第七高等学校造士館 詳細年表
1945年 昭和20年 前半
動員七高生の長崎原爆被爆記事


1944年の年表にもどる    1945年後半(年表)にすすむ

 

長崎原爆投下に因る学徒動員七高生の被爆

不知火 追悼号

第七高等学校造士館 理科二年甲類五組
級誌編集員
昭和二十一年二月七日発行
北辰会 (1979) わが青春−七高時代.pp.6-46.に収録

長崎戦没学友追悼文集

第七高等学校造士館
編集員
昭和二十一年七月発行
北辰会 (1979) わが青春−七高時代.pp.47-118.に収録

七高生の被爆に関する記事

長崎原爆投下
8月9日 長崎・・11時、原子爆弾投下。長崎三菱七高隊員106名中、14名死亡、負傷50名、山口龍夫教授も負傷。当時2交替制で7時〜19時、19時〜7時勤務に分かれ、前者は工場、後者は白鳥町西郷寮で被爆した。(西條ら,1998)
 
8月中頃までに、1年生を長崎及び大分県日田市に招集することを計画し、学校がその準備を整えていたとき、8月9日午前11時米機長崎に原爆投下。
付き添い教官山口龍夫教授は顔面負傷、当時の勤労生徒106名のうち死亡14名。
死亡者には、即死・現地諸病院にて死亡・帰宅して死亡・及び行方不明にて死亡と推定されるものがあった。
負傷者は当時38名と報告されたが、実際には50名にのぼったという。負傷生徒も学友の捜索・病院収容などにあたり、また解散状態になった工場当局者に代わり、工場当面の事務処理にも従った。(増村,1960)
 
戦時の学徒動員で長崎の三菱兵機に勤務中に原子爆弾にあい、前途ある幾多の七高生が死んでいった。原爆投下の後は日の光も不気味に白ちやけて、荒れ狂う劫火と意味をなさない叫喚だけが支配していた。出来れば生涯の間記憶の中から抹殺したい情景である。然しこの原爆につらなって、忘れ難い思い出がある。昔の七高生とはこんなものだったかと泌み泌み思わせるようなエピソードがある。

 工場で原爆にあった私は両耳、鼻から出血し、背や腰を崩れる工場の落下物に乱打されて独りで歩行が出来なかった。更に困ったことに眼鏡を吹き飛ばされてしまっては、極度の近視の私には方角さえも定かではない。幸に一人の七高生に助けられて工場の構内をのがれ、寮まで辿りついたものの、寮は一面の火の海で近寄れず、近くの山に腰を下ろした。寮を案じて帰ってきた生徒達も次第に私の周囲に集まってきて、色々な情報をもちよったり、友人の身をあんじたりしているうちに、いつか夕暮近くなっていた。

 その時一人の生徒が言った。「先生、近くの畠の中に胡瓜が沢山あるが、それを少し取って食べては悪いものでしょうか。」 私はぐっと胸がつまった。自分の教えている生徒、七高生とはこんないぢらしい生徒だったのかと涙が出るほどの気持ちだった。

 終戦間際の動員学徒の食事は粗末なものだった。質的にも、更に量的にも青年の食欲を十分に満たすものではない。彼等は恒常的に空腹状態にあったのである。而も原爆投下は11時5分頃に行われたので、生徒達は昼食もとらす、一滴の水も飲まずに真夏の夕暮れになったのである。長崎全市が焦土と化した今、夕食の見込みは全くない。このような状態宇の中で、山の畠の胡瓜一本を失敬することに心理的抑圧を感じているのである。私は感動を押し殺した、かすれた声で甚だ教師らしくないこと言った。「失敬するのは止むを得まいが、余り迷惑をかけるなよ。」 (山口,1960a)
 
 
 七月末から八月初にかけで数回の爆撃が長崎に加えられた。我々は次に焼夷攻撃の来るべき事を予測し、お互いに戒めあっていた。而るにそれが予想しなかった原子爆弾となって現れたのだ。8月9日11時前、乙機械から甲機械への工場を歩いている時、どこかのスピーカーが「敵機二機、島原半島を西進中」と報じたのを聞いた。その後数分、閃光と轟音とはあの美しい町と数万の人命を滅し去ったのだ。

眼鏡を飛ばされて方角も見定め難く、歩行も辛うじて出来る身体を生徒に扶けられて(この生徒の名が今になっても判明しないのは実に残念に堪えない)、西郷寮に来た時は、既に一面の火の海だった。あの凄まじい情景は夢よりも恐ろしい夢である。顔面の焼けただれた人々、血まみれながら号泣する子供達、誰が発するのか四方から迫る呻き声、火焔猛煙など、出来るならば生涯記憶の中から取り除きたい地獄絵であった。

9月初旬に被害生徒調査に再び長崎に赴いた際、汽車が道尾から浦上に近づいた時、凄惨な情景に胸も緊めつけられる気持ちで呼吸が苦しく、あわてて強心剤を服用した程である。

 あの寮の劫火の中で死んだ人もある。寮の前で倒れた人、運転中の自動車と運命を共にした人、私と同じ汽車で鹿児島に帰り、遂に再び起てなくなった人、原子病や火傷の為に相当時日経過後不帰の客となった人など、想い出は尽きない。みんな好意の持てる、気分の良い人達であった。素直におおらかな人達であった。
 あの悲しい日から1年になる。御家族の方はもとより、級友・先生達の胸にも遺瀬ない悲哀が疼いている。親しみあったあおの人々の霊に合掌しながら、何とはなしに五歳にして死んだ長男のことを思う。「子供の死と原子爆弾と、此の二つだけは、生涯に二度と経験したくないなァ」と泌々と妻に嘆息をもらすのである。 (山口,1960b)
 
 《前略》
 原爆投下の8月9日は晴れた暑い日だった。前夜夜おそくまで勤務して、当日は休日で西郷寮の二階で寝ていた。10時半に目覚めて再びうとうとしていた矢先、突然の閃光に窓は白熱した。私は職業がら2000度(摂氏)の溶鋼を観察することがあるが、まさに白熱状態を呈する。原爆の閃光はこの2000度の白熱に匹敵するものであった。あたかも2000度の溶鉱炉の中に身を投げ込まれたような熱さに思わず顔を手で覆う。閃光が消えるとともにドーンという爆風に二階にいた私の進退ははねとばされ一瞬気を失った。気がつくと地面に投げ出され、あたり一面土けむりの中を木片や土がバラバラ落ちる中にいた。

 着のみ着のままで建物をあとにして脱出したが、振り返ると西郷寮の二階建て数棟が瓦をのせたままプレスをかけたようにペシャンコにつぶれており、その下からまだ数人がはい出しつつあった。東側の防空壕をのぞいたらすでに5,6人の負傷者が入っていて、みんな火傷しており、皮膚や毛髪が焼けて異臭が立ちこめていた。壕に入るのは断念して、北側の岡にいくと数人が茫然と立ちつくしている。見れば眼下に西郷寮は建物の両端から火の手があがりつつあった。あの中に○○君が柱にはさまれて出られない、とつぶやく人がいたが、みんなひどい火傷とガラスの破片で負傷して、逃げ出すのがせい一杯であった。

 近くに大久保君と園田亘君がいたが、上半身裸で火傷をしており、寒い寒いといっていた。8月の日中に寒いとは異様であるが、原爆投下後しばらくは日没のように暗くなったためである。園田君はさほど弱ってなく、後日、死亡されたと聞いて信じられなかった。

 私は顔全面と両腕を火傷して、皮膚は灰色に焼けて厚さ5mm位の皮膚が顔と両腕の数カ所からペロリとめくれて垂れ下がっていた。近くの負傷者も同様であったは、火炎が広がりつつあり、傷の手当てどころではなかった。

 西郷寮が炎上してきたので、裏山づたいに、三菱兵器の疎開先である地下工場に向かった。途中の松の樹は緑のまま燃え出し、畠ではナスやカボチャの葉とつるが輻射熱で焼けただれて実だけがゴロゴロ転がって、はだしで走る足にぶつかって歩きにくくてしかたがなかった。

 やっとの思いで地下工場にたどりついたが、構内は真っ暗で、入口付近に積み上げられた旋盤のダライ粉が油とともに炎をあげている有様に、ここもあきらめて郊外へ行くことにした。

 まもなく、国鉄の線路まできたが、枕木が油を含んでいるために燃えつつあり、やむなく線路近くの道を郊外へ走った。

 道ノ尾駅の近くにくると爆風で破壊した家が少なくなり、ほっとして農家の主婦に水をもらい火傷に油を塗ってもらう。近くの空き地にすわりこむと、張りつめた気がゆるんだせいか急に火傷の痛みが深刻になった。一緒に逃げた人たちと横になって休みながら、数時間たって長い夏の日がようやく暮れかかったころ、救援列車がきたという声に立ち上がって道ノ尾駅に向かう。

 貨客混成列車が停車しており、私は近くの貨車にやっとはい上がる。すでに中には重傷者が足の踏み場もないくらい横になっており、人々の口から苦痛と親子の行方を案ずる声が洩れる。

 列車は北に動き出し、やがて諫早駅に着き、大部分の人は下車した。駅では国防婦人会の人が負傷者の世話をしていた。私は列車の中で火傷が痛み出し、下車せずにいたら再び列車は動き出し、やがて大村駅に停車した。ホームに下りると、白衣の看護婦さんが案内して駅から海軍病院に運ばれ、夜半であったが、早速、傷の手当てを受け、ベットに休ませてもらった。

 翌日から数日間は40度の高熱と血便が続き、やがて熱は下がったが、傷のなおりは遅かった。鏡を見ると眉毛と毛髪はみんな焼けてしまい、顔は赤くむけた皮膚と水ぶくれした耳と唇ばかりが目立つ。ちょうど稲葉の白兎といったところであった。  

 岡教授にエドガー・アラン・ポオの「大渦の底」を習ってこんな不思議な体験をすることが一生のうちにあるだろうかと思っていたが、全く、小説に匹敵する体験をしたものである。

 30年前のことで記憶ちがいもあるかもしれないが、思い出すままに当時の状況綴って、なくなられた14名の級友のご冥福を祈ります。    (大井,1979)
 
《前略》
 原爆の日のことはあまりに印象が強く、今でも鮮明に覚えている。
 閃光につづいて工場が真っ暗になり同時にトンネルの中を突風が吹き抜けた。気がつくと私は機会の横に伏せていたが、風に飛ばされたのかも知れない。トンネルの外は一面の火の海であった。「本工場を救援に行け」との指令ですぐ出発したが、いつもの道は熱くて通れないので、田圃の中を遠回りして行った。途中、稲がそっくり削り取られていたのを覚えている。

 崩れ落ちた民家の材木の下から助けを呼ぶ声がしていた.....。

 工場の周りも悲惨だった。挺身隊の学生を見回りに来たらしい女の先生がコンクリートの上に倒れ、あたりは夥しい血であった。頭が割れ豆腐のように脳味噌がはみ出している人もいた。前身の皮膚が浮き上がったような人が地面に蹲っていた。

