2000年3月24日、鹿児島大学理学部地学科最後の卒業生を送り出しましたので、このホームページはこの日をもってフリーズしました。もう更新しません。悪しからず。
 なお、「かだいおうち」は日本における大学研究室ホームページの第1号です。歴史的遺産としてここにアーカイブしておきます。

1997年に発生した鹿児島県における地盤災害

岩松 暉


(長崎県地質調査業協会技術講習会講演, 1997.10.30, 印刷中)


はじめに|鹿児島県北西部地震|出水市針原川土石流災害|台風9719号による災害|おわりに―防災地質学の確立を―

1.はじめに

 九州は災害アイランドである。わが国における土砂災害の約3割は九州が占める(砂防地すべりセンター,1997)。中でも鹿児島県は災害常襲県と言ってよい。数年から10年弱に1回の割合で人的被害を伴う大災害に見舞われる。がけ崩れ(主としてシラス災害)・地すべり・土石流などの土砂災害、水害、台風・竜巻・干ばつなどの気象災害、さらには桜島の降灰被害を含む火山災害等々である。有機農業時代になって虫害も復活しつつある。災害博物館のように何でもそろっているが、地震だけはないと言われてきた。しかし、今年1997年には震災まで発生した。以下、1997年に鹿児島県で発生した地盤災害の概要について述べる。

2.鹿児島県北西部地震

 鹿児島県は地震保険の保険料が一番安い一等地に位置づけされているし、建築基準法でも耐震基準が一番緩やかである。ところが去る1997年3月26日夕刻、鹿児島県北西部は突然の地震に見舞われた。まさに天災は忘れた頃にやってくる。しかし、実は北薩地方ではM6前後の地震なら結構起きていたのである。1961年吉松地震(M5.5)・1968年えびの地震(M6.1)・1994年鹿児島県北部地震(大口地震)(M5.7)が挙げられる。長宗(1989)や角田(1995)によれば、フィリッピンプレートがいくつかに裂けており、宮崎から北薩にかけて西北西―東南東の裂け目が存在するらしい。一連の地震はこうした地下構造に関連して発生するのだという。
 3月26日17時31分紫尾山付近の北緯32.0度東経130.3度、深さ5~6kmを震源とするM6.2の地震が発生し、宮之城町・川内市・阿久根市で震度5強を記録した。発震機構はほぼ東西の左横ずれ断層であった。当初は4月3日4時33分に発生したM5.5の強い余震を筆頭とする余震が頻繁に発生していたが、その後は順調に減衰し安心していた矢先の5月13日14時38分、前回よりやや南を震源とするM6.3の地震が再び発生した。やはり東西性左横ずれ断層であった。しかし、余震の分布は若干異常で、東西方向ばかりでなく、それとは共役の方向の分布も認められた(図1)。この時の震度は川内市で6弱、宮之城町で5強であった。

2-1.アンケート震度

 被災地は過疎地でもあり、地震計の配置が少ない。そこで、詳細な震度と地盤条件の関係を調べるためにアンケートを行った。小学校に依頼して父兄に回答していただいた。3月26日の結果を図2に示す。余震域直上で震度5以上のところが目立つのは当然であるが、川内川沿いの宮之城・鶴田地区および川内市にも震度の高いところが認められる。やはり沖積層が厚いのであろう。

2-2.被害概況

 これら一連の地震の結果、家屋の倒壊、橋梁・堤防等構造物の損壊、斜面崩壊、落石、液状化、道路の亀裂などの被害が発生した。幸い人的被害は少なく、余震も含めた一連の地震で重傷3名、軽傷77名で済んだ。被害総額は140億円以上と見積もられている。なお、これら被害個所を5万分の1地質図にプロットした震災マップを鹿児島県地質調査業協会から出版する予定である。
 構造物、とくに家屋の被害は余震域の宮之城町・鶴田町に集中している。宮之城高校や鶴田小学校で鉄筋コンクリートの柱が座屈破壊したのは有名である(図3)。その他、ブロック塀の倒壊や道路擁壁の倒壊、農業用水路の被害、橋梁橋脚の損壊、河川堤防の地割れなどがあった。
 山崩れ・崖崩れは随所で発生した。震源地付近に紫尾山花崗岩体が分布していたため、マサ土の表層崩壊が目立った(図4)。もちろん、四万十層群の分布面積が一番広いから、数としては四万十層群の表層崩壊が圧倒的に多い。
 落石も多数発生した。安山岩や溶結凝灰岩のように節理の発達した岩石や球状風化の進んだ花崗岩のコアストーンなどでは、径数mに達する巨大岩塊もあった(図5)。直撃された車が一台もなかったのはまさに僥倖に近い。また、主として道路の盛土部分に亀裂が多数発生した。こうした崖崩れ・落石・亀裂などにより長期にわたる交通止めを余儀なくされ、一時孤立状態になった集落もあった。
 一方、震源地からかなり離れているが、阿久根新港や川内市あるいは米ノ津港など埋立地や沖積低地では、液状化やそれに伴う側方流動が発生した(図6)。
 交通途絶だけでなく、水道の断水や停電などライフラインも被害を受け、生活に支障を来した。また、冒頭述べたように地震がないと信じられていただけに住民のショックも大きかった。度重なる余震と三度の震度5を超す激震に見舞われ、不安のため長期間畑のビニールハウスで暮らすお年寄りもあった。阪神大震災の経験に鑑み、大学と行政では早くから心のケアに取り組んだ。
 なお、この地震災害に対して鹿児島大学内の災害科学研究者たちはいち早く鹿児島大学震災調査団を結成、理・工・農・教育・法文からなる総合的な調査研究に取り組んだ。また、鹿児島県地質調査業協会はじめ、コンサルタント各社も調査団を送り込み、調査報告書を刊行した。明春震災1周年記念日には現地宮之城町で鹿大調査団による普及講演会が企画されている。

