鹿児島がなぜ県都に

島津氏居城東福寺城跡鹿児島の地勢
1993年鹿児島豪雨災害時の交通止め個所
 鹿児島市市街地は猫の額ほどの平場しかありません。大部分は周辺のシラス台地上に居住しています。どうしてこんな狭いところに県都があるのでしょう。実際、奈良時代の薩摩国府は川内に、大隅国府は国分にありました。そちらのほうが平野で穀倉地帯です。時代は下って鎌倉~戦国時代、中世の城は山城でしたが、秀吉の頃から平城が一般的になり、どのお城も平場に作られるようになりました。下克上でのし上がった戦国大名は主人の構えていた山城を捨て、平城を新しく築いたのです。したがって、県庁所在地は大部分城下町が基になっていますから、開けた沿岸部か盆地にあります。島津藩でも下克上があったら、今頃は県庁は国分当たりにあったでしょう。鎌倉以来、同一の家が支配してきたのは島津氏だけなのです(注)。一門の中での勢力争いはあったようですが、基本的に下克上がなかったのです。
 島津氏が鹿児島に初めて居を構えたのは東福寺城です。今の多賀山公園に当たります。東福寺城は天喜元年(1053)長谷場永純によって築かれた三州で初めての城と言われています。南北朝時代の1343年、北朝方の5代島津貞久が南朝方の長谷場氏を打ち破って入城、以来、ここを三州支配の根拠地としました。もちろん、三州の中心近くに位置しているというのも利点かも知れませんが、第一は中世の戦闘様式に適したところだったからでしょう。
 中世の戦闘というと、一番有名なのが楠木正成の千早城の戦いです。当時の主力兵器である弓矢は高いところから射かけるほうが有利ですし、正成は大石や丸太を崖から落としたり、煮えたぎった油を流したりして籠城、鎌倉幕府軍に抵抗しました。東福寺城はそのような戦闘様式には誠に地の利を得ていました。日向から大軍が攻めてきても、姶良カルデラ沿いには一列になって進むしかありません。小勢で防御が可能でした。現在の国道10号は明治天皇の行啓に際して、突貫工事で造られたものです。それまでの大隅街道は白銀坂の急峻な道でした。肥後から攻めるにしても、甲突川沿いに来るしかありません。河頭の渓谷がありますから、楠木正成式の戦法が使えます。南から水軍が攻めてきても、当時向島と呼ばれていた桜島があり、挟み撃ちすることが出来ます。このように、東福寺城は要害の地でした。しかし、手狭で政務には不適でしたので、その後、清水城に移りました。
 この島津貞久の配慮が実証されたのが1993年の鹿児島豪雨災害でした。国道10号は磯~竜ヶ水間の姶良カルデラ壁で土石流のため交通止め、国道3号も小山田で洪水のため不通、九州自動車道も桜島サービスエリアなどでがけ崩れが起き、不通となりました。鹿児島は陸の孤島となり、籠城状態となりました。
<注> 長州の毛利氏も鎌倉時代から続いていますが、本来の所領は安芸で、家康により国替えさせられ、萩に移されました。


初出日:2016/06/08