 頭にひどり怪我をした女子学生を日陰に移してたり、枕代わりに作業服を敷いてやった。「顔に...顔に怪我はしていませんか」とその娘は聞いた。

 何人かを救出し、翌日、汽車に乗って鹿児島へ向かった。

 どこで汽車に乗ったのか覚えていない。長与の方へ大勢の人と夏の日照りの中を歩いた。出血のひどい人が井戸にすがって水を求めていたのを覚えている。ガラスの破片だけの民家の畳の上でゴロ寝して一夜を明かしたことが記憶にある。

 汽車は貨物列車であった。汽車は駅でもないところに止まり、負傷者を次々にほおり込んだ。負傷者じゃ裸同然で皮膚が腐り始めて異臭を放っていた−−−。
 《後略》   (小田,1979)
 
《前略》
私は午前11時頃大村湾に着きクレーンを用いて魚雷を荷台から降ろしにかかった。・・・その瞬間だった、黄色い光線の熱を背後から首すじに感じたのは。・・・たった今あとにして来たばかりの長崎の方から異様なすさまじい輝きが、火の玉が昇天していく。その時、パパーンという大音響とともに強烈な爆風に吹き飛ばされた。慌てて逃げ込んだ洞窟からおそるおそる顔を出してみると、巨大なキノコ状の噴煙が眼前に不気味に立ち昇っていた。

 一体何事が起こったのか皆目わからない。直感的に敵襲にあったことは想像できた。早速、全速力で車を長崎の方へ向けて走らせた。市に近づくにつれ郊外の方へ逃れてくる怪我人がその数を増してきた。車を止め、何事かと聞いてみると、長崎は今血の海だから行かぬ方がよいという。身にかすり傷すら受けていないわが身を顧み、とにかく行って負傷者を救うことを考えて市内へ入っていった。

 道路に散らばる無数の鉄屑、瓦礫を踏んだタイヤは既にペチャンコになっていた。まさに阿鼻叫喚、地獄もかくやと思われたが事態に驚いている暇はなかった。ほとんど人が倒れて呻き声をあげている。そこに立っているのは私たち仲間4〜5名であった。助けを求めて叫ぶ人々を荷台に上げ近くの医大病院へ運ぶ作業が夜を徹して続けられた。病院とて罹災しているので設備は破壊され医療機能は完全に消失している。ただ床に廊下に庭に無造作に並べられた負傷者の火傷に対してチンク油を塗るだけの治療であった。

 荷台の上では横に寝かせるので1回の往復にほんの数人しか運べない。「今度は俺を乗せてくれ!!」「この次は私ば運んでください!!」の哀願が四方からとんでくる。荷台の狭さがうらめしかった。頭蓋が割れてザクロのように開いた間から脳ミソが吹き出して垂れ下がっている男が、意識朦朧として他の負傷者の上を這い回っている。・・・乗られた者が悲鳴をあげる。・・・無数の負傷者を運ぶ作業が果てしなく続いたが、この間でも敵機の採集による火柱が焼野ヶ原のあちこちに立ち昇った。七高生はどうしているだろう。私は二宮のことが気にかかっていた。彼の車は爆心地の松山町方面へ行ったはずであったからであった。

 一夜明けた翌日の午後、彼を捜しに私は松山町へ向かった。パン工場の跡と思われる場所に焼けただれた六号車を見出した。附近一帯をくまなく探したが彼の姿は見あたらない。近くの横穴の入口に筵をかぶせた瀕死の学生が横たわっている。二宮と一緒にでかけた中学生であった。「二宮はどうした!!」揺り動かして尋ねてみたが既に虫の息で反応がない。遂に彼の姿も遺体も探し出すことはできなかった。権藤の遺体探しも岡本ら数人の七高生と二日間にわたって懸命に続けたが、その目的を果たせぬままとなった。吉田、冷川、上田た負傷した数人の七高生が鉄道線路ワキの斜面に横たわって、佐賀方面の病院へ行く列車を待っていた。「オイ、シッカリシロ!! 頑張レ」の掛声をかけるのが精一杯の手助けであった。

 真夏の屍体は腐敗が早い。手のつけようもない無数の屍体は腐爛してパンパンに膨れ上がり、被爆三日目以降その悪臭は言語に絶するものとなった。まだ息のある負傷者の傷にも蠅がたかり蛆が湧きはじめていた。そうした中でも負傷者運びが続けられていたが、この間どこで野宿し何を食べて生きていたか私自身全く記憶がない。無我夢中、ほとんど不眠不休の立ち回りであった。ただ、衣服もぼろぼろとなり、自分の身体までが屍臭を交え、異様なニオイがしてきたことは自覚していた。日毎に少なくなった生き残りの七高生も、この頃には一人も見出すことができなくなっていた。

 誰言うとなく「原子爆弾だ」ということが流れ始めていた。理科マンのわれわれにはおよそ察しがついていたが、その真偽を吟味している暇がなかったのだ。放射能が一面に充満している! ここを早く離れなければならない。正直いって疲れ果てたというのが本音ではなかったかと思う。一度家に帰って出直そうと考え、道ノ尾駅の貨車に乗り込んだのは14日深更であったと記憶している。真夏の夜空に無数の星が光っていたのがなぜか印象的であった。

 一緒に作業した私たちの仲間は、私のほかに前科者の運転手2人ともう一人海軍の警戒隊の男がいた。名前はしかと覚えてないが気さくな背の高い若者で、私と同じく熊本の出身であった。しかし、ここでは軍人も学生も前科者もなかった。お互いの赤裸々な人間愛から必死に協力し合い、そこに倒れている人々を一人でも多く病室へ送ることが生ある者の無意識の動作となっていたのだ。長崎を発つ時、その若者に熊本の実家に元気でいることを伝えてくれと頼まれた。翌朝、上熊本駅で下車し、段山村の農家である若者の実家を訪れて伝言を伝え、午後わが家にたどり着いたとき、終戦の知らせを聞いたのであった。
 《後略》  (郡,1979)
 
長崎に原子爆弾が落とされた昭和20年8月9日午前11時、私は帰郷の切符を買うため市内にある浜屋デパート(当時鉄筋三階建て)に入り、一階ビューローの前に立とうとしていた。
 突然周囲が黄色く輝くと同時に爆風が吹き込み、思わず床に腹這ってしまった。どのような音がしたかは記憶にない。店内はガラスが割れて商品が散乱し、外はもうもうとして何も見えない。偶々来合わせた人達が入口でうろたえていた。

 浜屋デパートは爆心から3km近い距離にあったが、長崎市の地形が凹凸に富み、ちょうどその凹部に位置していたため、爆風が頭上を越えて直撃を免れたもので、周囲が一瞬黄色くなったのは土やほこりを吸い上げたためであろうと、今になって理屈づけをしている。

 私は動員先の宿舎西郷寮で長崎医大の研究生である学生医者に赤痢(擬似)と診断され、長崎医大の伝染病棟に隔離された。しかし、入院中の空襲で隣病棟に落ちた爆弾で少し負傷したおともあって、14日間入院しなければいけないのを2日早く出してもらったが、法定であるので正式の退院日である9日に退院手続きに来いとのことで、原爆の日に早々と病院を訪れたものでである。

 事務の看護婦さんを待っているうちに空襲警報がなった。医大の周辺は工場に囲まれ、また病院の建物も工場に紛らわしく、病院の裏山には高射砲陣地もあり、敵機の目標物となりやすく、これは危険だと感じて、退院手続きをあとまわしにし、帰郷療養のための切符を買うために長崎駅に行こうと考えた。

 外に出た。しかし、空襲警報中は市電が動かないため、停留所にしばらく佇んでいた。

 やがて、空襲警報が解除され、動き出した電車に乗って長崎駅の窓口に来たが、当日券以外は売らない、翌日の切符はビューローに行けと浜屋デパートを教えてくれた。無我夢中、急ぎ足で浜屋に入ったものであった。

 被爆後何分か経過して周囲が多少明るくなったので、爆風でとんだ眼鏡を探して浜屋の外に出た。通りに面した付近の家はどの家も障子がなくて、裏まで見えるのが不思議に思われた。爆風で飛ばされたのだ。

 山の上に逃げようと小高いところに上がるほどに、今来た方角が煙で真っ黒である。近くの大きな寺の屋根が真ん中で二つに折れている。あわてて山麓の横穴式防空壕に入ろうとしたが、中は満員で入れなかった。

 どのくらいたったろうか、次第に空も明るくなって、何はともあれ、寮に帰らなくてはならないと思い、煙の漂う方向に足を向けたが、先方から来る人は一人もなく、無人の荒野を一人で歩いていた。焼け潰れた家の間の道をたどって行った。

 焼野原の真っ直ぐな道に電信柱が一、二本立っている。道の傍らの潰れた防空壕に、お母さんだろうか真っ黒な顔が首だけ覗いている。。その前で裸でシャチホコばった幼児が、土の上にうつ伏せになっている。気のせいかお母さんは瞬いてまだ生きているように思われた。この光景は今でも脳裡に刻まれて離れない。終戦後の混乱した世の中において、私はわが子を抱こうとして抱けない昭和の母子像を象徴しているように思った。世の中が暗いだけに10年余り、人に話すことが恐かったものだ。

 平地はまだ熱気が強く、国道は路面が燃えて通れず、途中から山の背に向かって歩いた。ところどことに南瓜がゴロゴロと転がっている。南瓜の葉は吹き飛んで一枚もないが、サツマ芋の葉は、周囲が黒くなって縮んだようになっている。谷間にある農家が倒れて焼けている。山の上の窪みまでやられているのが不思議に思われた。

 一抱えもありそうな大きな葉のない木が一本立っていた。囚人服を着た人が十数人バラバラに倒れていた。木の横に銃を縋った兵が一人いた。馬が傍に横たわっていた。この下に捕虜収容所があると聞いていたが、その人達まも知れないと考えた。

 山の斜面の家々もすべて灰である。焼け土や瓦礫の間を進むうちに、ポツリポツリとすれ違って来る人に会うようにになった。「肩を貸して下さい」といわれて肩を貸し、いつの間にかいなくなった。「水を下さい」「頭を上げてください」頭の下に焼け板や石を敷いてやった。

 長崎医大の上まで来た。黒白の迷彩を施した建物は薄黒く焼け、大きな二本の煙突の内一本は真ん中で折れ曲がっている。窓を通して天井が折れ下り、床板が跳ね上がっているのが見える。今まで入院し、今朝訪れたばかりの隔離病棟や看護婦詰所は跡形もない。女の人ばかり、4、5人道筋に倒れていた。病院の中から這い上がってきたのであろう。看護婦さんではないかと思われた。「あなたはよかったね」と言っているように思われた。

 浦上天主堂は残った壁の間から焔が見えていた。「助けてください」と中から誰かが叫んでいるようであった。

 陽は次第に暗くなって、周囲で青白い火がポロポロと燃えている。遠く海を隔てて向こう側三菱造船の方まで焼けているのがわかる。地下足袋を履いていたので、焼けた灰の中を歩いていたが熱くは感じなかった。焼け跡の中に焦げたジャガ芋がたくさん転がっていたのをバケツに拾った。

