(三木,2014)大正5年測図2.5万分の1地形図「鹿兒嶋北部」
鶴丸城の縄張(三木の上図をトレースしたもの、堀は文献14による)
城山遺構(文献14)(緑:曲輪,茶:土塁,橙:空堀)(濃色のみ現存)
 三木(2014)によると上図のような構造をしていました。城山は、シラス台地を利用した中世の山城の姿を色濃く残しています。前面はシラス崖の急斜面で鉄壁ですし、後ろは岩崎谷や新照院の谷など、シラスの浸食地形を空堀として活用しています。照国神社横が大手口で、搦手(からめて)が新照院口です。岩崎谷口もありました。
東西に鹿兒島城山を切れる斷面
(岩崎,1904)
照国神社水神(橫堀井戸跡)
坑内地質縦断面図(橫田ほか,1995)
 山城の場合、一番重要なのが飲料水の確保です。シラス基底の不整合面付近が帯水層として有望ですが、城山の場合、紫原台地などと違って、後述のように、その下位の城山層が標高の高いところまで来ていますから、深井戸を掘るのが、それだけ楽です。しかし、井戸を掘っていたかどうか分かりません。岩崎(1904)は、粘土層(恐らく城山層のこと)が南北走向で西傾斜だから岩崎谷に泉(池ではなく湧水のこと)が多く、それが西南戦争の際、西郷軍が官軍に抗して頑張れた理由としていますから、岩崎谷に水汲みに行くのが家久の戦略だったのかも知れません。現在、遊歩道に見られる「近衛の水」は、後世、冷水からの水を城内に引き入れた水道跡で、築城当時にはありませんでした。もしも上図が「近衛の水」を指しているのなら間違いです。なお、江戸時代中期に掘られた橫堀井戸が照国神社境内にありました。横田ほか(1995)によると、城山層泥岩を不透水層とし、大隅降下軽石や鳥越火砕流の水中堆積物を帯水層としています。現在はふさがれていますが、今も湧水があるそうです。
 なお、現在の地形図(右図)で見ると、後背地の城山団地が平坦で、防備が薄いように見えますが、当時は、旧版地形図に示されているように、現城山団地には草牟田の深い谷が幾筋も入り込んおり、険しい地形でした。すなわち、城山団地は1970年代の人工的な谷埋め造成地なのです。
鶴丸城御楼門建設協議会の復元図(文献14)
 屋形は、東から厩曲輪(うまやくるわ)(現鹿児島医療センター)、本丸曲輪(現黎明館)、二之丸曲輪(現県立図書館・現市立美術館)、役所曲輪(現県立博物館)と分かれていました。当初、家久は伯父義久、実父義弘の屋形とのバランスを気遣って、本丸曲輪だけを屋形と称していましたので、本丸だけが高石垣・水濠に3面を囲われた豪壮な造りになっています。なお、本丸大手には御楼門があったそうです。
 安政6年(1859年)の鹿児島城図によると、本丸と二之丸との間の内堀がありません。実は内堀の延長上には、城山の小さな沢があり、常に湧水が出ています。内堀はその排水を兼ねていたのですから、ここを埋め立てたことによって本丸の地下水位が上がり、高石垣の孕み出しなど問題を起こしています。
<参考>
 鶴丸城御楼門建設協議会(2016)による縄張の復元図は右の通りです。三木(2014)と多少違います。普通、土塁は盛土で構築するのですが、城山の地質はシラス、切土で造成したのだそうです。土塁と一番北の空堀のみ現存しています。なお、堀の建設時代はいろいろで、すべて築城時から存在したわけではないようです。

薩英戦争本陣跡西南戦争の弾痕
余談:
 鶴丸城移転の際、義弘等は海岸に近すぎて防衛上弱点があると反対したそうですが、幸い家康によって本領安堵され、戦争にはなりませんでした。しかし、文久3年(1863年)の薩英戦争に際しては、常盤2丁目の千眼寺に本陣を移しました(写真左)。鶴丸城は艦砲射撃の射程圏内だったからです。鶴丸城が戦火を浴びたのは明治10年(1877年)の西南戦争です。今も弾痕が生々しく残っています(写真右)。

 鶴丸城の地質

城山の地質(大木,2017)
(青・桃・黄緑:城山層、黄:鳥越火砕流堆積物、
橙:入戸火砕流堆積物、紫:桜島薩摩テフラ)
露頭写真と解説がポップアップします。
:海成層、:火砕流堆積物、:テフラ、:地形)
(縮小すると、シームレス地質図も表示)
 鹿児島市内の地質については大木・早坂(1970)以来、詳しく調べられています。地下地質についても、鹿児島市地盤図編集委員会(1995)によって明らかにされてきました。近年御楼門復元の機運が盛り上がり、ボーリング調査が行われました。これらの諸研究をまとめて、大木(2017)は、城山の地質を以下のように総括しました。
 地下では標高約3m以下に吉野火砕流(約50万年前)上位のフローユニットflow unitと思われる火砕流堆積物が存在します。一部溶結しています。その上に海成層の城山層(約13~12.5万年前)が載ります。シルト岩・砂岩からなり、カキなどの貝化石や生痕化石を多産します。したがって、潮間帯の浅海堆積物です。城山層は標高約30m付近にまで存在しますから、1万年に2.4mほどの割合で隆起したことになります。
 その上に鳥越火砕流堆積物が載りますが、水中堆積の兆候が認められますので、城山層堆積中に鳥越火砕流が海底を覆ったのでしょう。この鳥越火砕流の噴出源は未定ですが、地質時代的には阿多火砕流とほぼ同時期です(内村ほか,2014)。これらを覆って約3万年前の入戸火砕流堆積物、いわゆるシラスが厚く覆っており、城山の主体を構成します。
 上記すべてを覆って、約13,000年前(縄文草創期)の桜島薩摩テフラが載っています。薩摩降下軽石と呼ばれることもありますが、噴出源である桜島に近いところでは、火砕サージpyroclastic surgeが見られます。横なぐりの高速乱流です。斜交葉理などからサージの来た方向を推定すると、城山でも桜島側の谷を駆け上がって吹き抜けていったことが認められます。この約13,000年前のテフラが城山全山を風呂敷をかぶせたように覆っていますので、縄文人は現在とほとんど違わない城山の姿を見ていたことになります。
 なお、鶴丸城屋形付近には、標高7m付近に沖積層が確認されていますし、照国神社付近には海食台らしい地形も観察されますから、縄文時代の海岸線はこの付近だったのでしょう。
謝辞: この項については大木公彦鹿大名誉教授にご教示いただきました。記して謝意を表します。

文献:
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  10. 大木公彦・古澤 明・中原一成(2016), 鹿児島城趾のボーリング調査で見つかった火砕流堆積物の一考察. 鹿大理紀要, Vol.49, p.31-39.
  11. 大木公彦(2017), 鹿児島城の地形・地質学的背景. 鹿児島国際大学考古学ミュージアム調査研究報告, Vol.14, p.13-20.
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参考サイト:



初出日:2017/06/01
更新日:2020/11/27