鹿児島に関する最古の地質記載

Jean Françoi COIGNET(1835-1902)
 フランシスク(フランソワ)・コワニエ(コワニー)(Françoi COIGNET, 1835-1902)は、1835年フランスロアール州サン・テチエンヌSaint-Etienneに生まれ、1855年サン・テチエンヌ鉱山学校を卒業、フランス・スペイン・アルジェリアなどの鉱山で実務に関わります。1862年にはフランスのマダガスカル大科学探検隊に参加しました。その後、カリフォルニアの金鉱脈の探査に従事します。慶応3年(1867)薩摩藩の招聘に応じ、来薩しました。山ヶ野金山や錫山などを藩内の鉱山を精力的に調査していましたが、翌年は明治維新、9月にお雇い外国人第1号になります。翌10月、朝倉盛明と共に官営生野鉱山に移りました。生野では、鉱山の近代化に努めただけではなく、生野鉱山学校を開設、日本人技師を養成します。高島得三などの人材が輩出しました。健康状態のこともあって、明治10年(1877)離日しリヨンに隠遁、最後には生誕地サン・テチエンヌに帰って、1902年没しました。
 滞日は僅か10年間でしたが、全国各地を調査、その成果を明治7年(1874)サン・テチエンヌ鉱業協會彙報に『日本鑛物資源に關する覚書』"Note sur la richesse minérale du Japan, par M. F. Coignet, ingenieur en chef des mines du Mikado"という論文に書きます。主として西日本ですが、地体構造の概略を正確に把握していました。以下、元薩摩藩公領地に関する地質記載を採録します。和訳は石川準吉(1944)によります。(口語体・常用漢字のpdf版はここ

 第二章 日本鑛業の現狀

<九州>

 予は一年間に元薩摩藩の領地であった薩摩・大隅・日向の三国を廻った。是等の國には金・銀・錫・銅・鐡の鑛脈を見出した。
 又棚酸質・明礬質・硫黄質の多くの温泉脈及び普通の盬類泉をも見出し得た。

 金及び銀

コワニエの記載した薩摩藩の鉱山(跡地)
 金及び銀の鑛山は、灰色乃至黄褐色、時に鑛脈附近は帶綠色等、樣々な色を呈した斑岩中に存する。この斑岩は、砂岩及び頁岩が變質して出來たものである。
 凡そ金属鑛床は、マラール氏が安山岩質粗面岩類に關聯させた火成岩に常に伴ってゐるのである。是等火成岩は稍ゝ帶綠色粒狀及び粘土狀捏粉質部を伴ひ、その捏粉質は帶白色の長石の結晶分解物及び鐡分を含んだ空洞(がま)とから成ってゐる。
 鑛脈の附近には、硫化鐡鑛の極く微細な結晶が見られる。或る一定の範圍内では、それは緻密で稍ゝ磁性を有してゐる。その捏粉質のものは珪石質であるので、貝殻狀の斷口をもち、甚だ小片に碎けてゐて、透明である爲、稍ゝ綠がかかってゐる。岩石中では玻璃狀の無數の結晶體が散在して居るが、それらは大部分はっきりした條のある灰曹長石である。これらの結晶は往々にして、大理石の如き光澤を有してゐる 。
 金は自然金の狀態の場合でも、銀鑛脈―脈石として黄鐡鑛や炭酸石灰の結晶及び石英を伴ふ―中に銀と隨伴して産出する場合でも、鑛脈として發見せられ、稍ゝ黄鐡鑛を含んだ石英脈中に、一定の銀を伴って産出するのである。
 鑛脈は系統に從って群をなしてゐる。卽ち金を含む鑛脈は銀の鑛脈と交叉してゐるのである。後者が一般に石英中で捏粉(ねりこ)質になった外層から生じた斑岩の核から成ってゐる點と、金鑛脈の脈石たる石英と酷似する緻密な石英によって充たされた從属帶と平行して、再び割目の生じて居ることが見られるという二つの點から前者と區別される。
 今まで鑛石滓として捨てられてきた鑛石中には、立派に利益を擧げ得る程の金・銀分が含まれて居る。といふのは、恐らく處理するのに、一瓲につき五フラン以上はかゝるまいからである。
 從來極く低貧位と考へられてゐた鑛滓や露頭からの標本について、五囘の試驗を行った所、次の結果を見た。

