第七高等学校造士館・第七高等学校  詳細年表
1946年 昭和21年


1945年後半(年表)にもどる 1947年にすすむ

復活対五高野球戦

7月3日 11時、復活第1回対五高野球戦選手推戴式、郡延夫主将が挨拶。
       応援練習を開始。応援団長は俊部満。(西條ら,1998)
7月14日 対五高野球戦を五高武夫原で行う。13時試合開始、4時間14分にわたる試合は11対12の惜敗。(西條ら,1998)
 《前略》
 昭和21年7月14日、17年前の怨みの日。野球部員は二日前から熊本市に住居をもたれていた郡延夫主将(22理甲4組)のお宅に陣取り、御家族を一室に追い込み、各部屋を占領、合宿中は口にしたこともない銀飯や、終戦後の粗食とは縁遠い山海の珍味で試合への精力をつけさせて頂いたことは忘れられない追憶であり、今紙面をかりて主将の御家族に感謝の言葉を申さねばならない。

 水前寺グラウンドで練習に時を惜しむ頃、五高軍のスパイが現れたという情報がもたらされた。五高の先発投手は浅田が、上田か、などと七高軍のマネージャー田中昭義先輩(昭22理甲5組)、光延久吉先輩(昭22理甲2組)、前園健一君(昭23理4組)の目も武夫原のネット裏に光っていた。

マネージャーの陰ながらの苦労談と言えば、合宿における餌集めにあった。高尾野の集会所がねぐらであった。選手が汗だくで練習の間、マネージャーは出水地方独特の長い柄の一本ある対八車で、唐芋、ふすま、野菜の購入に奔走されていた。米、麦はまだ自由販売ではなかった。フスマのだんごに混ぜられたメリケン粉が多い日は、みな御機嫌であった。どこまでが主食で、どこまではおかずか区別のつかない芋ダゴ汁も続いた。しかし、マネージャーの苦労作とあれば誰一人文句を言うものはなかった。尾籠な話であるが、集会所の便壺はフスマ不消化のまま堆積し、鶏族の糞そのままであった。

その中で、山田専一マネージャー(昭22理甲5組)はフスマだんごに食紅をぬって食膳を明るくしてくれた一流のコックさんであった。鶏肉や卵子は乏しい部費ではなかなか買えなかった。練習で汗をかく体に塩分の補給は必須だった。岩塩がダゴ汁の底にとけていないことも多かった。砂糖はなかった。唐芋の甘みで満足していた。蛋白質の補給に、集会所周辺の藪に棲息する鳥蛇や青大将の黒焼きがさかんに用いられた。

風呂焚きに部生活を捧げられた武原安行(昭25理5組)、田ノ下義明(昭23文甲2組)両君も忘れてはならない。田ノ下君は出水郡野田町の出身だった。時折帰宅して持参されたメリケン粉の多い蒸し饅頭を口にする時は、誰からともなく「我等勝つべく北へ行く」が口遊まれた。

買い出しの大八車がグラウンド脇を通る頃、選手は車にマネージャーはユニフォームに視線を交しながら「頑張っちこー」を連発し、これが遙かに流れる北辰寮の寮歌とうまくマッチした。物資のない合宿生活。七高の部活動の歴史の中で最も苦労したが最も楽しかったと言えるかも知れない。北辰寮の総務、仁科文吾(昭23文乙)が学生大会で高唱された言葉、「分かち合いと触れ合い」の生活、まさにその通りだった。

 ユニフォームは、田中マネージャーや山口勉投手(昭22理甲5組)が尽力され、安川寛先輩(大12理甲)などの寄付金で白生地を求め、これを鹿児島まで運搬、白ネクタイと東郷さんのバッチで懐かしいエルステ(一高女)の生徒に仕立ててもらった。私は好運にも、出来上がったユニフォームを鹿児島まで取りに行く役になった。大分ねたまれた。仕立代を浮かすためもあっただろうが、鹿児島復帰を一刻も憧れていた出水の七高生にとっては、少しでも鹿児島の匂いをかぎたかったのは無理もない。エルステやツバイチの匂いも。

 グローブやミットは郡主将の肝煎りで、たしか熊本刑務所の作品を入手されたと聞いた。熊本の武器を使って武夫原で戦ったとは、これまた、因縁。

 選手の顔振れは、投手(山口勉)、捕手(郡延夫)、一塁(村上輝和?・昭24文甲2組、寺師盛俊・昭23文甲1組)、二塁(松山隆司?・昭23文甲1組、山元昭三・昭23理8組、稲葉君・中退)、三塁(日比野隆・昭23文甲1組)、遊撃(重松峻夫・昭23理5組)、左(石神民也・昭22理甲4組)、中(芹沢昭・昭23理8組、藤川五郎・昭23文乙)、右(中村弘明・昭23文乙)だっただろうか。選手全員で写った写真がないので、残念ながら不明確。訂正は後編第二巻でどなたかにお願いしたい。

 臥薪嘗胆、半年の合宿練習、最後の仕上げの一ヶ月。大学の講義を犠牲にして、野球部の大先輩、中尾治義?(昭19理2組)、甲斐公郎?(昭20理甲3組)両先輩が来られ、シートノックやバッティングの基本のたたき直し、寝食を共にしての指導、そして試合当日まで助力を惜しまれなかった有り難さに感激する。

試合の日、忽然と現れ、ベンチにどっかとはちきれる腰を構え、丸い太い目玉で、指揮をとられた大先輩がある。これ、七高野球部の鬼先輩、袴田郁夫(昭19文1組)先輩である。バッターがボックスに立つ前、先輩が、
 「俺の目を見よ」
 と一喝された瞬間、打者よりも五高軍の捕手、アンパイヤーの方が縮み上がったという話を、後日、五高の友人から聞き、敗戦とはいえ感激した。兎に角、こわい先輩だった。

敗北の翌朝、郡邸の庭で、
 「バットは腕で振るのではない。腰で振るのだ。俺の通りにやれ」
 と言われて、恐る恐る何百本と振らされた。来年の雪辱、復讐の火蓋が袴田先輩の号令で切られた。苦しい思い出ではあったが、翌22年5月25日、鴨池での大勝9対3の勝因はここに始まった。

 敗戦の帰途、私は心内膜炎で倒れ、夏休み中寝込んだ。レギュラーを去ることは残念だった。翌年は、マネージャ−と応援団に廻った。

応援団と言えば、武夫原頭に赤地に白で七高の校章を染め抜いた幟が、北辰寮、啓明寮生を中心に入場して来た情景は今でも目に映る。選手だけが戦うのではない。応援団も戦うのだ。弥次も飛ばない。激励の歌とストーム。ファイトの塊。立ちづくめ、歌いづくめであった。この辺が今時の高校野球と違うところ。