 山里の国民学校はコンクリート部分の壁だけが残って、火があちこちに覗いている。暗闇の中から「助けてください」という女の声が聞こえてくる。しかし、行ってやりたくとも、まだ燻っている焼け跡を通して行く術もない。大学病院で被爆したという学生に肩を貸してたが、いつの間かいなくなっていた。

 坂を降りた時、トラックを運転してきた七高生(坂田君)に偶然会った。「寮は駄目だ、トンネル工場だ」

 暗闇の中を国鉄貨車が静かに入ってきた。国道沿いにたくさん人が倒れている。右側のわれわれが勤務していた三菱兵器工場は、鉄骨の骨組がすべてアメのように一方に曲がり傾いて、下はまだ火の海だ。

 やっと移転したトンネル工場にたどり着き、入って同級生を捜したが暗くてわからない。翌朝明るくなった頃、反対側の入口付近に、山口先生をはじめ重傷者を含め10人ほどの七高生の一団を発見した。山口先生は鼻と耳から血を流しておられた。私の持ってきた焦げたジャガイモを皆で囓ったものだ。医者が道ノ尾にいるとのことで、誰かが借りてきたリヤカーに重傷者を載せて道ノ尾まで運んだ。

 私はまだその頃終戦までは想像していなかったが、敗戦は確かなように思われた。父が死亡して間もない学徒動員であったので、鹿児島に残してきた母や弟妹達のことも気にかかり、また鹿児島に敵軍が上陸するとの噂もなっやので、長崎では死にたくない。死ぬなら鹿児島でと強く思ったものである。 《後略》       (興梠,1979)
 
《前略》
 しかしながら、原爆が炸裂してから後の筆紙に尽くすことのできない悲惨な混乱と荒廃を、私はどのようにして耐えることができたのかということについては、自身をもってハッキリと答えることができない。

 当時、私は運輸係に配属されトラックの助手をしていた。幸い工場から約1km離れた本原というところでセメント袋の荷下ろしをしていて、その瞬間トラックの荷台の下にもぐりこんで災いを避け、命を拾うことができた。トラックの運転台と荷台は大破したが、少し焼けただけでトラックは辛うじて動いたので、その直後から重傷者を時津、長与の収容所や諫早の病院へ輸送することを命じられた。4、5日の間、地獄の底の修羅場のような悲惨な中で私は瀕死の人達を荷台にかつぎ上げたり、下ろしたりした。

 同じ職場にいた権藤君の兄上が弟の安否を尋ねてこられた。岡本君と一緒に権藤君がトラックで出かけた付近を探し、完全に焼け落ちたトラックは発見したが、その周辺にそれらしい遺骨も遺品も見つけることはできず、各所の収容所にも彼の姿はなかった。

 二宮君も感じ状況であった。彼のトラックの残骸が残っていた付近で「火は向こうの方へ拡がったので、多くの人達はあっちの方向へ逃げた」と聞いたので、その方向の遺体や遺骨を一つずつ調べた。彼の前歯には金歯があり、それが一つの目当てであったが、すべての遺体はそれが識別できるような状態ではなかった。彼は東京の実家が罹災したため休暇をもらって帰省し、途中私の実家も訪ねて長崎に帰って、4、5日後にこの災いに遭い死んだ。

 8月15日の玉音放送は、工場の正門の側の広場で工場の人達と一緒に並んで聞いたが、その時の感慨や光景は、思い出そうとしても目に浮かんでこない。私は、多くの悲惨な負傷者や遺体を目のあたりに見ても、学友の死や彼等の肉親の悲しみに直面しても、涙も言葉も出ず、自分が何を考えていなのか、何をしていたのかも自分自身で判っていなかったのだと思う。 《後略》  (坂田,1979)
 
 《前略》
8月2日 姉より書留速達あり。父上の大阪の工場が空襲で壊滅したとのこと。かねて覚悟のことながら父上一生の事業なれば、その心中察するに余りあり。父上がご無事だったのを幸いとしなければならない。
 《中略》
8月8日 熱七度九分、単なる風邪であろう。工場長に姉上からの手紙を見せ、見舞いのための帰省を申請したら意外にあっさりと許可がおりた。
8月9日 部屋の仲間が荷物を手伝ってくれたので、午前10時50分の汽車に間に合う。四ヶ月苦労を味わった長崎の街、浦上のあたりにしばしの別れをデッキから惜しむ。
 西郷寮のそばを通過した時、汽車の窓から手をふったが、寮からは誰も応答がない。夜勤組だからもう寝てしまったのだろう。
   ※   ※
 汽車が山を廻り、道ノ尾駅にさしかかったその時である−−大空一面に閃光がきらめき、大気を破る鈍い爆裂音がドーンときたのは。窓ガラスは粉砕されて列車は急停車した。乗客はあわてて床に伏せ、やがて車外に飛び降り、畑の溝などに避難した。長崎方面の空は全面真っ赤である。焼夷弾の巨大なかたまりが落ちたのであろうか。
 原子爆弾のことも知らず、放射能の立ちこめる廃墟の街広島を通過し、翌朝のニュースでソ連の参戦を聞きながら大阪に着いたのは翌日の昼前でした。
 あの友が、あの人達が、死に苦吟し、傷にまみれて助けを求めていたあの時に、私は長崎の街に背を向けて、東に走っていました。
 故郷で迎えた8月15日の終戦。そしてあれが原子爆弾であったこと、多くの友が若い生命を失ったこと、長崎がほとんど全滅したことを知ったのは、その数日後でした。
 何という運命。
 友よ許してくれ。花のいのちよ、価値ある人生を送るはずであった友よ、やすらかに今はねむり給え。
(西郷寮になった所持品の中で、汽車に持ち込んだ日記だけが残りました。それからの抜粋です。)   (笹岡,1979)
 
 《前略》
 午前10時過ぎには、警報も解除された。手際よく作業を整理して、暑さと湿気で鬱陶しいトンネル工場から、本部工場へ行こうと歩いていた。戸外の明るい光線がまぶしい。入口から6メートル位の処で、K君が、突然、呼び止めた。九州帝大、機械工学科の動員学徒で、工程管理の分析を行っていた。立ち止まり、二人で話し合っていた時である。一瞬、凄まじい閃光に包まれた。(超極限光度の閃光と書いても、書き表し得ない。灼熱の太陽が、核分裂・融合の極に達して、宇宙で爆発し拡散する時に放つ光とでも形容できようか、凄まじい光が世界をスポッと包んだ)。焼夷弾が目の前に落ちた! 戦慄に戦く。隊長意識が反射的にひらめく。
 「焼夷弾−落下−−!」
 と叫びつつ、奥へ走ろうとして。その刹那、ぐわっと壮絶な響が鳴る。恐怖に粟立つ間もなく、猛烈な爆風が震駭し、暴れ回る風圧に捲き込まれた。

 意識があったのは、その時までである。凄まじい爆風が、私を体ごと、宙に吹き飛ばした。薄明の真空のような空間を、嵐の中の木の葉同然に、トンエル工場の奥深く吹き飛ばされていった。備品も、戸棚も、掻き回され、轟音をたてながら、、空中に渦巻いている。奈落に吸い込まれるように、騒然たる空中を足掻き飛んでいる。哀れな私自身の姿が、映像として、今でも、脳裏に解離するのは不思議でならない。でも、奇跡的にトンネル工場の通路に沿って飛ばされていた。地上に落ちてからも、独楽のように廻りながら、最後に気を失っている。(幸いなことに、最初に、柔い腰の方が衝撃を受け、ブレーキがかかり、そのあと前頭部を打って気を失ったらしい。)

 天井からの水雫で意識がもどった。激痛が疼く。腰が痛い。頭をなでると固まりかけた血糊が粘りつき、衝撃が走る。点滅する意識の中で生きている実感がつき通る。重傷でよかった、という変則な安堵感が浮かんでくる。

 矛盾するようだが、不思議ではない。疲労による倦怠感に悩まされ、
 「病気と診断され、数日でもいい、ベット生活を楽しみたい」
 という果てしない願望が湧くほど、疲れが重なった毎日の生活であった。
 「この負傷では入院だな」
 と朦朧としたままの状態で、かねての願いを繰り返していたのであろう。

 意識がまだ混沌としているが、無気味な気配に神経が鋭敏になってきた。

 騒々しい機械の回転音、部品を切断する金属音が無い。遠くから押しつぶされたような人声が、泣き声とともに耳に入ってくる。
 「救助に来てくれてもよさそうなものだ」
 と、腰の痛みをこらえて立ち上がり、あたりを見回した。

 不思議な索莫さに閉ざされ、異様な事態が勃発している。これは唯ごとではないと、意識がもどりはじめた。停電で薄暗い場内は雑然としている。身動きしない無数の工員が床に転がり、機械にもうつぶせになったままである。

 閃光が侵入してきた明るい入口の方向には、さすがに足が向かない。

 工員達がたむろしているのは、トンネル工場の中間通路らしい。痛む脚で精一杯歩いた。重傷で血まみれの人、軽傷の人、無傷の人等が、中間通路の棲みに、身体を縮め、肩を寄せ合ってうずくまっていた。重傷の女性が声を押し殺して泣いている。動こうともしない人々の群を見て、途端に、いいようのない激情がこみあげた。

 「元気を出せ! 何をしているんだ。」
 と大声で呼びかけると、
 
 群の中からひきつった顔の工員が、
 「大惨事だ。分工場長も不明だ。工場の外は地獄だ。」
 と、吃り吃り、声を張り上げた。

 閃光が光った瞬間からの凄まじい体験に、気も動転し、恐怖に戦くあまり、言葉も出ない。やっと、短絡した返事が出たのだった。

 忽然と凄惨な破局につき落とされた。常識の及ばない破目に捲き込まれた。頼りの指揮者も不明という状況である。想像を絶する外部の惨状を見てきた本人にとっては、最も安全だと直感された、トンネル工場の中間を選んだ。

 再来の恐れに身動きもできない。ひたすら、身をひそめている以外に、方法はなかったのだろう。

 薄暗い通路に、蠢いている血まみれの重傷者に較べると、私の負傷hあ軽い方だった。救いを求めていた弱気が消えた。おかしなもので、急に強気になってきた。元気そうな工員達に、
 「このままではまずい。外に出よう」
 と声をかける。同感だといわんばかりに、いっせいに、うなずいてくれた。

 気がついてみると、哀れなのは、私の風体だ。爆風に捲き込まれているうち、被っていた帽子はもちろんのこと、着ていた上衣まで剥ぎ取られて吹き飛んでいた。奇妙なことに履いていた片方の地下足袋まで、抜け、吹き飛ばされ、裸足という格好である。凄まじい風圧の暴力である。

 草鞋を捜し、紐でくくりつけた。傷む腰をかばい、杖とついて外に出ることにした。すでに、30分は過ぎていたのだろうか。つい先ほど、入口で話しかけてくれた九大のK君は、運悪くまともに機械台に打ちつけられ、血まみれになって横たわっていた。

