かこしまふり(鹿兒島風流)

鹿児島風流(国立公文書館蔵)
 伊東凌舎(草臣)は江戸後期の講釈師で、伊東燕晋を祖と仰ぐ伊東派に属していました。『かこしまふり(鹿兒島風流)』は、凌舎が天保6年(1835)薩摩藩主島津斉興の帰国に際し、供回りとして随行し鹿児島に下った時に、滞留中の見聞を記録したものです。年中行事・風俗・霧島登山の紀行文等が豊富な挿絵と共に記されています。凌舎はざっくばらんな江戸っ子らしく、学者の紀行文とはひと味違っており、市井の人たちまで詳しく観察しています。御城下到着の翌日、稲荷大明神の祭礼があり、流鏑馬見物に出かけた時の一文です。
 琉球人もあまた見物の内にまじわり居る、異風にて候。然る處、諸人の様子、琉人は常に見つけ居候間、めつらしからず。かへって拙者共を皆見物致、内々笑居候。誠にいまいましく、腹の立候様にて、大笑にて御座候。
 以下、地学に関する部分だけ抜粋します。図はすべて国立公文書館デジタルアーカイブからの引用です。

一、上築地拙者住所正面より左りに、櫻嶋見へ候。尤、十一月より十二月中頃迄、常もへ出、けむりうづまき、唐畫のごとくに候處、正月より二月にかけて見へ不申候。これは、風のふき候方へ参り候哉。尤、冬はもえ樣すくなく候由、折々雷のことく音致もえ申候。
一、十一月十八日、大嵐にて雪ふり申候。ゆきは積り候間わづかにて、とけ申候。昨十七日、にじ吹候所、櫻嶋のすそより御城山のすそにて止り申候。気候かわり候事は、たとへ候事成申さず候。
一、櫻嶋は高さ壹里、廻り七里あり。先年、三位樣御代、此所にて狩を被遊候處、櫻嶋の神怒をおこし、もへ出候由、申傳候。是は、定てもへ出んと致候きはに、鐡砲を打候故に、火勢を引出し候に無別條。右に付、櫻嶋、狩は勿論、鐡砲禁制なり。湯治場も有。櫻嶋権現、神體は兎也と云。よりて櫻じまものは、兎を耳長樣といふ。
一、三月十三日、櫻嶋芝居見物に参り候處、 ( 中略)
 歸りがけ、からす島に渡候所、無人島にて、辨天の宮有。砂原にての酒宴一興。はや舟を出し、帆をあげ候處、左りの方より琉球船入津致候は、無類の見物にて候。
一、鹿兒嶋は海邊山際の所故、砂地にて、往来の人常に、ヒラダイといふ草履下駄をはきて、雪駄はまれなり。雨の時、衣類に土はねつけども、干てふるへば忽元のごとくなり。往來も、雨止時は忽水ひきて道よし。通りを馬場といふ。千石馬場、平野馬場、立馬場抔、是なり。是に隨て馬場を、馬乘馬場といふな  

り。
一、水道は江戸同前にかゝり候。舛は皆石にて作る。築地邊は水屋常にあるく。水がめに一杯入て五文なり。
一、俊寛の流されし鬼界が島は、今のイワウが島なり。鬼界は三嶋のうちにて、はるかの海中にあり。
一、琉球國の船路、山川の湊を出、屋久嶋を左りに、七嶋灘を過て大嶋の脇を通る。大船一晝夜に七十五里は走るものなれども、大嶋は如何樣致ても、走りぬける事なし。小琉球と云しも尤なり。鬼介、大嶋、德のしまの三大嶋は、いにしへは琉球の地なりし由、今は御領國の内なり。
一、明時館と申は、天文館なり。此所にて、御領國中、嶋々迄も出す寛政暦をつくり、他國の暦を不用。秤りは町人勝手に作る。舛は猶以なり。
一、天保七年五月廿九日より西方へ、御光越御供致候。 ( 中略)
 翌六月二日滯在。坊の津見物に罷越候。加ご堺より開聞を見る躰、圖の如し。坊の津は、近衛公八景の御哥有。一乘院と申大寺の眞言寺有。船にて壹里のり出し、双劍石、網代等の景色有。左右、唐繪の如し。今日加ご金山、金製法御覽のよし、見殘申候。