   例一例二例三例四例五
一瓲當含有量┌ 金 五〇二五五〇二五(痕跡を認むるのみ)
(瓦)└ 銀 二九五二二五二二〇二七五一五〇

 右の數字により、洋式法による鑛脈開發は、相當利潤をもたらし得るものであらうと推定される。從來日本人が、作業と處理に關する最惡の條件にありながら、驚くべき勞作を續け、甚しい浸水によって妨げられるまで續けられてきた事を思へば、この數字は確かにあり得べき事である。
 銀鑛脈は金鑛脈より數は少いのであるが、一般の含有量は一瓲につき約銀八百瓦と金八十瓦である。併しながら注意深く精選すれば、一瓲につき、四百、八百、千五百から二千フランの價額の鑛石を得る事が出來るであろう。
 銀は石英中に散在してゐる。殆ど常に硫化銅の極微細の粒と關聯し硫化物として産出する。
 薩摩国の金及び銀の主一要産地は次の通りである。

 第一
 山ヶ野金山(鹿兒島の北方約三十五粁)
 その範圍は二方面に四粁程延びてゐる。そこには金鑛脈數は約三十もあるが、合金銀鑛脈はまだ一本發見されたに過ぎない。然しこれは極めて高品位なものである。此の鑛山は二百五十年來採掘されてゐるが、最近に至って、作業深度が大きくなった關係上、採掘困難となり、産出高もとるに足らぬ程になった。
 鑛脈の主要方向は次の通りである。
「東―西。北六十度東。北十五度西。北四十五度西。」
 最初の二つの方向が最も數多い。北六十度東の方向の鑛脈は、最も豐富に金を含み且他のすべての鑛脈と交叉してゐる。一方銀鑛脈は東―西に走ってゐる。
 この鑛脈の厚さは數糎から十米位まで樣々であって、母岩が固ければ固いだけ鑛脈は薄層である。それから斑岩は黄鐡鑛及び貴金属を含んで、石英の細脈によって貫かれてゐる。
 母岩が時に前述の粗面岩から成ってゐる場合は、等しく硫化物及び金を少量含んでゐる。
 脈石としては結局石英の結晶が大部分であるが、其石英の物理的性質は甚だ多樣で、例へばそれが槪して何にもならぬ玉髄である場合は、緻密で純い輝きを持つし、或場合には小結晶群である事もある。
 最後に石英の結晶面が光澤を有し、帶靑色の細線が面上に見られる小結晶から成ってゐる場合は、それは貴金属に富んでゐるのである。
 最近日本の或る會社が、西洋式方法で、この鑛山を再び採掘せんとしたが、きっと短期間に於て相當の利益を擧げ得たであらう。何故ならば初期に於て、鑽による採掘によって出來た非常に豐富な古い鑛滓を處理し、また殘された鑛石を旧式方法によって採掘すればよいのであるから。

(註) 既述した試驗はこの地方の鑛脈に關して報告したものである。
 この地方は相當に開發されてゐるので、五年間に毎年金五百瓩及び銀五千瓩の産出をなし得る。
 この地方に源を有する河は、約二十五粁にわたって砂金を含有してゐる。それを失職した土地の人が採取してゐる。
 椀かけ用木製鉢で、約十二瓩の砂について、數度試驗した結果、價格〇・二五フランの金の量を得た。これは一瓲につき約二〇フランで、卽ちカリフォルニャ州の多くの河川で行われてゐるよりも遥かに多量であるわけである。
 この砂中には同時に多量の硫化銀を含有し、非常に容易く採取する事が出來る。