試合時間、延々4時間20分。何か形勢が良くなったり悪くなったりすれば、選手を応援団の前へ連れ出しては応援歌や寮歌で激励するのだから時間がかかるのも無理はない。その間、勿論試合は中断である。アンパイヤーも昔の高校生、試合再開を決して促さず、応援を見守る。対五高戦ならでは見られる光景。

それにしても。4時間の試合中継をニュースも経済市況もやめにして放送してくれたNHK熊本放送局にも驚くとともに感謝する。恐らく五高か七高の先輩が局長ではなかったのだそうか。思い出しても嬉しい限りである。

 《後略》  (芹沢,1963)
 

 《前略》

 七高野球部の復活

 戦時下遂に野球部は解散の止むなきに至ったが、七高校舎も遂に、昭和二十年四月二十一日の爆撃で東寮が倒壊、続いて六月十七日の大空襲で本館を残し殆んどの校舎が全焼する。

 八月十五日の終戦で学校は再開したが、勤労動員から解除された生徒達はそのまま郷里で待機し、仮校舎が高尾野町の旧第二航空隊跡に移転するに及び、始めて二年生及び一年生よりなる始業式が現地で十一月二十六日に挙行された。

 その頃の七高野球部胎動のありさまについては、昭和二十一年度主将郡延夫を始め、山口勉、山田専、光吉正昭などの面々が回想記を記しているので最非御一読願いたい。

 彼らの手記によれば休み時間や放課後ともなれば、誰からともなく軟式の野球道具を持ち出し、キャッチボールをやるようになり、それがいつの間にかクラスマッチに発展して行く。かくするうちに級友の山口勉が郡に野球部復興の話を持ち出したところ、郡も勿論大賛成で早速野球愛好の級友に呼びかけてみた処、之に呼応したのは石神民也、光吉正昭、山田専一、田中昭義、西片守の二年生、中村弘明、村上輝和、芦沢昭、日比野隆、寺師盛俊、田下義明、松山兄一、藤川五郎、重松峻夫、前園健一、稲葉某の一年生の面々とされている。下別府昭三、山元昭三、松山良昭等も同時期に加わったものと思われる。

彼らは早速に米ノ津の集会所を借りて結団宣誓式を
行ない、引き続き旧兵舎の一室を部室と定め、田中昭義の筆による「野球部部室」の看板が掲げられた。

 早速、山口は北九州に飛び、安川大先輩を始め各先輩を廻って資金集めに奔走した。此の辺の事情については是非、彼の手記を参照されたい。先輩・泉六郎は次のように此の時の事を回想している。
 「多分二十一年春のことだったと思うが、七高野球部の山口君等が安川電機に安川先輩を訪れ、スパイクシューズの金具を作って頂くこととなり、その帰途、西鉄本社にいた小生を訪ねて釆た。幸い私は、その頃社会人野球『西鉄』の監督をしていたので、古いボールを二十個程やったことをかすかに覚えている。」と。

 滝川申出身の石神は関西に飛び同窓の青田昇(当時阪急プレーブス)の口添えで球団で使用した古ボールを多数入手した。郡は熊本刑務所に行き、七高先輩の所長に合ってグローブを安く作って貰うことに成功した。

 ユニホームについては当時一年生だった松山良昭は次のように記している。
 「私は当時県庁に居られた折田先輩の所に行き、軍の物資を七高野球部のユニホーム用に出して貰った。この交渉はすでに誰かが行っており、私はただ証明を受け取り栗野町に保管されていた布地を持ち帰って釆たのである。その足で早速エルステ (七高用語。県立第一高女のこと。第二高女はツヴァイテという)に伺い裁縫の先生にユニホームを作って頂くようお願いした処、先生も生徒の裁縫の教材になるといって喜んで引き受けて下さったことが思い出される。」と。

 「私は幸運にも出来上ったユニホームを鹿児島まで取りに行く役になった。大分ねたまれた。仕立代を浮かすためもあっただろうが、鹿児島復帰を一刻も憧れていた出水の七高生にとっては少しでも鹿児島の匂いをかぎたかったのは無理もない。エルステやツパイテの匂いも。」
 とは芦沢昭の「復活第一回対五高野球戟」と題する回想記の一部である。

 対五高戦復活

 郡の手記は続く。
 「やがて、京大在学中の枝吉完、甲斐意義両先輩が来鹿、われわれの下宿に同宿して、連日コーチをやってくれるようになった。 昭和二十一年春、山口と私は五高を訪れ、古沢主将と打ち合せの結果、復活対抗戦を七月十四日、武夫原にて行うこととした。」と。

 之に対し、五高の古沢は次のように述懐する。
 「戦前の四高校戦の復活を先づ考えたが、先輩たちはこの機会になんとかして七高戟を復活しろといってくる。本島五高校長に伝えると、ぜひやれといわれましてね。二十一年二月ごろ、本島校長の手紙を持って疎開中の七高を高尾野に訪ねた。七高の館長も再開しようという。

 新学期になると練習をはじめ、合宿もせねばならない。
ヒマを見ては入手しにくい汽車のキップを工面し、何度も高尾野通いを繰り返し打ち合わせた。そのたたりで、一学期の実習は零点となり、ギョッとした思い出まであります。」
と。

光吉正昭は言う。

 「練習が軌道に乗ってくると、合宿をやろうとの空気が必然的に生れて釆た。高尾野の駅の近くの公民館を借りての合宿が始まり、食糧集めがマネージャーの重要な仕事であった。買出しのこと、糠を食ったこと、生れて始めて蛇を食ったことなど、今から考えると懐しい思い出である。」と。

芦沢の述懐は続く。

 「愈々試合の二日前に七高軍は熊本市西水前寺町の郡主将ご両親の好意により郡家に宿泊、御家族を一室に追い込み各部屋を占領、合宿中は口にしたこともない銀飯や山海の珍味で精力をつけさせて貰ったことを彼らは、今なお感謝と共に忘れられぬ想い出としている。」 と。

 大迫勉は
「小生は蛇を食った高尾野合宿の直後に入部、
対五高戦にやっと間に合いました。」
 と言っている。
 

七月十四日午後一時から五高武夫原で岡主審、菅原、成富塁審、三氏審判の下に五高先攻で開始、一回・五高は一点を先取、二回裏、七高一点をかえし熱戦を思わせたが、三回から俄然混戦状態となり両軍投手のストライクが決まらず、守備陣はエラー続出、又五高中原、七高袴田両コーチから矢のように伝令が飛び、四回を終ったところで二時間もかかる始末、此の試合はNHK熊本放送局から中継され、放送予定時間は二時間となっていたが更に延長、ニュースも経済市況もやめにして完全中継したのも嬉しい思い出の一つであった。

