駿府薩摩土手

薩摩土手之碑
明治29年改正静岡市全図(静岡市による)シームレス地質図(濃緑色の部分が現存する薩摩土手)
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 静岡は安倍川の扇状地に当たります。今川氏が治めていた時代には、現中心市街地を幾筋も安倍川の分流が流れていました。扇状地ですから伏流水は豊富で、井戸を掘れば必ず水が出ますが、しばしば洪水に見舞われました。
 その今川氏も滅び徳川氏の時代になります。家康は江戸城の大々的な改築に乗り出します。いわゆる家康の天下普請です。1605年(慶長10年)、秀忠が2代将軍になったとき、江戸城石垣普請のため、島津家久に石漕(せきそう)船300艘の建造を命じ、その費用として黄金150枚(1,500両)を与えます。ところが駿府を家康の隠居城として整備するつもりだったのでしょう、予定を変更して半分の150艘を静岡に回送させました。『靜岡市史』には次のように記載されています。
薩摩土手築造?
是より先二月島津忠恒○家久石網船三百艘を造り、五月百五十艘を駿河国江尻に廻漕した。是は去年七月幕府が江戸築造の石材木材を運ばん爲に、黄金百五十枚を給して造らしめたもので、實は大きな課役である。しかも石幷に材木御用付といへば空船ではなかった。それを駿府城築城の爲に半を割かせたものであって、積み來った木石は小船にうつして巴川から北川に運び、石材の大部は安倍川改修に宛てたのであらう。是れ今も其の堤防に薩摩土手の名を冠する所以か。
 また、新庄道雄によって1816年(文化13年)から1834年(天保5年)にかけて編纂された『駿河國新風土記 第六輯 安倍郡上』には、次のように記載されています。
駿府城天守台発掘調査(2016 ~2020)で発見された島津家家紋㊉入りの石垣石(白色でなぞってある)
さつま通りの道路標識
安倍川改修
しかるを慶長十四年大水荒にて田地のあれしこと本郡松富村にもてる其年の割附とて彦坂九兵衛より下す所の文書にも見え駿府政事錄にも見へたればその時松富村籠上村井宮村に大堤を築て今の川筋一流とし井宮村より中野新田にいたるまでの堤長二千余間川表水當の所には大石垣をつみ敷十六間高三間馬踏六間の堤にて府の固として今に存するものは神祖の賜ものなり
薩摩土手
籠鼻妙見山下より有渡郡中野新田に至るの大堤あり高三間敷拾貳間馬踏六間長貳千四百余間と駿府舊圖にみえたりこの堤は慶長年中安倍川の水流今の所に流され爲に築く所なりと云川表の方方面三四尺の石を積て駿府の城市の圍とす其石㊉を刻めるありて島津家の功役にて築く所なりと云傳ふ
 駿河國新風土記によれば、薩摩藩が堤防普請をしたようにも読み取れますが、歴史作家桐野作人は、堤防普請をしたというよりも、石材を運んできたことにちなむようである、としています。静岡側にも鹿児島側にも堤防普請の詳しい記録はありません。なお、丸十字の家紋の付いた石は駿府城では発見されていますが、薩摩土手ではまだ見つかっていません。

 霞堤

 家康は甲斐の武田氏滅亡後、信玄堤を見て感心し、安倍川にも霞堤(雁行性堰堤)を造らせます。薩摩土手も霞堤でした(明治の地図に痕跡が残っています)。そこに井宮水門はじめ3つの水門を造り、市内に清流を引き入れました。この工事により、駿府城下の水害は根絶され、城下に住む人たちは安心して暮らすことができるようになりました。そこで感謝の意味を込めて「薩摩土手」と呼ばれるようになったのでしょう。新風土記に載っていますから、少なくとも天保年間には通称になったものと思われます。なお、昭和に入り、新富町の薩摩土手跡は、「さつま通り」と呼ばれるようになりました。
 明治維新後、オランダ流近代土木工学が輸入されます。安倍川の薩摩土手も連続堤防に改修されてしまいました。その結果、1914年(大正3年)の大水害を引き起こしてしまったそうです。

余談:駿府城と登呂遺跡

静岡平野の微地形分類図(有賀,1982)
1:扇状地Ⅰ, 2:扇状地Ⅱ, 3:後背低地, 4:旧河道,
5:砂堆, 6:河原及び砂浜, 7:市街地
 右図は有賀(1982)による微地形分類図です。安倍川の分流が乱流していることが見事に表現されています。市街地となっているところは、人工改変が進んで微地形を読み取れなかったのでしょう。これに駿府城と登呂遺跡を書き加えてみました。薩摩土手が市街地をしっかりガードしていることが一目瞭然です。駿府城の堀の水は井宮水門からの水を使ったかも知れませんが、恐らく安倍川の伏流水も含まれていたことでしょう。
 弥生水田集落として名高い国特別史跡登呂遺跡はどうでしょうか。自然堤防上に集落が作られ、水田は、後背湿地の黒泥土(泥炭が分解してできた黒いペースト状の土壌)上に立地した湿田だったようです(松井,1987)。当時の技術水準では用水の掘さくによる灌概は行なわれず、自然の湿地にイネを直播したものと考えられてきました。しかし、その後の再発掘により、畦畔と水路が検出され、登呂遺跡像が大きく変わりつつあります。

文献:

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  2. 新庄道雄(1933~1934), 修訂駿河國新風土記 安倍郡上 第六輯. 志豆波多會, 95pp.
  3. 不詳(1842?), 駿府独案内. 1葉.
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  8. 松下 勝(1989), 水田遺構と自然科学. 第四紀研究, Vol.27, No.4, p.273-278.
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参考サイト:



初出日:2016/09/07
更新日:2020/12/01