鹿児島の寺子屋

 寺子屋

一寸子花里画「文学万代の宝」(都立中央図書館蔵)都道府県別寺子屋数(文部省,1890-93)
長野県松本市旧開智学校
(明治9年竣工:国指定重要文化財)
 明治維新で鎖国を解いた日本は、急速にキャッチアップを果たし、西洋列強に追いつきました。その背景には日本人の識字率の高さを挙げる人がいます。江戸時代、支配階級たる武士には各藩に藩校がありましたし、江戸には昌平坂学問所がありました。もちろん、西洋には大学があり、貴族や騎士階級の人たちは教養を身につけていました。一番違う点が一般庶民の教育です。わが国には各地に私塾や寺子屋があり、庶民でも女性でも教育を受けることが出来ました。私塾は漢学など多少高度な教育が行われていたようですが、寺子屋はいわゆる「読み書きそろばん」が主でした。商家に丁稚奉公に行くにしても、女性が武家屋敷に女中奉公に行くにしても、最低限の教養が必要だったからです。
 庶民への教育の普及はいわば民度の一つの有力な指標になります。明治になって文部省が江戸時代の寺子屋について調査を行いました。『日本教育史資料 雑纂』に都道府県別に掲載されています。資料を提出しなかった県があったり、実態より少ないといった批判もあるようですが、一つの目安にはなるでしょう。この資料で、私塾・寺子屋合わせて1,000校以上の県は、1位から長野県・山口県・岡山県・愛知県・熊本県・兵庫県・大阪府です。長野県は現在でも教育県として有名です。右の写真旧開智学校は、明治6年、廃仏毀釈後の廃寺跡に開学、明治9年、地元大工棟梁立石清重の設計施工により「広大華麗・地方無比」とうたわれる擬洋風建築の新校舎が竣工しました。建築費は1万1千余円もかかりましたが、そのおよそ7割を松本町全住民の寄付でまかなったそうです。住民の教育熱心さがうかがわれます。