 第二
 芹ヶ野(Cheigano)といって、鹿兒島から西北西に約十二時間ばかりの海岸にある。ここでは範圍は狭いが、既に貧弱な合金石英脈が數條確證されてゐる。
 作業はすべて、百五十年來、種々の變遷を經て行われ、含金銀鑛脈に集中されてゐた。之は相當な利潤を擧げ得たが、然し作業場は急速に浸水してしまった。
 五年前、それらの水をすべて排除するに足る排水坑を作って、再び作業を始めた。かくして採掘は、その會社が懸命に作業せる昨年迄衰退しなかったのである。
 鑛石は金を含んだ硫化銀である。
 山ヶ野金山地方の銀鑛脈と同樣に、日本の鑛山業者は金のある事を確信してゐたので、その鑛石を水選にすれば、純金が得られると信じていた。然るに今迄、銀と結合してゐる大部分の金を失ってゐたのである。であるから、一瓲につき五百フランの金を含んでゐる鑛石に對して、辛うじて二十フラン乃至三十フランの價額しか得られなかったのである。鑛脈は走向北六十度東乃至北九十度東且南方に四十五度傾斜し、その厚さは二十糎から二米である。
 母岩は青みがゝった、或ひは綠色がかった緻密な頁岩から成り、往々予が既述せるものと類似の粗面岩から成ってゐる事もある。
 この鑛山の諸所で、乾式方法によって六囘の試驗を行った所、次の結果を得た。

   例一例二例三例四例五例六
一瓲當含有量┌ 金 七五五〇痕跡のみ一五二五
(瓦)└ 銀 二五七五三〇〇一六五二二五二五〇四〇〇

 例一の鑛石は、青みがかかった細脈―小さい黄鐡鑛の結晶中に、光澤ある硫化銀塊を見る事が出來る―の入った白色石英から成ってゐる。石英は斑岩の角ばった塊で捏られたもので、それらの塊のまはりには貴金属が集積してゐるように見える。
 例二の鑛石は、頁岩を核として捏りかためられた、光澤ある小さな結晶體の、白い石英から成ってゐた。それは、頁岩に接觸してゐる部分は稍ゝ青みがかってゐる。手に取ってみると、長石の小結晶が分解して、白い斑點が生じてゐる事が認められてゐる。
 例三の鑛石は、溶蝕された形の粒狀白色石英で、その孔隙は水酸化鐡でみたされてゐる。
 例四の鑛石は、ある部分では白く、また他の部分では青みがかった石英であった。前者の表面は糖狀で、後者の表面は玉髄に類似して居り、斑狀片岩によって粘質にされていた。
 例五の鑛石は、例四の場合と全く同一の樣相を呈していた。
 例六の鑛石は、甚だ小さい六方晶形の黄鐡鑛粒を含有し、灰色がかった細脈を有する、緻密な糖狀石英から成ってゐた。
 日に十瓲處理し得る工場に供給して十分なだけの分量の鑛石から採れる平均含有量は、金八十グラム、銀七六〇グラム程度である。

 第三
 鹿兒島の西南約十里にある神殿(こどん)である。此處では隨分以前の作業に於て取除かれた土壌を見るのみである。然し、そこには鑛脈の豐富さを想像させるかなりの金を含有してゐる。

