藩政時代の錫山鉱山伊木(1914)による地質記載巡検案内

 錫山鉱山

 藩政時代の錫山鉱山

錫製茶壺コワニエ
 錫山鉱山は、『薩藩政要祿』に「谷山錫山明暦元年末九月より御取立、今以堀方被仰付置候処、宝暦四年戌七月より六月迄、出錫四千五百九拾八斤余有之、御利潤錫六百九匁壱厘余有之」と出てきます。明暦元年(1655年)に発見した人は八木主水佑元信と言われ、八木神社に祀られています。その後、元禄14年(1701年)島津家の直営になり、もっとも栄えたのは、嘉永・安政時代で、正錫の産額は1年10万斤以上に達したそうです(伊木,1914)。当時は遊郭まで具えた一大鉱山街に発展、薩摩藩の財政を支えたようです。現在も錫器が鹿児島の名産になっているのもその名残です。しかし、幕末に来薩したフランス人鉱山技師コワニエ Françoi COIGNET(1835-1902)は、次のように述べ、幕末には浸水のため、衰退したことを伝えています(錫山に関する最古の地質記載です)。
 鹿兒島の南西約二十粁の地點には、錫を含む重要な地域がある。その範圍は、一方向に三粁許りと他の二方向に半粁許りである。予は此處で約二十許りの鑛脈を數へ得たが、殆ど皆北三十度西の走向を有し、西へ六十度乃至八十度の傾斜をもち、その厚さは三十糎から一米五十糎内外である。
 母岩は、砂岩及び細粒礫岩から變質した細粒狀の變成斑狀岩であり、殆ど例外なく總べて石英粒と、それより少量の小さな長石粒から成ってゐる。石地は、普通は灰色であるが、稍ゝ綠がかった黄色を呈してゐる。
 この鑛山は隨分以前から知られてきたが、規則正しく採掘せられたのは二百五十年來である。一八六〇年迄は相當な利益を擧げていたが、この年以來浸水のため、採掘困難となり、遂に一八七二年に至っては七千二百キログラムのみの産出となり、到底出費と釣合ひ得なくなった。
 鑛脈は綠がかった緻密な石英、或は片狀岩石の塊や綠がかった斑狀の砂岩片によって捏り固められた光澤のある小結晶石英によって充されてゐる。黄鐡鑛は甚だ豐富で、細かい粒狀の酸化錫は、この鑛石と共に産出する。
 最後に、若干の鑛脈では多量のタングステンが發見される。尤も總ての鑛石に多少認め得る程度の量はあるものであるが。
 昔の坑道の入口には、約一・五%位の錫を含有する多量の棄石あり、これは充分利潤をあげ得るものである。この事實によって、吾人は次の事を推察し得る。先づ、最近迄採掘費の關係上、七%以下の含有量の鑛石は採掘不可能であったらしいことである。これは、此の鑛山が、西洋式作業を行へば、容易に再採掘し得るほと豐富であるといふ觀念を抱かしむるに足る。
 錫を含む地域には、光澤のある白色の石英結晶を伴って、次の鑛石を含有する鑛脈がある。卽ち黄鐡鑛、琉砒鐡鑛、極く微量の酸化錫及び相當量の金銀である。偶然入手した鑛石を試驗してみたところ、一瓲につき次の結果を得た。金、七十五グラム。銀、千二百七十九グラム。
 日本の鑛業者は、貴金属(金銀等)の産出を當然の事と考へてゐたので、此の鑛脈の如きは探求が思ひのまゝにならないので、之を抛棄してしまったのである。