五高は九回
三点をあげて引き離したが、七高はその裏に山口が左越二塁打して三盗、更にPH大迫の起用など反撃に努めて二点を返し、ついに十二対十一と一点差にした。しかも二死満塁で打者は当り屋の三番・中村。あわや逆転かという場面となって両軍応援団も緊張したが、中村の一打は左翼ライナーとなって上田のグラブにおさまった。時に五時十五分、試合時間は実に四時間十五分。

 此の試合を地元の熊本日日新聞は次のように評している。
 「大体両軍とも練習不足と今日から野球を始めましたと言う感じで、選手の野球でなくベンチから引っ張られた試合の感じを受けた。明朗スポーツの本質を生かしてもっとキビキビ、スムーズに試合を進めることに努力すべきと思う。然し何と言っても面白さの点では終戦後第一の試合であった。学生らしい真筆な態度と元気、今後の練習によって技術の向上をはかり全国覇権への精進を祈る。」

 新聞評の正否は敢てここに問わぎるも、両軍選手の心根の幾何かは新聞子により感得されたものと思われる。

 体調を崩すもの続出す

 新チーム結成以来、此の村五高戦の勝利のため、ただ気力だけで全員頑張って釆たのであったが、かくして刀折れ矢早きた今となっては疲労が一挙に吹き出した為、病気による退部者が続出する結果となる。何しろ終戦直後の食糧事情最悪の折でもあり、唯でさえ栄養維持に困難を嘗めているのに、之に加えて猛練習では病人続出も当然と今では言えるが、当時はひたむきに頑張ったのだからたまらない。

先づ光吉が春の練習時に右腕を骨折し
たのを皮切りに、五高戦以後、山田、田中、稲葉、藤川、芦沢、寺師、下別府、山元、田原迫の面々は体調を崩し退部の止むなきに至った。その多くは肋膜炎を発病していたのである。なお田下も一時休部したが翌年からマネージャーとして復活、重松も休部したが、インターハイ終了後、復部して翌年活躍することを得、村上は以来肋膜炎発病のため休学したが野球は休まず卒業まで奮斗する始末、為に現在も体調不足と聞く。

 五高戦以後、病身の山口一人に頼っていた投手陣も立て直しが必要であった。此の辺の事情について郡主将は次のように回想している。

 「袴田先輩ら合議の上で、五高戦の直後に外野手の大迫勉を投手に仕立てるべく、中尾先輩らの指導のもとに急拠フォームから造られることになった。

 私は袴田先輩の命で夏休みを利用して大迫を伴い、当時熊本県下益城郡の山奥の農家に下宿していた大松種蔵氏(袴田先輩の知人、昭和十五年七高卒、東文、兵庫県立猪名川高校校長、昭和五十五年春死去)を紹介されて訪れ、二人して同家の屋根裏に寄宿して毎日農道をランニングし、ピッチングの練習を行ったのである。

 何分、急なことなので、秋のインターハイには間に合わなかったが、そのあと行なわれた鹿児島高専大会では、大迫が見事な投球をみせ勝利を収めたのであった。」

 《後略》

(鶴陵倶楽部,1981)

 戦後野球部の復活

一.揺 藍 期

 敗戦によって校舎を焼失し、動員先から郷里に帰った全国の七高生は学校からの指示を待ってそれぞれ自宅に待機していた。やがて出水郡米ノ津町の小学校に集るよぅにという通達が届いたのは既に秋深い11月(昭20年)の上旬であったと記憶している。

 初めのうちは小学校の校舎を借りて二部制による講義が行われていたが、まもなく高尾野の旧海軍航空隊の兵舎に移ることとなった。学生たちは附近の農家に下宿することとなったが、田圃の中に点在する農家を訪ねて、ともすれば閉領的な農民を相手に下宿を頼むのは容易なことではなく、その範囲は高尾野、米ノ津をはじめ遠くは野田郷、水俣にまで及んだのであった。

 教室は兵舎跡とはいえ窓ガラスは破損し、寒風吹き抜ける中でマントの襟を立てたままで聴講する有様であった。休み時間や放課後、誰からともなく軟式の野球用具を持ち出し、キャッチボールをやるようになった。同好の者が集まりクラス対抗の野球に輿ずるようにもなった。

 仲間の山口勉が私に言った。「野球部を復活させようではないか。俺が補佐するからオマンサ主将をやれよ。」当時山口は病身であり、過激な運動は禁じられている身であった。私は技術的にも人間的にも主将の器でないことを自覚していた。しかし野球部をつくることには賛成であり、体力と健康には自信があったのでみんなの協力を得て野球部復興に努力することを決意した。

 山口勉、石神民也、山田専一、田中昭義、光吉正昭(2年)、中村弘明、村上輝和、芦沢昭、日比野隆、寺師盛俊、田下義明、松山光一、藤川五郎、前園健一、稲葉某(l年)等の同志が集まり米ノ津の集会所を借り、宣誓式を完了したのであった。

 旧兵舎の一室を部室と定め、田中昭義の筆による「野球部々室」の看板が掲げられた。早速山口は北九州に飛び、先輩に連絡して資金集めに奔走した。滝川申出身の石神は関西へとび、同窓の青田昇(当時阪急球団)の口添で球団で使用した中古の硬球を多数入手、私は熊本刑務所に赴き、所長(七高先輩)に合ってグローブを廉価で作成してもらうことに成功した。こうして野球部の形態は除々に整ってきたのであった。

 やがて京大在学中の枝吉完、甲斐憲義両先輩がやって来られ、われわれの下宿に同宿して連日コーチをやってくれるようになった。

 昭和21年春、山口と私は五高を訪れ、五高野球部主将の古沢毅氏と合い、復活対抗戦の打合せを行った。そして第一回を7月14日武夫原にて行うことを決定したのであった。以後ひたすら勝利を目指して練習に励み、戦にのぞんだわけだが、五高戦については「復活第一回対五高野球戦と題して、芦沢昭君が詳細に記しているのでここでは省略することとする。

 二.五高戦以後

炎天下死闘四時間、両軍とも無我夢中、最後は気力の闘いであったが遂に我に利あらず、七高軍は敗れ去った。

 想えばこの一年間、敗戦直後の荒廃した世情の悪条件とたたかい、若き情熱をひたすら勝利に向けて燃やし続けて釆たわれわれであった。腹は減る、練習はつらい。自己と部生活との間隙にしのびよる懐疑の念を、克服し払拭して釆たものは勝たん哉の意欲のみであった。そしてまた潤渇したエネルギーを支えて来たものも勝利への執念、ただそれだけであったのだ。無惨に打砕かれた夢は痛恨の涙と変り果てたのであった。

