御仮屋御殿

往時の御仮屋庭園(尚古集成館所蔵)御仮屋庭園図面(尚古集成館)

 仙巌園と共に「花倉御仮屋庭園」として国の名勝に指定されている花倉御仮屋は弘化3年(1846)島津斉興(なりおき)が建設したものです。華倉(けくら)御殿あるいは御仮屋御殿とも言われました。落成後、斉興が泊まったところ「天狗おどし」など怪異な事件があったため、別邸を廃止し、玉里に別に造り直しました。その後、ここは「御金方(おかねほう)」になったのだそうです。お化け屋敷ですから人が近づかなかったので、ここで偽金づくりが行われていたのではないか、と噂されました。庭園にしては頑丈な石塀で囲まれていることも噂の根拠かも知れません。一方、建物は文久3年(1863)の薩英戦争に際して、姫たちの避難所として国分に移築されました。明治維新後は元に戻すために解体されて鹿児島まで運ばれましたが、西南戦争の戦火で焼失してしまいました。建造された弘化3年は、藩財政の建て直しに辣腕を振るった調所(ずしょ)広郷(ひろさと)が家老格に出世した年でもあります。なお、調所によって招かれた肥後の石工岩永三五郎が御殿の土留め擁壁などの工事も行ったと伝えられています。
 さて石塀ですが、御殿を囲む塀なら、周囲を全部囲うのが通例です。しかし、この石塀は庭園の北東側しかありません。しかも庭園外には、庭園内を貫通する花倉第3谷の流路を替えるために、導流堤が石で造られています。付け替えられた川は、石塀に沿う溝に流されています。現在自然遊歩道になっているところです(下は暗渠になっています)。平成5年(1993)8月豪雨の際、ここを流れた谷の水が崩壊を誘発して土石流化、花倉(けくら)病院を襲って患者など15人の犠牲者を出しました。しかし、庭園内ではほとんど出水がなかったとのことです。谷に架けられた小さな石橋も無傷でした。三五郎の思惑通りになったのです。どうも石塀は単なる塀ではなく、導流堤だったのではないでしょうか。だからこそ頑丈に造ったのでしょう。なお、花倉地区は戦後の農地解放で小作に払い下げられるまでは農地で、人は住んでいなかったそうです。三五郎は無人のところに洪水を導こうとしたのです。
 現在では花倉第3谷の下流にも住宅がありますので、砂防ダムを建設中です。しかし、史跡名勝の中に砂防ダムは造れません。敷地外の住宅裏に景観に配慮した小規模な砂防ダムを造り、不足分は庭園内の見えないところに土留め擁壁を造るなどして対処しようとしています。
御仮屋御殿正門庭園石塀と側溝および自然遊歩道
谷出口の導流堤(庭園外)1993災害(右が花倉病院、左の竹藪が庭園)花倉第3谷と集水域

文献:

  1. 原口虎雄(1966), 幕末の薩摩―悲劇の改革者、調所笑左衛門. 中公新書, 183pp.
  2. 文部省科学研究費突発災害調査研究成果自然災害総合研究班(研究代表者 岩松 暉)(1994), 平成5年8月豪雨による鹿児島災害の調査研究研究成果報告書. 文部省自然災害総合研究班, 190pp. 付浸水図A0判1葉.
  3. 1993年豪雨災害鹿児島大学調査研究会(研究代表者 下川悦郎)(1994), 「1993年鹿児島豪雨災害の総合的調査研究」報告書. 鹿児島大学, 229pp.
参考サイト


初出日:2016/01/26 更新日:2016/10/04