2000年3月24日、鹿児島大学理学部地学科最後の卒業生を送り出しましたので、このホームページはこの日をもってフリーズしました。もう更新しません。悪しからず。
 なお、「かだいおうち」は日本における大学研究室ホームページの第1号です。歴史的遺産としてここにアーカイブしておきます。

応用地質学史


産業革命と近代地質学の誕生|薩摩と実践的地質学|地質工学の父渡邊 貫|戦中戦後の応用地質学|高度成長と土木地質学|21世紀の応用地質学

◆産業革命と近代地質学の誕生

ロンドン周辺地質図

 James Hutton(1726-1797), William Smith(1769-1839), Charles Lyell(1797-1875)の3人は近代地質学を築いた3巨人と言われます。いずれも産業革命期のイギリスで活躍しました。中でも層序学の父と呼ばれるスミスは、石炭運河の建設に従事した土木技師でした。世界で最初の着色地質図(1812;上図左)を作ったとして有名です。英国地質調査所の現行地質図(上図右)とほとんど変わりません。運河掘削という実用目的から作成されたものであり、同時にその過程で"地層累重の法則"や"地層同定の法則"などを発見しました。
 学問は、生きた現実と切りむすび、歴史の大きなうねりに乗ったとき急速な飛躍をとげます。近代地質学もまた、産業革命期に実践的地質学(応用地質学)としてスタートし、博物学から脱皮しました。スミスは応用地質学の父でもあるのです。

◆薩摩と実践的地質学

わが国最古のクリノコンパス(尚古集成館所蔵)

 上の写真はわが国最古のクリノコンパスです。鹿児島市磯庭園内の尚古集成館にあります。どうして鹿児島にこんなものがあるのでしょうか。実は幕末に鎖国の禁を犯して英国に留学したいわゆる薩摩藩渡欧留学生の中に、鉱山地質学を学んできた人がいるのです。後の官営生野鉱山初代局長朝倉盛明(1800-1888)です。恐らく彼の持ち物でしょう。
 あるいは幕末の1867年に来薩したフランスの鉱山技師Coignet(1835-1925)の物かも知れません。彼はお雇い外国人第1号となった人で、やはり朝倉と共に生野に移り、生野鉱山学校を開きました。「日本鉱物資源に関する覚書」という論文もあります。
 このように、わが国の地質学は先ず実践的地質学として薩摩の地に輸入されたのです。その鹿児島にわが国唯一の応用地質学講座があるのは奇しき縁というほかありません。
朝倉盛明とCoignet

◆地質工学の父 渡邊 貫

渡邊 貫(1898-1974)

 明治維新後の富国強兵時代には、もっぱら地質学は資源開発に奉仕してきました。応用地質学は鉱山地質学と同義語でした。1918年(大正7年)丹那トンネルが着工になります。充分な地質調査もないまま工事に突入したため、生き埋め事故などが多発し世紀の難工事と言われました。そこで、帝大地質学科を卒業したばかりの渡邊 貫(1898-1974)らが鉄道省に採用されます。地質屋が土木方面に進出した最初です。彼は『土木地質學』(1928)、『地質工學』(1935)、『物理地下探査法』(1937)、『弾性波探鑛』(1942)などを著しました。世界的にも最先端を行くもので、現在世界で通用するGeomechanicsという言葉も、彼が作った造語です。わが国だけでなく、世界にとっても、渡邊は地質工学の父と言っても過言ではないでしょう。こうして昭和初期頃から応用地質学は土木地質学方面にシフトし始めます。
 その他、関東大震災(1923)後の帝都復興事業や、地質調査抜きで施工して失敗した五十里ダム(1926)なども、地質学の重要性を土木方面に認識させた事件でした。

◆戦中戦後の応用地質学

 ものの本によれば、「戦争とはイデオロギーの違いで起きるのではなく、古来資源の争奪戦であった」そうです。第二次世界大戦でも、地質屋は海外の地下資源探査に総動員され、多くの優秀な人材が失われました。国内でも地下工場の建設に従事させられた人もいます。応用地質学にとってもやはり暗黒時代で見るべき進歩はありませんでした。
 敗戦により海外領土を失って、狭い4つの島に閉じ込められました。食糧増産のかけ声のもと緊急開拓事業が実施されます。灌漑用水路が建設され、干拓が行われました。こうした事業を学問的に支えたのが農林省の若手技師たちです。大学のアカデミズムからは疎外されていた水文地質学や第四紀地質学が、これと共に急速に発展します。ここでも冒頭述べたように、社会的要請が学問を進歩させる原理を見て取ることができます。
 また、戦争で国土が疲弊していましたから、戦争直後には災害が激発しました。南山城水害や伊勢湾台風を契機に、災害地質研究連絡会や文部省自然災害科学総合研究班などの組織が結成されます。これらが後の応用地質学会や自然災害学会へ発展したのです。

◆高度成長と土木地質学の隆盛

 1960年代は「もはや戦後ではない」と言われ、オリンピックブームに沸きます。池田内閣の所得倍増論から田中内閣の列島改造論へと、ひたすら高度経済成長を追いかけました。新幹線が走り、高速道路が張り巡らされます。空前の建設ラッシュで、地質コンサルタント会社が雨後の筍のように設立され、地学科卒業生の就職先が鉱山から土木建設方面へと様変わりしました。応用地質学=土木地質学という概念が定着したのもこの頃です。以後バブル期まで、地質屋はもっぱら列島改造で儲けさせてもらったのです。

◆21世紀の応用地質学


 高度成長に狂奔した結果、環境破壊・災害激化・農林水産業の衰退などが起こりました。その反省に立って、「持続可能な開発」sustainable developmentという概念が提唱されています。自然の摂理をわきまえた地球にも人間にも優しい環境の創造が求められているのです。悠久の自然史の流れの中で未来を見通すlong rangeの発想と、globalな視野が不可欠です。これこそ地質学のもっとも得意とするところです。21世紀は地球時代であり、地質屋が活躍する時代です。環境デザイン・防災アセスメント・都市基盤整備のような地域アメニティーの追求から、マクロエンジニアリングのような地球規模の地球工学まで、地学科卒業生の活躍の場が広がるでしょう。地質学にたずさわる者の社会的ステータスも現在とは比べものにならないくらい高くなるに違いありません。


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更新日:1995年10月1日