 頂点に達していた緊張の糸が切れ、ゆるんだ心は消耗した体力、堆積した疲労と重なり、病気による退部部員を続出させる結果となった。

 ギラギラと暑い夏の日射しの続く数日が流れた。国民は空腹とインフレに喘ぎ、ヤミ屋とパンパンが横行する暗い世相が続いていた。そうした中でもスポーツは次第に復興の兆しをみせ、甲子園の中等野球では浪商の平古場投手が快刀乱麻をたつ活躍をみせていた。

 この年の秋、戦後初のインターハイが行われることとなった。直ちに陣容の建て直しをはかるべく、袴田先輩を中心として協議が行われた。私は新入生に富松という明善中出身の捕手経験者が在籍していることを知った。彼は七高と大分経専の両方に合格し、家庭の事情で大分の方え通学していたのであった。当時大分経専には荒巻(後に星野組1毎日球団)という速球投手がいて全国を席巻していたが、富松はこの荒巻とバッテリーを組んでいたのであった。私は久留米の彼の自宅を数回訪れて、七高に来るよう説得した。ようやく九月から彼の加入を得て、高尾野の七高敷地内の旧兵舎の一室に合宿を始めたのであった。

 練習と生活の中心は袴田先輩であった。先ず水泳と下駄ばきを禁じられた。そして
 「常にツマ先で歩け」
 であ
った。火の出るようにノック、夜は一人ずつ先輩の前でスイングを繰返し、矯正された。

食糧が不足すると、彼
は水俣の日窒工場の部長(七高先輩)宛に手紙を書いてくれた。
 「必死に白球を追う真筆で純情な後輩たちの情熱
を汲んで硫安一を御都合下されたく・・・・」
 という趣旨
のものであった。独特の肉太の万年筆による筆跡はまさに情感がこもっていた。

私はマネージャーの前園君とそ
の手紙を持って水俣へ行き、部長と合って硫安一俵をもらって釆た。当時肥料は配給制であり、農家は肥料不足に悩んでいたのでこの一はたちどころに米俵と交換されたのであった。

 最も能率的で効果的な充実した練習と合宿が行われ、見違える程の纏ったチームに育っていった。

 
かなりの自信をもって臨んだインターハイであったが、不運にも第一戦で佐高に7対5で惜敗してしまった。試合に敗れた悔しさはあったが、やるだけのことはやったという爽やかな清涼感が残っていた。

 《後略》  (郡,1981)

 《前略》

 当初、マネージャーをやる積りでいた私は春休みを利用して先輩廻りをした。野球部復活の報告とご支援を仰ぐためであった。大分に田口先輩を、北九州で安川、松本、深田の諸先輩を、福岡で当時の県知事、野田俊作先輩をお訪ねするなどして、多大のご支援と励ましの言葉を頂いた。最後は同じ福岡で泉先輩をお訪ねした。”日本中が食べるだけにも事欠いているこの時期に、何で野球を始めねばならないのか〃というお言葉に前途に立ちふさがる困難の大きさをひし〈と感じた。同時に約二ダーすの硬式ボールを頂戴した。

 新学期に入り、各自が手持の古い道具を持ち寄って練習に入った。一方では道具、ユニフォーム、食糧の調達等もなか〈容易なことではなかった。

 先づグローブは熊本刑務所の受刑囚が作った兎の皮製、これは腰が弱い感じだった。色は兎だから真白。靴は安川先輩に頂いたスパイクを取付けたズック製。ユニフォームが一番遅れて五高戦の直前、布地は先輩のおカで当り前でない(?)方法で調達され、縫製は一高女の生徒の手でなされた。

 出水の海軍航空隊跡の学舎は広々と潤けていた。練習グラウンドはとても広かった。外野に広がった球は果しなくころがり続けるような感じだった。一般生徒の登校前に一汗かき、放課後は又日没まで練習を、時には授業を放棄して練習に打ち込んだこともあった。

 練習のきつさと食糧不足から部員達の顔はこけていき、顔色が黒ずんで釆た。特に日此野のその頃の印象が今でも思い浮ぶ。

 高尾野の合宿では主食に米ぬかや小麦のふすまの団子も食べた。栄養をつけるために蛇を喰ったのもこの頃である。田下が器用にこなし、これを取り囲んで不安そうに見下していた顔、顔、顔。

 諸先輩も次々と南下され、その指導でチームは少しずつ恰好がついて行った。そしていよ〈七月十四日。”百年兵を養うはこの一戦のため”との名言を引き合いに出すのは、おこがまし過ぎるが、遂にわれら待望の五高戦、武夫原頭に七高応援団の赤旗が林立し、その整然たる隊伍は五高軍のそれを圧倒した。そしてそれは力強い援軍であった。

だが……時はまさに盛夏。繁りに繁った武夫原
の周りの巨木の群は、飛行場跡の広々としたグラウンドに馴れ親しんだ私を取り囲んで離さない。それは不気味な黒さだった。”しつかりしろ”と我とわが心を叱った。大黒柱たるべき投手の私にとって、出鼻の不覚だった。

 非常に暑い午後の日射しの中で、私は野球帽の中に氷水で冷した手拭いを入れてマウンドに立った。調子は最低で、四球は連発するしよく打たれた。特に相手のレフト上田には再三長打を食った。今でもベンチからかゝる恐い先輩の掛声が耳に残っている。時にはこんな声もあった。”いゝぞそれでいゝ。今のは審判のミスジャッジだ〃アウトコーナー低目の直球。球審の判定は”ボール〃だった。

 シーソーのような乱戦の末の九回裏、三点を追うわが軍の攻撃。この回の先頭が私。レフト上田の頭上を襲う二塁打で辛じて彼に一矢を報いた。無死一塁二塁から果敢に三盗、捕手の暴投で生還して無死で先づ一点を返す。無暴極る走塁に対する激しい叱声を耳に、兎に角走った。ホームに走る足はヨタヨタだった。三塁から本塁への送球を背後に感じて焦る心に足がちっとも動いて呉れなかつた。

 一死二、三塁から二死満塁、そして無念残念あと一点が取れぬまゝゲームセット。私が武夫原の森に負けて味方を敗戦に追い込んでしまったのだ。控えに廻り、ついにこの試合に出場しなかった投手の藤川と取り合った手に涙がこぼれた。

 戦すんで大勢の部員が健康を害し、中には休学の破目に陥った者も出た。私自身それ以後も決して体調十分でなく斗病生活を続けたこともあった。しかしあの時、主将、郡を中心に五高戦を目ぎし、全部員が夫々の役割に全力をつくした高尾野の部生活は、大変短い期間ではあったが、私にとっては七高時代のすべてのように感じられる。恐らく郡も、石神も田中も同じ思いであろう。勝敗は敢て問わず。まさに”我等が青春に悔なし〃である。
  《後略》  (山口,1981)

