日本人地質技師の草分け―朝倉盛明
![]() | ![]() | ![]() | ![]() | ![]() |
英国時代の朝倉 (尚古集成館所蔵) | 「若き薩摩の群像」 (中村晋也作) | 日本最古のクリノコンパス (尚古集成館所蔵) | 中年の頃の朝倉 (生野鉱物館所蔵) | 御料局生野支所長時代の朝倉 (吉田國夫,1984) |

翌1868年は明治維新、コワニエはお雇い外国人1号となり、朝倉と共に官営生野鉱山の再建にあたります。朝倉は、最後には生野鉱山局長になりました。当時は採鉱学と鉱山地質学は未分化でしたから、日本人地質技師の草分けと言えましょう。なお、生野町の市川には現在でも「盛明橋」という橋が架かっています(参照:銀の馬車道)。
(注) 国禁を犯しての密航ですから、全員変名を使いました。お殿様から頂戴した名前だ、とのことで、朝倉のように、それをそのまま使い続けた人もいました。
文献:
- 岩松 暉(1989), 実践的地質学の源流としての薩摩. 鹿児島県地学会誌, 62号, p.17-32.
- 吉田國夫(1984), 官営生野鉱山の先覚・朝倉盛明. 日本鉱業会昭和59年度春季大会研究・業績発表講演会講演要旨集,p.205-207.
上記コワニエには"Note sur la richesse minerale du Japan"と題する著書があります。フランシスク・コワニェ著,石川準吉編訳(1944)『日本鑛物資源に關する覺書』(羽田書店)およびフランシスコ・コワニエ著,石川準吉訳ならびに解説(1957)『日本鉱物資源に関する覚書 : 生野銀山建設記』(産業経済新聞社)にその和訳が載っています。上記、岩松論文には鹿児島に関する地質記載の部分が引用されています。

初出日:2015/02/06
更新日:2017/09/01