鹿児島大空襲

 戦争

「ヘレネーとパリスの愛」
(Jacques-Louis David)
(Wikipediaによる)
 戦争はこの世で最悪の人災です。どの自然災害よりも多くの犠牲者を出します。戦争は双方正義を掲げて戦いますが、イデオロギーの違いが戦争の真の原因ではなく、本質は資源争奪戦であって、例外はトロイア戦争だけだった、それは一人の女性ヘレネーHelenēを巡る争いだった、とある本に書いてありました(本の名前は失念しました)。しかし、そのトロイア戦争も、結局はレバノン杉という森林資源の争奪戦だったようです。ちなみにヘレネーは、スパルタで信仰されていた樹木崇拝に関わる女神だそうです。レバノン杉はスギではなく、マツ科の針葉樹で40mもの高木になります。建材や船材に多用されました。現在では絶滅の危機にあるようです。
 現代では主として石油の利権をめぐる紛争が絶えませんが、将来はレアメタルや水をめぐる戦争が起きるのではないか、との不気味な予言もあります。地質学は資源と直接関わっていますので、戦争には地質屋さんは総動員されてきました。第二次世界大戦では、南洋(現インドネシア)の石油探査に従事していた地質調査所所員10名が、国際法で航海の安全を保証されていた凖病院船阿波丸で帰国途中、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃により殉職しています。いわゆる阿波丸事件です。また、イスラエルがゴラン高原(旧称シリア高原)を長期占領し続けるのも、乾燥地帯での重要な水源地だからです。
 一方、昔の戦争は武士や騎士など武人(専門戦闘要員)同士の戦いでしたが、現代になると、戦争は総力戦となり、女性や子供など非戦闘員まで殺傷されるのが常態化しています。第二次世界大戦では、いわゆる銃後の人たちも多数犠牲になりました。それだからこそ、この世から戦争はなくさなければならないのです。ゴリラは雄同士威嚇しあっても、殺しあうことはないとか。ヒトもゴリラに学ばなければならないのかも知れません。

 鹿児島大空襲

戦災概況図(第一復員省資料課,1945)
3月18日4月8日4月21日6月17日7月27日7月31日8月6日
同上のトレースおよび凡例(印:記念碑所在地、縮小写真がポップアップします)
焼け野原の市街地(総務省HPによる)
 第二次大戦時、鹿児島は地方都市の中では一番ひどい空襲を受けました。米軍が沖縄戦の次に用意した南九州上陸作戦(オリンピック作戦)の地ならしです。一億国民を挙げて軍に編入する義勇兵役法が1945年6月23日に施行されたことをもって、「日本に一般市民(非戦闘員)なし」と、無差別攻撃を行いました。(しかし、鹿児島市街地攻撃はこの法成立の前ですし、3月10日には既に東京大空襲をやっていますから、これは詭弁ですが。)
 空襲は、敗戦の色が濃くなった終戦直前の3月から8月にかけて前後8回行われました。初回は1945年3月18日、郡元町の海軍航空隊が艦載機による攻撃を受け、輸送艦1隻や軍施設が被弾しました。死傷者も軍関係者だけでした。4月以降は住宅地や商業地など無差別攻撃の様相を呈しました。4月9日付け鹿児島日報は、「明らかに沖縄侵攻作戦の一環として、わが特攻隊出撃の阻止にあるものの如く」と報じています。
 もっとも悲惨だったのは6月17日のいわゆる鹿児島大空襲です。今までの爆弾攻撃を変更して、深夜に全市を焼き払う焼夷弾作戦が始まったのです。この夜投下された焼夷弾は推定13万発と言われ、鹿児島市内は火の海と化しました。
月 日主要標的死者数負傷者数被災人口被災戸数
3月18日鹿児島飛行場659-軍施設のみ
4月08日市街地58742412,3722,593
4月21日市街地--4,548878
5月12日鹿児島飛行場--6718
6月17日市街地2,3163,50066,13411,649
7月27日鹿児島駅4206508,9051,783
7月31日鹿児島駅--16,5423,251
8月06日機関車修理工場??6,8171,789
 これら8波にわたる空襲の被害統計は鹿児島市によると表の通りです。また、復員兵や引揚者のために第一復員省が作成した戦災概況図とそれを現在の地図にトレースしたものを右に示します。街へ出たとき、そこが焦土だったことに思いを馳せてみてください。両者とも拡大できます。
<記念碑>
人間之碑