回   想

 五高戦については、その伝統のある然も凄絶な戦いの跡を残している事を先輩から聞いていました。戦後復活第一戦は又別な意味で凄絶であったかも知れません。

 試合の前日、郡主将の熊本の自宅を宿舎にして全員が泊り込み試合を待ちました。試合前夜近くにあった水前寺公園を皆で散策をしました。帰り道途中で氷を食べようと誰かが云いだし、それではと店に入りかけた途端に、山口勉さんがすごい剣幕で、
 「明日は試合だ、万一の事が
あったら大変だ、今夜はがまんしろ」
 と皆を引き止め、
すご〈と帰って来た事もありました。それ程神経を使つて試合にのぞんだのでした。

 草いきれと、歓送しきった赤土と、緊張とが入りまじつてなんとなくけだるさを感じながら試合は始まりました。私は今でもこの試合は勝っていた(私のエラーがなければ)と思っています。確か九回の表だったと思います。ツーアウト満塁、バッターの一打が平凡なレフトフライ、二三歩前進して簡単に捕球出来るものと気をぬいたのでしょうか、球はポロリとグラブからこぼれてしまつたのです。ランナーは勿論一掃です。これが九回表の三点だったと思います。これがなければ勝っていた、今でも悔まれる大エラーの一つです。

唯私自身の反省は皆
と一緒に真面目に合宿して練習しておれば、長時間の試合にも耐えてこんな結果にはならなかったのではないか。その後のよい教訓になった事でした。

 その年の唯一の勝利は鹿児島四高専での優勝です。経と優勝戦となり、九回裏ワンアウトでランナー三塁(或は外にもいたかも知れませんが)の場面で余りピッチャーの練習をしていない私が急きよ継投する事になったのです。ウォームアップもそこそこにマウンドにあがりました。三塁の日比野君が「きっとスクイズだよ」そっと教えてくれました。然し一球目を投げる時は無我夢中です。ウォームアップ不足のせいか高い球です。然しバッターはスクイズの積りですから、バットをだします。三塁走者は走ってくる。高い球はバットに当るとかるいキャッチャーフライとなり、富松君が捕球して三塁へ。絵に措いたような併殺となりゲームセットでした。

確か一
点差だったと思います。実の所持にウエストする積りはなかったのですが、たまたま高い球となったわけで、勝利とはこんなものかも知れません。継投して唯一球投げただけで試合終了でした。
 《後略》  (中村,1981)

 「本日正午、本館前に於て我が光栄ある選手諸兄の推戴式を行ふ。全員参加せられたし」
決戦の日は刻々と迫ってきた。きたる二十五日は肥後なる五高との大野球戦の日である。歴史をたづぬれは五高・七高野球戦は大正初期にその源を発し、毎年一回夏あるひは冬、鶴丸城下において、あるひは五高武夫原において、決死の戦ひをくりひろげてきた。過去の戦蹟は七高が圧倒的に優勢である。

 旧制高等学校にはいづれも隣接校と組み定期戦をやる習慣がある。一高対三高、二高対水戸高、四高対八高、五高対七高等々その代表的なものである。七高は赤、五高は白の大応援旗のもと選手は母校の栄誉を荷ひ、応援団は友の死闘に専心応援をおくり、全七高いな全薩南をあげて五高すなはち肥後勢に対し、意気と熱と人格と友情の戦ひをくりひろげてきた。こころみに寮歌集をひもどけは激越のことはもすさまじく力強いリズムを有するもの、すべてこれ対五高戦の応援歌である。

 大正十一年応援団の不運の衝突から竹槍事件へと発展し、つひに中断せられて二十年、この間戦火の拡大から戦後の混乱に至るまで、両校の相まみゆることがなかった。しかし昭和二十一年度より五高校長・浅野七高館長および両校先輩の斡旋によって久しく両校の間を蔽ってゐた暗雲晴れ、ふたたび年一回の定期野球戦は復活したのである。

 昭和二十一年七月十四日「戦雲こもるかの武夫原に輝く歴史をまた重ねんと」必勝の意気すさまじく北上した郡主将以下の七高軍は、接戦九合のすえ十二対十一にて惜敗し、雄図むなしく色あせし夕映雲のもと、ただ相擁し、哭くのみであった。

  恨・は探し地に荒む  この凄惨の一星霜
   にがき盃敗簾の   ああ断腸のその味よ

 いざ来年こそは鶴丸城下に矯敵を屠り感激の乱舞をせんと曹ひ合ったあの日、敗残の盃を共に飲み干した十余人の選手また七首の応援団ひ思へは薪に臥し胆をなめ来ったこの忍苦の一春秋。武夫原の屈辱はこれを転じて鶴丸の凱歌となせ。烈々たる朔夙に面をさらし桜岳嵐の吹きすさぶ校庭に孜々として練習に余念なき選手の念頭に浮ぶはただ打倒五高の四字あるのみであった。

  雪辱の念堪へがたく 土にまみれし腕もて
   熱球北に郷ては   山河新に波ゆらぐ

 《後略》   (山口,1988)

