『シラス災害―災害に強い鹿児島をめざして―

岩松 暉


第4章 ボラすべり災害


1976年6月25日の災害|ボラすべりのメカニズム|マスコミに登場した専門家

1976年6月25日の災害

 1976年6月22日から26日にかけて鹿児島地方は地方気象台始まって以来9番目の記録的な豪雨に見舞われた。梅雨末期の集中豪雨である。この間の総雨量は、県中央部の全域で400mmを超え(最大870mm)、時間雨量が50mmを超えるときもあった。鹿児島市でも26日までの累計雨量は431mmに達した。各地で崖崩れが発生、死者32名、重軽傷37名の犠牲者を出した。道路・鉄道・河川なども大きな被害を受け、物的被害の総額は234億円にものぼった。中でも鹿児島市は人口密集地のため人的被害が大きく、14名の死者を出した。犠牲者を出した災害は、大部分市内最大の団地紫原台地の縁辺部で発生した。すなわち、前書きで述べた学生下宿のあった唐湊と後述の宇宿の災害である。
 宇宿を例に取ろう。がけ崩れ現場は紫原台地の南西端、ちょうど唐湊の反対側に位置し、脇田川の支谷にある。6月25日午前6時頃、高さ約30m、幅約50mにわたってくずれ落ち、がけ下の民家5棟を押しつぶして9人の死者を出した。新聞報道によれば、「午前0時30分頃、ものすごい勢いで濁流ががけを流れ落ち、何本かの樹木が押し倒されてバリバリと落ちるなど、くずれ始めの兆候があったという。それから約1時間後、ドーンという一大音響とともに一気に崩壊した。このとき、まず山腹のコンクリート擁壁が倒壊し、それと同時に斜面全体が崩落した」とのことである。
 この写真は、救助作業中近づくのを遠慮して、遠くから望遠レンズで撮影したため、斜面の傾斜が誇張されて写っているが、実際は30~40度程度とかなり緩い。堆積物が滑り落ちずに積もっておられる(堆積物の安息角という)程度に緩いから、ボラ(薩摩降下軽石)層が斜面全面を覆って平行に堆積していた。がけ崩れ下方左右の側壁に黄褐色のボラが残っているのが見える。現在では、そのボラ層が崩れてしまってその下のシラスがむき出しになっているので、いかにもシラス自体が崩れたかの印象を与えるが、実際はボラ層とその上位にある火山灰層などがすべったボラすべりである。なお、被災以前、この斜面は広葉樹を主体とする雑木林であった。また、写真上方は盛土で、裾に壊れたコンクリート擁壁の残骸が見えている。擁壁を築いて内側を盛土し、敷地を広くとろうとしたのであろう。

