南日本新聞コラム掲載記事投稿原稿楠声会合唱嗚呼樟陰に諏訪先生お悔やみ

音楽ひとすじ 寮歌や軍歌も

―「北辰斜に」の作曲者・須川政太郎さんのこと―

諏訪兼位(南日本新聞, 2001.3.17)


手前右:須川政太郞さん
手前左:妻カタさん
 旧制七高の大正四年第十四回記念祭歌「北辰斜に」は、七高を代表する記念祭歌であり、もっともひろく歌われている。
 作詞者の簗田(やなだ)勝三郎さんは金沢市の出身。明治二十八年に韓国釜山に生まれ、麻布中学を経て、大正元年に七高二部工科へ入学。病のため学業意のままにならず、大正四年二年生の時に「北辰斜に」を作詞した。簗田さん二十歳の時の名歌である。その後病進み、大正五年に七高を退学した。そして、大正八年に千葉県稲毛海岸の療養所で病没した。享年わずかに二十四歳であった。名歌「北辰斜に」を残しての、あまりにも早い旅立ちであった。墓は東京小金井多摩墓地にある。七高同窓会は平成二年の七高開校九十年祭の折、「北辰斜に」の記念碑を贈り、盛大な除幕式を行った。
 本稿では「北辰斜に」の作曲者である須川政太郎さんにスポツトをあてたい。
 昭和二十年二月はじめから七月末までの六ヵ月間、私たち鹿児島一中の四年生・五年生約三百人は、愛知県半田市の中鳥飛行機半田製作所に学徒動員され、海軍偵察機「彩雲」の生産に従事した。私たちは半田市苗代町の苗代寮というバラツクにつめこまれ、ほとんど休日なしで実働九時間ないし十二時間の労働に従事した。
 昭和二十年のある日、級友の園田君・落君・後藤君の三人は日隈先生からの命で、半田製作所の総務部厚生課勤務の須川さん(半田市東本町在住)のお宅に、防空ごうを作るように指示された。三人はショベルなどを持ってお宅を訪れ、二日間で防空ごうを作り上げた。須川さんご夫妻は大変喜ばれ、三人は白米のご飯にみそ汁、魚介の缶詰など、おいしい晩飯を二回ごちそうになった。三人にとっては天国のようなごちそうであった。当時、私たち動員学徒はみんな大変飢えていた。雑炊のようなご飯をわずかに食べているだけであった。
 その折、須川さんが「僕は音楽の教師で、昔鹿児島師範に勤務した。君たち『北辰斜に』を知っていますか」と聞かれた。七高に合格していた三人は「知っています。歌えます」と答えた。須川さんはニツコリ笑って「『北辰斜に』の曲は僕が作曲したんだよ」とおっしやった。三人はびっくり仰天した。
 最近私は戦後間もないころ、半田高校で須川さんに音楽を教わった人物に会うことができた。その人は近藤盛夫さん(日本福祉大学講師)である。近藤さんは最近、須川さんのお子さんたちと連絡をとり、半田高校を訪れて資料を集めた。こうして須川さんの経歴がかなりわかってきた。
 須川さんは明治十七(一八八四)年十二月十三日和歌山県新宮市に生まれ、和歌山中学を経て、明治三十九年に東京音楽学校甲種師範科に入学し、明治四十一年三月まで二年間勉強して第二学年を終了した後、二年間休学して、東京市茅場小学校で代用教員をつとめた。明治四十三年に第三学年に復学し、翌四十四年に卒業した。卒業後の四十五年四月、長谷川カタ(賢)さんと結婚し、新婚時代をふくむ一年余、東京市十思小学校で訓導をつとめた。カタさんは、明治二十三年十月二十二日北海道に生まれ、明治四十二年三月秋田高女を卒業し、一家とともに、千葉県銚子に移住した。明治四十三年夏、竹久夢二に見そめられ、宵待草のヒロインとして知られる美人であった。須川さんは大正元年十二月に職を得て鹿児島に赴き、大正八年七月までの七年間、鹿児島師範の音楽教論をつとめた、この間しばらく鹿児島一中の音楽教諭を併任した。
 鹿児島での七年間、大正二年九月に長男の敏郎さんが誕生した。そして大正四年に「北辰斜に」を作曲した。須川さん三十歳の時の名曲である。さらに大正七年に第十七回開校記念祭歌「夕陽直射す」と第十七周年記念寮歌「白露しげき」を作曲した。
 大正八年から大正十年まで京都女子師範と桃山高女の音楽教諭をつとめ、大正十年から昭和三年まで彦根高女の音楽教諭をつとめた。この間、大正十四年には対五高戦応援歌「碧落燃えて」と「魔神のすさび」の二曲を作曲した。鹿児鳥を去って六年、なお七高とのつながりのあったことがわかる。昭和三年から十二年まで滋賀女子師範と大津高女の音楽教諭をつとめた。そして、昭和十二年四月から十九年四月までの七年間、知多高女(昭和十三年に半田高女と改称)の音楽教諭をつとめた。
 須川さんは昭和十九年四月から昭和二十年九月まで、中島飛行機半田製作所に勤務した。園田君たちが会った当時、須川さんは六十歳だった。須川さんも三人の七高の新入生に半田市で会ってびっくりされたことであろう。当時半田製作所では所歌(西條八十作詞)と突撃隊の歌(山田岩三郎作詞)がよく歌われていた。須川さんは突撃隊の歌を作曲した。所歌は信時潔氏が作曲した。
 須川さんと信時氏は東京音楽学校の同級生であり親友だった。明冶二十年京都で生まれた信時氏は四十三年に東京音楽学校本科器楽部(チェロ専攻)を卒業し、研究科に進み、大正九年にドイツに留学して作曲を勉強した。帰国して十二年以降、母校の教壇に立ち作曲法を講じた。作風は古典的であり、山田耕作・弘田竜太郎・成田為三らとともにドイツ風の作曲技法の日本での定着に貢献した。多くの作曲を残しているが、昭和十二年の歌曲「海ゆかば」は、第二次大戦中よく歌われた。
 戦後、須川さんは昭和二十二年四月から二十八年三月まで半田市立高女・半田高校の音楽教諭心得をつとめ、以後三十年一月まで、半田高校の音楽講師をつとめた。二十五年ごろ須川さんをたずねて、信時氏は半田高校を訪れている。ちなみに半田高校の校歌は信時氏の作曲である。須川さんはバリトンの素晴しい声で歌っておられた。そして大変元気な先生であった、生徒たちはブルドッグというニックネームで呼んでいた。
 須川さんは昭和三十(一九五五)年七月二十八日半田市成岩の長男敏郎さん宅で逝去された。享年七十歳。須川さんには一男三女があった。現在、長男は岐阜県土岐市、長女と次女は愛知県知多郡美浜町、三女は群馬県利根郡川場村に在住し、皆さんお元気である。妻のカタさんは、四十二年七月二十六日、二女滋子さん宅で逝去された。享年七十六歳であった。ご夫妻の墓は新宮市南谷墓地にある。
 私の勤務する日本福祉大学のキャンパスは半田市と美浜町にある。須川さんや「北辰斜に」との因縁を感ぜずにはおられない。