一、七月廿三日より、霧嶋參詣致候。鹿兒嶋出立、吉野の牧内を通り、關屋の七曲りより白銀坂を壹里下る。薩摩の箱根と云、御領國第一の難所なり。 ( 後略) 
一、翌日わらちなし。(きり)嶋迄案内四百文、つまさき登りなり。道に犬飼(いんかい)瀧、かせきの原二里の間水なし。曾於郡に入、安樂より四里にて、霧嶋山花林寺壽福坊にやどる。 ( 後略) 
一、翌廿六日、登山。案内貳百四捨八文。山中にわけ入、萩、すゝき茂りし中をおしわけ、あるひは木の枝や竹薮を切ひらき、道なき所を行に、三光と云鳥の鳴を聞。月日ほしほしと鳴。そりゃ山釋枝、馬のくすり。そりゃしゝの通た跡、犬しゝの寢た跡、そりゃ大神のくそ。龍の瀧、水はなし、此谷に入水を呑むなり。ここに水をのみにくる所を、にた待をする。にたとは猪の背をする事。赤松原、櫻多し。萩、女郎花、男郎花、藤袴、桔梗、かるかや、くず、とらの尾、尾花、檜扇、鬼あざみ、いたし。足は血だらけ、きやはんはなし。
 是迄三里。夫より不動の所、夫より上りはげ山、そろそろ焼石にて、むまの背迄急に五町程上りて、馬の背六町程。右はもへ跡すりばちのそこ、左りは日州高原の方遙に見え、實に魂もきゆるばかりの所なり。尤、今日晴天故に、心安く上るなり。又壹町程下りて、西の河原といふ所平地なり。比所にて、必石を壹つ持て頂上へ登る例なり。兵子貳才抔は、大石を背負て上るも有。十町程急に上りて頂上なり。御殿上といふ。
 此道きりしまつゝぢゑちご多し。ゑちごの實にて、カツを凌ぎつゝ上り見れば、兼て聞及、天の逆鉾有。側に石多く

あるは、皆参詣の諸人持上りし也。鉾は實に神代の器なりと云も、左も可有なり。夫より下りて、明礬製法の所行當り、難義なる所甚多し。亦々壹里下り明礬湯に着。


<注>
 「先年、三位樣御代、此所にて狩を被遊候處、櫻嶋の神怒をおこし、もへ出候由、申傳候」とあるのは、桜島安永噴火のことです。お殿様が桜島で狩りを行ったので、桜島の神様が怒って爆発したという伝承があったようです。
 無人島のからす島には弁天宮があったようですが、ここは桜島大正噴火の溶岩で埋まってしまいました。現在、「烏島この下に」の記念碑が建っています。

高千穂峰を下ったところで明礬製造所があったとありますが、恐らく硫黄の採掘場のことでしょう。


文献
  1. 伊東陵舎(1835), かこしまふり. 国立公文書館デジタルアーカイブ
  2. 伊東陵舎(1835), 鹿児島ぶり. 日本庶民生活史料集成 第9巻, p.391-452.
  3. 宮崎成身(栗軒)(), 視聴草(みききぐさ). , Vol., No., p..
  4. 中村明蔵(2000), 薩摩民衆支配の構造―現代民衆意識の基層を探る. 南方新社, 215pp.
  5. 筒井正明・富田克利・小林哲夫(2005), 霧島・御鉢火山における2003年12月以降の噴気活動と明治~大正時代の火山活動. 火山, Vol.50, No.6, p.475-489.
  6. (), . , Vol., No., p..
  7. (), . , Vol., No., p..

参考サイト:



初出日:2018/05/10
更新日:2019/04/01