ボラすべりのメカニズム

 唐湊・宇宿の両者とも同じ地質条件で崩壊のメカニズムも同一である。まず崩壊の原因をなったボラ層を見てみる。写真にボラ層の産状を示す。左下の白い軽石が点在する部分がシラスである。その最上部20~30cmの黒褐色の部分は、著しく風化し有機質に富む。25,000年前に火砕流が流れてから、いつの日か浸食されて斜面が形成され、ボラが11,000年前に堆積するまで地表にあったことを示している。古土壌である。
 このシラス層を不整合に覆ってボラ層が堆積している。層厚は50cm~2mで、台地上で薄く谷斜面上で厚い。一般に10~20cmの黄褐色軽石層と5~20cmのルーズな粗粒火山灰層の互層からなる。軽石は、直径1~2cmのものが多く、指でかるくつぶれるほど風化され、やや粘つく。とくに、不整合面付近の最下層は、粘土化が著しく、軽石もつぶれて乳白色粘土層になっていることもある。この部分だけ粘土鉱物(加水ハロイサイト)が含まれており、上位の層には含まれていない。おそらくこの部分がすべり面になったものと思われる。
 このボラ層は、前述のように斜面全体を覆っているから、がけ下まで連続しており、道路脇に露出している。中には、直径10~20cm、奥行き数10cm~1mの深い孔があいていることがあり、しかもそれらがいくつか連なって幅の広い孔になっていることもある。これは粗粒でルーズなボラが恰好の導水路となって、パイピング現象を起こしたことを示している。軽石は水に浮くから、容易に流出するのである。
 さらに、台地上でもがけ縁に沿って露頭が見られる。建物を建てるにせよ、道路を作るにせよ、砂上の楼閣ならぬボラ上の楼閣では話にならないから、ブルで排土した上に建設する。道路脇にボラの露頭が人工的に作られる訳である。ここをアスファルトで覆えば、ダンプが走ったりしたらひとたまりもない。利用価値がないので、そのまま放置された。こうして、ボラ層はがけ縁に沿って延々と人工的に露出させられたのである。わざわざ雨水のしみ込み口を作ってやったようなものである。実際、災害時にここに亀裂が入り、幅50cm、深さ50cm、長さ100m以上にわたって陥没が発生した。シートで覆ってあるところがそれである。
 以上記載した事実を総合すると、ボラすべりのメカニズムは次のように要約される。自然の状態でボラが載っている斜面があったとする。このボラ層は粗粒でルーズなため、地下水の透水層としては最適である。それに対し古土壌は相対的には不透水層の役割を果たすから、地質時代を通じて、ボラ層最下部は常に水で洗われ、粘土化が促進されていた。それを台地上では団地開発に伴ってがけ縁で人工的に露出させ、雨水の浸透を許してしまった結果、ボラ層の含水比を高めてせん断抵抗を著しく低下させた。同時に、この斜面はボラ層が堆積できるほどに緩いから、ベンチカットして雛壇のように宅地を造成したり、段々畑として利用した。その際、あちこちでボラ層を切り出したために、浸透した地下水の出口を作ってしまった。結局、台地下でパイピングが発生、ちょうど滑り台をすべるように、粘土化した部分がすべり面となって、ボラ層がすべったのである。なお、上述のような山腹擁壁があると、そこで地下水がダムアップされ、擁壁の倒壊をもたらした可能性もある。擁壁の倒壊が斜面全体の崩壊の引き金になったかも知れない。いずれにせよ、斜面の中腹にこのような重量構築物を築くのは不安定要因を増すだけで好ましくない。

マスコミに登場した専門家

 当然のことながら、翌日の新聞紙上には専門家が登場して解説を行っていた。台地上の開発に伴って振動を与えたからシラスが切れたのだとする珍説もあった。確かに上の写真のように、ボラ層がすべった後には、その下のシラスがむき出しにされるから、ちょっと見ると、シラス本体が崩れたように見える。戦後のシラス災害があまりにも有名だったため、鹿児島の災害=シラス災害との固定観念があったのだろう。
 このような説は論外としても、10mのがけがあったら、台地の縁を20mコンクリートで覆えばよいとする説も紹介されていた。恐らく大規模な円弧すべりを想定され、地下水の浸透を考慮して安全を見込んで、半径の倍を被覆すれば、崩壊を防げると考えられたのであろう。この説もまたシラス本体が崩れるということを前提にしている。シラスがけは100mもあるから、すべてのがけ縁を200mもコンクリートで覆うことは経済的に難しい。シラス災害宿命論を助長しかねない。しかし、がけ縁のボラ層を覆うだけなら、幅1~数m程度コンクリートを貼るだけで済む。決して諦める必要はないのである。
 また、実際に現地を調査された砂防専門家は、さすがにきちんと事実を正確に認識しておられたが、論文には「二次シラス」が崩れたと記載されていた。今は亡き春山元寿先生(当時農学部林学科助教授)である。写真のようにボラ層には成層構造があるので、二次シラスと誤解されたのであろう。注意すると、それでは「水成シラス」とすればよいのか、名前など地質屋さんのお好きなように、とのことであった。しかし、水成シラス(二次シラス)は水の中で水平に堆積したものであるから、30数度も傾斜しているということは、高々1万年の間に大地殻変動があったことになってしまう。
 それよりも何よりも困ることは、竹迫団地の例でも述べたが、それが単なる名称の問題と捉えておられることで、「成因が異なれば存在する場所も異なり、災害に対する意義も異なる」ということを理解しておられないことである。降下軽石(ボラ)は空から降ってきたものであるから、斜面上に平行に積もっていることが厄介なのである。Flow(火砕流)とfall(降下火砕物)との違いを説明して差し上げたものであった。今ほど火砕流という語が有名でなかった時代の話である。理学部の地質屋さんと他学部の砂防屋さんや土木屋さんと、お互いにあまり交流がなかったことの証左でもある。以来、春山先生とは大変親しくなったことを懐かしく思い出す。

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更新日:1996年10月13日