(すわ・かねのり日本福祉大学学長=昭和23年七高理科卒)

 以上は、南日本新聞平成13年3月17日付け掲載のコラム記事です。この投稿原稿を諏訪先生が鹿大理学部地学科同窓会ホームページ「桜島」のためにくださいました。印刷記事と若干違いますので、そのまま再掲します。たとえば、私達→私たち、防空壕→防空ごう、味噌汁→みそ汁などとひらがなに直したところがかなりありますし、句読点もかなり少なくなっています。文章を短くするためか、昭和が省かれたり、「在住し」の繰り返しが省略されたり、と新聞社の手が入っているようです。同ホームページが閉鎖されたため、この「かだいおうち」ウェブサイトに掲載することにします。
 諏訪先生は、鹿児島第一中学校→第七高等学校造士館→東京大学理学部地質学科→名古屋大学理学部長→日本福祉大学長と歩まれた地質屋さんです。


 旧制七高の大正四年第十四回紀念祭歌「北辰斜に」は、七高を代表する記念祭歌であり、もっともひろく歌われている。
 作詞者の簗田(やなだ)勝三郎さんは金沢市の出身。明治二十八年に韓国釜山に生まれ、麻布中学を経て、大正元年に七高二部工科へ入学。病のため学業意のままにならず、大正四年二年生の時に「北辰斜に」を作詞した。簗田さん二十歳の時の名歌である。その後病進み、大正五年に七高を退学した。そして、大正八年に千葉県稲毛海岸の療養所で病没した。享年わずかに二十四歳であった。名歌「北辰斜に」を残しての、余りにも早い旅立ちであった。墓は東京小金井多摩墓地にある。七高同窓会は平成二年の七高開校九十年祭の折、「北辰斜に」の記念碑を贈り、盛大な除幕式を行った。

