鹿児島大学構内遺跡

玉利校長像(鹿大)玉利池(鹿大)
 鹿大郡元キャンパスは旧鹿児島高等農林学校の敷地でした。構内の玉利池は初代高等農林学校長玉利喜造氏(日本最初の高等農林学校である盛岡高等農林学校の初代校長でもあります)を記念して名づけられたものです。この郡元キャンパスは「シラスダム」で述べた古田上川の扇状地に当たっています。高麗本通り(大学前通り)が湾曲しているのも、扇状地の等高線に平行だからです。扇状地ですから、かつては幾筋も川が流れていたはずですし(地図をクリックすると拡大します。旧河道が何となく推測できます。)、時によっては伏流水が顔を出して泉をつくることもあったでしょう。玉利池は現在では水道から水を供給されているようですが、本来はこうした泉の一つだったのではないでしょうか。実際、1977年、理学部2号館の工事に際して、写真のような河川性堆積物が出てきました。竹編みで粘土を固定した灌漑用水路も出現しました。それならば下流には海まで続く川があったはずです。そこで、植物園内で電気探査を行いました(井上ほか,1991)。見事に川筋(埋没谷)が捉えられました。
古田上川扇状地鹿大理学部2号館発掘状況鹿大植物園電気探査(井上ほか,1991)


鹿大構内遺跡分布図鹿大理学部3号館遺跡
 その後、新しい建物が次々に建てられ、発掘も進み、全体像がかなり明らかになってきました。以下、寒川(2015)によって見てみましょう。
 鹿大構内遺跡は主として弥生時代~古墳時代の遺跡です。キャンパス中央部を流れる川の水を利用して水田を営み、微高地を住居としていたようです。周辺はクリを主とするクスノキ科・エゴノキ属・エノキ属などの樹木が茂っていました。クリは栽培されたのかも知れません。
構内出土の成川式土器(鹿大博物館)
 土器は非常に多く発掘されています。中でも成川式土器が多く見つかっています。成川式土器は大森貝塚で有名な御雇外国人モース(Edward Sylvester Morse)の記載が初出の由ですが、以来永らく弥生式土器と考えられてきました(橋本,2015)。「成川式」の標識地は指宿市の成川マールです。現在では、その大部分が九州南部独自の古墳時代土器と考えられています。
文献:
  1. 橋本達也編(2015), 成川式土器ってなんだ?―鹿大キャンパスの遺跡から出土する土器―. 鹿児島大学総合研究博物館, 102pp.
  2. 井上 誠・樗木政昭・岩松 暉・横田修一郎(1991), 比抵抗の自動計測およびデー タ処理. 情報地質, Vol.2, No.1, p.65-83.
  3. 森脇 広(2013), 甲突川低地の地形分類. 平成24年度「南九州から南西諸島における総合的防災研究の推進と地域防災体制の構築」報告書, 鹿児島大学地域防災教育研究センター, p.96-100.
  4. 寒川朋枝(2015), 鹿児島大学構内に眠る遺跡. 橋本達也編「成川式土器ってなんだ?」, p.54-58.
  5. 寒川朋枝・松永幸男・中村直子・新里貴之(2011), 鹿児島大学構内遺跡 釘田遺跡第一地点. 鹿児島大学埋蔵文化財調査室調査報告書 第6集, 鹿児島大学埋蔵文化財調査室, 159pp.
  6. 新里貴之・中村直子・寒川朋枝(2010), 鹿児島大学構内遺跡郡元団地D-7・8区 D・E-5区 C-4~6区 C-6区. 鹿児島大学埋蔵文化財調査室調査報告書 第5集, 285pp.
  7. 新里貴之・寒川朋枝・中村直子(2014), 鹿児島大学構内遺跡郡元団地Q・R-8・9区,R~T-7~9区. 鹿児島大学埋蔵文化財調査室調査報告書 第9集, 92pp.
  8. 新里貴之・中村直子(2007), 鹿児島大学構内遺跡郡元団地Q-10区・K・L-5・6区. 鹿児島大学埋蔵文化財調査室調査報告書 第3集, 80pp..
  9. (), . Vol., No., p..
  10. (), . Vol., No., p..
  11. (), . Vol., No., p..

参考サイト:



初出日:2016/12/17
更新日:2017/04/22