 暗闇に慣れ明かりがまぶしい目にも、逆光の中に無数に転がっている意識を失った重傷者が見え、足り竦んでしまった。一刻も早く、工場の入口を出て前庭に出ようとするのだが、無気味な恐怖感が押し寄せてきて、ためらいで、足が前に進まなくなった。

 勇気を奮い、飛び出して、周りを見回した。見慣れていた光景が完全に消滅して無い。全く変わりはてた別世界、驚きが背筋を走った。凄惨を極める爆風の爪跡。悲惨な重傷者の蠢めき。この世のものではない。

 工員達がいっていた地獄が、そこにあった。朝まであった木造の建物が吹き飛び、土台だけが白々と残っている。くすぶっていた対面の藁ぶきの家が、突然、焔を吹き出して燃えだしたのに、一瞬息をのむ思いであった。

 朝方、晴れていた空は、赤褐色のどす黒い層雲に蓋われて薄暗くなっており、、印象的な朱色の線が弧を画きながら、燃え上がる黒煙を吸い込んでいた。憩いを与えてくれていた長崎の街並みは、硝煙ともつかぬ黒煙を背に視界から消えている。見渡す限り、すべてが破壊し尽くされている。建物は倒れ、電柱が折れ、電線のたれ下がった道を避難民がぼろぼろになって歩いてくる。

 全く想像を絶する光景であった。

 朝鮮から徴用でかり出された労務者達は、主に戸外作業に従事していた。その日も、暑さのため、上半身を裸で働いていた。まともに熱線と爆風を受けたのだ。水ぶくれの背中、たれ下がった肉、血まみれの顔をふるわせながら、
 「あいごー」
 と泣き群れている。工場内に入れず、助けを求めている眼には恨みがこもっていた。

 元気な工員および女子挺身隊で、班をつくり、ただちに負傷者の救護作業を開始した

 朝鮮の労務者の嬉しそうな顔が今でも目に浮かぶ。自分達で行動を律して、安全な工場内に避難することをため
らっていたのだ。

 残りの元気な工員達と一緒に、本部工場に出かけることにした。

 電話は杜絶している。本部の消息は全く不明である。新しい情報と指示が入らないため、本部に行く以外に方法
はない。もちろん、山口教授との連絡と他の学友の救援を考えないわけでなかったが、本部がこれ以上の惨状を呈し、指揮系統が破壊されているとは想像もできなかったのだ。

 本部に通じる国道は、瞬時にして壊滅した建造物が障害となり、難渋しながら逃げてくる負傷者の群が黙々と続いていた。

 国鉄の線路づたいに行くのを選び、土手をはい上り本部へと急いだ。しばらく行くと、鉄道の枕木が小さな炎を
あげて燃え続けている。線路が不通になってはおおごとだと考えるが、消火の手立てがない。朝から出すことも忘れていた小便を思い起し、無意識にかけて回った。意外に効果があって消えてゆく。

 同じ思いだったのか、工員達も真似を始めた逃げてきた人まで加わった。悲惨な廃墟をバックに、コミックな大
砲列の展開であった。しかし、本人達にとっては、真剣な作業だったのだ。しまいにはバケツの代用品も見付けだして、田の水をかけての消火が続けられた。

 未曽有の破局の中でも、何かきっかけを掴み、共同作業が始まると、人々は勇気が生れて元気がでてくるようである。

 これが、当日の午後になり、早くも強行された鉄道職員の献身的な救援活動に役立ち、学友をはじめ、多くの負傷者を、遠く離れた安全な病院に運び出すことができたのだから、笑えぬ一駒であった。

 当時の国鉄職員の涙ぐましい、節度のある行動に対しても頭が下る。今日でも、あの時の感謝の気持を忘れることはできない。

 苦労の末、本部工場にたどりついた。想像以上の廃墟であり、瓦礁の山である。頼りにしていた鉄筋コソクリートの本部ビルはすべての窓が窓枠ごと吹き飛ばされ、内部も焼け爛れたように散乱し、大竜巻に襲われたような惨状を呈していた。物かげには、硝子の破片で全身血まみれになった人々が、さけた肉が痛ましい、手を空にあげ、救いを求めていた。

 死体も累々としている。責任者の所在を確かめようにも、正常にロのきける人は皆無である。歩ける負傷者は、すでに避難したあとで、まともに話せる生存者は残っていないようである。

 荒れはてた構内通路は、硝子の破片が粉々に飛び散り、無気味な光の砂利道になっていた。

 その通路のあちこちには、あまりの凄惨さに気が狂ってしまった若い女性が、血を浴びた髪の毛を、焼け爛れた顔に、こびりつかせ、虚空を見つめるように蹲っていた。

 助けようと声をかけても反応を示さない。

爆風で無惨に崩壊した工場棟を避けながら、捜査活動を続けていると
意外に元気なN君に会えた。
 「直撃を受けた瞬間、幸いに条件のいい部屋にいて助かった」
 と語りながら、他の学友の消息と、工場内の模様
を話してくれた。

 「ほとんどの責任者が即死か不明である。本部工場で作業していた学友はほとんど負傷している。Ka君等を除い
て傷も浅く救援活動に頑張っている。通路を歩いていた山口教授は爆風のため重傷だったが、元気なYa君等が担いで行った」
 と聞き、概況を知ることができた。


 かねてなら、まず優先的に介抱すべき瀕死の重傷者は見捨てることにして、助かりそうな重傷者をまず救助の対象にした。今になってみると、慚愧の念で一杯である。だが、無惨な重傷者、死者が累々と転がっている現場で、救助の員数も限られているとすれば、精一杯の判断であった。

 救いの手を差しのべなかったこれ等の人に対し、心からお詑びするとともに、ご冥福を祈る。

 重傷の人は担架をつくりかつぎ出し、歩けそうな人々は叱咤激励しながら助け起し、肩を組もうとするが、なかなか正気にかえってくれない。

 果てしなく拡がる被災地の広さ、理由が判らない無気味な惨劇の展開は、いい知れぬ恐怖心をさそい、胸を圧迫する。長居は無用という心理が心をせきたて、負傷者を激励しながら、急ぎ避難を開始した。N君等とともに、途中まで行ったものの、他の学友のことが気になる。線路沿いに引き返していると、救援貨車の第一便が入るという嬉しいニュースが伝わってきた。救援作業に活躍している学友のTa君、Ya君等にも会えた。
 「市商分工場の被害は
大きく、学友の重傷者が多い。西郷寮も焼け落ちたが、N君K君恥君等は九死に二生を得て避難していった」
 とこ
もごも教えてくれた。

 せせらぎの透明な水が、目にしむように美しい土手下の畦道に、負傷したKa君、U君等がO君等の介抱を受けな
がら横たわっていた。N君は意識がない。絵で見る美少年の如く若々しいU君は、爆風で鋭利な機械に頭をぶち当て重傷である。ロマソチストだったKa君は全身打撲で血に染まっている。声をかけると童顔にかすかな笑みを浮かべて応えてくれた。

 「救援列車がもうすぐ入る」
 と告げると、全員が、声をあげて喜んだ。やがて釆た救援貨車の第一便は、多くの
負傷者と、これが最後の別れとなった学友を乗せて、遊行して行った。ただ直感的に、この忌わしく呪われた被災地から一刻も早く遠ざかって欲しいという願いで一杯であった。

 八月六日、広島に新型爆弾が落とされ、大きな被害を受けたことは、大本営の発表により報道されていた。しかし、突発的な大惨事の渦中に投げ出された当事者にとってみると、何が勃発したのか分析する能力が失われる。限とも思える破壊、凄じいばかりの惨状、はかり知れない被害面積の広大さに打ちのめされて、思惟の範疇を遥かにこえた思考と心理が働くようになってしまう。

 人間は極限の破局に落とされると、煩悩を脱したわけでもないし、無意識的な意志で律するほど、さとりができたわけでもないのに無心の境地になった判断ができるものらしい。

 崩壊した天主堂、真二つに割れた神社の鳥居、鐘楼の焼け跡に残る崩れた菩薩の台跡を見ても無感動になっていたが、危険に対する予知勘のみは鋭くなっていたのであろう。

 夕闇のせまる頃、道ノ尾駅に、貨車でない救援列車が入ってきた。たどりついていた多数の負傷者で満席になるが、重傷の山口教授をはじめ、負傷した学友を無理に押し込んでしまった。一刻も早く病院に入院させるか、郷里までたどりつくように元気なO君等に托す。

 出発前の汽車の窓から、傷ついて消耗した教授が黒い生徒帳を差し出した。学友の安否を確認して、一刻も早く七高本部に遠路してくれとの依頼である。握手した手をしっかりと掴み、
 「よろしく頼むよ」
 と眼鏡をとばした細
い目から、涙を流しながら頼まれた。

静かに出て行く列車を見送りながら、お互いの無事を祈り合った。この別れが最後になった学友もある。夜のとばりに見た車中の傷ついた面影が、痛ましく思い出される。

 残ったわれわれは、A君等のグループと二班になり、翌日からの救援を続けることにした。

 駅を出て歩いていると、Ko君の肩に掴まりながら歩いてくるS君に遭遇する。夜勤明けで、西郷寮に帰り、部星の窓際に、裸で寝ていたところで被爆した。褌一枚の姿である。松林で寝ていたが、汽車の気笛を聞いて出てきたらしい。背中一面が熱線をうけた火傷のため水泡に覆われて痛ましい姿であった。

 「被災と同時に、寮が倒壊し、被さってきた大梁や屋根瓦をはねのけながら、漸くはい出ると火焔がすでに目の前に吹きつけてきた。火焔は避けることができたんだが、火傷の原因がわからない」
 と不運をなげきながら、あえ
いでいる。

 半壊の住宅から浴衣を拝借して着せる。やっとの思いで、塒(ねぐら)と決めたトソネル工場までたどり着いた。

 痛がるS君のために薬を捜すが、昼間に使い切ってしまったのか一滴も残っていない。

 機械用の潤滑油に使用していた新しいゴマ油の缶を見付けだした。火傷一面に塗りつけると、
 「気持がいい」と
大きな眼を細めて、喜んでくれた。眠れないS君を励ましながら、寮歌を唱いながらの徹夜の看病であった。

 暁方を待ちきれず、Ko君等とともにS君を担架に乗せて、病院捜しに出掛けた。

 爆風の及ばない、山あいの蔭になった地域は、星根の一部が痛んだ程度で被害は少ない。その一隅に医院を見つけた。すでに負傷者で一杯であったが、起き出してきた老医師が、「入れ」とうなずいてくれた。

 玄関から居間にいたるまで、足の踏み場もないほど、負傷者が寝かされ、泣き坤いている。親切な老医師で、S君のために寝る隙間を作るように心を配っていただいた。まさに、地獄に仏とはこのことであった。

 トンネル工場に帰った。デスクについて、托された生徒帳をひろげながら、学友の安否の確認をはじめることにした。病気、所用での帰省先が明記してあるので助かった。判っている生存者に○印を、負傷者には△印を、友の顔を思い出してつけていった。十数名が不明のままである。負傷者の数も多い。不明の学友の行動をたどっていると疲れでつい眠りこんでしまったらしい。

