1997年7月鹿児島県出水市針原川土石流災害(速報)

岩松 暉


(『自然災害科学』Vol.16, N0.2, 107-111, 1997, 印刷中)


はじめに―気象概況―|矢筈岳山麓の地形|矢筈岳の地質と風化作用|斜面崩壊と土石流|避難の教訓|その後の行政の対応|引用文献

1.はじめに―気象概況―

 1997年は,南九州では空梅雨と言われていた。各地の湖やダムの水位が減少して,農業用水の取水制限が取り沙汰されていたのである。しかるに梅雨末期になって今までの分を一度に放出したかのような激しい集中豪雨に見舞われた。7月7日から10日にかけて梅雨前線は北部九州に停滞,南部には太平洋高気圧が居座り,長期にわたって湿舌から湿った空気の供給が続いていた。鹿児島県最北部熊本県境にある出水市でも7月7日未明から雨が降り始め,9日になって時間雨量60mmに達するような豪雨が午前10時頃と午後4時頃と波状的に襲ってきた。10日深夜,雨が小休止になった午前0時50分頃,出水市境町針原地区にある針原川で土石流が発生した。その時の累計雨量は397mmである(図1)。
 土石流は針原の集落を直撃,住家16棟,非住家2棟を押しつぶし,赤ん坊や幼児を含む21名の犠牲者を出してしまった。また,ミカン畑にも多大の損害を与えた。

2.矢筈岳山麓の地形

 針原地区は熊本県境にそびえる矢筈岳(標高687m)の西麓にある。矢筈岳の周縁部には海抜200~300m付近に山麓平坦面が存在し,針原川はそこに端を発した小渓流である。
 図2に沿岸部の地形分類図を示す(川原1997年鹿大卒論, 未公表:一部改変)。米ノ津港東側の下鯖町には広く扇状地が発達している。また,県境の境川や櫓木川周辺には標高30~80mの中位河岸段丘面が存在し,それより低位の海岸部に低位河岸段丘が広く分布する。境川・櫓木川等ではこれら河岸段丘を切って谷底平野ないし氾濫平野がある。すなわち,土石流が発生して河岸段丘を浸食したのである。実際,境川・櫓木川は渓床に巨礫がごろごろしているいわゆるガレ沢で土石流渓谷である。海岸線の張り出しも,土石流の押し出し地形を示している。こうしてみると,針原川はまだ河岸段丘がそのまま残っており,いずれ他の河川と同様,土石流による浸食が次に発生する可能性が高かったと思われる。

3.矢筈岳の地質と風化作用

 矢筈岳は鮮新世~更新世の矢筈岳火山岩類(山本, 1960)に属す輝石安山岩溶岩および同質火砕岩からなる。予察結果では,前述の山麓平坦面よりも標高の低い海岸側は主として火山角礫岩が分布するらしい。著しく風化が進んでおり,火山角礫岩の基質が軟質化して,角礫だけが突出していることが多い。土石流の岩塊の生産につながったものであろう。また,球状風化(玉ねぎ風化)も発達し,玉ねぎ構造が随所で見られる(写真1)。この玉ねぎの核であるコアストーン(玉石)もやはり岩塊の生産に寄与した。実際,土石流の岩塊の中には玉ねぎの皮(風化殻)が付いたものも多数認められた。このような現地生の風化残積物だけでなく,崩壊斜面を構成する堆積物の中には,異地生のマスムーブメント堆積物や崖錐もかなり含まれていると思われる。基質の部分が元の岩石の組織を残していず,土壌と思われるものも含まれるからである。現地生・異地生の両者を含めて斜面堆積物と総称すると,矢筈岳の山麓部には風化して軟質の斜面堆積物が広く厚く分布しているらしい。これらが今回の土石流の素因を構成したと考える。

4.斜面崩壊と土石流

 崩壊地は,元々若干凹型をした傾斜約40°の斜面にあり,幅約80m,長さ約150m,崩壊深約30数mである(写真2)。地質は大部分上記の斜面堆積物であるが,右側下方には風化した岩盤が見られる。崩壊直後の空撮写真を見ると,かなり地下水が噴き出している。長雨で浸透した水が凹型地形の谷部に集まり,斜面堆積物下面から噴き出して崩壊したものと思われる。

