昭和51年6月豪雨災害

 災害の概況

梅雨前線の位置(坂之上・元田,1977)鹿児島市の総雨量と時間雨量(同左)鹿児島県総雨量(同左)
 1976年6月22日頃から梅雨前線がゆっくり南下、南九州に25日頃まで居座り続けました。南からの湿った空気が前線に向かって吹き込み、大雨をもたらします。高隈山東麓の吉ヶ別府(よしがびゅ)では総雨量870mmを記録しました。鹿児島市でも441mmの記録的豪雨でした。鹿児島市の雨量を見ても分かるとおり、4つほどのピークが認められます。それに応じて、以下のような災害が発生しました。
 22日夜から23日朝にかけて、県北部の菱刈町・大口市・吉松町を中心に床上浸水や鉄道の不通が発生、桜島でも土石流が、垂水市牛根ではがけ崩れが多発しました。23日夜から24日には、大隅半島の鹿屋市・輝北町・垂水市・有明町などで、がけ崩れが多発、死者2名を出します。薩摩半島でも浸水やがけ崩れが発生していました。25日未明から午前中にかけて、鹿児島市を中心に姶良・大隅地方で多数の死者を含む大災害となりました。交通網も至るところで寸断されました。死者の内訳は、鹿児島市14名、大隅町6名、松山町5名、国分市・垂水市・鹿屋市各2名、輝北町1名、合計32名です。車が川に転落して死亡した1名を除けば、残りは全て土砂災害によるものです。物的損害の総額は234億円にも上ります。
 こうした大災害を受け、文部省自然災害総合研究班では椿東一郎九大教授を研究代表者とする突発災害研究班を組織し、調査研究に当たりました。以下は、その要約です。末尾に本文を置いておきますので、詳しくはそれをご参照ください。

 シラスをめぐる当時の状況

薩摩降下軽石のmantle bedding(鹿児島市広木)
 シラスはもともと火山性の砂質堆積物を指す鹿児島地方の方言に由来します。学術的に定義されたものでなかったため、火砕流堆積物の非溶結部、凝灰質砂層・凝灰質シルト層から、果ては降下軽石層まで、地質学的には全く成因の異なるものすべてシラスと同一の名前で呼ばれてきました。しかも火砕流という概念が、当時としては比較的新しい上に、火山学を講じている大学が少ないこともあって、当時は、地質学者でも、シラスを「含軽石凝灰角礫岩」とか、溶結凝灰岩を「灰石」ないし「固結シラス」と呼んだりしている人もいました。本家本元の地質学がそのような状態では、当然、土木工学や砂防工学分野では混乱します。また、降下軽石層は成層構造が認められる場合があるので(恐らく火砕サージの部分が含まれる場合もあると思います)、二次シラスとか水成シラス(注)と呼ばれることもありました。
 ボラもまた方言で、「役に立たない」あるいは「腑抜け」を意味する言葉だそうですが、軽石それ自体や軽石層を指して使われてきました。軽石層は水持ち・肥料持ちが悪く、農耕にとっては厄介者だったからでしょう。園芸に使われる鹿沼土は赤城火山の降下軽石です。水はけが良いので重宝されます。鹿児島流に言えば、「赤城ボラ」です。降下軽石は空から降ってきたものですから、重い物大きい物は近くに落ち、軽い物小さい物は遠くまで飛んで堆積します。つまり、同じ場所には同じような粒径の物が堆積します(分級が良いと言います)。そのため水通しが良く、水持ち・肥料持ちが悪いのです。軽石層は降下軽石の場合が大部分ですが、火砕流堆積物の軽石濃集相もボラと呼ばれていました。
 そこで、他分野の方からは、名称などどうでも良いと言われましたが、火砕流(pyroclastic flow)と降下軽石(Pumice fall)との違いについて、くどくど説明しました。Flowは水と同様低きにつき、谷部をほぼ水平に埋めるのに対し、fallは空から降るものですから、雪が野にも山にも積もるように、地形に平行に堆積します。これをmantle beddingと言います。斜面に積もると後述のようにすべりの原因となります。名称が異なるということは成因が異なることを意味し、災害に対して与える影響も異なるから、名称も大事なのだと説得したものでした。
 それから40年、シラスは火砕流堆積物の非溶結部(狭義には入戸火砕流堆積物の非溶結部)を指し、ボラは降下軽石層を指すことで、一応決着しています。
(注)シラスが洗い出されて二次的に堆積したものを指しますが、沿岸沖積平野に堆積した海成層は「沖積シラス」とよび、シラス台地の上に堆積直後の布状洪水で浅い谷に堆積したものを「二次シラス」と呼んで、区別したほうがよいでしょう。