【公式校務】

1月  12月8日、高尾野校舎の一時使用を軍政官より許可され、出水町公会堂・借用教室に分散した学具・図書を集めて、冬期休暇あけの昭和21年(1941)1月7日より、高尾野校舎における授業を開始した。
 教職員・生徒は広く米ノ津・出水・高尾野・野田の諸町村にわたって分宿し、校内にも先ず一寮を開設したが、後に新入生及び下宿を失う者のために寮舎を増設した。(増村,1960)
1月5日 青年同志会主催演芸大会あり。文化乏しい寒村に些少なりともうるおいを与えたこの行事に全幅の感謝を惜しまぬ。村民一般の文化教養レベルの低いことは慨嘆にたえぬ。下層社会、特に農村の文化教養レベルを向上させることが国民のそれを向上させることになる。小山兄の情熱と努力は敬するに足る。決して軽蔑的に見下げるべきでない。(河村,1998)
1月6日 「七高復興講演会趣意書」(会長木村篤太郎 昭和21年(1946)11月付)によれば、本日、出水郡高尾野町出水海軍第2航空隊跡に正式に移転。敷地5万829坪、2階建庁舎本館と散在する10数棟の建物。運動場・農耕地4万4377坪。(西條ら,1998)
1月7日 始業式。この後、数日間、航空隊跡地での授業開始のため、生徒による机・椅子・黒板の搬入などの整備作業が続く。(西條ら,1998)
1月14日 航空隊跡地で授業開始。(西條ら,1998)
 学校は、海軍航空隊跡の兵舎敷地5万829坪を校舎敷地・校庭ちし、二階建ての庁舎を本館に、散在する10数棟を講堂・教室・寄宿寮・寮務室・農務室・その他に使用し、別に練兵場4万4377坪を運動場・農耕地とした。
 開校準備の先発隊が校舎の管理をはじめたのは、すでに終戦後2ヶ月半を経た後のことであり、その間に二度の台風もあって、校舎の荒廃が甚だしかった。
 物資欠乏の時期であったので、校舎の応急修理が差当たりの急務であり、校具の整備にも苦心した。(増村,1960)
御真影及び御写真八葉を奉還式の後に文部大臣官房に返還。なお、教育勅語・詔書は昭和23年(1948)8月に返還。(増村,1960)
1月19日 11時半、講堂に集合、天皇陛下御真影奉還式、浅野館長の告辞。修身、国史、地理等の授業停止。(西條ら,1998)
修身・国史・地理等の学科の授業停止。
好ましからざる人物除去に関する通牒到着、以後重要な校務となる。(増村,1960)
1月22日 午後、文科2年はクラス会を開き、図書焼失、戦時中の国粋主義鼓吹教育の反省、学園純化などの問題を討議。問題を理科2年と下級生にも提起する。
文科の提起を受け、在校生全員が旧練兵場にあった指揮台の下に集合。
文科代表(飯干、秋田次平他)が、教授退職要求等の主張と授業ボイコットの呼びかけを展開する。
これに対し、理科代表(末弘他)から敗戦の現実を見極め、冷静な判断が求められると、慎重論が述べられる。
結論をみないまま、散会。
飯島道脩、土谷久雄、牧祥三、山口各教授に説得、理科2年の静観などでストライキに至らず、問題は沈静。(西條ら,1998)
※この頃、毎日9時30分より5時間授業。
2月 2月7日 理甲2年5組、長崎戦没級友の追悼文集『不知火』を編集(手書き1部のみ回覧)。(西條ら,1998)
2月19日 大久保静平教授の退官挨拶。(西條ら,1998)
3月 ※修業年限を2年に短縮した高等学校は、年限を3年に復す。(西條ら,1998)
※久保田教授、3月に退官。(西條ら,1998)
戦後に学校を再開した後にも、原爆被災者のうちには長期欠席を続けるものがあり、昭和21年3月の試験には特別措置を決定したのであった。(増村,1960)
3月5日 原爆被災者で長期欠席者への考査について特別措置が指示される。(西條ら,1998)
3月6日の教官会議において、学校の称号のうち「造士館」号は本省より撤去の電命があり、不日決定となると館長が伝えた。
3月20日、勅令第156号により「第七高等学校造士館」は「第七高等学校」に改められ、同22日付官報に公示された。
なお、この事について学校では遅れて8月24日の南日本新聞紙上に、文部省の都合により校名中「造士館」を削除したと公告した。(増村,1960)
3月9日 館長訓示−新年度より「造士館」の名称削除、始業式は5月6日など。(西條ら,1998)
3月11日〜17日 学年末考査。(西條ら,1998)
3月20日 勅令により「第七高等学校造士館」を「第七高等学校」と改称(22日付官報記載)。(西條ら,1998)
※春休み中に理甲2年6組太田利朗君、同5組黒武義は校地内を測量し、敷地内の校舎配置図を作成(測量器具は高尾野町より借用)。この地図により、後日、耕作地の割り当てを実施。(西條ら,1998)
※この頃、出水町公会堂で七高主催の「文化講演会」を開き、また、出水町の有力者と会合を持ち、浅野館長から七高生への下宿提供を訴える。(西條ら,1998)
4月 ※本年の入学試験は4月に実施。受験会場は、本校、久留米市、中津市。(西條ら,1998)
※春休みの間に、被災、敗戦、農地改革などのために何人か退学。また、沖縄、朝鮮、台湾に帰った者、保護者居住地の高校に転校するものあり。(西條ら,1998)
4月9日 4月9日付ハガキで、七高寮開設生徒委員会から、各部主将、旧寮委員その他有志に宛て「4月25日10時、学校集合」の呼びかけがある。(西條ら,1998)
4月10日 鹿児島県が管理していた軍物資のうち、トラック1台と軍馬5頭の払い下げを学生の発意で交渉していたが、無償で受領する。(西條ら,1998)
4月25日 前期のハガキの呼びかけに応じ、10時、学校集合。集合者で役割を分担し、生徒自治会組織として総務、厚生、農耕、復興の各部を編成する。(西條ら,1998)
4月27日 下宿を断られる生徒少なくなく、北辰寮の母体となる”自炊寮”の態勢ができる。
※下宿料は3食付きで月額60円くらいで始まり、しだいに70円〜80円まで上昇した。(西條ら,1998)
5月 5月6日には、2・3年のみの始業式。
学校施設の不備・食糧事情・宿舎事情・停電などが勉学の支障となった。
食料補給のために校内農場の芋作り作業を生徒に督励した。学校に復校課とともに農耕課が置かれていたことは、その頃の学校の実情を察知せしめるに足るものがある。(増村,1960)
5月6日 3、2年生で始業式を挙行、本年度より「第七高等学校」と称す。
七高当面の状況は学校の施設不備、生徒の宿舎事情の不良。また、頻繁に停電。
食料事情悪化につき、サツマイモ作りのやめに学内に農耕課を設置する。(西條ら,1998)
※当時のクラス編成は次の通り(○内の数字は学級数)
 3年・・文科@・理科甲E・理科乙A
 2年・・文科甲A・文科乙@・理科甲C・理科乙C
理甲の各組は文科への転科、休学者の増加により各組とも25人くらいとなり、授業は2組ずつの合同となる。(西條ら,1998)
5月18日 10時、、生徒大会を開き、現下の学内状況及びその対応策を報告。(西條ら,1998)
5月19日 雛鳳寮を西報寺幼稚園(高尾野町)施設内に設け、開寮式を行う。
5月22日 北辰寮の入寮宣誓式(同寮は以前から校内に存在)
※この頃、啓明寮を出水町の旧海仁会施設を利用して開寮。(西條ら,1998)
