薩摩見聞記

 本富安四郎

本富安四郎(1865-1912)
 本富安四郎は慶応元年(1865)禄高150石取りの長岡藩士本富寛居の3男として生まれました。明治13年(1880)新潟學校第一分校・長岡學校(長岡洋學校)に16歳で入学、4年後には長岡學校の教員となりました。明治19年(1886)には教員を辞して上京、東京英語学校に学びます。明治22年同校の夜学科を卒業すると、鹿児島県宮之城村盈進(えいしん)尋常小学校教員として赴任、翌年には校長になりました。明治27年(1894)には古志郡立長岡尋常中學校に発展した母校に再度、教員として戻りました。以後、長岡の教育界に大きな足跡を残しています。明治45年(1912)48歳で亡くなったときには、長岡の「市民葬」の様相を呈したそうです。郡立長岡尋常中學校は県立長岡中学校→県立長岡高校となりましたが、本富が明治36年(1903)に作詞した「長岡中学校の歌」は、今も「第一校歌」として歌い継がれています。なお、連合艦隊司令長官山本五十六(高野五十六)は本富の教え子です。
 本富は長岡藩士の出ですし、長岡城本丸跡に建つ河井継之助・山本帯刀の碑を仰ぎ見て、次のような詩を詠みましたから、なぜ仇敵である薩摩に赴いたのか不思議ですが、長岡中学出身の史家丸田亀太郎は、「鹿兒島健兒ノ剛健朴訥ノ風ヲ察シ以テ他日郷党子弟ノ指導二資スル所アラン」と本富の薩摩行きの意図を推察しています。
長岡城祉感懐    本富安四郎
彼処に立てる彼の石碑 何を記すか読み来れば
維新歴史の真先きに 血をもて其の名を留めたる
我が先輩の事蹟をば 不朽にのこす文字なり
げにや浮世の定めなき 昨日の淵も今日の瀬と
変はる流れは徳川の 大樹のみきも年ふりて
一夜の中にはかなくも薩摩の嵐にたふれけり
                (中略)
夫れ成敗は時の運 石橋山の頼朝や
ワーテルローのナポレオン 況してや孤城援けなく
天下相手の此の戦さ 敗るるとても誉れなり
                (下略)
<謝辞> この項は土田(2012)に寄りました。記して謝意を表します。