 本稿では、「北辰斜に」の作曲者である須川政太郎さんにスポツトをあてたい。
 昭和二十年二月はじめから七月末までの六ケ月間、私達鹿児島一中の四年生・五年生約三百人は、愛知県半田市の中鳥飛行機半田製作所に学徒動員され、海軍偵察機「彩雲」の生産に従事した。私達は半田市苗代町の苗代寮というバラツクにつめこまれ、ほとんど休日なしで、実働九時間ないし十二時間の労働に従事した。  昭和二十年のある日、級友の園田君・落君・後藤君の三人は、日隈先生からの命で、半田製作所の総務部厚生課勤務の須川さん(半田市東本町在住)のお宅に、防空壕を作るように指示された。三人はショベルなどを持ってお宅を訪れ、二日間で防空壕を作り上げた。須川さんご夫妻は大変喜ばれ、三人は白米のご飯に、味噌汁、魚介の缶詰など、美味しい晩飯を二回ご馳走になった。三人にとっては天国のようなご馳走であった。当時、私達動員学徒はみんな大変飢えていた。雑炊のような御飯をわずかに食べているだけであった。
 その折須川さんが、「僕は音楽の教師で、昔鹿児島師範に勤務した。君達『北辰斜に』を知っていますか」ときかれた。七高に合格していた三人は「知っています。歌えます。」と答えた。須川さんはニツコリ笑って「『北辰斜に』の曲は僕が作曲したんだよ」とおっしやった。三人はびっくり仰天した。

 最近私は、戦後間もない頃、半田高校で須川さんに音楽を教わった人物に会うことができた。その人は近藤盛夫さん(日本福祉大学講師)である。近藤さんは、最近、須川さんのお子さん達と連絡をとり、半田高校を訪れて資料を集めた。こうして須川さんの経歴がかなりわかってきた。
 須川さんは明治十七年二八八四年一十二月十三日和歌山県新宮市に生まれ、和歌山中学を経て、明治三十九年に東京音楽学校甲種師範科に入学し、明治四十一年三月まで二年間勉強して第二学年を終了した後、二年間休学して、東京市茅場小学校で代用教員をつとめた。明治四十三年に第三学年に復学し、翌四十四年に卒業した。卒業後の四十五年四月、長谷川カタ(賢)さんと結婚し、新婚時代をふくむ一年余、東京市十思小学校で訓導をつとめた。カタさんは、明治二十三年十月二十二日北海道に生まれ、明治四十二年三月秋田高女を卒業し、一家と共に、千葉県銚子に移住した。明治四十三年夏、竹久夢二に見初められ、宵待草のヒロインとして知られる美人であった。須川さんは大正元年十二月に、職を得て鹿児島に赴き、大正八年七月までの七年間、鹿児島師範の音楽教論をつとめた、この間しばらく鹿児島一中の音楽教諭を併任した。
 鹿児島での七年間、大正二年九月に長男の敏郎さんが誕生した。そして大正四年に「北辰斜に」を作曲した。須川さん三十歳の時の名曲である。さらに大正七年に、第十七回開校記念祭歌「夕陽直射す」と第十七周年記念寮歌「白露しげき」を作曲した。
 大正八年から大正十年まで、京都女子師範と桃山高女の音楽教諭をつとめ、大正十年から昭和三年まで、彦根高女の音楽教諭をつとめた。この間、大正十四年には、対五高戦応援歌「碧落燃えて」と「魔神のすさび」の二曲を作曲した。鹿児鳥を去って六年、なお七高とのつながりのあったことがわかる。
 昭和三年から昭和十二年まで滋賀女子師範と大津高女の音楽教諭をつとめた。そして、昭和十二年四月から昭和十九年四月までの七年間知多高女(昭和十三年に半田高女と改称)の音楽教諭をつとめた。
 須川さんは昭和十九年四月から昭和二十年九月まで、中島飛行機半田製作所に勤務した。園田君達が会った昭和二十年当時、須川さんは六十歳だった。須川さんも、三人の七高の新入生に半田市で会ってびっくりされたことであろう。当時半田製作所では、所歌(酉條八十作詞)と突撃隊の歌(山田岩三郎作詞)がよく歌われていた。須川さんは突撃隊の歌を作曲した。所歌は信時潔氏が作曲した。
 須川さんと信時氏は東京音学学校の同級生であり親友だった。明冶二十年京都で生まれた信時氏は、明治四十三年に東京音楽学校本科器楽部(チェロ専攻)を卒業し、研究科に進み、大正九年にドイツに留学して作曲を勉強した。帰国して大正十二年以降母校の教壇に立ち作曲法を講じた。作風は古典的であり、山田耕作・弘田竜太郎・成田為三らとともにドイツ風の作曲技法の日本での定着に貢献した。多くの作曲を残しているが、昭和十二年の歌曲「海ゆかば」は、第二次大戦中よく歌われた。
 戦後須川さんは昭和二十二年四月から昭和二十八年三月まで、半田市立高女・半田高校の音楽教諭心得をつとめ、以後昭和三十年一月まで、半田高校の音楽講師をつとめた。昭和二十五年ごろ、須川さんをたずねて、信時氏は半田高校を訪れている。因みに半田高校の校歌は信時氏の作曲である。須川さんはバリトンの素晴しい声で唱っておられた。そして大変元気な先生であった、生徒達はブルドッグというニックネームで呼んでいた。
 須川さんは昭和三十年(一九五五年)七月二十八日半田市成岩の長男敏郎さん宅で逝去された。享年七十歳であった。須川さんには一男三女があった。現在長男は岐阜県土岐市に在住し、長女と次女は愛知県知多郡美浜町に在住し、三女は群馬県利根郡川場村に在住し、皆さんお元気である。妻のカタさんは、昭和四十二年七月二十六日、二女滋子さん宅で逝去された。享年七十六歳であった。御夫妻の墓は新宮市南谷墓地にある。
 私の勤務する日本福祉大学のキャンパスは半田市と美浜町にある。須川さんや「北辰斜に」との因縁を感ぜずにはおられない。