 伊木(1914)による地質記載

錫山鑛山地質圖(伊木,1914)
 明治以降西洋式採掘法が採用されましたが、採掘が容易な上部は採掘し尽くされていたため勢いは回復しなかったようです。そこで明治19年(1886年)、岩屋疎水道を掘削、一時期年産額5~6万斤に回復しましたが、その後衰退、昭和60年代まで細々と稼行されていました。大正時代には地質調査所の伊木常誠(1914)により、本格的な地質調査が行われました。地質および鉱床を次のように記載しています(カッコ内は現代の用語)。
 薩南半島の基盤ハ中生代ニ屬スル砂岩及粘板岩ノ互層(四万十層群砂岩泥岩互層)ヨリ構成セラレ深成岩タル花崗岩及石英斑岩其弱所ヲ破リテ所々ニ迸入シ、次ヲ諸種ノ火山岩噴出シテ或ハ火山崛起シ或ハ泥熔岩流(火砕流)トナリテ殆と全土ヲ被ヘリ、地質ノ構造夫レ此ノ如ク錯綜スルヲ以テ地皮ニ饒多ノ裂隙ヲ生シ火成岩ノ噴出ニ據リ誘導セラレタル鑛液ハ之ニ沿ヒテ上昇シ鑛物ヲ沈澱シ以テ半鑛脈ヲ形成シタルモノニシテ是レ蓋シ薩南半島ノ金銀鑛床ニ豐富ナル所以ナランカ
 中生層ハ…調査區域ノ大部分ヲ占メ…然レトモ砂岩の發達頗ル顯著ニシテ屢厚層ヲナシ且ツ其質堅硬ナルヲ以テ能ク削剥作用ニ堪ヘ立神嶽及地福山附近ニ見ルカ如ク突起シテ山峯ヲナスコトアリ…本岩層ノ西山附近ヨリ立神嶽ヲ經地福山及事務所ニ至ル部分ハ花崗岩噴出ノ爲メニ接觸變質作用ヲ受ケテ暗紫色ノ硬質岩ニ變シ、又時トシテ綠色若クハ灰色ノ「ホルンフェルス」ニ化セリ、地層ノ層向(走向)ハ調査區域ノ南半ニ於テハ北微東乃至北北東ニシテ常規ノ方向ヲ有シ西方若クハ東方ニ急斜スレトモ北半ニアリテハ東北東乃至西北西ニ走リ傾斜モ亦一定セス、是レ蓋シ北半ハ花崗岩噴出ノ爲メ地層ノ變動セルニ因ルモノナラン…
 本山ノ鑛床ハ砂岩及粘板岩層ノ裂罅中ニ鑛石の充塡シタルモノシシテ…所謂噴氣作用に據リテ成生シタル眞正鑛脈ニ属シ之ヲ誘導シタルモノ、花崗岩ナルコトハ殆ト疑ヲ容レサル所ナリ、鑛脈頗ル多シト雖モ主要ナルモノハ五六條ニシテ何レモ東南東ヨリ西北西ノ方向ニ並走シ北方に急斜スルヲ常トス
 鑛脈ハ概ネ細小ニシテ幅一寸乃至五寸ヲ普通トシ稀ニ一二尺ニ達ス、鑛脈ノ兩盤ハ概ネ判然シ且ツ盤面平滑ニシテ時ニ鏡肌(Slickenside)狀ヲナセル部分ヲ目撃ス、其他紋無ひ(金+通)ニ於ケルカ如ク母岩ハ壓碎セラレテ恰モ角蠻岩(角礫岩)狀ヲ呈スルコトアリ、之ヲ以テ觀レハ鑛石ヲ充塡セル裂罅ナルモノハ恐ラク斷層隙(Faultfissure)ナルヘシ
 鑛石ハ錫石(Cassiterite)ニシテ之ニ隨伴スル鑛物ハ岩屋、西山兩坑ニ於テ多少趣キヲ異ニス、岩屋鑛ニアリテハ黄鐡鑛最モ普通ニシテ其他白雲母、綠泥石アリ…、西山坑ニアリテハ黄鐡鑛ノ外ニ多量ノ磁硫鐡鑛及閃亞鉛鑛ヲ混シ又多少ノ方鉛鑛を伴フ
 錫山には、中生層・花崗岩の他に、地質図にもあるよう、灰石と浮石層が分布しています。灰石は火砕流堆積物の古名で、ここでは入戸火砕流堆積物です。本体はシラス、下部はやや溶結しています。浮石層は「灰石ノ噴流後更ニ火山ヨリ噴出シ本地方ヲ被覆セルモノナリ、現今山地ノ急峻ナル部分ニアリテハ既ニ削剝セラレ之ヲ認メサレトモ苟モ平坦ナル地域若クハ山地ノ緩斜面ニ於テハ殆ト之ヲ目撃セサル所ナシ、其厚サハ二三尺ヨリ七八尺ニ達シ…」とありますから、薩摩降下軽石層でしょう。


 巡検案内

 史跡めぐりならともかく、地質巡検なら錫山小中学校から錫山公民館(立神館)を通って真っ直ぐ南下、突き当たりのロータリーで下車して、423ピーク(御手山)周辺を探索するのがお薦めです。途中に「錫鉱発見の地」もあります。空中写真を見ると、御手山山頂付近に窪地が見えます。露天掘りの跡でしょうか。ロータリーのところに「湧上り坑」の看板がありますので、すぐ分かります。
御手山(423ピーク)付近ステレオ空中写真(CKU20106-C23-10, 11)地理院オルソ空中写真