戦災により
非命にたおれた
はらからの
痛恨をおもい
あすのために
この碑を建つ

昭和四十九年六月十七日

鹿児島市市長 末吉利雄
南日本新聞社社長 川越政則

場所:みなと大通り公園
雪に耐えて梅花麗し
           鹿児島市長書
鹿児島市立女子興業学校跡地
現 鹿児島女子高等学校
明治四十四年鹿児島市易居町から上之園町に移転
昭和二十年六月十七日の鹿児島大空襲により焼失
三十五年間の学び舎としての幕を閉じる
<副碑碑文>
太平洋戦争の犠牲になられし 学友の悲痛な叫び
のちの世まで忘るまじ
ああ あれから五十有余年 御霊よ 安らかなれと祈る
平成十六年六月十七日
創立百十周年記念事業
鹿児島女子高等学校同窓会帰厚会建立

場所:共研公園
慰霊碑
 第二次世界大戦の末期、昭和二十年七月二十七日十二時四十五分 敵機の大空襲によって鹿児島駅は壊滅した。
このとき職場を護り尊い犠牲となられた十二名の霊を慰めるため 三十三回忌にあたって関係者一同相計り被爆の地にこれを建立する。
殉職者
 改札掛四名・小荷物掛一名・貨物掛一名・車号掛一名・連結手一名・駅手四名
     氏名享年列挙(略)
昭和五十二年十二月二十五日
 殉職者遺族一同
 被爆当時の鹿児島駅関係者一同
 鹿児島駅職員一同

場所:二番ホーム  
広馬場通り戦災鎮魂慰霊の碑
  碑文
 昭和二十年六月十七日、太平洋戦争の終戦を間近に控え、鹿児島市は大空襲により甚大な被害を受けました。
 市街地中心部の堀江町広馬場通りの三ヶ所の防空壕において、戦災死した春成直助一家七人をはじめ、多くの戦争犠牲者の無念の霊魂は、浮かばれることもなく、歳を経るごとに、風化されようとしています。
 沈吟、空しうして慟哭悲嘆、寂々哀愁憐れむべし。
 我ら志あるものが、慰霊の誠を捧げ生命の尊さを訴え、永遠の平和を願う尊い一灯を点じたく、ここに鎮魂の碑を建立します。
 平成十六年六月十八日
  広馬場通り戦災鎮魂慰霊の会
   代表 春成幸男
   (社団法人三州倶楽部会長)
   春成幸男 書

場所:いづろ通

JR大隅横川駅に残る機銃掃射の弾痕
<注1> 県都鹿児島市だけでなく、出水市・阿久根市・薩摩川内市・いちき串木野市・日置市・姶良市・南さつま市・枕崎市・西之表市など県下全域が被害を受けました。軍需工場だけでなく、物流を断つために鉄道や橋梁も狙われました。
<注2> 2020年8月15日付南日本新聞の報道によれば、同紙が米軍資料を精査したところ、空襲回数は鹿児島市の公式記録よりも多く、少なくとも次の4回が確認されたとのことです。

文献:
  1. 鹿児島市史編さん委員会(1970), 鹿児島市史第2巻. 鹿児島市, 1140pp.
  2. 原口 泉(監修)(2016), 鹿児島市の昭和. 樹林舎, 263pp.
  3. 隈元いさむ・鹿児島県の空襲を記録する会(1985), 鹿児島県の空襲戦災の記録. , 鹿児島県の空襲を記録する会, 555pp.
  4. 小栗 實・榊原敏昭(1996), 米軍資料にみる 6 ・17鹿児島空襲米軍第21爆撃集団作戦任務報告書(試訳). 鹿児島大学社会科学雑誌, No.19, p..
  5. 地質調査所阿波丸殉難者追悼録刊行会編(1979), 阿波丸殉難者追悼録. 地質調査所阿波丸殉難者追悼録刊行会, 245pp.
  6. 南日本新聞社(2020), 連載「鹿児島空襲75年」1~8. 南日本新聞 2020/06/16~2020/06/24.
  7. (), . , Vol., No., p..

参考サイト:



初出日:2019/03/04
更新日:2020/08/15