 人声のざわめきで目を覚すと、昨日働いてくれた工員をはじめ、女子挺身隊の女子工員等が集まってきて、取り巻いている。寮は焼け、寝る処もなく、同じようにトンネル工場のコンクリート土間に、蓬を敷いて寝ていたそうだ。

 それにしては静かな夜であった。

 空腹は覚えないが、ほとんど全員があれ以来、食事を摂っていないのである。

 停電でもあるし、生産活動どころではないのに、よく踏みとどまり残ってくれたものである。

 まず、食糧調達を協議する。昨日、西郷寮の焼け跡まで出かけていってきたTa君から「食糧倉庫の跡に食べごろ
の焼けジャガ芋が山のようにあったし、岩塩の袋もあった」と発言があった。ただちに、十数人が一団となって出発する。

 ついで、古参の工員から、「本部ビルの地下に食糧倉庫がある。大量の非常食が貯蔵されているはずだ」と思いもかけない情報の提供があった。残りの、男子工員と捜索に出かけることにした。その問、女子工員は負傷者の搬出と、工場内の整理をお願いした。

 近道である国道を行くことにする。倒壊した家屋、壁のない吹きさらしの建物に遺体が散見される。裸の子供の下腹が異常にふくれ上っていたのが哀れであった。

 水田には大型トラック、軍用乗用車が吹き飛んでいる。丘の上にあった対空機関砲座から吹き飛ばされてきたと思われる軍服姿の遺体が、軍靴を空中にのばして突きささっている。

 昨日にもまして、異質の恐怖が生れてきた。時おり、飛行機の爆音が耳に入ってくると、反射的に、一同蜘蛛の子を散らすように逃げまどう。太陽に向って遮蔽物、穴らしい窪みに先を争ってかけこみ、小さくなってはかがみこんで、爆音の消えるのを待った。

 生々しい体験から、爆風と熱線の被害が身にしみついているので、光の射さない、低い穴ぐらを唯一の救いの場所と信じていたのである。

 手のつけようもなく荒廃した本館ビルの地下に入り捜すと、食糧倉庫を発見した。頑丈な鍵をハンマーで壊すと、中には乾パン類が豊富に貯蔵されていた。持てるだけの食糧を抱えて、帰路についた。

 帰る途中、心に余裕も出てきたのか、畠にある茄子や南瓜が目につき出す。熱線で焼けたのだろうが、片面が焼けて変色しているが新鮮に目に映える。失敬してもぎとって帰ることにしたが、天然の焼き茄子、南瓜であった。

 トンネル工場に帰り、乾パンを分配し、焼けジャガ芋、焼け茄子に岩塩をつけて食したが、その時の味を思い出そうとしても、思い出すことができない。それにくらべて、翌日の夕方、医院でもらった白米のおにぎりの味が、今でも懐しく思い出される。

 恐らく、この頃までは、恐怖感の方が、飢餓感よりはるかに強く、正常な精神状態でなかったのだろう。

 思い思いに食事をとり、疲れた身体をいたわるようにひと休みして、まどろんでいると、女子挺身隊の若い数人の娘たちが、かけ寄ってきて、私を取り巻いた。娘達の瞳には、暖い人間味が経り、輝いている。とまどっている私に、
 「これ、七高さんの帽子でしょう。
 と、破れ帽子を高々とふりかざしながら、差し出してきた。まさしく愛帽である。昨日からの、鉢巻き一本で、草鞋ばきという哀れな私の姿に同情して、場内整理のかたわら、私の学帽とともに、新しい地下足袋をさがしてくれたのだそうだ。思わず、真深かに愛帽をかぶり、大げさな身振りで挙手の礼をかえした。
 「ありがとう」
 と叫ぶ
と、とり囲んでいた彼女等が手を叩いて喜びあってくれた。可愛らしい情景だった。胸に警す痛ましい体験の中にあって、掌中の宝のように、大事にしまっている心暖い思い出である。

 異様な恐怖心が支配して、浮足立っている時である。しかし、女性の母性本能と憐れみの心情ほど強いものはない。あらためて、厚く感謝の念を捧げる。

 さて、腹は充ちてきたが、当面の仕事はない。本部は壊滅しているし、情報は完全に途絶えたままで、情況は少しも好転しない。

 ひとまず周辺が落ちついてくると、異常心理が増幅して、いい知れぬ不安感が生れるのは当然のことである。くに、女子工員にとっては寝る処も失い、衣類も作業服の一張羅である。早く、故郷に帰りたい気持を押さえろといっても、とうてい無理なことであった。

 ほとんど全員が無一文に近い。幸いに救援列車は、わずかだが、雄々しくかけつけて、帰って行く。考えた挙句、思いついたのは、戦災証明書を発行し、無銭乗車で帰郷させる発想だった。負傷者でない集団を送り出す方法としては、これ以外にない。早速、実行に移った。窮すれば、通ずるとは、こんなことをいうのであろう。全員で分けして、分工場長の印鑑と適当な用紙を捜すと、こんなことは早いもので、すぐ用意が整った。片っ端から、長崎被災者であると証明書を書きなぐり、印鑑を押しまくった。

 希望者をつのってみると、男女ともども長蛇の列ができたのには驚いた。

 嬉しかったのだろう、半ペらの即製証明書を押し戴いて、
 「ご無事で、またすぐ帰ってきます。」

 と、別れの挨拶にカがこもっていた。

 乾パソの袋をふりながら帰って行く工員達を、線路の土手まで行き、見送った。

 わずかであったが十数人は残ってくれた。

 結果としての評価であるが、この時、多くの若い元気な人々が、早目に長崎を離れたのはよいことであった。
 「長崎に落としたのは原子爆弾である。…その放射能は極めて強く人間や動物はもちろん、あらゆる生物は70年間棲息できない…」
 という内容の伝単ビラが、長崎の周辺に、敵機からばらまかれたというが、デマとして
受け取ったほどで、敵の戦略であるという認識であった。ただ、先述のように異様な現象と、思惟を遥かにこえた被害の大きさ、犠牲者の多さに危険を感知したに過ぎない。

 私自身を反省してみると、直接一次放射能と、高熱線は浴びてはいない。しかし二次放射能汚染の其只中を、友を捜し、救援活動でかけずり廻っている。おまけに、強力な放射能で照射された岩塩を調味料として、その熱線で焼かれた天然焼き茄子を食べているのだから胃腸が驚かない方が不思議である。翌日から激しい下痢に悩まされたが、その便が粘膜質の濃褐色であったことをおぞましく思い出す。

 九月の初旬に倒れ、末期の白血病と診断され、死の宣告を受け、その後約二カ月間死線をさまよった。幸いに治療にまとを得たお蔭で命をとりとめた。が、そのあと、戦時中に悩まされ、軍人への道を絶ったアレルギー体質が快癒していたことを、考え合わせると、何か因縁があるように思えてならない

 さて、工員達について述べてみたい。人間は社会的に生存してきた。そしてその時代のイデオロギーまたは権力等がつくりあげた体制内にあって、他人の信用を得るために、本来の能力と、巧妙な見せかけで職場または地位を築いてきた。そして大量生産方式の近代化が進むと、内容よりも外見でいっそう判断がなされる多数管理の時代が始まった

 また、人間が歴史をつくり、社会の進化の原則を形成してきたのは、相互に人間が扶助しあうことに原点を求めたはずだ。

 ところが、戦時中のわが国の総動員体制をふりかえってみると、新官僚派の俊英が拾頭して統制社会的な理念をつくりあげた。しかし、軍部との調整のため不安定な社会心理が醸成されてしまった。特に要領がよく、すばしこい人材が上層を形成して、人間味よりは人を傷つけて喜ぶ以外に興味を持てなくなったような社会的風土をつくりあげてしまった。

 歴史上、最も時代性を失った指導原理と、愚劣な戦争を引き起し、終戦処理を誤った指導者によって築かれていた体制は、極限ともいうべき破局に逢着すると、脆さがたちまち露呈して崩壊も早かった。特に全体主義的な雰囲気の強い、この軍管理工場では、強く実証された。

 突然
に襲ったこの破局のため、恐怖に圧倒された指導層は、本来の実力なみの姿にかえり、本能優先の行動に走ってしまった。そして、大半の工員達は、職場に指導者が不在のため、一時的に混乱におちいり、不安定な状態のまま取り残された。しかし、戦慄する恐怖に戦きながらも、悲惨極まる現実に目をそむけることをしなかった。しかも、人間同士の悲しみを分ち合い、傷ついた人々を救おうと必死に努め、お互いに一歩一歩と助け合いながら活躍した。

 黙々と働いてくれる人々によって、社会の底辺は成り立っており、この層が恵まれるような社会道徳が是非欲しいと思う。

 指導者の不明のまま、救援活動に活躍してくれたこれらの善意の人々に敬意を表する。

 工員達の出ていった後の工場で、生徒帳の整理をして、気になっていた西郷寮に出かけることにした。

 街からはずれ、松林に囲まれたこの一帯は、空襲でも安全だと信じていた地区だが、一面の焼野原になっていた。寮の入口に立って茫然と眺めていると、崖に掘った防空壕から、疲労しきったKa君が現われた。昨日から寮の負傷者の救護に奔走していたそうだ。瞬間的に崩壊し、火を吹きだした寮から、学友達は這い出して避難したそうだ。残念ながらKu君のみが逃げ遅れたらしい。まず、Ku君を捜すことにした。

 近所の農家を訪ね、鍬を無断で拝借し、焼け跡を掘り返していった。やっと、炭化した大梁の下に一つの半焼けの遺体を発見した。白骨化した前頭部についた金歯で、Ku君と識別できる。友の死に直面し愕然とした。灰に埋もれた、半焼の遺体はずっしりと重たい。払君と二人でやっとの思いで持ちあげ、寮全体を見下ろす、小だかい丘の上まで運びあげた。喉仏をとり、手拭に納める。

 暑さと疲労でくたくたになっていたが、友の安らかな永遠の眠りを願いつつ、二人で必死に穴を掘った。小岩をかついできて、土盛にのせ、墓石にしつらえた。農家の裏に咲いていた花を捧げながら、友の冥福を祈っていると、憎悪ともいえる無念さが心を締めつけ、はじめて働突してしまった。

 彼は関西出身で、特異なセンスを持っていた。かねてから
 「戦争は愚劣だ。戦争は終わる。必ず日本人の社会は
存在し得る」
 と当時では、夢想だにしえないことを平気でいっては、私達を驚かしていた。一億総特攻のスローガ
ン一色の時代に、堂々たる発言であった。

 その彼を、学友としては一番目の犠牲者として弔うことになったのだが、神の摂理または宿命とはいえ、限りなく皮肉なことであった。生きていたら、平和な社会で最も活躍した人材であっただろう。

 疲れ果てて帰る途中、吹き倒された松の大木の蔭に、裸の大男が坐りこんでいた。学友かなと思いながらのぞきこんでみると、頗の前面から腹にかけて異常に大きく火傷して、水泡はふくれ上り識別できない。大声をあげて呼びかけると、やっと意識をとり戻し、顔をあげ、虚(うつろ)に見つめてきた。

