関吉疎水溝

明治42年陸地測量部発行2万分の1地形図「伊敷村」(明治35年測図)シームレス地質図(マーカーをクリックすると写真がポップアップします)
取水口周辺全景取水口の記念碑と石畳
 明治産業革命遺産が世界遺産に登録さたとして注目を浴びています。その中に「関吉疎水溝」もあります。島津斉彬の集成館事業の動力源として使われたとして有名です。しかし、斉彬が建設させたと誤解されていますが、写真の記念碑には
「元禄四年 奉勧請水天為井平安訪也 六月吉日開之」
「代官 木場清兵衛 野田吉左衛門」
と彫られていますから、1692年水田潅漑用に築かれたのです(大木ほか, 2010)。享保7年(1722)21代島津吉貴が磯別邸に隠居する際、その生活用水として整備したそうですから、それまでには確実に磯まで開通していました(深港, 2006)。なお、大正2年(1913)にも改修が行われ、取水口の石畳はこの時のものです。
水排(水車フイゴによる金属の溶解:文献5による)
 集成館事業では、まだ蒸気機関が研究途上だったし藩内に石炭を産出しないこと、江戸時代から鉱石精錬や製鉄のフイゴに水車動力が使われていた実績を有することなどの理由で、拡張して動力源としたものでしょう。
 関吉疎水溝の取水口は稲荷川上流棈木(あべき)川の関吉(現下田町)にあります。吉野溶結凝灰岩の狭窄部に堰をつくり取水しました。後は磯まで約7kmほとんど水平に等高線に沿って延々と導水しました。明治の地形図にはっきり記載されています。点線部(紫色)は隧道です。現行地理院地図でも実方当たりまでは追うことが出来ます(水色の線)。右の地形図を拡大してみてください。
 大木ほか(2010)は地質学的に興味深いことを指摘しています。吉野台地を形成する吉野溶結凝灰岩は南西にゆるく傾斜していますが、その上面の海抜約130m付近を走向に平行に設計されているのです(シームレス地質図参照:クリックすると当該地点の地質解説がポップアップします)。したがって、水路の傾斜は極めてゆるく、0.033度~0.077度になります。溶結凝灰岩の上面付近というのもミソです。隧道を掘るにしても、水路下面は浸食に強い溶結凝灰岩、天端は掘りやすいシラスということになりますから、工期短縮につながったことでしょう。もっとも、そのため、開渠である上流部分は現存していますが、隧道を多用した下流部分は崩落しているところがかなりあります。

 疎水探検記(その1)

静かな遊歩道水汲み場?
 梅雨の晴れ間、2015年6月4日、関吉から実方まで現存する関吉疎水溝をたどってみました。下田町小鷹神社付近までは遊歩道になっており、良い散歩道です。そこからは自動車道の側溝になります。もっともあまり車の通らない閑静な道です。松山迫近くでは2個所、水汲み場とおぼしき階段がついていました。江戸時代からあるものかどうか不明です。所々分水され、水田を潤しています。実方の手前、吉野町158番地周辺で、水路に土嚢が置かれ、実質的に水路としての役割は終わっていました。そこから先は晴れた日ならば空堀になっているでしょう。
 実方で開渠は終わり、暗渠になります。実方公園(桐野利秋生誕地)までは何とか追えそうですが、この辺りから隧道になった模様です。しかし、大明丘団地の大規模開発により、まったく分かりません。これから下流は次回の宿題にしたいと思います。
 なお、今後の探検のために、旧版地形図に載っている疎水溝をジオレファレンスして現在の地形図に載せたのが藍色の線です。

文献:

  1. 深港恭子(2006), 今に残る集成館事業―生きた疎水溝と役割を終えた疎水溝.寺尾美保 代表:みんなの集成館―集成館事業と日本の近代化についての市民研究報告書, p.30–39.
  2. 鹿児島市水道局(1991), 鹿児島市水道史. 南日本新聞開発センター, 901pp.
  3. 熊谷隼人・藤井徹雄(1987), 吉野村疎水溝を往く. 吉野史談会, 30pp.
  4. 大木公彦・深港恭子・寺尾美保・田中 完・桑波田武志・松尾千歳(2010), 集成館事業に使われた疎水溝の地形・地質学的考察. 鹿児島大学理学部紀要, No.43, p.16-24.
  5. 薩摩のものづくり研究会(2011), 集成館熔鉱炉(洋式高炉)の研究. 薩摩藩集成館熔鉱炉跡発掘調査報告書, 197pp.


初出日:2015/10/18
更新日:2020/12/01
祝世界遺産登録