※この頃、文科3年の原後山治は「七高現況報告」(ワラ半紙2枚)を作成、先輩諸兄に送付し、生徒の自治活動、運動部と寮の現状、復興への取り組みなどについて報告、指導、援助を要請。(西條ら,1998)
6月 6月4日 生徒代表は学校当局に考査延期を嘆願する。また、農耕委員(土屋暢、西條嘉一郎)は、学校の農耕課と農耕地のクラス別耕作について打ち合わせる。(西條ら,1998)
6月5日 総務部理事選挙の演説会。(西條ら,1998)
※この頃、総務、農耕委員は、サツマイモ作りのための肥料入手に腐心。クラス別有志が日本窒素水俣工場で硫安の梱包・運搬作業に従事し、1人当たり2kgの硫安を入手する。(西條ら,1998)
6月8日 総務部理事選挙。文科−原後、山田(芳)、理科−前之園盆、中山昭、田代久、興梠博英が選出され、臨時生徒総務部と交替。(西條ら,1998)
6月9日 3寮対抗野球大会の挙行。一位北辰寮3勝、二位啓明寮1勝1敗、三位雛鳳寮2敗。(西條ら,1998)
6月中旬頃、本校において九州四高校長会議が開催され、七高復校援助のことも議題となり、後に五高などより図書若干冊の寄贈を受けた。
学友会の再建、対五高野球戦の復活があり、インター・ハイ参加が決定した。(1960年記述)
6月15日 文科・理科2年が校内農作業。1クラス当たり300坪。馬術部の馬で馬耕し、自然科学部のトラックが活躍。(西條ら,1998)
6月26日 田植え休暇に入る。生徒下宿先の農家への学校の配慮か。(西條ら,1998)
6月30日 復興記念公演の第七高等学校主催「七高音楽祭」を出水高女講堂で開催。(西條ら,1998)
7月 修業年限を2年に短縮した高等学校は3年に復し、この学年は卒業生を出さず、なお旧軍関係者・外地諸学校などからの転編入がたびたび行われた。
また、選抜試験が行われたが、合格圏内の軍関係者制限に関する決定が遅れ、その通牒はようやく7月8日に到着、7月11日に入学者を発表し、入学式は10月となった。(増村,1960)
7月3日 本日より、全校を挙げて本格的農作業開始。(西條ら,1998)
7月3日 11時、復活第1回対五高野球戦選手推戴式、郡延夫主将が挨拶。
       応援練習を開始。応援団長は俊部満。(西條ら,1998)
7月4日 農耕作業。5日には文科3年を除き、各クラスとも農耕作業を終了。(西條ら,1998)
7月7日 「七高音楽会」を熊本県立水俣高女で開催。(西條ら,1998)
7月11日 合格圏内の軍関係者制限に関する決定が遅れ、ようやく8日に学校に通牒が到着し、この日、本年度入学者の発表となる。(西條ら,1998)
7月14日 対五高野球戦を五高武夫原で行う。13時試合開始、4時間14分にわたる試合は11対12の惜敗。(西條ら,1998)
※この頃、長崎原爆被災1周年を記念し、理甲3年が『長崎戦没学友追悼文集』(代表末弘喜三)を編集。ガリ版印刷、浅野校長、5教授、理科甲4、5、6組の全員が執筆。(西條ら,1998)
8月 8月24日の南日本新聞紙上に、文部省の都合により校名中「造士館」を削除したと公告した。(増村,1960)
8月25日 南日本新聞に七高復興−鹿児島市復帰−問題を取り上げ「出水町民むくれる」の記事を掲載。(西條ら,1998)
9月 9月12日 授業開始。(西條ら,1998)
9月18日 24日まで考査。1学期末予定の考査を延期したもの。(西條ら,1998)
9月24日 高尾野町、野田村の秋祭。(西條ら,1998)
※この頃、新入生受け入れのための寮建設、また、七高の鹿児島市復帰問題などが具体化し始める。(西條ら,1998)
10月 10月1日 新学期開始。
10月7日 学生大会を開き、新寮の寮名を「白鶴寮」と決定。その中に東、西、南の3寮を設ける。総務(生徒自治組織)改選。(西條ら,1998)
10月11日 白鶴寮東寮・・総務仁科、白鶴寮西寮・・総務山田(芳)、白鶴寮南寮・・総務赤嶺で3寮開寮。啓明寮は廃止、北辰寮は飛鶴陵に改組、雛鳳寮は残存。(西條ら,1998)
10月12日に入学式・入寮式。(増村,1960)
10月12日 遅れていた新入学生の入学式と入寮式。校長式辞は日野光次教授代行。9時30分より全学年父兄会を開催し、在学生は在学中毎月現金20円、父兄会員は200円以上を寄付することを申し合わせる。熊本でインターハイ予選行われる。(西條ら,1998)
10月14日 1限目、講堂前で新旧学生の対面式。ついで理科総務前之園が馬術部の京都での全国大会優勝など、インターハイの報告。(西條ら,1998)
10月25日、開校45周年記念式をあげ、記念の諸行事があった。(1960年記述)
10月25日 本日より4日間、第45回記念祭行事挙行。午前中、式典、記念祭歌(「碧瑠璃の空に」作詞川口幹夫 作曲福田垂穂)発表。午後、講演会開催。(西條ら,1998)
10月26日 午前中、レコードコンサート。午後、出水町公会堂で各寮の演劇。校内グラウンドで野球対寮マッチ。(西條ら,1998)
10月27日 運動会。仮装大会を行う。(西條ら,1998)
11月 11月初めより鹿児島復帰問題にて学校は多事となった。
 学校の鹿児島復帰については、昭和21年11月4日の教官会議において、鹿児島方面で熱心に議論されている。
先日、後援者の有志が来校、鹿児島市伊敷町の第18部隊跡に先手を打つように注意があった。、復帰には当地方の諒解を求める必要がある。、各種の調査をし見通しをつけて本省と交渉を始める、と校長が報告した。
 この時に教官・生徒各10名の委員会を作り、復帰・復興運動の連絡にあたることになった。鹿児島に復帰し、同窓生・その他の援助を得て学校の復興に努力し、生徒の勉学の便宜をはかれという意見が強くなった。
 鹿児島復帰について学校当局が決意して積極的に動き始めたのは、この会議以後のことであったが、同窓生有志の間では、既に以前に母校の鹿児島復帰のことが協議されたのであるという。そして、同窓生木村篤太郎会長のもとに、同窓生・及び生徒父兄より成る第七高等学校復興講演室が早くも9月に組織されていた。
 10月初めには、後援会有志が関係町村をめぐり、七高の鹿児島復帰について諒解を求めることも行った。
 七高同窓生にとっては、学校のある出水・高尾野の地は馴染みがうすく、母校七高は即ち鶴丸城趾の七高であり、母校復興は当然鶴丸城趾復帰を前提とするものと考えられたのであろう。母校復興運動が同窓生によって、先ず復帰運動より始められた理由のひとつはここにあろう。
 11月4日以後は、鹿児島方面との折衝が頻繁になった。(増村,1960)
11月4日 鹿児島市復帰問題で教官会議。教官、生徒10名より成る委員会組織が発足する等、学校は復帰問題で多事となる。(西條ら,1998)
12月 12月初めには、本省の鹿児島復帰の内諾、移転は先ず地元の負担のこと、後援会なその寄付によるものは差し支えないことが報告された。(増村,1960)
初旬、文部省が七高の鹿児島市復帰を内諾。(西條ら,1998)
※寮幹事を昭和20年(1945)入学生にバトンタッチ。(西條ら,1998)
※設備不全の教室、寮、停電に北薩の冬寒し。(西條ら,1998)
12月16日 22日まで考査。(西條ら,1998)
12月24日 終業。(西條ら,1998)