 第四
 同じく鹿兒島から五里の地點にある鹿籠の地方である。此處は約二百年來採掘されてゐる所で、嘗ては多量の金を得ることが出來、長期間に亙って相當な利益を得てゐたが、十年乃至十五年來産出價額は費用よりずっと少くなった。作業場は完全に浸水してゐるが、時々若干の勞働者が、此の抛棄された地域で落穂を拾ふが如く細々と働いてゐる。
 此處の鑛脈は、變質斑岩中に含まれてゐて、東方と西方は花崗岩で限られてゐる。この花崗岩は分解甚しく、稍ゝ石英質で雲母は褐色がかった、光澤のある中位の大いさの薄片狀である。又その花崗岩は極く薄い鑛脈といふ形で斑岩中に入り込んでゐる。
 變質斑岩は、稍ゝ黝色を呈し、稀に長石の結晶が明るい色を呈してゐる。或る所では、細粒狀であるが、他の所では長石の大きな結晶を有してゐる。銀脈の附近では、非常に硬く、結晶もほとんど見られず、岩石は大部分珪化せられ稍ゝ金を含んだ黄鐡鑛が入ってゐる。
 同鑛山の鑛脈は各ゝ四つの方向を有してゐる。卽ち傾斜西に七十度走向南―北のもの、傾斜南方に七十度、走向北七十五度東のもの、傾斜北に四十度乃至六十度、走向北六十度乃至七十五度東のものであって、厚さは二十糎から一米五十糎内外である。第四番目の方向は、最近の鑛脈のそれと一致して居り、最も豐富な落しを有する一層古い鑛脈を發見するのも此の方面である。
 花崗岩が割目に入り込んで、南―北の鑛脈或は北六十度乃至七十五度東の鑛脈を截ってゐる。これは幾分含金質ではあるが、斑岩中よりは餘程少くなってゐる。鑛石滓として抛棄せられた鑛石は、平均一瓲につき約金二十五グラムを含有し、處理して充分利潤を擧げ得るものである。
 これらの鑛山を再び採掘すると多少は費用を要するかも知れぬ。何故ならば、一面揚水用機械や採掘用機械が必要かも知れぬからである。併しながら、その備えつけの費用位は償ひ得る鑛石を上部の舊作業場から採掘することを充分期待し得るのである。

 鹿兒島の南西約二十粁の地點には、錫を含む重要な地域がある。その範圍は、一方向に三粁許りと他の二方向に半粁許りである。予は此處で約二十許りの鑛脈を數へ得たが、殆ど皆北三十度西の走向を有し、西へ六十度乃至八十度の傾斜をもち、その厚さは三十糎から一米五十糎内外である。
 母岩は、砂岩及び細粒礫岩から變質した細粒狀の變成斑狀岩であり、殆ど例外なく總べて石英粒と、それより少量の小さな長石粒から成ってゐる。石地は、普通は灰色であるが、稍ゝ綠がかった黄色を呈してゐる。
 この鑛山は隨分以前から知られてきたが、規則正しく採掘せられたのは二百五十年來である。一八六〇年迄は相當な利益を擧げていたが、この年以來浸水のため、採掘困難となり、遂に一八七二年に至っては七千二百キログラムのみの産出となり、到底出費と釣合ひ得なくなった。
 鑛脈は綠がかった緻密な石英、或は片狀岩石の塊や綠がかった斑狀の砂岩片によって捏り固められた光澤のある小結晶石英によって充されてゐる。黄鐡鑛は甚だ豐富で、細かい粒狀の酸化錫は、この鑛石と共に産出する。
 最後に、若干の鑛脈では多量のタングステンが發見される。尤も總ての鑛石に多少認め得る程度の量はあるものであるが。
 昔の坑道の入口には、約一・五%位の錫を含有する多量の棄石あり、これは充分利潤をあげ得るものである。この事實によって、吾人は次の事を推察し得る。先づ、最近迄採掘費の關係上、七%以下の含有量の鑛石は採掘不可能であったらしいことである。これは、此の鑛山が、西洋式作業を行へば、容易に再採掘し得るほと豐富であるといふ觀念を抱かしむるに足る。
 錫を含む地域には、光澤のある白色の石英結晶を伴って、次の鑛石を含有する鑛脈がある。卽ち黄鐡鑛、琉砒鐡鑛、極く微量の酸化錫及び相當量の金銀である。偶然入手した鑛石を試驗してみたところ、一瓲につき次の結果を得た。金、七十五グラム。銀、千二百七十九グラム。
 日本の鑛業者は、貴金属(金銀等)の産出を當然の事と考へてゐたので、此の鑛脈の如きは探求が思ひのまゝにならないので、之を抛棄してしまったのである。
 次に注目すべき事は、無數の輕石を含む、表土の粘土中に酸化錫の粒を發見することであって、然もこれが甚だ廣範圍に亙ってあることである。こゝでは、往々甚だ多量に存するから、其の村落附近では、ある深さまで掘ってゆくと、二十五%の酸化錫を含有する粘土を採掘出來ることもあった。
 他の地點において試驗的に試みられた水簸の結果、以上に類似せる結果を得た。然し、此の鑛脈が高いので日本人は利益を擧げ得なかった。たとへ、土壌の全表面がそれ程の含有量がなくとも、諸處に水路を作り、雨期にこれらの土を經濟的に集めることが出來るであらう。
 輕石中に酸化錫が現れることによって、この邊の土地が、近世に至って鑛脈生成後隆起したものであることが知られる。此の遺物は、古い冲積層中に發見出來る。卽ち、古い沖積層中に、現今附近の海中に棲む貝殻によく似たものを發見し得るものである。又これらの鑛床は、現在海拔一定の標高に在り、當時の隆起は鹿兒島灣に其の例を多數見るが、恐らく連續して同じやうな現象が起ったものと考へられる。

