古代官道

 律令国家と官道

阿武隈川河口付近の古代官道と3.11津波浸水域
(薄紫色)(島方ほか,2012)
 周知のように、日本の古代国家は律令国家でした。中大兄皇子による大化の改新(646)が断行され、公地公民制・班田収授法・租庸調制などが確立したと言われてきましたが、実際は白村江の戦い(663)の敗北による国際的な危機的状況の中で、飛鳥浄御原令(689)・大宝律令(701)・養老律令(757)と時間をかけて中央集権体制が徐々に出来上がってきたようです。地方統治は、地方を五畿七道に分け、国・郡・里(郷)を置きました。それぞれの首長は国司・郡司・里長(郷長)と呼ばれます。こうした地方と国とを結び、情報伝達を円滑に行い、租・調を都に運んだり、庸のために人が行き来する道路網が整備されました。官道です。もちろん、軍用道路でもありました。官道では、宿駅伝馬制度が取られました。駅路には30里(約16km)ごとに駅家(うまや)が置かれ、駅馬(えきば,はゆま)が常駐していました。道路幅は9~12mもあり(ところによっては20m、後年は6mのところも多い)、なるべく直線的に造られました。今で言うハイウエイです。なお、駅から伝馬(つたわりうま)を使って国内に情報を伝達収集する伝路もあったようです。駅路が一級国道だとしたら、伝路は二級国道でしょうか。
 道路の構造については伝わっていませんが、徒歩が主体でしたから、ローマ街道のような石畳ではなく、版築(はんちく)(突き固めること)程度でした。側溝は設けられていたようです。なお、畿内周辺では車も使われていたとの説もあります。
 島方ほか(2009,2012)は、この古代官道を明治時代の5万分の1地形図に落としました。ちょうど東日本大震災が発生したので、原口・岩松(2011)の津波詳細地図を提供したところ、右図のように、古代官道は見事に津波浸水域を避けていることがわかりました。古代人は災害の教訓を伝承し、これを避けたのでしょう。
<速報> 熊本地震と古代官道
 熊本県阿蘇地域では、近年でも2014年九州北部豪雨災害や2016年熊本・大分地震で被害を受けましたが、古代官道はこのような自然災害リスクを避けるところに立地していたそうです(足立・中曽根,2017)。阿蘇外輪山越えでは、崩壊の危険が多い立野の峡谷部を避け、峠越えのルート(二重峠)を選んでいますし、カルデラ内では、洪水リスクの多い後背湿地を避け、自然堤防などを選んでいるそうです。また、断層変位地形の直線状凹地をうまく活用しています。

 南九州の古代官道

大隅國驛馬蒲生(かもう)大水(おおみず)各五疋
薩摩國驛馬市來(いちく)英禰(あくね)網津(おうづ)田後(たしり)櫟野(いちいの)高來(たかく)各五疋
傳馬市來、英禰、網津、田後驛各五疋
日向國驛馬長井(ながい)川邊(かわのべ)刈田(かつた)美彌(みね)去飛(こひ)兒湯(こゆ)當磨(たいま)廣田(ひろた)救麻(くま)救貳(くに)亞椰(あや)野後(のじり)夷守(ひなもり)真斫(まさき)水俣(みなまた)嶋津(しまづ)各五疋
傳馬長井、川邊、刈田、美彌、兒湯、去飛驛各五疋
西海道南部(永山,2002)西海道南部(島方,2009)
:国府跡, :国分寺跡, :駅比定地 [駅と駅路は永山(2002)をトレースしたもの]
 そこで、西海道(さいかいどう)南部の南九州はどうなっていたのか知りたいところです。隼人の乱などがあり、薩摩国・大隅国・日向国は遅れて設置されましたから、新しい国ですので、記録が残っていそうなものですが、よく分かっていません。
 平安時代の法令集である延喜式の巻廿八兵部省の条項に諸國驛傳馬があり、三州では右のように記載されています。問題はこの駅が現在のどこに当たるかということです。小字名として残っていると良いのですが。
 延喜式自体の記述についても永山(2002)は順序が違うと異論を唱えています。また、大隅国に関しては脱漏もあるとしています。上述の島方ほか(2009)の地図には残念ながら南九州は割愛されています。やはり、よく分からなかったのでしょう。最近、遺跡の発掘が進み、道路跡などが見つかっていますから、やがて明らかになるでしょう。
<参考>駅比定地(諸説あり不確実です)
駅名現在の地名
市來(いちく)出水市武本字市来(いちく)
英禰(あくね)阿久根市波留字辻堂
網津(おうづ)薩摩川内市網津(おうづ)町or港町船間島
高來(たかく)薩摩川内市髙城(たき)町(高来(たかき)小学校あり)
田後(たしり)いちき串木野市上名小字田尻田
櫟野(いちいの)薩摩川内市樋脇町市比野(いちひの)
蒲生(かもう)姶良市蒲生(かもう)町下久徳
大水(おおみず)曽於市財部町大川原or菱刈町前目付近or伊佐市付近or栗野町
長井(ながい)宮崎県北川村川邊(かわのべ)宮崎県延岡市
刈田(かつた)宮崎県日向市美彌(みね)宮崎県日向市
去飛(こひ)宮崎県都農町兒湯(こゆ)宮崎県木城町
當磨(たいま)宮崎県佐土原町廣田(ひろた)宮崎県宮崎市
救麻(くま)宮崎県宮崎市救貳(くに)宮崎県田野町
亞椰(あや)宮崎県綾町野後(のじり)宮崎県野尻町
夷守(ひなもり)宮崎県小林市真斫(まさき)宮崎県えびの市
嶋津(しまづ)宮崎県都城市水俣(みなまた)宮崎県山之口町or熊本県水俣市
 さて、古代官道と地形地質との関係ですが、駅路の位置が不確実なので一概に言えません。沿岸部より少し内陸の勾配の緩いところを選んでいるようにも見えます。国府は平野の穀倉地帯に立地しています。

文献:

  1. 足立勝治・中曽根茂樹(2017), 応用地形学から見た平成28年(2016年)熊本地震―豊後街道と古代官道(駅路)ルートの自然災害リスク―. 日本応用地質学会・九州応用地質学会編『2016年熊本・大分地震災害調査団報告書』, p.47-54.
  2. 青屋昌興(2008), 南九州の地名. 南方新社, 280pp.
  3. 藤岡謙二郎(1973), 古代日向の地域的中心と交通路. 地理学評論, Vol.46, No.10, p.633-642.
  4. 原口 強・岩松 暉(2011), 東日本大震災津波詳細地図〈上巻〉青森・岩手・宮城. 古今書院, 167pp.
  5. 木下 良(2001), 古代日本の計画道路―世界の古代道路 とも比較して―. 地学雑誌, Vol.110, No.1, p.115-120.
  6. 木下 良(), 歴史地理的にみた交通・通信・情報の諸問題―解題にかえて―. , Vol., No., p..
  7. 永山修一(2002), 南九州の古代交通. 古代交通研究, No.12, p.21-34.
  8. 島方洸一ほか(2009), 地図でみる西日本の古代―律令制下の陸海交通・条里・史跡. 平凡社, 296pp.
  9. 島方洸一ほか(2012), 地図でみる東日本の古代―律令制下の陸海交通・条里・史跡. 平凡社, 312pp.
  10. (), . , Vol., No., p..
  11. (), . , Vol., No., p..
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参考サイト:



初出日:2017/05/02
更新日:2020/12/01