 佐賀高校文科の動員学生H君である。一緒に行こうと声をかけても、ただ首をふるのみである。立つ力もないほど、憔悴していた。助け起して立たそうと努力していると、顔の水泡の皮がさけ、血膿がどっとあふれ、見るも無惨に傷口がたれ下ってきた。かまわずに抱え起し、扁を組みながら国鉄の土手まで、よたよたと連れていった。

 昨日に引き続き、救援列車を待って、被災者が群れている。隠れひそんでいた負傷者が、危険が遠のき一時的な小康を感じて、出てきたのだ。

 何千人、何万人と想定もできない犠牲者の増加に今更のように戦慄が走ったものだ。救凝列車の到着を待っていると、元気なYa君等が負傷者を誘導してやってきた。

 「トラック班のHi君、Ue君等は幸いに無事で、市内の道路を走れないため、郊外で救援作業に活躍している。だが、N君だけは爆心地附近を運転中だった」
 という悪い情報が知らされた。これで、不明は四、五名になる。

 手拭に包んだKu君の遺骨に驚きながらも、心から哀悼の祈りを捧げてくれた。

 学友からの連絡を期待して、トンネル工場の塒(ねぐら)に帰る。早速、小綺麗な(部品の)木箱を捜した。水で洗い清めて、Ku君の遺骨を納めて工具棚に安置した。学友の救援に活躍したA君等は少し離れた山あいに、家を見つけて塒(ねぐら)としているらしい。合流することができないまま、11日の夜まで、トンネル工場の中で遺骨とすごし、友の霊を守ることになった。

 翌朝、まだ残っている工員達と連絡を待つが、何一つ情報は入ってこない。

 性懲りない下痢のため、衰弱した身体に鞭うちながら、N君を求めて、中心地を目指して出かけることにした。爆心地に近づいていくと、警防団服の市民の一群が目に入った。「社会がまだ残っている」という喜びが胸にこみあげてきた。

 嬉しさのあまり、走り寄り、声をかけた。帽子を見て
 「学生さんか、無事でよかったね」
 と笑顔で応えながら、
煙草を一本差し出してくれた。長崎の港町の方から、やっと、この附近の救援に出てきたそうだ。

 大波止桟橋、繁華街、造船所は被害は受けたが、これほどの惨状ではないと聞かされ、狐につままれたような気になったものだ。

 浦上の電停附近が爆心地らしい。N君の遺体捜索を続けるが、余熱のためにほてるような熱気と、廃墟の中を彷徨するみじめな敗北感に、ともすれば屈みこもうとする弱気を払い捨てるようにひたすら歩いた。

 浦上天主堂の崩壊した堂壁が虚空に望見され、見渡す限り、ただ一面の焼土である。

 市電の終点であった電停。休日には諏訪神社あたりの古本屋めぐり等に利用した馴染みの場所だが、たどりつくまでが、心理的にも物理的にも並大抵のことでない。一瞬にして焼き尽された電車が黒焦げのビームを晒して摘坐し、車中には黒焦げの遺体が立ち姿のまま放置されている。

 過剰すぎる惨害によって、正常な感覚は麻痺したのか、黒焦げの遺体の捜索も機械的になってきた。Ni君を捜し出すことは不可能に近い。ほとんどの遺体が、認識のための胸の名札まで焼かれている。

 大きなガスタンクが、見るも無惨に押し潰された工場の廃墟まできて、精も根も尽き果ててしまった。帰ることにして、市商分工場に足を向けた。想像以上の惨状で、学友達の被害が一番多かった理由がうなずける。場内は崩壊されたままで、人の気配は全く感じられなかった。

 帰りは近道の丘を越す。被災都市の全貌を見下す丘の背にかかるが、あまりの被害範囲の広大さに、じつくり眺める気力も湧かないまま、急いで坂を下ってしまった。

 S君の医院に立ち寄って見る。元気になったように見えるS君がうつぶせに寝ていたが、痛みをこらえながらも心から喜んでくれた。

 土間にまで寝かされていた負傷者が減ったのか、それでも畳一面に患者が一杯だ。

 顔の傷の治療を受け、ついで下痢止めの薬をもらい、すぐ服用した。帰る際に、焚出しのにぎり飯のご馳走にまであずかった。全く美味かった。

トンネル工場の塒(ねぐら)で、三回日の朝を迎える。さすがにコンクリートの土間に敷いた筵も身にこたえ、疲労も重なり起床するのに苦痛を覚えるようになってきた。

 救援作業の応援に出かける。遺体の腐臭がひどくなり、一カ所に集めて油と廃油をかけて焼く作業が開始された。心身ともにやるせない、きつい労働であった。

 不明の学友の発見を期待しながら、元気な工員とともに、警防団の中に入って遺体運びの応援を続ける。A君等から、新しく学友の消息が入る。N君を除いて大凡の学友の概況を掴むことができた。生存者が増えありがたい。

 午後になり、へとへとに疲れてトンネル工場に帰る。遅い乾パンの昼食を摂りながら一服していると、入口の方から、元気な号令の声が聞こえてきた。懐しい響きに耳が立つ。飛び出して見ると、海軍の戦闘用制服をつけた一箇小隊が到着したばかりで、整列している。被災以来、久万ぶりに見る整然たる集団がそこに立ち並んでいた。洗濯したてのピチッとした制服が、場違いとも思えるほど、美しく感じられた。

 わずかに四日問とはいえ、あまりにも長い日々であった。平凡な日々が瞬時に滅茶苦茶に破壊され、想像を絶する惨憺たる無間地獄に突き落とされた。頼るべき中枢も失い、ぼろぼろの衣服で、汗まみれになって、廃墟を歩き廻っていた私達にとって、天来の援兵ともいうべき、頼もしい集団の登場である。洗いざらしの制服をつけた人々に対して、あれほどの美しくも頼もしい感動を受けた者はあるまい。

 小隊長に今日までのあらましを話すと、救援の遅れた言訳を話しながら、「あとは引き受けた」と、力強い握手をかえしてくれた。

 学友の安否も大体判明したし、とりあえず、七高本部との連絡に帰ることを決心する。

 援軍は、さすがに元気がある。用意してきた看板を立てる作業を見ながら、世話になった塒(ねぐら)を遺骨とともに去ることにした。

 S君の医院に行く途中、畠の隅に黄色に熟れた瓜を見付けた。これをぶらさげながら病室に入る。意外なことに畳一杯に寝ていた負傷者の教が減っていた。後でこっそり教えてもらったことだが、昨夜からつぎつぎと患者が息をひきとり始め、遺体は荼毘に付すよう運び出したそうだ。

 食欲が無くなったS君に、井戸で冷やしてもらった瓜を食べさす。乾燥して痛む唇をかばいながら、赤子が吸いっくように、美味そうに食べてくれたが、その時の様子が今でも偲ばれる。

 寝る隙間もあるので、一泊することを願い出ると快く許してもらった。S君も喜んでくれたが、さすがに心身ともに衰弱していたのだろう、話も途絶えがちになり、お互いに寝入ってしまった。

 暁方に目覚めた。S君に向って、
 「七高本部に報告に帰るから一緒に行こう」
 と勧めたが、
 「帰る元気がない」

 と滅入るように泣き出した。
 「すぐ、帰るから土産は何がいいか」
 と尋ねると
 「鹿児島の黒砂糖が食べたい」とい
う頼みである。

 ほの暗い明け方の光で見る患者達の姿は、この世の者とは思えないほど、変り果てている。顔全体が黒焦げになり、目や鼻の存在が黄色い膿で判別できる人、S君と同じく背全面が焼け爛れた負傷者が痛みに耐えかねて一晩中呻いていたものである。

 神は、すべての人のしあわせを望んでいるはずだし、見えざるものへの愛、不可能なもの、ありそうにもないものへの信仰であるはずだが、現実旨の前で悲惨な生命の明滅に接すると、頼るべき存在を求めて自分自身もみじめになる。

 あらゆるカの源泉は信仰であるはずだ。畳の上に寝て、はじめて、生命と信仰について、改めて、煩悶した朝明けであった。

 早朝、親切な医師夫婦にS君を頼み、カなく手を握り返してくれたS君に別れを告げた。

 幸いに列車に乗り込むと、自家製の証明書が有効である。上衣もなく全くの無銭族行だったが、肩からかついだKu君の遺骨が、私を助けてくれた。同席の人々から同情の声とともに、貴重品になっていたにぎりめしのご布施を受けながら、14日の午後には鹿児島に到着した。

 見付けてもらった七高の愛帽が、この六日問、本当に役に立った。当時の高校生が市民から信頼も受け、頼りにされていた御利益によるところが大きい。

 鹿児島の街は、連日の猛爆で一面の焼野ケ原であった。城跡にある、壊しい七高のお濠の門をくぐると、校舎、寮、講堂、すべて焼き尽くされ、白いコンクリートの本館のみが、城山の緑をバックに、ひっそりと残っていた。

 玄関に入ると、本部の移転先の地図が壁に張り出され、人の気配がない。ひっそりと静まり、蝉の声のみが炎天の空気をかき廻していた。久しぶりに聞く思いのその鳴声が壊しかった。

 疲れをいやすため、天文台寄りの楠の葉蔭で、乾パソを食べながら、市街を見下ろした。ホワイトの焼土である。長崎の重苦しいダーク・グレイで、いまにも血膿が吹き出してきそうな焼け跡と比べると、爽やかともいえる景観であった。街が徹底的に破壊されたため、手近かにひろがる錦江湾が白い鏡のように太陽に輝き、悠々たる桜島が、相変らず美しく聾え、薄い噴煙をたなびかせていた。

 焼けつくような南国の品りの中を、裏町の山奥の防空濠に萬していた七高本部を、さがしながら歩くのはらかった。緑蔭の本部にたどり着くと、大柄で端正な浅野館長が、私の異様な姿に驚いて飛び出してきて、直立された。

 長崎からの報告であると、山口教授から托された生徒帳を差し出し、ついで胸にかけていたKu君の遺骨を説明して机の上に安置した。

 驚きのあまり声も出ない様子であった。もどかしげにいわれたことは、

 「長崎に新型爆弾が落下した報道のあと、何一つニュースが入らず、毎日のように心配し、寝ることもできなかった。不明のまま長崎に人も派遣できず、長崎全市が壊滅した噂が飛び、人を行かせるすべもなかった。ただ学生の無事のみを祈っていた。

 また、明日にも敵の上陸があるかも知れない時で、手のほどこしようもなく、全くすまなかった」と、声涙ともに話された。

 意外に多い死者一名、行方不明一名、重傷者18名、負傷者20名の報告に、驚きのあまり動転された。Ku君の
遺骨を、壕の奥にある金庫の上に、祭壇をしつらえて安置した。

 僧籍の浅野館長の読経が、早天に静かにこだまして、事務局員とともに、友の霊を弔った。

 重傷者の疎開した病院先き、郷里に帰ったか、など不明のことが多かったが、S君の父兄をはじめ、家族への連絡を依頼した。帰る際に、

 「長崎の詳報もようやく判明し、交通の情報もよく判ったので、さっそく待機させている黒木教授を派遣する予定たてる。ご苦労だが、できるだけ早く、応援に再度出かけてくれないか」
 と館長が要請される。

