鹿児島の祭・行事と災害

おぎおんさあ曽我どんの傘焼き
 貞観時代(859-877)は大地動乱の時代でした。富士山噴火(864-866)、阿蘇山噴火(864,867)、地震・津波(869)、鳥海山噴火(871)、開聞岳噴火(874)など天災が相次いだのです。当時の防災は神に祈るしか方法がありません。開聞岳は神位を正4位下に昇叙されました。枚聞神社の位が高いのはそのためです。
 朝廷は貞観地震(>M8.3)の12日後、当時の国数66本の鉾を立てて大々的な御霊会(ごりょうえ)を催しました。都で疫病が流行ったためでもありました。今に伝わる京都祇園祭の山鉾巡行です。これが薩摩に伝わって「おぎおんさあ」になりました。
 建久4年(1193)5月28日、源頼朝が催した富士の巻狩りの際、曽我十郎五郎の兄弟が父の敵工藤祐経を討った故事に由来します。親孝行の鑑として薩摩では顕彰行事を行ったのでしょう。仇討ちの際、雨夜の行く手を照らすため、兄弟が笠を燃やして松明としたことに因んで傘焼きをするようになったとのことです。旧暦5月28日は梅雨時、大雨でしばしば災害を引き起こしましたので、兄弟のたたり、「曽我の雨」と恐れられてきました。今でいう梅雨末期の集中豪雨です。そこで、この傘焼きには風水害を鎮め、田植えのための雨を乞う意味もあったそうです(鹿児島三大行事保存会リーフレットによる)。

文献:

  1. 牧島知子(2013), おぎおんさぁ―鹿児島市の祇園祭り. 鹿児島国際大学考古学ミュージアム調査研究報告, No.10, p.21-31.
参考サイト:


初出日:2016/01/10
更新日:2017/09/15