 降下軽石層に起因する災害―ボラすべり―

7月26日付朝日新聞鹿児島市宇宿町の斜面崩壊(春山,1983)
 右の新聞記事でも「シラスの悲劇」「鹿児島の宿命」といった言葉が使われています。また、上記報告書でも土砂災害の大部分はシラス災害だと記載してあるものもありますし、シラスの円弧すべりで解釈しているものもあります。当時は、何でもシラスと一括されていた時代ですからやむを得ません。砂防学者の故春山先生は、事実は正確に認識しておられますが、薩摩降下軽石を「二次しらす」としています。これは、砂防や土木の方の責任ではなく、地質学者の責任が大きいと思います。
 今回の土砂災害の大部分は、シラス本体の崩壊ではなく、シラスよりも新しい降下軽石が滑り落ちたものでした。下記に鹿児島市紫原台地(宇宿町)の例と、垂水市牛根の姶良カルデラ壁の例を示しておきます。前者は、シラス台地を覆う薩摩降下軽石(13Ka)で、後者は火山岩類を覆う大正軽石(1914年)です。
 宇宿町では9名の方が犠牲になりましたが、斜面に平行に薩摩降下軽石が堆積しています。上述のように降下軽石は水を通しやすいので、薩摩降下軽石も1万3千年の間、地下水の通路になっていました。そのため、下部は粘土化して脱色され、ベトベトの状態になっています。いわば斜面の上に滑り台が載っているようなものでした。この付近をすべり面としてがけ崩れが発生したのです。つまりボラすべりでした。紫原台地をはさんで反対側、唐湊でも同じメカニズムでボラすべりが発生し、学生下宿を直撃、鹿大生4名と大家さんの5名が犠牲になりました。
 牛根の場合は大正軽石ですから、60年しか経っていませんので、粘土化はしていませんでしたが、まだ締まっていなくてガサガサの状態でしたから、急傾斜のところで簡単にすべりました。垂水市二川や鹿大高隈演習林では、四万十層群を覆う大正軽石がすべりました。噴火の影響は60年後も続くのです。なお、2013年伊豆大島の災害は平安時代のスコリアがすべったものです。
鹿児島市宇宿町の崩壊現場薩摩降下軽石(宇宿町)崩壊模式図
垂水市二川における大正軽石のすべり
垂水市牛根の崩壊地断面図
桜島口の崩壊状況垂水市牛根の崩壊地分布図ボラで埋め尽くされた港

文献:

  1. 文部省科学研究費突発災害調査研究成果自然災害総合研究班(研究代表者 椿東一郎)(1977), 昭和51年6月豪雨による鹿児島県の土砂および土石流災害に関する調査研究研究報告. 文部省自然災害総合研究班, 124pp.
  2. 春山元寿(1983), 南九州しらす地帯の豪雨による斜面崩壊(特に宅地造成地の災害を中心として). 土と基礎, Vol.31, No.1, p.105-110.
  3. 岩松 暉(1976), シラス崩災の一型式-1976年6月梅雨前線豪雨による鹿児島市紫原台地周縁部の崖崩れについて-. 鹿児島大学理学部紀要(地学・生物学), Vol.9, p.87-100.
  4. 岩松 暉・下川悦郎(1982), “シラス災害”と防災提言. 日本科学者会議編『現代の災害』, p.162-182.
  5. 岩松 暉・福重安雄・郡山 榮(1989), シラスの応用地質学的諸問題. 地学雑誌, Vol.98, No.4, p.379-400.
  6. 小林哲夫・岩松 暉・露木利貞(1977), 姶良カルデラ壁の火山地質と山くずれ災害. 鹿児島大学理学部紀要(地学・生物学), Vol.10, p.53-73.
  7. (), . , Vol., No., p..
  8. (), . , Vol., No., p..


初出日:2016/06/25
更新日:2018/07/03