 二日問の休養日をいただき、出発することを約束して、本部を引き揚げた。

 黒木教授は、さっそくその翌日出発されたことが、その後の記録に記されている。

 吉野から西鹿児島駅に行く途中、P38戦闘機が、低空から梯銃掃射してきた。逃げるのに、目標があって、さはど怖さを感じなかった。連日の空襲で、鹿児島本線の損害はひどく、汽車に乗るのも並大抵ではない。

 市内の自宅も、六月に戦災で焼け、川内市に父母が疎開していた。ようやくわが家に帰りついたのは、夜も大分更けてからであった。無事を喜んでくれた父母に、詳しく話す気力もない。なけなしの白米での暖かい夜食を食べ、泥のように、寝入った。翌日8月15日、昼前に起されるまで、熟睡してしまった。

 正午に重大発表があるというので、母が疲れを承知の上で、ゆり起してくれたのだ。

 聴きとれない雑音の入ったラジオ放送、いわゆる玉音放送である。父母とともに正坐して聞き入った。聞きにく
いが終戦だとわかる。

 連日のように、襲来していた沖絶からの空襲も、嘘のように、絶えて無い。静かな空を仰いで、感無量であった。つぎつぎに押し寄せる、国の大きな変動に支離滅裂な悔しさのみが、全身にあふれていた。

 縁先きから見える緑の田面(たのも)。赤蜻蛉がすいすい飛んでいる。相変らずの自然の大地がそこにあり、昨日までの世界と今日のそれとの間に変化が無いのに焦りを覚えながら、呆然としていた。

 畦道を歩く人影にも、現実を知らせる証しを覚えず、心を動かす感動も湧かない。

 父母との話題も、重苦しく、はずまない。早目に夕食をとって、また、寝入ってしまった。

 改めて知る終戦の実感を語ることは別の機会もあろう。翌日も眼が覚めたのは昼下りであった。ただちに、長崎に出発する準備に取りかかる。約束した黒砂糖を母に頼むと、夕刻には、大きな袋に一杯集めてきて、荷作りしてくれた。買い出し用の大きなリュックに一杯食糧をつめて出発したのが、翌日の早朝である。

 帰る時は一日半かかったのだが、すでに終戦による混乱が始まっており、列車の中に割り込むのが大ごとになっていた。坐るどころでなく、破壊された鉄橋は歩いて渡る。次の列車に乗り替えるのも競走である。

 すでに、韓国人の横暴が目に付くようになっていて、腹が立つやら、口惜しさで一杯の哀れな道中であった。

 プラットフォームのコンクリートに寝る二回目の夜を過し、ようやく19日の昼すぎに、長崎の道ノ尾駅にたどりついた。

 ただちにS君の医院に駈けつけ、病室になっていた表座敷に庭から入り込むと、意外に六、七人位に減った患者が、付き添いの家族もいて、ひっそりと静まっている

 S君の姿が無い。老医師の居間に行き、拶挟もそこそこに聞くと
 「一六日の朝、亡くなったよ。」
 と、ごく普通の
出来事のように、もの静かに宣告された。鉄槌の如き衝撃を受けながら、
 「そんな、馬鹿な。遺体は何処に。」
 と、
うめき、せきたてると、
 「その日のうちに、他の遺体と共に茶批に付したよ。」
 と、燐れみの眼差しの下に応えが返
ってきた。

 如何ともしがたい焦躁の念が走る。もってゆきようのない怒りが湧くが、誰に当たる術も無く、ただ唖然として声も出なかった。

 待ちきれずに死んでいったS君の心情を思い、また土産に持ってきた黒砂糖の重さが恨めしく、心がはりさけんばかりであった。

 医院の仏壇を借り、持ってきた黒砂糖をそなえて、心の底からS君の霊に詫びながら、冥福を祈った。全く信じられない。嘘であって欲しいという瞬いも錯綜する。

 気持を落ちつかせようと、トンネル工場、本部工場に出かけた。すでに整理作業が始まっており、本部ビルの土間では、物資の配給も始まっていた。

 事務所に行き、黒木教授の動向を尋ねると、17日に到着した、とのことである。負傷者を収容している周辺市町村の病院のリストを調査して、ただちに出発されたらしい。

 本部での様子は、不愉快なことが多く、今さら、書くこともあるまい。

 S君の遺骨をさがす手掛りが無いことも判っていた。あえて聞いてみたが、要領を得ないし、遺体の処理方法もまだ決まっていない。その夜は、医院にお世話になり、S君の最後の模様を話していただいた。

 「平常であれば、助かる患者が、被爆後二日目から、次第に息を引きとっていった。S君でも、かねての火傷であれば、助かる方だ。16日の朝、ひっそりと死んでいた。終戦は教えてなかった。医師として、良心が疹くが、私のカで及ぶところでない、全く医学的に見て、不思議な現象が続いている。」

 と静かに、話しながら、
 「判らない」、
 「異常だ」
 を繰り返しては、ただ独り言を洩らされる。

 医は仁術という。報酬を全く期待できない環境にあって、治療に専念し、患者を労った老医師夫婦の崇高さに、ただ、頭が下る。 S君も、良い医院で治療を受けてよかった。持ってきた黒砂糖の半分を、お礼に差し上げた。夫婦で、貴重品だと大変に喜ばれたことが、せめてもの私の救いであった。

 秒速数千米の風圧、爆心地に発生した真空、一万度に近い高熱、極悪の第一次放射能によって、地上一切のものを圧し潰し、粉砕し、吹き飛ばし、一切が焼け焦がされ、瞬時に、数万人が即死し、十数万人が重傷を負った。さらに、放射能による原子病患者が、その後、数限りなく、発生しはうとしていたのだ。

 あの惨状の中で、助かりそうな重傷者を救け、
 「尊い生命だ」、
 「よく生きていてくれた」
 と思ったものだが、つ
ぎつぎに息をひきとっている現実は、うそ寒い悲しさが身にしみたものである。

 S君に見るように、一次放射能の直射、高熱で、背や腹の三分の一ぐらいを火傷した人とか、風圧で重傷を負うとか、硝子の破片で流血の激しかった負傷者は、一見、助かるように見えたが、二日日の朝から、早くも息をひきとったそうだ。さらに、二次放射能による犠牲者の数も多い。

 だが、爆心地附近を歩いていたOg君の場合、偶然に背の高いHy君の影に入り、洋服をつけていたために、一次放射能、高熱線の被射面が少なく、爆風による重傷だけですんだ。救援の貸車でいち早く避難し、遠隔の地で治療に専念したお蔭で、現在も健在である。

 ケロイドは残っているが、助かった人々は、二次放射能汚染地域から一刻も早く離れた人に多い。爆心地から遠ざかるのが賢明だった。

 翌日から、リストにしたがって病院めぐりを始めた。諌早、大村と精力的に歩かれた黒木教授のあとをたどるばかりで、追いつくことができない。丹念に回ってらおれる。

 負傷した学友達は、避難してきて治療を受けてはいるが、全快を待ちきれずに、自分の故郷に出発したあとであった。

 すでに戦後になっていたが、海軍病院等では、軍としての規則と秩序がよく守られていた。入門にも手続きが必要である。受付けに行って学友の消息を聞く、結果が判るまでが、まどろこしく、安否を気づかいながら気のいらだつことが多かった。

 ようやく聞き出したことはM君とU君の死のみであった。多くの負傷者の中を、学友を捜し求める旅は、成果もあがらず、空しさのみが心を占めて、全く行き暮れてしまった。

 27日の昼すぎ、疲れた身体をもてあまして、川棚の駅の待合室で休んでいた。入ってきた列車を眺めていた時、全く偶然にも、タラップに立っている山口教授の姿が目に入った。飛び出して行って、声をかけると、驚いた教授も飛び降りてこられた。

 「重傷だったのに、どうしてここへ」
 と不思議に思いながら尋ねると、

 「救援列車に乗せてもらいありがとう。やっとの思いで、自宅に帰りつき、直ぐ治療に専念した。医老の手当てもよかったせいか、顔に受けた大きな傷口も癒着が早かった。爆風で受けた腰の痛みも、自然によくなり楽になったので、学生のことも気にかかり七高本部に連絡をとった。君の報告で、黒木先生が長崎に出発したということだが、その後の音信が途絶えている、と聞けばじっとして寝ていることもできない。3日前に出発してきたところだ。」

 と深面の大きな傷跡をひきつらせながら、せきこむように話しかけてこられた。

 「昨日、長崎に着き、本部に行き様子を聞いたところ、黒木先生に次いで、君まで来ていることが判ったので、力強かった。直感的に汽車に乗って、嬉野の海軍病院を目指す途中だった。全く、偶然に会えて助かった。」
 と再会と無事を喜びあって、話も大いにはずんだ。

 特徴のある声の、独特の風格をもった痩身のドイツ語の教授であったが、かねての人柄から想像もできない、勇敢な行動である。

 戦前、教師は聖職であった。学生からも専敬を受け、自らは崇高なる責任感と義務感によって、自己犠牲の行動に徹し、愛情をもって接していた一面がうかがわれる。

 むやみと嬉しかった奇遇の喜びを噛みしめながら、それぞれの経過を話し合った

 当夜は珍しく、川に面した族館に一泊することができた。

 目的を果たさないまま、大事に持っていた黒砂糖が、大変に役立った。旅館の主人秘蔵のビールが食卓を飾ることになったのである。

 空襲警報も出るわけでなく、硝子戸も一杯開け、電灯もつけっばなしの涼しい二階の座敷で、パンツ一枚の裸になって、出された川魚を肴に飲んだビールは天下一の美味であった。

 戦後になってはじめて、平和を実感として味わい、平和な生活について話し合った夜でもあった

 自由な風潮で学生生活を謳歌した先輩と、戦時色の強い教育で、戒厳令下に匹敵する抑圧された体制の中で、自由を夢としか感じなかった私との間に取りかわされた談論には、断層もあった。だが、長崎の被爆、終戦という未曽有の体験から、はい出ようとするお互いの模索は共通するところがあり、寝るのも忘れて語り合ったものである。

 精神的にも倫理的にもより処を失い、理性と思想もテーゼも消滅した時代が訪れたさ中にあって、ひとり孤独な思いで、友を訪ねてさまよい歩いていた私にとっては頼もしい夜であったし、かけがえのない生命の専さを実感で味わった日であった。

 良き時を得、良き師を得て、価千金の思い出である。

 負傷した学友の、その後の様子は、黒木教授の報告書で明らかにされているので、ここでは触れない。

 山口教授との出会いで心の糧を得たものの、数日前からの疲労感は増すばかりで、体力の消耗は苦痛になるほど強まってきた。歩くのも足をひきずるようになったので、意外に元気になった先生とは、29日に別れて、行き先を変えることにした。

