鹿児島大学第七高等学校 詳細年表
1950年 昭和25年


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鹿児島大学文理学部;1950年度にすすむ

【公式校務】

1月 17日、試験終了後に本館前広場において卒業式をあげ、食堂において予餞会あり。卒業式には鹿児島大学一般教養部生も参列し、鶴丸城趾を去る最後の「七高生」の行を壮ににした。(増村,1960)
1月17日 最後の卒業式
昭和25年1月17日、試験終了後に本館前広場で最後の卒業式が挙行された。卒業式には新制大学一般教養部学生も参加し、鶴丸城跡を去り行く最後の「卒業生」の行をさかんにした。第47回卒業生356名。緒方校長は諄々と訓示を述べ、いまぞ去りゆく健児に呼びかけ、卒業生総代木村昭哉は切々と別離の心情を披瀝した。(anonymous,1970a )
訓示

 日本の教育制度に於いて70年の歴史をもつ高等学校というものが廃止され、従って50年の歴史をもつ第七高等学校がいよいよこの三月一杯で消えて無くなることはその過去の歴史が美しくその伝統がはなやかであるだけに、非常な物淋しさを感じるものであります。殊に之が敗戦の結果生まれた現象であるために一層の悲哀を感ずる次第でありますが、このことについては昨年10月25日の七高開校記念日に際して述べたのでここに改めてくどくどしく繰り返す必要はないと考えます。

 諸君は然し、七高第47回の卒業生たらんtするものであり、且つ最後の卒業生となるべき人々であります。実に一万近い立派な先輩を持ちながら一人の後輩をも持たぬ気の毒な卒業生であります。七高を親とする末っ子であります。末っ子であるだけに相当甘やかされて育ったかも知れません。それだけに育ての親として教職員は格別の愛情を持ってその成長の健かならんことを特に念願するものであります。

可愛い子には旅をさせろということもあって、いよ諸君を手放すことになりましたが、諸君の前途は必ずしも坦々として砥の如くではありません。先ず目先に控えている大学入学のことも狭い狭い大学の門には数年来の白線浪人数千が今年卒業の諸君と共に先を争って這入ろうとひしめき合っていて、これを突破するだけが一つの困難であるのに、これの難関を突破しても余り好転せぬわが国の経済事情は色々の障害物となって諸君のじっくり腰を据えての勉強を阻止するでしょうし、尚三年後の就職戦線も今年の例をもってすれば必ずしも楽観を許さぬかも知れません。

しかし、今日のお目出度い日に私は暗たんたる見通しのみを述べてお互いの心を暗くしようとは思いません。勿論、見方によっては随分明るい予想も随分多くあるからであります。先ずは、今年は講話条約締結の年と考えられております。敗戦後一挙手一投足悉く制約されていたわくがはずされて、やっとわが国がやや一本立ちが出来そうに思えるのであります。即ち自由が得られることであります。自由のあるところにこそ希望があるからであります。完全なる自由にある所には偉大なる希望があり、理想が生まれるからであります。戦後、現在までの日本人殊に青少年に比較的消極的で気力の乏しいものの多かったことや一種の積極性はあっても道義的に腐敗したものの多かったのは、実は彼等に自由がなく、従って希望がなかったからだと私は見ております。講話条約成立後も直ちに無制限の自由が得られるとも考えられませんが、独立国としての相当な自由が与えられ、従って、諸君は希望と理想を抱いて各方面に活躍の余地が展開され国民が生気を取りもどすと思われます。

 それから、恐らく諸君は全部が旧制の大学に進むと想像され、われわれもそれを祈っておりますが、これは創設間もなくその形式も内容も確立していない新制大学と違って、明治以来100年の歴史と伝統を秩序とを持つ大学に於いて整然と確実に知識と教養とを身に付けることは出来ると考えられます。これは又、諸君以後の学生を羨ますに足る諸君の最後の持つ誇りでありましょう。その点からも諸君は頑張って是非旧制の七つの大学のどれかに入学されんことを希望いたします。

 1950年はいよいよ始まりましたが、この一年がどう過ぎて行くかはまだまだ判然と致しません。成るほど明るい面も暗い面もありましょう。しかし、私がよくいうように、世の中の状勢は時々刻々として推移して変転又変転を続けます。一方自然現象の及ぼす影響から他方人為的工作に至るまで、われわれの周囲の客観的状勢はわれわれの思想や生活に圧迫を加えてきます。これを全面的に無視することははわれわれが生きている限りに於いては殆ど不可能でありますが、それかといって一々これに即応して精神を動揺させていては一日も一刻も心を安ずる暇はありますまい。諦観とかあきらめとかは寧ろ消極的精神態度で望ましくありませんが、世の中を達観して毅然たる人生観、世界観を持つことあ最も必要とするところであります。