 薩摩見聞記=土地=

本富安四郎『薩摩見聞記』表紙
本富安四郎『薩摩見聞記』挿絵
 『薩摩見聞記』は本富安四郎が薩摩に赴任したときの見聞記で、土地・氣候・歷史・人物・年中諸事・葬婚・遊戯・歌舞音曲・訪問・宴會・飲食物・旅店・浴場・貧富・言語・邦制・士平民・交通・教育・風儀・宗教・農業産物と多岐に亘っています。このうち、冒頭の「土地」の項で、地質地形に触れていますので、ここに採録します。
薩摩(さつま)は至て山多き(くに)なり敢て深山(しんざん)幽谷(いうこく)人跡(じんせき)の到り得ぬと云ふ程の所はなきも丘陵(きうれう)國内(こくない)縦横(じうわう)紛亂(ふんらん)して平坦なる處甚だ少なし去れば村々(むらむら)往來(わうらい)にも必ず多少(たせう)の山坂を()ゆるが(つね)なり山は大方(おほかた)樹木(じゅもく)を斬り拂ひ(かや)()(こま)を放つ尚ほ(ひく)きは開墾(かいこん)して畑となす『西遊(さいゆう)雜記(ざっき△△)』に
  國中八分(はちぶ)は山にて其山形押開(おしひら)きしやうに山の(いたゞ)き平かなる(ゆゑ)にそれを開き(はた)とし雜穀(ざっこく)を作る
と云へるが如く小山(こやま)の頂多くは平かにて(あだか)(けづ)り取りたるが如くなれば耕作(こふさく)の便利甚だ多し(しか)るに山下の平地(へいち)と云ふべき處には却て高低(かうてい)凹凸(をうとつ)ありて平かなる(ところ)甚だ少なし
川も(また)其數少なきに(あら)されども川内川(せんだいがは)の外大なる者とてはなく大抵細き山川に()ぎず川内川は日向(ひむが)に出で大隅(おほすみ)薩摩(さつま)を流る全長(ぜんちゃう)四十餘里(その)(おほき)さ隅田川と略々(ほぼ)相似(あひに)たるなるべし九州(きふしう)一の長流と(しょう)せらる
山水の景色(けいしょく)は一體に宜し(やま)には櫻島(さくらじま)開聞ヶ岳(かいもんがたけ)を最も絶佳(ぜっか)となす(変体仮名)櫻島は(その)(かたち)富士に似て(いたゞき)(ひろ)く周囘拾里厖然(べうぜん)たる一大岳(いちだいがく)鹿兒島灣を溢らさんばかり大胡坐を波上(はじゃう)()み開聞ヶ岳も其形富士に()て巓鋭く圓錐(ゑんすい)(たゞ)ちに天心を()かんとして波打際(なみうちぎわ)に足蹈張り海門を(あつ)して(そび)え立てり一と()にて直にこれはと(おも)ふは開門(ママ)ヶ岳にて見る度毎(たびごと)に次第に(うつく)しく(おぼ)ゆるは櫻島なり日向灘(ひむがなだ)にて搖られ搖られて氣分(きぶん)()しく一夜を(すご)したる(あさ)天晴(てんは)(なみ)(たいら)かに船既に蜻蜓洲(あきつしま:日本の古称)極南(きょくなん)に達し佐多(さだ)(みさき)を一週し鬼界流虬(りゅうきゅう:琉球の古表記)を後に見て將に鹿兒島灣に(むか)はんとするや秀抜(しうばつ)なる一尖鋒(いつせんぽう)突如(とつじょ)として海門のあなたに立つを()更に(すゝ)んで一大(いちだい)畫扇(がせん)の倒に船頭に(かゝ)り海灣の蒼波を煽げるを(のぞ)みし時の愉快は船客(せんかく)の皆永く(わす)るゝ(あた)はざる所なるべし
川は大抵(たいてい)山川(やまかわ)にて水底(すいてい)多くは盤石(ばんせき)なれば水色(すいしょく)極めて清潔(せいけつ)にして游鱗(いうりん)砂石(しゃせき)一々(いちいち)(かぞ)()べきのみならず流域(りゅうえ(ママ))(おほ)くは山谷なれば斷崖左右より深潭(しんたん)を挾み飛瀑(ひばく)所々に(かゝ)りて景色(けいしょく)甚だ美し曾木(そぎ)(とゞろ)(たき)の如き著名(ちょめい)なるものなり海岸(かいがん)の地も(また)景勝(けいしゃう)に富み(きゃう)(とまり)(ぼう)()吹上(ふきあげ)(はま)有明(ありあけ)(うら)其風光の明媚(めいび)なる(みな)()れ天下に(おほ)からずとなす
土質(どしつ)は極めて(こま)かき粉の如くにて(ねば)()(さら)になし是故家屋の壁を塗るに態々(わざわざ)遠方(えんぽう)より土を()()する者あり大雨(たいう)の節は山崩れ崖落つる少なからず(あらた)に脩めたる道路(どうろ)も土砂を押流(をしなが)されて損するところ甚だ(おほ)し又山上の草木(さうもく)を斬り(はら)ひ禿山となし()けば土は追々(おひおひ)(なが)れ落ちて(あま)多の大石(たいせき)山面(さんめん)にあらはれ出づ
(いし)の多きこと(たぐ)ひなし餘りに贅澤(ぜいたく)と思はるゝまで詰らぬ處に惜氣もなく()き石を(もち)ひたり如何なる邊鄙(へんぴ)の處にても屋敷(やしき)(まわ)りには必ず石垣(いしがき)を積み井戸(いど)小溝(こみぞ)水溜(みずため)の周りは皆石を疊み手水鉢(てうずばち)は勿論水風呂(すいふろ)まで石を以て(つく)れるもの(めづ(ママ))しからず道路(どうろ)にも切石を()きたる所(おほ)
地下(ちか)多くは盤石にて井水(ゐすゐ)の清くして()(あま)きこと格別(かくべつ△△)なり時には砂糖(さたう)を入れたるかと(おも)はるゝ(ほど)の者あり(つち)()(ママ)ること(わづ)かに數尺(すうしゃく)にして良泉(りゃうせん)直に湧き出づ石にて之を(かこみ(ママ))角井(かくゐ)となし柄杓を以て之を()簡便(かんべん)至極(しごく)なり冬は甚だ(あたゝ)かにして之を用ふるに()を覺えす(なつ)は冷かにして飮用(いんやう)によし鹿兒島に(いた)る者は必ず先づ其海岸數尺(すうしゃく)の處に切石(きりいし)を以て(かこ)みたる廣大(くわうだい)なる良井あり數多(あまた)の「メロ」共が「タンゴ」を肩にし(きた)(おのおの)柄杓(ひしゃく)を以て之を()みつゝあるを目撃(もくげき)せん
温泉(おんせん)は薩摩の(うち)(いた)る處の村々に()き出で泉質(せんしつ)多くは良好にして旅客(りょかく)を慰め病痾を()す爲めに國人(こくじん)の惠を受くるもの(もっとも)多し其地は山川(やまがは)指宿(いぶすき)伊作(いさく)市來(いちく)伊敷(いしき)櫻島(さくらじま)樋脇(ひわき)入來(いりき)藺牟田(いむだ)宮之城(みやのじゃう)出水(いづみ)大口(をほくち)菱刈(ひしがり)栗野(くりの)牧園(まきぞの)襲山(そやま)國府(こくぶ)等の諸村にて余が()()れる所にても(すで)に二十四五(しょ)に及べり
鑛山亦(とぼ)しからず鹿籠(かご)山ヶ野(やまがの)芹ヶ野(せりがの)、の金山、谷山(たにやま)の錫坑等皆相應(さうおう)の産出あり金山(きんざん)近傍(きんぼう)の川流よりは沙金(しゃきん)(おほ)く出で水車にて砂石を碎き之を()る者夥しき(すう)なり又貧民(ひんみん)などは自ら水中(すゐちう)に歿し沙を()り分けて(その)(うち)より之を(ひら)ふものあり()れにて日々の口を(のり)するに足る(とき)には大塊を()ることありと云ふ
石風呂(加治木郷土館)

