『シラス災害―災害に強い鹿児島をめざして―

岩松 暉


第5章 表層すべり災害


1986災害|古地形の意義|1993鹿児島大災害|浮きシラス災害

1986年7月10日の災害

 風化シラスの表層すべり災害は、宇宿・唐湊の災害からちょうど10年目の1986年7月10日に発生した。この日の朝は曇り空だったが、傘無しで出勤した。お昼頃から雨がひどくなったものの、帰宅時は雨もあがっていたから、災害が起きているとは知らず、夕方のニュースで知ってびっくりした。実際鹿児島大学の近くにある鹿児島地方気象台の記録は日雨量192.5mmで、約10km南方のアメダスはわずか1mmであった。ところが気象台の北方わずか2~3kmしか離れていない城山や西鹿児島駅方面では日雨量300mmを越す豪雨だったのである。さらに北の伊敷団地方面では子供たちは校庭でソフトボールをやっていたという。それほど異常とも言えるごく局所的な集中豪雨であった。
 この結果、主として日雨量が200mmを越した地域でがけ崩れが発生(上図の赤丸印)、市内で28名の死者を出した。とくに平之町・上竜尾町でそれぞれ5名もの犠牲者が出た。写真は平之町の災害現場である。写真でもわかる通り、ごく薄いシラスの表層部分がすべったものである。全半壊した家屋はいずれもがけ脚から30m以内(2~3軒以内)に90%入っており、がけ際ぎりぎりまで利用したことの結果である。建築年は1962~1977年のものが圧倒的に多い(立川・徳富,1987)。この頃の急激な人口増に伴って、がけ際まで住宅が進出したのであろう。それ以降の新しい家屋、とくに1972年から5年間の築年住宅があまり被害に遭っていない。これは、1969年の梅雨前線豪雨による災害によって54名の死者を出した経緯から、1971年がけ地近接等危険住宅移転事業が施行され、強力な行政指導がなされた賜物である。

古地形の意義

 表層すべりは水が誘因になるから、凹型斜面など水の集中しやすい地形で発生することが多い。しかし、1986災害では平衡型斜面や若干尾根型をしたところでもすべったところがある。復旧工事が始まり全面カットされてわかった(左写真)。旧谷地形があったのである。斜面上部に浅い谷があり、ボラや黒色火山灰層が存在している。降った雨は地下水となり、この埋もれ谷に沿って流れてきて、谷底部から斜面に流出していたため、そこから崩壊が発生したのである。右の写真は法面工事も終わり植生工が施工されて1年たった状況を示す。水の供給される谷底部の草が勢いよく生い茂り、乾燥している埋もれ谷上半部の草が生長が悪いのは一目瞭然である。
 シラス台地とは言っても真っ平らではない。火砕流が流れた当時の河川や海岸の方向に向かって緩く傾斜する。一面砂漠のような状態の時雨が降ると、火砕流堆積面上を布状洪水のように無数の浅い谷が刻む。当然台地面の傾斜の方向に直交する。したがって、台地が傾斜している方向に存在するがけには、こうした浅い谷の切り口が露出している可能性が高い。後のボラや火山灰等で埋め立てられて現在はわからなくなっているとしても、こうしたところは要注意である。古地形も軽視してはならない。電気探査等で発見は可能である。

1993年鹿児島大災害

 1986年災害から10年も経たない1993年夏、鹿児島地方は未曾有の大災害に見舞われた。この年は6月からずーっと長期にわたって雨が降り続き、全国的にも冷害で、米の緊急輸入が行われた年である。鹿児島地方の梅雨明けは例年なら6月下旬か7月上旬なのに、結局、鹿児島地方気象台が梅雨明け宣言を撤回したという異例な事態であった。この年は夏がなかったのである。異常気象の原因についてはエルニーニョ説などもあるが、守田(1994)は、1991年6月15日に噴火したフィリピン・ピナツボ火山起源のエアロゾルの影響による太陽入射エネルギーの減少を挙げている。この結果、8月の平均気温の分布が平年の6月と同じという冷夏になった。降雨量も記録的で、記録を次々に塗り替えた。例えば、年間雨量4,022.0mm(1位)、7月雨量1,054.5mm(1位)、8月雨量629.5mm(2位)、9月雨量532.0mm(1位)、年最大日雨量259.5mm(2位)といった具合である。とくに7月31日から8月7日にかけて鹿児島県本土中心部に降った豪雨は、えびので総降水量1,258mmを記録するなどものすごく、気象庁から「平成5年8月豪雨」と命名された。結局、6月の梅雨期から9月初旬の台風13号まで、死者行方不明者121名、重軽傷者349名、建物被害64,000棟、被害総額3,000億円にも上る未曾有の被害を出した。
 これらの豪雨により、県本土各地でがけ崩れや土石流・河川の氾濫が相次いだ。6月以来水をたっぷり吸い込んで地面はほぼ飽和状態にあったから、地質の如何にかかわらずがけ崩れ・山崩れが発生した。本書の性格上、シラス災害に限って言えば、まず7月31日~8月2日の豪雨が県中北部のシラス地帯に集中、姶良ニュータウンの災害(写真)はじめ、吉田町方面では全山崩壊して裸状態になったところもある。いずれも風化シラスの表層すべりであった。前述のように表層すべりは水が誘因になるから、凹型斜面など水の集中しやすい地形で発生することが多い。しかし、この災害では、写真で見られる通り尾根型斜面までが崩壊している。長雨により地面が飽和状態にあったためである。こうした土砂災害により、鉄道や道路も寸断、被災地区はあちこちで孤立した。
 8月3日には大雨洪水警報も4日ぶりに解除され、JR日豊線の西鹿児島―国分間も開通、孤立地区への交通も回復して復旧が軌道に乗ろうとしていた矢先、8月5日夜半から鹿児島市を中心に激しい豪雨があった。8月6日午後から雨脚は一段と強くなり、鹿児島市内を流れる甲突川が氾濫した。8・6水害である。同時に各所でシラスのがけ崩れが多発した。なお、夕刻には磯・竜ヶ水方面の姶良カルデラ壁で土石流が各所で発生、花倉病院やJRの列車を押し潰し、国道10号に取り残された乗客やドライバーの海からの救出が深夜まで行われたことは記憶に新しい。

浮きシラス災害

 1993年8月2日の豪雨では、思川流域で珍しい浮きシラス災害も発生した。シラス洪水である。住宅を埋没させ、収穫寸前だった早期米の田圃を埋め尽くした。これはがけ崩れの土砂が直接河川に流れ込んだのではなく、上流の浅い谷に堆積していた二次シラスや崖錐が流出したものである。これも地面が飽和状態にあったからこそ発生したのであろう。

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更新日:1996年10月13日