なるほど人間は環境に支配されるという意味に於いて運命論者は出来るものでありますが、運命は絶対的にわれわれの抵抗出来ぬものではありません。運命は人間の自由を含み得るものであり、われわれが相当程度にこれを規制することが出来るものであり、われわれは運命の限定を変化させる力を持っておりません。運命は決して盲目的必然の自然条件ではありません。願わくば諸君は徒らに過去にとらわれず、過去を悔まず、過去に憧れず、未来を憂えず、未来に頼らず、未来に夢みず、健在に強く男々しく生き、現在を充実させて、生きて自己を家族を国民を民族を人類を、明るく朗らかにするように力を尽くすように決心して生きぬかれ度いと思います。これは私の人生観の一部でありますので、述べて、諸君の参考にしたいと思います。

 城山の麓、白鶴城跡で感激性の強い諸君の年輩の三年間の生活は、諸君の一人一人に独特な経験を与えたでしょうが、また、共通になつかしい尊い思い出の種も植え付けたと想像されます。教えられるものの差にあっても共に真理の探究者であり、人生航路の同行者であります。お互いの浅からぬえにしに結ばれた友情は、長くお互いの胸の奥所に共通の思い出を作って生き行く限り、たち切れぬ絆となるでしょう。

 さらば行け、諸君、われわれは此処に団体としての別れは告げても、また時と所を変えて個々に会うことは度々あることを楽しみと致しましょう。最後に、教職員一同を代表して諸君の卒業と健康を衷心から祝福いたします。  (緒方,1950)
答辞

 今日此処に私達の送別の会を開くに当たり一言ご挨拶申し上げます。振り返り見ますれば、久しき三年も私達には一瞬の夢の如く過ぎ去り、懐旧の情尽きず、人生の巧みな喜怒哀楽の綾もこの期に如実に現れたるの感が致します。

 人心荒れすさぶ終戦後二年目に憧れの七高に入学し、幾月かをわびしき高尾野で学び、青春の喜びを共に語り小島の浮かぶ浜辺に謳歌したものでした。その間、復興運動に走り、後私達の思慕していた鶴丸城趾に帰ることが出来ました。この歴史豊かな樟の木影で送りし日々の喜びは、別離の期に臨み一つとして私達の心に映らないものはありません。

校長先生を駅前にお迎えした時の感激、薩摩小富士を前にして煙波ただよう磯の浜に戯れし”ボートレース”、古を偲び歴史の古きを喜ぶ多彩な記念祭、城山も震え錦江湾も波立てとばかりに打ちならす太鼓の響の中で、終日遊びし運動会、南国の隅々までも響くと先輩に教わりし銀鈴等の思い出の数々、数え上げる暇もなく胸に鬱積して参ります。

あの若き日の思い出じゃ何時迄も尽きる時はありません。この三年の間の校長先生始め諸先生方の一方ならぬ学問の向上、人格の陶冶に対する懇切なるご指導と甚大なる愛情は、今ここで万言を以ってもいい尽くせません。唯々感謝の念で一杯です。
 
 その上、私達がこの城山を巣立つとともに七高の名も永久に消え去る事を思う時、故郷を失った迷い鳥の様な悲しみがこみ上げて来ますが、私達の喜びや苦しみ等無限の思いをはち切れんばかりに包蔵している、この樟の芝生この石垣は、末永く七高の名を留め私達を呼ぶ事でしょうし、又世界の何処の隅々でも、私達の小さき七高の魂は生きている事でしょう。

 最後に生徒一同を代表しまして、校長先生始め諸先生方のご健康を祈り、又何時までもご指導ご鞭撻下さる事をお願い致します。私達もここに永久の契りを約し、城山の魂を胸に秘めて学園に或いは社会に文化日本建設のために努力し、聊かなりとこの日のご恩に報いる決心です。簡単でありますがこれを以て挨拶の辞と致します。

昭和二十五年一月十七日
第四十七回卒業生総代 
理科三年六組 木村昭哉。   (木村,1950)
28日には落とすことのできない及第会議。
ここに356名の第47回・「最後」の卒業生を送る。
明治37年(1904)第一回卒業生87名を出してより以来の卒業生総数9279名、一年修了生344名。(増村,1960)
2月
3月 31日、七高関係全教職員が集まって、七高解散式をあげた。
緒方校長はその式辞を「終わりよければ、すべてよし」という力強い言葉をもって結び、七高が有終の美をなして50年の歴史(明治34年・1901〜昭和25年・1950)を閉じたことを祝福した。(増村,1960)
緒方健三郎校長が鹿児島大学第七高等学校館長を退任。
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
前の年にもどる 七高造士館;1951年以降にすすむ
鹿児島大学文理学部;1949年度にすすむ



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