3.出水市針原川土石流災害

 1997年は、南九州では空梅雨と言われていた。各地の湖やダムの水位が減少して、農業用水の取水制限が取り沙汰されていたのである。しかるに梅雨末期になって今までの分を一度に放出したかのような激しい集中豪雨に見舞われた。7月7日から10日にかけて梅雨前線は北部九州に停滞、南部には太平洋高気圧が居座り、長期にわたって湿舌から湿った空気の供給が続いていた。鹿児島県最北部熊本県境にある出水市でも7月7日未明から雨が降り始め、9日になって時間雨量60mmに達するような豪雨が午前10時頃と午後4時頃と波状的に襲ってきた。10日深夜、雨が小休止になった午前0時50分頃、出水市境町針原地区にある針原川で土石流が発生した(図7)。その時の累計雨量は397mmであった(図8)。土石流は針原の集落を直撃、住家16棟、非住家2棟を押しつぶし、赤ん坊や幼児を含む21名の犠牲者を出してしまった。また、ミカン畑にも多大の損害を与えた。

3-1.矢筈岳山麓の地形

 針原地区は熊本県境にそびえる矢筈岳(標高687m)の西麓にある。矢筈岳の周縁部には海抜200~300m付近に山麓平坦面が存在し、針原川はそこに端を発した小渓流である。
 川原(1997年鹿大卒論, 未公表:一部改変)の地形分類図によれば、米ノ津港東側の下鯖町には広く扇状地が発達している(図9)。また、県境の境川や櫓木川周辺には標高30~80mの中位河岸段丘面が存在し、それより低位の海岸部に低位河岸段丘が広く分布する。境川・櫓木川等ではこれら河岸段丘を切って谷底平野ないし氾濫平野がある。すなわち、土石流が発生して河岸段丘を浸食したのである。実際、境川・櫓木川は渓床に巨礫がごろごろしているいわゆるガレ沢で土石流渓谷である。海岸線の張り出しも、土石流の押し出し地形を示している。こうしてみると、針原川はまだ河岸段丘がそのまま残っており、いずれ他の河川と同様、土石流による浸食が次に発生する可能性が高かったと思われる。

3-2.矢筈岳の地質と風化作用

 矢筈岳は鮮新世~更新世の矢筈岳火山岩類(山本, 1960)に属す輝石安山岩溶岩および同質火砕岩からなる。予察結果では、前述の山麓平坦面よりも標高の低い海岸側は主として火山角礫岩が分布するらしい。著しく風化が進んでおり、火山角礫岩の基質が軟質化して、角礫だけが突出していることが多い。土石流岩塊の生産につながったものであろう。また、球状風化(玉ねぎ風化)も発達し、玉ねぎ構造が随所で見られる(図10)。この玉ねぎの核であるコアストーン(玉石)もやはり岩塊の生産に寄与した。実際、土石流の岩塊の中には玉ねぎの皮(風化殻)が付いたものも多数認められた。
 このような現地生の風化残積物だけでなく、崩壊斜面を構成する堆積物の中には、異地生のマスムーブメント堆積物や崖錐もかなり含まれている(図11)。基質の部分が元の岩石の組織を残していず、土壌と思われるものも含まれるからである。現地生・異地生の両者を含めて斜面堆積物と総称すると、矢筈岳の山麓部には風化して軟質の斜面堆積物が広く厚く分布しているらしい。これらが今回の土石流の素因を構成したと考える。

