1997年田代町土砂災害
現場周辺の斜面は田代火砕流堆積物の非溶結部からなりますが、かなり風化していて軟質です。その斜面にほぼ平行にアカホヤ(幸屋火砕流の降下部)や池田降下軽石が覆っています。しかし、現場は古い崩壊跡地(緑色)で、したがって、降下軽石層は存在せず、直接田代火砕流が露出していました。ただし、左手崩壊地(青色)の左縁には軽石層が残っています。古い崩壊堆積物が見当たらないところを見ると、その時の崩壊はボラすべりだったのかも知れません。
午前5時30分頃、畑の上から土砂がこぼれていたとの近所の方の証言がありますから、その頃から地表流やパイピングが発生し始めたのかも知れません。午前6時00分頃、水と一緒に土砂が吹き出してきたとの未確認情報があります。後述のように、建設会社の方の2度目の崩壊に関する確かな証言がありますから、先ず右手(左写真、上図赤色)のほうでパイピングに起因する崩壊が発生したと思われます。傾斜約20度、幅約15m、長さ約40m、崩壊深約4mでした。6時15分、建設会社の人がたまたまパトロールに来て、生き埋めの方の救助に当たられたそうですので、それより早い時刻に第1回目の崩壊があったことは確かです。この崩壊は急速で、家屋の倒壊はすべてこの第1回目の崩壊によって起こったとのことです。
6時30分、建設会社の別の方が救助作業中に第2回目の崩壊(左写真、上図青色)を目撃しておられます。斜面の傾斜や崩壊の規模は第1回目とほぼ同等です。水と一緒に土砂が吹き出して、泥流状にゆっくりと押し出してきたそうです。やはりパイピングが起きたのでしょうが、右手の崩壊で足下をすくわれたことも一因でしょう。若干足下がすぼまったボトルネック型の地形をしていたため、急速滑落しなかったのかも知れません。被災地の表面を黄褐色の軽石が広く覆っていることが、左手の崩壊が後に起こったことを裏付けています。
こうして鶴園集落では住家3棟・倉庫1棟が倒壊し、3名の方が亡くなり、3名の方が怪我をされました。心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。
上の地形図および証言記録は大根占土木事務所からご提供いただきました。篤く感謝いたします。(9/18)

崩壊地の田代火砕流堆積物は、基底部の乾燥してややしまった硬い部分と、水を多く含み軟質な上半部分とに分けられます。前項に掲載した第1回目崩壊地の写真で人の胸のあたりの白い線から上が軟質なところです。この部分が崩積土なのか、火砕流本体なのかよくわかりません。あるいは、上が田代火砕流で、下が阿多火砕流なのかも知れません。問題はこの軟質な部分が繰り返し振動を与えると液状化してしまうことです。恐らく地下水の通路となる降下軽石層が旧期崩壊によって欠如したため、地下水が常時供給されて水を多量に含んでいたのだと思われます。また、この軟質部分には、ほぼ水平で若干手前に傾斜した数mm~1cm程度の白い粘土質層(左写真)が存在し、その近くにパイピング孔の跡(右写真)が残っていることもあります。この白層の成因は不明ですが、古い地下水面を示すのかも知れません。あるいは、古いすべり面のような剪断面を示すのかも知れません。いずれにせよ、この水を多く含み軟質な田代シラスの存在が崩壊の素因と言えましょう。
<お詫び>
9月21日の時点で書いた文章には田代火砕流を阿多火砕流としておりましたが、この地域の火砕流に詳しい宇井忠英北大教授にお聞きしたところ、鶴園集落の載っている面が阿多火砕流で、今回崩れた裏山は田代火砕流とのことでした。専門家に確かめず、安易に掲載したことをお詫び申し上げます。