巡検コース(鉱脈は伊木をトレース:地図の精度が違いますので、ジオレファレンスはあまり正確ではありません。)
マーカーをクリックするとサムネイルがポップアップします。
20万分の1まで縮小するとシームレス地質図ver.2が表示され、任意の地点の地質解説がポップアップします。
御手山湧上り坑 十万斤湧上り坑
 坑口は施錠してあって見学できません。伊木(1914)には、「地福山ノ南方御手山嶽ノ東側ニ舊坑アリ、湧上リ坑ト稱ス」とありますから、大正年間には旧坑扱いだったようです。 坑口はコンクリートブロックで塞がれています。その前面は手選鉱場だったらしく、ズリが散乱しています。恐らく後述南露天掘りから立坑を通じて、ここに鉱石を集め、トロッコで運び出したのでしょう。名称からして最盛期の現場でしょうか。
南露天掘り立坑跡 運搬坑道跡
 直径15m、深さ10~15mの露天掘り跡です。底に立坑があり、ストップ2の坑道に落としたのでしょう。 レール跡や枕木が残されていますから、運搬用坑道だったのでしょう。
北露天掘り跡 鉱石?
 一番高い位置にある露天掘り跡です。地表の飯場から鉱夫が往来したと思われる坂道もあります。 鉱石らしき転石です。錫山鉱山の鉱石は主として錫石cassiterite(SnO2)です。
錫鉱発見の地 大山祇神社
 この場所が錫鉱発見の地と言われています。 大山祇命は鉱山の神様だそうで、1677年(延宝5年)伊予国から招き、錫山の護りとしたのだそうです。境内には錫鉱発見者の八木元信を祀る小さな祠もあります。
手形所跡(立神館) 女郎墓
 現在、公民館兼児童クラブになっている立神館のところには、かつて手形所がありました。 鉱山が栄えると必ず遊郭が生まれます。そこで働いていた女郎達の墓です。延宝元年(1673年)二月十五日と刻まれた墓もあります。


文献
  1. Coignet, François(1874), Note sur la richesse minérale du Japan. Bulletin de la Société de l'Industrie Minérale, Vol.1, No.8, p.
  2. フランシスク・コワニェ著:石川準吉編訳(1944), 『日本鑛物資源に關する覺書』. 羽田書店, 144pp.
  3. 閻 浮生(1893), 薩摩国谿山錫山鑛山の鑛床. 地質学雑誌, Vol.10, No.117, p.247-248.
  4. 伊木常誠(1914), 錫山鉱山調査報文. 地質調査所報告, No.46, p.119-167.
  5. 伊木常誠(1915), 錫山鑛山. 地学雑誌, Vol.27, No.9, p.43-751_1.
  6. 伊木常誠(1915), 錫山鑛山(承前). 地学雑誌, Vol.27, No.10, p.832-842.
  7. 伊木常誠(1915), 錫山鑛山(承前). 地学雑誌, Vol.27, No.11, p.892-906.
  8. 伊集院貞助(1902), 錫山鉱山誌. 錫山小学校, 226pp.
  9. 岩松 暉(1989), 実践的地質学の源流としての薩摩. 鹿児島県地学会誌, 62号, p.17-32.
  10. 鹿児島県(1964), 鹿児島県錫山鉱山地区調査報告書. 鹿児島県, 30pp.
  11. 鹿児島県史料刊行会(1960), 鹿児島県史料集(1)薩藩政要祿. 鹿児島県史料刊行会, 199pp.
  12. 木原三郎(1970), 錫山鉱山史. 65pp. 有山長太郎/鹿児島, (複製)
  13. 木下亀城(1929), 谷山錫礦床の礦化作用. 岩石礦物礦床學, Vol.11, No.6, p.255-266.
  14. 松任谷滋(1967), 南薩における火山性珪化交代鉱床の構造的特長. 日本鉱業会誌, Vol.83, No.955, p.1229-1233.
  15. 白井智子(2019), 幕末期の薩摩藩とお雇い外国人鉱山技師 ─ジャン=フランソワ・コワニェの来日に関する新情報─ . 神戸大学国際文化学研究推進センター2018年度研究報告書, p.7-23.
  16. 滝本 清(1943), 本邦産錫鑛物の研究. 地質学雑誌, Vol.50, No.594, p.82-97.
  17. 滝本 清(1950), 鹿児島県錫山鉱山の地質鉱床―九州の錫鉱床 其の二―. 九州鉱山学会誌, Vol.18, No.5, p.127-133.
  18. 谷山郷土史編纂委員会 (1900), 谷山錫山鉱山谷山善兵衛日記 : 自元治元年九月至慶応二年十月. 谷山郷土史編纂委員会, 第5集.
  19. 谷山市誌編纂委員会(1967), 谷山市誌 第四編産業経済史 第三章鉱業史. 谷山市, p.513-551.
  20. 東京地學協会(1913), 薩摩錫山鑛山. 地學雑誌, Vol25., No.9, p.655-657.
  21. 浦島幸世(1989), 錫山鉱山その始まりと終わり. 鹿児島県地学会誌, No.62, p.1-10.
  22. 山根新次(1937), 鹿児島錫山鉱床に関する一ニの問題. 地質学雑誌, Vol.44, No.525, p..
  23. 著者不明(1899), 島津家錫山鉱山. 薩摩島津家, 36pp.
  24. 著者不明(1933), 薩摩谷山錫山鑛山誌. 57pp. (謄写版写本)
  25. (), . , Vol., No., p..
  26. (), . , Vol., No., p..
  27. (), . , Vol., No., p..

参考サイト:



初出日:2020/05/20
更新日:2020/09/27