(註)實際鹿兒島の近くや海岸に、穿孔性の貝によって穴があけられた粗面岩質の凝灰岩が、水面から四十米も高い所にあるのを見る。この凝灰岩は赤みがかった、圓い輕石の破片から成る層と互層する粘土層に蔽はれてゐる。
 嘗ては小舟が何等の危険をも感ぜずにその上を通過し得た程の深きだった、此の灣の東の部分に、約十五年來二つの小島が現れた。
 長崎附近に、これと向樣な粗面岩質凝灰岩の穴があいて居り、同じく漸次隆起したものであるとの言ひ傳へがある。

 銅

 銅の鑛床は殆ど數へるくらゐしかない。唯一つ鹿兒島の東方八里にある國分の銅山のみが既に採掘されて居り、嘗ては多量の銅を産出した。鑛石は硫化銅(黄銅鑛)で、母岩がトラップ岩―走向北七十五度西で、傾斜北に七十度―である鑛脈中に存し、其の厚さは八十糎乃至二米である。
 この銅脈は、甚だ堅硬な片岩によって截られ、表面は赤味を帶びた黄色であるが、内部は綠がかった色で油質である。其の走向は、北四十五度東から北七十五度西に至る。然し、常にそれらは北に向ふ傾向がある。
 鑛選を經た鑛石の含有量は%乃至七%であるが、最も豐富なものは十%乃至十五%である。
 鑛脈の露頭では、多量の自然銅が發見される。一八七二年には、此の鑛山は二萬一千六百キログラムの銅を産出した。
 薩摩国の西南端、野間岬は骨片狀の割目に富む黒灰色緻密の石灰岩や片岩に蔽はれた花崗岩から成り、海百合の遺骸たる白色の石灰岩の薄層を含んでゐる。これらの岩層は黄銅鑛脈で横切られ、後者は南北に走り、相當に雜多な混合物を含んで居る。卽ち葉片構造のある紫蘇輝石と共に、灰曹長石或は曹灰長石より成る。この岩は斑糲岩(Euphotide)と同類であり、兩輝石斑糲岩(イペリット)(Hyperite)の名稱で呼ばれ得るであらう(1)
 (註1) マラール氏會報第十八年参照。
 此の鑛脈は附近に木材が尠いために採掘されなかったが、今や良質の石炭を産出する三池や長崎附近と、海で交通し得る距離にあるから、この銅脈を開發して利潤を擧げ得るであらう。

 含銀鉛

 この含銀鉛の鑛山は稀である。私の知る範圍内では、ニヶ所のみが開發されてゐた。然し、このニヶ所も鑛石の品位が低い爲に稼行されて居ない。

 鐡

 霧島火山―鹿兒島の北東十四里―の北方に、片岩中に水酸化鐡の立派な層があるが、交通不便のため未だ開發されない。
 鹿兒島灣の花崗岩の砂は、細粒狀のチタンを含む磁性の酸化鐡を多量に含有してゐる。それはざっと水簛され、五・六里山奥に入ったところに在る木炭使用の精鍊所に運ばれ、處理されて鐡となる。