【寮寄宿舎・福利厚生】

1月 教職員・生徒は広く米ノ津・出水・高尾野・野田の諸町村にわたって分宿し、校内にも先ず一寮を開設したが、後に新入生及び下宿を失う者のために寮舎を増設した。(増村,1960)
4月 4月27日 下宿を断られる生徒少なくなく、北辰寮の母体となる”自炊寮”の態勢ができる。
※下宿料は3食付きで月額60円くらいで始まり、しだいに70円〜80円まで上昇した。(西條ら,1998)
5月 5月19日 雛鳳寮を西報寺幼稚園(高尾野町)施設内に設け、開寮式を行う。
5月22日 北辰寮の入寮宣誓式(同寮は以前から校内に存在)
※この頃、啓明寮を出水町の旧海仁会施設を利用して開寮。(西條ら,1998)
6月 6月9日 3寮対抗野球大会の挙行。一位北辰寮3勝、二位啓明寮1勝1敗、三位雛鳳寮2敗。(西條ら,1998)
9月 この頃、新入生受け入れのための寮建設、また、七高の鹿児島市復帰問題などが具体化し始める。(西條ら,1998)
10月 10月7日 学生大会を開き、新寮の寮名を「白鶴寮」と決定。その中に東、西、南の3寮を設ける。(西條ら,1998)
10月11日 白鶴寮東寮・・総務仁科、白鶴寮西寮・・総務山田(芳)、白鶴寮南寮・・総務赤嶺で3寮開寮。啓明寮は廃止、北辰寮は飛鶴陵に改組、雛鳳寮は残存。(西條ら,1998)
10月12日に入学式・入寮式。(増村,1960)
10月12日 遅れていた新入学生の入学式と入寮式。
10月26日 午前中、レコードコンサート。午後、出水町公会堂で各寮の演劇。校内グラウンドで野球対寮マッチ。(西條ら,1998)
12月 ※寮幹事を昭和20年(1945)入学生にバトンタッチ。(西條ら,1998)
※設備不全の教室、寮、停電に北薩の冬寒し。(西條ら,1998)

【勤労奉仕作業】

2月 2月7日 理甲2年5組、長崎戦没級友の追悼文集『不知火』を編集(手書き1部のみ回覧)。(西條ら,1998)
3月 3月5日 原爆被災者で長期欠席者への考査について特別措置が指示される。(西條ら,1998)
※春休み中に理甲2年6組太田利朗君、同5組黒武義は校地内を測量し、敷地内の校舎配置図を作成(測量器具は高尾野町より借用)。この地図により、後日、耕作地の割り当てを実施。(西條ら,1998)
5月 学校施設の不備・食糧事情・宿舎事情・停電などが勉学の支障となった。
食料補給のために校内農場の芋作り作業を生徒に督励した。学校に復校課とともに農耕課が置かれていたことは、その頃の学校の実情を察知せしめるに足るものがある。(増村,1960)
6月 ※この頃、総務、農耕委員は、サツマイモ作りのための肥料入手に腐心。クラス別有志が日本窒素水俣工場で硫安の梱包・運搬作業に従事し、1人当たり2kgの硫安を入手する。(西條ら,1998)
6月15日 文科・理科2年が校内農作業。1クラス当たり300坪。馬術部の馬で馬耕し、自然科学部のトラックが活躍。(西條ら,1998)
6月26日 田植え休暇に入る。生徒下宿先の農家への学校の配慮か。(西條ら,1998)
7月 7月3日 本日より、全校を挙げて本格的農作業開始。(西條ら,1998)
7月4日 農耕作業。5日には文科3年を除き、各クラスとも農耕作業を終了。(西條ら,1998)
※この頃、長崎原爆被災1周年を記念し、理甲3年が『長崎戦没学友追悼文集』(代表末弘喜三)を編集。ガリ版印刷、浅野校長、5教授、理科甲4、5、6組の全員が執筆。(西條ら,1998)

【学友会・自治活動】

1月 1月22日 午後、文科2年はクラス会を開き、図書焼失、戦時中の国粋主義鼓吹教育の反省、学園純化などの問題を討議。問題を理科2年と下級生にも提起する。
文科の提起を受け、在校生全員が旧練兵場にあった指揮台の下に集合。
文科代表(飯干、秋田次平他)が、教授退職要求等の主張と授業ボイコットの呼びかけを展開する。
これに対し、理科代表(末弘他)から敗戦の現実を見極め、冷静な判断が求められると、慎重論が述べられる。
結論をみないまま、散会。
飯島道脩、土谷久雄、牧祥三、山口各教授に説得、理科2年の静観などでストライキに至らず、問題は沈静。(西條ら,1998)
4月 4月9日 4月9日付ハガキで、七高寮開設生徒委員会から、各部主将、旧寮委員その他有志に宛て「4月25日10時、学校集合」の呼びかけがある。(西條ら,1998)
4月25日 前期のハガキの呼びかけに応じ、10時、学校集合。集合者で役割を分担し、生徒自治会組織として総務、厚生、農耕、復興の各部を編成する。(西條ら,1998)
5月 5月18日 10時、、生徒大会を開き、現下の学内状況及びその対応策を報告。(西條ら,1998)
※この頃、文科3年の原後山治は「七高現況報告」(ワラ半紙2枚)を作成、先輩諸兄に送付し、生徒の自治活動、運動部と寮の現状、復興への取り組みなどについて報告、指導、援助を要請。(西條ら,1998)
6月 6月5日 総務部理事選挙の演説会。(西條ら,1998)
6月8日 総務部理事選挙。文科−原後、山田(芳)、理科−前之園盆、中山昭、田代久、興梠博英が選出され、臨時生徒総務部と交替。(西條ら,1998)
学友会の再建、対五高野球戦の復活があり、インター・ハイ参加が決定した。(1960年記述)
10月 10月7日 学生大会を開き、新寮の寮名を「白鶴寮」と決定。その中に東、西、南の3寮を設ける。総務(生徒自治組織)改選。(西條ら,1998)
11月 11月4日 鹿児島市復帰問題で教官会議。教官、生徒10名より成る委員会組織が発足する等、学校は復帰問題で多事となる。(西條ら,1998)

【野球部】

7月 7月3日 11時、復活第1回対五高野球戦選手推戴式、郡延夫主将が挨拶。
       応援練習を開始。応援団長は俊部満。(西條ら,1998)
7月14日 対五高野球戦を五高武夫原で行う。13時試合開始、4時間14分にわたる試合は11対12の惜敗。(西條ら,1998)

 

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【引用文献・参考文献】


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