 鹿児島の寺子屋

名称学科所在地現地名開業廃業教師生徒数身分
・・・読書算術習字鹿児島新町鹿児島市新町天保4年(1833)明治4年(1871)男1男80
鳳尾蕉舎読書習字平山村南九州市川辺町平山慶応2年(1866)継続男1男13
・・・読書習字平山村南九州市川辺町平山元治元年(1864)明治4年(1871)男1男18
女2
・・・読書習字平山村南九州市川辺町平山天保5年(1834)継続男1男16
・・・読書習字平山村南九州市川辺町平山元治元年(1864)継続男1男8
不休堂読書習字作文平山村南九州市川辺町平山文久3年(1863)継続男1男15
李園斎読書習字久志村南さつま市坊津町久志慶応元年(1865)明治7年(1874)男1男35
女8
・・・
静観堂読書習字久志村南さつま市坊津町久志慶応元年(1865)明治7年(1874)男1男30
女4
・・・
求古堂読書習字久志村南さつま市坊津町久志慶応元年(1865)明治7年(1874)男1男15・・・
・・・読書筆道秋目村南さつま市坊津町秋目安政元年(1854)継続男1男17
・・・読書筆道坊村南さつま市坊津町坊万延元年(1860)明治5年(1872)男1男15
・・・読書筆道坊村南さつま市坊津町坊天保元年(1830)明治4年(1871)男1男15
・・・読書筆道泊村南さつま市坊津町泊安政3年(1856)慶応元年(1865)男1男11
・・・読書筆道泊村南さつま市坊津町泊天保10年(1839)明治4年(1871)男1男12
・・・読書筆道赤木名方中金久村奄美市笠利町中金久文化8年(1811)天保2年(1831)男1男80
・・・読書筆道赤木名方中金久村奄美市笠利町中金久文政5年(1822)文政7年(1824)男1男40
・・・読書筆道東方阿木名村瀬戸内町阿木名安政5年(1858)文久3年(1863)男1男19
・・・読書筆道東間切亀津村徳之島町亀津天保13年(1842)万延元年(1860)男1男15
・・・読書筆道東間切亀津村徳之島町亀津天保7年(1836)安政2年(1855)男1男15
 上記『日本教育史資料』では、鹿児島は私塾1校、寺子屋19校で、掲載されている県では最下位から2番目です。この表を見ると地域的に遍在していますから、文部省の調査に対してキチンと対応しなかったのかも知れませんが、数が少なかったのはどうも確かなようです。鹿児島には郷中(ごじゅう)教育があるとしばしば言われます。しかし、これは基本的に士族を対象としています。寺子屋の生徒も士族を対象としているところが圧倒的です。庶民は置き去りにされています。女生徒も僅かですし、女性の教師はいません。
 磯田道史国際日本文化研究センター准教授によると、薩摩藩は知の格差社会であり、藩主は外国語が読み書きできるほどであったのに、庶民の識字率は低く、女性にいたっては3%だったそうです(2020/02/22付南日本新聞「北前船寄港地フォーラムin鹿児島」による)。
 関東では、商家の主は同業組合の用事などで出歩いているため、番頭さんが店を切り盛りし、女将さんが帳簿を付けるといった風潮があったそうです。そのためか、安政江戸地震や富士宝永噴火など、商家の女将さんの日記に良く記録されています。鹿児島に災害の記録があまり残っていないのは、廃仏毀釈(僧侶は当時最大の知識人)や大山県令による焚書などの影響が大きいのでしょうが、庶民の教育力のためかも知れません。
 なお、お茶や焼酎など鹿児島が本場なのに、他県にお株を奪われているのは、マーケティング力のなさを示していますが、江戸時代の士族中心教育の影響と説く人もいます。さて、いかがでしょうか。
 その後、明治維新を迎えます。明治5年(1872)学制が発布され、全国で小学校が設立されます。2年後の明治7年には、鹿児島県でも97校になりましたが、就学率は7.1%に過ぎず全国最下位でした(鹿児島県,2016)。女子にいたっては0.48%で、ほとんど入学出来ていません。

文献

  1. 文部省 編(1890-1891), 日本教育史資料. 〔8〕 雑纂,私塾寺小屋表 上. 文部省, 737pp.
  2. 文部省 編(1891-1893), 日本教育史資料. 〔9〕 雑纂,私塾寺小屋表 下. 文部省, 543pp.
  3. 文部省[総務局編](1903-1904), 日本教育史資料集. 壹. 富山房, 878pp.
  4. 文部省[総務局編](1904), 日本教育史資料集. 八. 富山房, 737pp.
  5. 文部省[総務局編](1904), 日本教育史資料集. 九. 富山房, 542pp.
  6. 石川 謙(1960), 寺子屋 : 庶民教育機関. 至文堂, 237pp.
  7. 石川 謙(1935), 寺子屋. 東方書院, 41pp.
  8. 石川松太郎(1978), 藩校と寺子屋. 教育社, 87pp.
  9. 大岡成美(2003), 寺子屋に関する教育文化学的研究 : その教育理念の淵源とその歴史的展開. 講談社, 453pp.
  10. 沖田行司(2000), 日本人をつくった教育 : 寺子屋・私塾・藩校. 大巧社, pp.
  11. 利根啓三郎(1981), 寺子屋と庶民教育の実証的研究. 雄山閣出版, 399pp.
  12. 梅村佳代(1995), 大和地域の庶民教育の実態―寺子屋・私塾の事例を中心として―. 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学, Vol.44, No.1, p.161-177.
  13. 渡辺信一郎(1995), 江戸の寺子屋と子供たち. 三樹書房, pp.
  14. 鹿児島県知事公室政策調整課(2016), 明治維新150周年記念事業 明治維新と郷土の人々. 鹿児島県,173pp.
  15. (), . , Vol., No., p..
  16. (), . , Vol., No., p..

参考サイト:



初出日:2018/07/07
更新日:2020/02/22