 崩壊した土砂はすぐ下流に存在した農業用溜池になだれ込み,水を得て流動化した。その土量は約20万m3と見積もられている。土石流は,まず溜池正面の小台地に乗り上げ,ついで砂防ダムを埋め尽くすと共に,右岸側斜面に乗り上げた。その勢いで直進し針原の集落を直撃したのである(写真3,図3)。なお,針原川は土石流危険渓流と指定されていたため,砂防ダムが建設中でほぼ完成に近かった。不幸中の幸いと言えよう。もしもこれがなかったら,土石流は海岸まで達し,被害を一層壊滅的なものにしていたであろう。
 一部の新聞報道では,地すべり説や天然ダム決壊説が登場していたが,地すべり面を示す特定の地質層準も認められないし,地すべりにしては幅に比して崩壊深が深すぎる。また,天然ダムがあった証拠となるような水成堆積物の痕跡が谷壁に残っていないし,渓床の木立にも水没を示す痕跡が残っていないので,これらの説は採らない。

5.避難の教訓

 前述のように9日午後4時頃から時間雨量55mmに達する豪雨となったため,出水市は避難所を開設,自主避難を呼びかけた。針原地区でも公民館長が午後5時過ぎと7時頃の2回,有線放送で避難を呼びかけ,公民館の避難所としての開放を告げたが,10日午前0時頃見回った時には誰一人避難していなかったという。しかし,住民の中にも上流で大きな石が転がる音を聞いて不安を感じて,川を見回りに行った人も多かったらしい。土石流発生の約2時間前の午後11時頃,針原川の流量が普段よりも極端に少なくほとんど流れていない状況だったため安心して帰宅したという。小規模な崩壊が発生して川をせき止たか砂防ダムの放水口を塞いだのであろう。帰宅した住民は恐らく洪水のことだけを心配していたのかも知れない。午前0時頃にも大きな石が流れるゴトゴトした音を聞いているというから土石流の前兆現象はあったのである。
 住民の多くが不安を感じて見回りまでしておきながら,どうして避難しなかったのであろうか。やはり災害の伝承がなかったことが災いしている。薩摩藩の北の守り野間ノ関は米ノ津港の北東下鯖町にあった。これより北方,現在の境町は肥後の国との国境地帯で,藩政時代はほとんど無人だったという。針原も戦後の新しい集落である。ミカン山の管理に好都合な位置ではあるが,土石流の直進性を考えれば,もっとも危険なところに立地していると言える。新しい集落は当座の利便性だけで位置を選定されることが多いが,針原もその例に漏れない。
 こうした新しい集落では,100年オーダーで発生する土石流の伝承は当然伝わっていなかった。上流での転石の音や河川流量の急変などの意味するところを住民が知らなかったのである。防災教育の重要性が痛感される。現在では古い集落でも,核家族時代になって祖父母からの伝承がなくなったから,学校教育や公民館講座などの社会教育がその役割を果たさなければならなくなってきている。

6.その後の行政の対応

 被災直後から消防・警察・自衛隊などによる行方不明者の捜索が不眠不休で続けられ,多数が瓦礫の中から救出された。救助犬の活躍もあった。雨が降り続いていたため,立入禁止区域が設定され,住民は公民館等で避難生活を強いられた。雨が上がった15日,避難勧告が解除され,立入禁止も許可制に緩められた。同日,鹿児島県職員や鹿大農学部砂防工学の専門家による崩壊地周辺の現地踏査が行われ,崩壊地左上方に最大20数m,幅30cmに達する亀裂が多数発見された。そのため,二次災害が起きる可能性が高いと判断され,避難勧告が再度出されると共に,仮設住宅の建設が決定された。台風時期が終わるまで住民は不自由な生活を強いられることになる。
 一方,鹿児島県土木部は亀裂からの崩落が必至と見て,斜面の切土と砂防ダム堆砂の除去を早急に行う応急方針を出した。崩落の恐れがあることから,作業員の安全を図るために,雲仙水無川の砂防工事で一躍有名になったリモコンによる無人重機を使用するという。
 最後に,亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に,被災者の皆様に心からお見舞いを申し上げて筆を置く。

引用文献

川原あかね:鹿児島県出水断層系の活動履歴調査, 鹿児島大学卒業論文(未公表),1997.
山本 敬:肥薩火山区の火山地質学的並びに岩石学的研究, 九州工業大学研究報告,1-87,1960.


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更新日:1997年9月18日