 硫黄

 元薩摩公の領地は、次の二火山があるので、可成り多量の硫黄を産する。卽ち鹿兒島灣にある櫻島山と、日本と臺灣とを結ぶ琉球列島の北方にある硫黄ヶ島の二つである。その産出高は一八七二年には、三三〇瓲であった。

 陶土

 粗面岩中や分解した輕石中には多くの陶土を發見する。粗面岩より變じたものは非常に純粹なもので、陶器製作に用ゐる。輕石より出來たものは、前者より一層色のあるもので、一般陶器製造に用ひられる。

 温泉

 温泉は甚だ數多く、殆どすべて攝氏三十度から五十度位の高温である。それらは常に火成岩と關係を有してゐるが、其火成岩は主に粗面岩である。
 槪して硫黄質温泉であり、又鹽化物を含み、其の鹽分は海水よりも多い。山川附近で、地圖によるとHorner型山峯の附近にある若干の温泉は、硼酸質で、他の霧島火山附近のものは、明礬質である。

 コワニーの日本の地質観

コワニーの日本の地質観(今井,1965)
 コワニーは、前述の「日本鑛物資源に關する覚書」の第1章で、日本の地質構造の概観について触れています。東北・北海道を調査する以前に書かれていますから、西南日本の断片的な鉱山調査に基づいたものです。今井功 (1965)は、彼の見解を
「まず、瀬戸内及び中国山脈に沿って、ぼう大な花崗岩が帯状に分布している。同様な花崗岩は、東北日本の脊梁を構成してゐるらしい。花崗岩の南側には変成岩類からなる古生層がある。これには硫化銅鉱床がある。さらにその南には白亜紀・ジュラ紀層を含む中生層が広く分布する。これは火成岩の貫入によってかなり変質しており、変質帯には各種の金属鉱床がある。第三紀層はこのような配列とは別に、主として海岸付近にわずかに分布し、各所で褐炭を含んでゐる。火山岩類は著しく広い地域を占めて分布し、活火山も多い。」
と要約し、
「これが日本の地質に関してほとんど白紙の状態であった時期の、それも鉱山を中心とする観察にもとづくものであることを思うと、その卓見に驚かざるを得ない。また彼の態度がきわめて実証的で、考え方に飛躍がなかったことも、大いに学ばせられる」
と結んでいます。

文献:

  1. Coignet, François(1874), Note sur la richesse minérale du Japan. Bulletin de la Société de l'Industrie Minérale, Vol.1, No.8, p.
  2. フランシスク・コワニェ著:石川準吉編訳(1944), 『日本鑛物資源に關する覺書』. 羽田書店, 144pp.
  3. フランシスコ・コワニエ著:石川準吉訳ならびに解説(1957), 『日本鉱物資源に關する覚書 : 生野銀山建設記』
  4. Habashi, Fathi(2011), The beginnings of mining and metallurgical education in Japan. De Re Metallica, Vol.17, p.85-82.
  5. 今井 功(1965), 地質調査事業の先覚者たち(6)フランシスク・コワニエ. 地質ニュース, No.126, p.28-33.
  6. 今井 功・片田正人(1978), 地球科学の歩み. 共立出帆, 206pp.
  7. 岩松 暉(1989), 実践的地質学の源流としての薩摩. 鹿児島県地学会誌, 62号, p.17-32.
  8. 白井智子(2019), 幕末期の薩摩藩とお雇い外国人鉱山技師 ─ジャン=フランソワ・コワニェの来日に関する新情報─ . 神戸大学国際文化学研究推進センター2018年度研究報告書, p.7-23.
  9. 吉城文雄(1979), 近代技術導入と鉱山業の近代化. 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告, HSDRJE-23/UNUP-72, 42pp.
  10. (), . , Vol., No., p..
  11. (), . , Vol., No., p..

参考サイト:



初出日:2016/01/21
更新日:2020/05/20