作詞者簗田勝三郎氏
南日本新聞社(2000)による
H25卒業式楠声会H26入学式
参考:

 嗚呼樟蔭に

 上記コラムの著者諏訪兼位先生は、昭和22年(1947)の第46回開校記念祭歌を作詞しておられます。下記に鹿大理学部同窓会のウェブサイトから引用しておきます。

昭和二十二年
 第四十六回開校記念祭歌

  嗚呼樟蔭に

  作詞 諏訪兼位 昭和二十三理二
  作曲 高岡 實 大正十五文乙


一、
 鳴呼樟蔭の靡城の(? ? ?)(ほり)
 南涙の秋酣けゆきて
 過ぎにし跡を顧みば
 傍なき流轉の世のならひ
 悲しき二年の漂泊(さすらひ)
 臥龍の雌伏ぞ静寂ぞ
二、
 眞理の道を求めつつ
 高き理想(のぞみ)にいや灼熱()えて
 空しき夢路辿る世の
 冷嚴(つめた)現實(さま)白熱(ねつ)をもて
 敢然挑む健兒等の
 苦樂の意氣ぞ誰が知らん
三、
 之ぞ夢みし鶴丸は
 櫻岳の雄に嘯きて
 まだ弾きもせぬ若人の
 胸に祕めたる琴の音を
 鬱血晴らす情熱の
 亂舞の歌に高調(たかづ)せん
四、
 友情(なさけ)の泉湧き出でて
 ゆかしき魂を結びては
 青春(はる)二十(はたち)充實(みのり)とて
 三年の旅路(ゆめ)の幸とても
 久遠に生きる丈夫の
 生命の充てる一靑史
五、
 秋甜の饗宴に
 若き五體の血を燃やし
 掲げよ勝鬨手をのべて
 踊りに踊れ今日こそは
 人生の出發(かどで)の歡びに
 酵ひに酵はんか南國(みんなみ)


<お悔やみ>
サイン
諏訪兼位先生(2020年3月)
 2020年3月15日、諏訪先生は急逝されました。享年91歳。直前の9日付けメールが最後でした。論文の感想や七高の思い出、寮歌のことなど、書かれていました。14日にご著書『若き日のヘーゲル』という歌集が届きました(先生は朝日歌壇でご活躍の歌人でもありました)。最後まで頭脳明晰でお元気だったのに残念です。ご冥福をお祈りいたします。  『若き日のヘーゲル』から鹿児島を詠った歌数首。

  • 城山にドンとどろきし幼き日西南戦争の小銃弾採りし
  • 西郷(せご)どんの洞窟(どうくつ)に柵のできあがり観光名所となりし淋しさ
  • 西郷(せご)どんと共に死にたる祖父の墓正月なれば花に溢れしむ
  • さつま芋をから芋と呼ぶふるさとの芋焼酎(いもじょうちゅう)をロックで飲む宵
  • 曽我どんの傘焼きの(ほのほ)頬に()ゆ薩摩兵児(へこ)らの歌声高し
  • サツマとう小さき蜜柑が並びおりドイツの店に桜島の香

文献
  1. 榎並正樹(2020), 諏訪兼位先生の御逝去を悼む. 地学雑誌, Vol.129, No.3, p.N33-N34.


初出日:2001/05/21
更新日:2020/07/12