鹿児島城下の水道

①江戸上水の木樋
(東京都水道歴史館蔵)
②鹿児島城下の水道網
(東京都水道歴史館)
③水道発祥の地
(鹿児島市冷水町)
④鹿児島の石樋
(ふるさと考古歴史館蔵)

近衛の水(城山遊歩道)冷水の水(市水道局)
旧水道略図(鹿児島市水道局,1991)
 江戸は当時ロンドンと並ぶ世界一の大都市、飲料水確保が至上命題でした。そこで、玉川上水や神田上水が引かれ、各長屋には木樋(写真1)で配水されました。一方、鹿児島城下にも水道がありました。東京都水道歴史館には、金沢・富山などと並んで鹿児島城下の水道網(写真2)が図示されています。享保8年(1723)島津継豊の命により、冷水坂の湧水(写真3)を鶴丸城まで送水し、余りを住民に配水したのだそうです。現在でも城山遊歩道に「近衛の水」として送水用トンネルの跡が残っています。江戸と決定的に違うことは木樋ではなく、溶結凝灰岩の石樋(写真4)が使われたことです。火山国鹿児島には加工しやすい溶結凝灰岩がたくさんあったからでしょう。もちろん木樋と違って腐りません。いくら加工しやすいとはいえ、管状に孔を穿つのは大変だったことでしょう。
 東京都水道歴史館展示の原図と思われる図が、『鹿児島市水道史』に載っていました。明治維新になり、水道は藩から県へ移管されましたが、明治22年(1889)鹿児島市制発足に伴い、県から市へ移管された図を明治17年(1884)の地形図に転写したものだそうです。ただし、この明治17年の地図はあまり正確ではありません。市街地はともかく丘陵部の地形がかなり違っているのです。陸地測量部の正式地形図は、明治35年(1902)測図明治42年発行の2万分の1「伊敷村」「鹿兒嶋」が最初です。藩政時代から引き継がれた図面の現物は水道局に残っているのでしょうか。
 なお、この冷水は現役で、今でも使われています。最近鹿児島市水道局は、「冷水の水」「七窪の水」「玉里の水」「慈眼寺の水」「玉龍山の水」「八重の水」「龍神の水」など、水源地の水をペットボトル詰めにして、市主催の会議やイベントなどで提供しています。民業圧迫を懸念してか、市販はしていないようです。

文献:
  1. 鹿児島市水道局(1991), 鹿児島市水道史. 南日本新聞開発センター, 901pp.
  2. 鹿兒島縣土木課(1934), 鹿兒島縣維新前土木史, 260pp.


初出日:2016/05/02
更新日:2019/08/13