『シラス災害―災害に強い鹿児島をめざして―

岩松 暉


はじめに―私とシラス災害―

 私が鹿児島大学に転勤してきたのは1976年4月のことである。日本で数少ない応用地質学講座の助教授としてであった。本来私は、学生時代から大学院にかけて、褶曲の形成機構の研究をしていたのであって、応用地質学など学んだこともなかった。当時母校の東京大学では助手のポストがふさがっていて必然的に博士失業の憂き目にあうところだったが、新潟地震を契機に新潟大学に地盤災害研究施設が新設されたため、偶然助手として拾っていただいた。新潟は日本一の地すべり県であると同時に褶曲の発達した石油地帯でもある。今までの延長線上で油田褶曲や岩石力学のアカデミックな研究をしていたが、災害研にいる以上月給分くらいは災害のことをやらなければと、「岩石物性と地すべり」という論文を書いた。いわばその副業論文が鹿児島大学の故露木利貞教授の目に止まり、応用地質学の専門家と誤解されてお招きいただいたのである。新学期は4月だから大学の人事は冬に行われる。新潟の冬は毎日鉛色の雪雲がたれ込め、いかにもうっとうしい。下見にきた鹿児島はこれと好対照、真っ青な青空と白い煙を上げる桜島、この自然に惚れて二つ返事で転勤を承諾した。応用地質学を本職とするようになるとの意識はあまりなかった。
 ところが赴任直後の6月25日、私の人生観を変える大災害が発生した。鹿児島市を中心にシラス災害が発生、32名にのぼる犠牲者が出たのである。新潟の地すべりは大規模だが、ゆっくりすべるため、人が死ぬことはめったにない。地すべり地とはいっても、棚田に稲穂がゆれるのどかな山村で、日常生活は平穏に行われている。災害地との実感はない。いわば単なる自然現象として客観的な研究対象と考えていればよかった。しかし、鹿児島のシラス災害はまさに災害そのものである。一瞬にして人命が奪われ、多くの人の人生を狂わせる。中でも唐湊の学生下宿(左図)がやられて本学の学生が4名犠牲になったのは大変なショックだった。身内から犠牲者が出たのである。テレビのニュースで聞く余所の災害とは決定的に違う。数日後、花束を持って調査に行った。二階建ての下宿の1階部分が完全に土砂に埋まっている。遺体収容時に掘り出されたのか、泥まみれの辞書と目覚まし時計が捨てられていた。時計は6時半で止まっている(下図)。この時刻、冷たい泥に埋もれて窒息死したのだろうか。無限の可能性を秘めた若者が、無惨にもその前途を絶たれたのである。ご両親の悲しみは察するにあまりある。絶句して立ちつくしてしまった。今までのような及び腰の姿勢で災害に取り組むのはダメだ。災害地質学を本腰を入れてやろう、真の意味で災害を防ぐことに貢献できる実戦的学問をやろうと心に誓った。
 従来、私自身を含めて地質学者は単なるメカニズムの解説をして事足れりとしていた。災害が起きると学問的興味だけで喜んで飛んで行き、トクトクとテレビで解説をする、そうした学者の生態を指して九州大学島原地震火山観測所の太田一也所長は学災(学者災害)と呼んでおられる。こうした放言で住民がパニックに陥ったり、行政が振り回されることに思い至らないのである。さらに言えば、他人の不幸をメシの種(論文の材料)と心得ている不届き者である。警察も大学関係者なら専門家として遇し、災害現場に入れてくれる。しかし、理屈では5分間息を止めていれば死ぬことはわかっているが、家族にとっては、たとえ何時間経っても何日経ってもまだ生きているのだ。それなのに生き埋め現場の真上をどかどか無神経に歩き回り、救助隊の邪魔をしたりするのは誠にけしからんと思う。
 また、被災者数や災害地などをグラフやマップにプロットすることがある。しかし、一つ一つの点は単なる点ではない。人の命と遺族の悲しみが込められているのだ。生活手段を奪われ茫然自失している多くの人々の絶望がこもっているのである。数学のグラフと同じような目で見てはならない。純粋科学と災害科学の違いがここにある。だから学生たちによく言う。災害をテーマに選ぶ者は、野の花1本、線香1本でよいから現場に供える気持ちがなければならない。Cool-headed pure scientistよりもwarm-hearted geologistになって欲しいと。
 以下、このような私の考えに基づいてシラス災害に取り組んできた成果の一端をご紹介したいと思う。観念ばかり先走って実践が伴っていないことを恐れる。ご批判をいただければ幸いである。

1995年早春


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更新日:1996年10月13日