 単なる風景描写ではなく、このように地形地質のことが詳しく述べられています。シラス台地の平坦な地形やシラスの土質的性状、それに起因する斜面崩壊のことが的確に書かれています。河底が盤石からなる場合が多いとは、錦江町花瀬など各地で見られる溶結凝灰岩の浸食面のことです。また溶結凝灰岩は加工しやすいので、つまらぬところまで贅沢に石を使っていると、新潟出身の本富は驚いています。右の写真は加治木郷土館に展示されている石風呂です。なお、江戸の水道は木樋でしたが、鹿児島城下の水道は石樋でした(「鹿児島の水道」参照)。当然のことながら火山・温泉・地下水・鉱山のことなどにも触れています。明治時代には砂金採りも盛んだったこともわかります。

余談1: 流域に「れうえき」と仮名が振ってあります。恐らく出版社の単なる誤植でしょうが、越後人は「い」と「え」の区別ができませんので、もしかすると、本富自身がそのように仮名を振ったのかも知れません。
余談2: 「人物」の章には、よそ者が見た薩摩人気質(県民性)について、プラス・マイナス両面が書かれています。反発・納得いろいろな感想があるかと思います。ご一読を。
 なお、鹿児島県(2016)は明治維新150周年記念誌で、この部分を次のように抜粋要約しています。


文献
  1. 本富安四郎(1898), 薩摩見聞記. 東洋堂, 53pp.
  2. 本富安四郎(1902), 薩摩見聞記. 東陽堂支店, 53pp.
  3. 本富安四郎(1985), 薩摩見聞記. 日本庶民生活史料集成, Vol.12, p.353-423.
  4. 本富安四郎(2017), 薩摩見聞記(Kindle版). 黄金餅書房, 152pp.
  5. 土田隆夫(2012), 井上圓了による「長岡洋學校和同會」の設立とその後の動向. 井上円了センター年報, Vol., No.21, p.23-49.
  6. 司馬遼太郎(1968), 峠. 新潮社, pp.
  7. 鹿児島県知事公室政策調整課(2016), 明治維新150周年記念事業 明治維新と郷土の人々. 鹿児島県,173pp.
  8. (), . , Vol., No., p..
  9. (), . , Vol., No., p..
  10. (), . , Vol., No., p..

参考サイト:



初出日:2018/04/23
更新日:2018/08/16