3-3.斜面崩壊と土石流

 崩壊は針原川中流右岸のやや凹型をした斜面の標高190m付近から発生した。崩壊地向かって右側は基盤で左側は前述の斜面堆積物である(図11)。両者の境界はややカーブしているもののシャープな面で境されており、走向N60E35Wと緩傾斜で、真西へ20度プランジした擦痕が認められる(図12,13)。断層説も唱えられたが、古い時代のマスムーブメントに伴う擦痕と考えたほうがよいと思われる。つまり、地質時代に今回の崩壊とほぼ同じ位置で真西へ向かってマスムーブメントがあり、そこに溝状に堆積物がたまっていたのであろう。今回の崩壊は、大雨のため基盤との境界(不整合面)付近に地下水が集中し、そこから発生したものと思われる。
 約16万m3と見積もられている崩土は、すぐ下流に存在した農業用溜池になだれ込んだため、水を得て流動化した。土石流は、まず溜池正面の小台地に乗り上げ、ついで砂防ダムを埋め尽くすと共に、右岸側斜面に乗り上げた。その勢いで直進し針原の集落を直撃したのである(図14)。なお、針原川は土石流危険渓流と指定されていたため、砂防ダムが建設中でほぼ完成に近かった。不幸中の幸いと言えよう。もしもこれがなかったら、土石流は海岸まで達し、被害を一層壊滅的なものにしていたであろう。
 また、この災害に関しては、避難について教訓を残した。公民館長による再三の避難勧告に誰一人従わなかったため、多くの犠牲者を出したからである。

4.台風9719号による災害

 1997年9月16日台風19号が鹿児島県を縦断した。4日太平洋上に発生した台風19号は14日奄美大島近づいたもののそのまま停滞、15日夕刻になって非常にゆっくりした速度で北上を開始し、16日午前8時過ぎ枕崎に上陸した(図15)。中心気圧960hPa、最大風速45m/sであった。上陸後はスピードを上げ、正午頃には熊本県人吉市に抜けて行った。速度が異常に遅かったため、鹿児島県土は長期にわたって暴風雨に見舞われ、多くの災害が発生した。強風災害・水害・高潮・竜巻などがあったが、地盤災害としては田代町で発生したがけ崩れが一番被害が大きかった。

4-1.田代町の土砂災害

 9月16日午前6時頃、肝属郡田代町鶴園で阿多火砕流堆積物からなる傾斜20度の極めて緩い斜面が崩壊(図16)、死亡3名、軽傷3名の犠牲を出してしまった(図17)。その時までの累計雨量は712mmに達する猛烈な豪雨であった。前日、田代町では防災無線を通じて2回自主避難を呼びかけたが、誰も避難しなかった。出水市針原災害の教訓が生かされなかったのである。
 鶴園集落の裏山は、阿多火砕流の非溶結部(阿多シラス)からなる比高約40m、傾斜20度程度の低い丘陵である。斜面に平行に2層の降下軽石層が覆っている。崩壊は2回にわたって発生した。先ず午前6時00分頃、向かって右手の斜面が崩壊、住家3棟倉庫1棟を一気に押しつぶした。幅約15m、長さ約40m、崩壊深約4mであった。水と一緒に土砂が吹き出してきたとの証言もあり、パイピングが発生したのであろう。実際、頭部にパイピング孔が見られる。次いで6時30分頃、生き埋めの方々の救助作業中に左手の斜面が崩壊、ゆっくりと泥流状に流れて、破損した家屋を更に押し流したという。第1回目の崩壊で足元をすくわれたために不安定になって発生したものと思われる。規模は第1回目と同程度である。

4-2.崩壊の地質的素因

 崩壊現場は古い崩壊跡地で、したがって降下軽石層は存在せず、阿多火砕流堆積物が直接露出している(図17)。軽石層は左手崩壊地の左縁に少し残存しているのみである。 旧期崩壊の滑落崖には降下軽石層が残存しているから、これが地下水を供給し、崩壊現場は常に湿っていたと思われる。実際、この部分だけが竹藪になっていた。その結果、下位の阿多火砕流堆積物は風化して非常に軟質になっている。繰り返し振動を与えると簡単に液状化し、どろどろになってしまうほどである。この様な軟質な風化シラスの存在が崩壊の素因となったのであろう。
 シラス災害というと鹿児島市内でしばしば発生する入戸火砕流堆積物の表層すべりが有名であるが、今回の災害はメカニズムが異なる。入戸の場合は、地質時代が極めて若く(25Ka) 新鮮なため、地形も急崖をなし、崩壊深も数10cm程度と極めて浅い。これに対し、阿多の場合は地質時代が古いため(85-105Ka)、風化が進んでいて軟質になっており、地形も緩やかで崩壊深も深い。

5.おわりに―防災地質学の確立を―

 北陸の地すべりなどと違って、鹿児島の災害は人的被害を伴うのが特徴である。それだけに防災関係者として責任を痛感する。 災害が起きるとテレビに登場して得々と解説する地質学者が多い。そんなに分かっていたのなら何故事前に警告してくれなかったのだと批判を受ける。地質学は解釈・解説の学問であるとそしられる所以である。これからは素因やメカニズムを究明する災害地質学から、災害の予知予測に具体的に貢献し、防災対策に直接資する防災地質学に発展しなければならない。
 筆者はシラス災害や姶良カルデラ壁の土石流災害については、それなりの具体的提言を有するが、今回は災害の実態報告にとどめる。
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更新日:1997年9月25日