 9月1、昼すぎ、嬉野の海軍病院にたどりついた時、倒れた。診察を受け、白血病として死の宣告を受けることになった。入院を勧める軍医の忠告を聞き入れる気も起きず、鹿児島に帰ることを決めた。

 「どうせ死ぬなら、故郷の父母のもとで」
 と心にいいきかせながら、帰路についた。

 奇妙なことだが、その帰路の経過が全く私の記憶にない。七高本部に行き、わが家にたどりついたはずだが、暮れなずんだ秋の夕暮れに、わが家の門前で、懐しの母の顔を見て、倒れてしまったことだけが鮮明に思い出される。この時、死に対して恐れも湧かなかったし、死を重大なものとして受けとる感興も無く、万事を尽したという心境であった。ただ、安らかな死が得られるという、安堵感が私を占めていたようである。

 そして、軍医に渡してもらった、処方箋どおりの治療が、父母によって施されたらしい。手厚い看病の結果、幸いに9月も末になって、意識を快復することができた。

 その一カ月の記憶は、私の脳裏から完全に抹消されている。

 恐るべき白血病から救われ、死の世界からはいずり出ることができたのである。

 まず、父母の愛情に感謝する。ついで、私の運の強さも、神に感謝する。

 全く、新しい生命の灯があらたにともされたのである。この生命感が私の人生を導いて、今日までの行動の指針になっている。

 《後略》
 (末弘,1979)
 

 「善人は早死にする」とか、「悪人ほどよく眠る」と書けば、何か映画の題だったように記憶するが、今は遠い原爆の日(昭和20年8月9日)のことを思うと、急ぎ足でこの世から去って行った14人の友達は、すべて善人で、悪運強く生きのびている残りのものは、よくよくの悪人というふうに感じられる今日この頃である。その故にこそ、残ったものは、彼ら善人の分だけ余分に、この世に善根のカケラでも残さなければなるまい。それが悪人に課せられたせめてもの罪ほろばしというものであろう。

 あの閃光が天翔けた瞬間、長崎の西浦上を中心として、どの点と線の上にその人が立っていたかにより、運命が左右された。そして、生と死が分れた。それを″運命″と表現して追悼記を書いたことがある。

 権藤君は、爆撃の直下にいたであろう。短い休暇が終って、懸命に働いている友達に悪いと思いながら、急ぎ足で浦上の駅頭に立った。その時原爆が炸烈した。彼はまさしく死ぬために帰ってきていた。その10分前に浦上の駅を離れて、道ノ尾駅あたりの列車の中にいた友人もある。彼は奇しき運命の糸にあやつられ、かろうじて死神の手から逃れた。前者はまぎれもなく善人であり、そのことによって亡び、後者は悪人としてこの世に生きながらえる悲運を負う。

 8月9日朝、俊君と星野君は、長崎からかなり離れた温泉場にいた。おそらく、のんびりと、何ともいえないくつろぎの中にいたであろう。悪魔的な言葉でいえば、人が働いている日にゆっくり休むなんてことは、えもいわれぬ快感をさそうものではある。突然何かピカッと光った。そしてドーソときた。とび出して音と長崎の方に異様に高い黒雲が立ちのぼったという。彼らは、何かあったのかなあと思っただけで、その時刻、友達が生死の境にあったことなど思い及ばなかった。この二人は、まぎれもなく悪人の仲間である

 午前11時。同じ悪人の仲間である私は、西郷寮の一階にいた。下痢ぎみで、夜勤ではあり、今日はズル休みしようかなあと思わぬでもなかった。帰省という里心もついていた。でも近く表彰されるそうだから、そうもいかぬだろうとも思った。動員の日々は、無味乾燥で、いずこも同じく、食べることだけが楽しみであった。

 「飯はまだ
か」
 とどなっていた。五分前、貴島君が、外出のかっこうで室を出ていった。恐らく西郷寮の正門あたりにさし
かかっていたであろう(彼の消息はここで途絶えた)。園田君は私の向う壁に横になり、少し離れて窓際に平島君がいた。彼の方から夏の日射しが三角形に室内に差し込んでいた(直射光の中にいたため、平島君は全身火傷を負って不帰の客となった)。

不思議なことに、私だけ、原口君の持っていた海軍の白い厚い毛布をかけて、シャツ、
フソドシ姿で、窓際から一番遠い廊下側にねていた。壁をへだてて、園田君の側の隣室には、武田君と粂君が、私と背中合せの隣室には、松村君がいた。また二階の窓際には、上半身裸で、中森君がいたという。それ以外の人の記憶がすべて空白である。

 11時を何分過ぎたであろうか。ウーッという気味の悪いうなり音がきたと同時に、落雷に似た黄色いような、紫のような閃光が走った。間髪を入れず、上からダソダソダンとたたきつけられ、頭の上に建物が瞬時におしつけてきた。煉瓦を砕いたようなはこりがもうもうと鼻をつき、つぎからつぎに屋根が重なってきてもうどうにもならない。

B29の直撃弾だなと直感し、それからの数秒間、「まだ死なない、まだ死なない」と思い続けた1〜2
分後静けさがきた。反射的に私は伸び上った。頭の上の屋根板は、簡単に空の色につながった。その時目にうつったものは、すべて地表にたたきつけられて、べチャソコになった十数棟の西郷寮の全景であり、ぐちゃぐちゃになた材木と板の集塊としかみえなかった。妙なことに、私以外の誰も人影はみえず、虚無の空間がそこにあった。

 しかし、間もなく、材木と板の間から蛇の舌のように、チョロチョロと焔が見えはじめ、ついでバリバリと音を発しはじめた。火災の発生であった(今にして思うと、原爆に倒されて、数分間、かなりの人が失神状態にあったのではなかろうか?)。

この空間に自分ひとりだと感じた時、恐怖が背すじを走り、板と材木の中をかき分け、ピョ
ピョン飛びに、私は建物の区域の中から出た。おびただしい釘が乱立していて、よく足裏にふみ立てなかったものだと、その時の情景は今でも夢にまで出てくる。私は懸命に駆けた。一番近い横穴式防空濠の一番奥まで走り込んでいた。しやがみ込んで気づいた時、シャツ一枚、フソドシ一枚で、腕の外側や、後頭部から血がにじんでいが、幸い軽傷であった。

2〜3分も経ったであろうか。誰も来ず、非常に静かであったことが恐怖をつのらせ
た。おそるおそる私は濠の戸口に出た。と、向うから来るわ、来るわ‥真裸で、真黒で血だらけの群像が、泣きわめきながらこちらへおしょせてきた。まさに生き地獄とは、このようなものであろうか。火焔はかなりひろがりつつあり、とんでもない事態であった。

私は、瞬時に自分のなすべき真に気づいて、走り出していた。もとの寮の
方へ。

 誰もいないと思っていた自室のあたりのささくれ立った材木の中で、まず出会ったのは松村君であった。彼は
 「フソドシが、フンドシが」
 と叫ぶのでよくみるとそれが燃え出しているのである。私は目の前にあった茶缶を
ひろい上げて水槽に走った。しかし、水はず−つと深い底にあり、水汲みに苦労したが、ともかく、一ばいの水で彼のフンドシの火災?は消えた。

 次に出会ったのは、大きな梁におし倒されて、下敷きになった園田君であった。
松村と二人で、小さな材木をテコ式に突込んで、すこし動かして責が、梁の材はとても動くものではない。腹ばいにおしつけられた園田君の右胸には板ぎれがくいこんだのか穴があいている。重傷である。ことは急を要した。すでに火焔が迫っていた。決死の覚悟で二人は梁をずらし、園田君をひきずり出し、あとは松村君にあずけて、寮の裏山に避難してもらった。

 その時刻、貴島君の姿は、すでに失われていた。
爆撃をくらった直後、中村君は裸のまま二階の窓際から、直下にストーンと落下し、彼をかばうように建物は反対側に崩壊した。彼は無傷で、九死に一生を得た。奇跡としか言いようはない。

 奇跡はもう一人の男にも与えられ
た。隣室で駄弁っていた武田君と粂君は、同じ場所でくずれた材木の山の中に完全にとじこめられて、身動きも、離脱もできずにいた。口中はごみだらけで、「こりやどうにもならんなあ」とあきらめ顔でつぶやいたという。そのうち、板と板との間から焔がいっせいにおしよせてきたと思ったら、粂君が異様な興奮と同時に、舌を噛んで、自ら果てたという。

その様を目のあたりに見て、武田君は奮起した。万身の力をこめて、もがいたであろう。活路
はどこから開かれるかわからない。武田君は生還し、粂君は逝った。何という悲運であろうか。今も彼の眼鏡越しの冴えたまなざしがありありと思い浮ぶが、涙なくしては語れない一こまである。

 火災が本格的になり、友達の影も、消息ももうないと判断し、裏山へ逃げようと走りはじめたら、隣の建物の五高生が追ってきて、怪我した友達を助ける加勢をしてくれという。すぐ引き返して、傷ついてぐつたりした五高生を片方から支え、急いで退避した。寮と三菱兵器工場との間に近道があり、その途中の山あいの田圃の畔に負傷者を寝かせ、ともかく救援を待つことにした。

西郷寮の方からは、黒煙とゴウゴウと燃える音がひっきりなしに聞こ
え、前の山をみると立木の大きな松や禁が、真中からポッキリ折れて、バリバリと音を立てて、立ったまま燃えていた。何故山の中の立木まで生なのに焼けるのかなあと不思議でたまらなかった。

助かったという安堵感と、しばしの休息でやや元気をとりもどし、気づいてみると、どうも救援は来そうもない。園田君の右胸は、出血こそないものの、息をするたびにヒューヒューという笛音が聞かれ、衰弱が強い。班長である立場上、何とか、どこかに連絡をつけなければならない。

ともかく行ってみるからと言い残して、私は工場
の方へ走った。途中で頭に怪我されて、顔面血だらけの山口教授(ドイツ語)をかかえた2、3人の友達に出会った。向うもひどくやられたという。みんなの集合している山かげを教え、仕方なく遠いトンネル工場の方に向った。トンネル工場は無傷だろうと信じたからであった。

鉄道線路に出て、その行く手を見定めながら、ただ走っ
た。裸足で、フソドシ、シャツ一つの血まみれの異様な青年が、薫な雪線路を走っている光景は、今ならば狂人に等しいであろう。走る先々で線路の枕木がブスブスと燃え、足にやきついてきた。どうして枕木が燃えるのか?油脂焼夷弾でもばらまいたのかなあとも考えたが、枕木がいつまで行っても焼けているので、奇妙なことに思えて仕方がなかった。

走りに走って、結局、私は道ノ尾駅にたどりついた。足の裏が焼け、腰もくたくたになっ
てダウンしたのである。駅についてみると、それはそれは大混乱で、長崎から釆たという列車に怪我人が山の如くつまれ、うめくやら、泣くやら、水をくれというもの、蒼白になって死に瀕するもの、よくみると全身の火傷であろう、体中がもう一枚水痘の皮をかぶったようにふくれ上がった怪我人が数知れず、救護班もいるにはいるが、病人のは圧倒的で、どうにも手の施しようがない。

私はぼう然と立ちすくんだ。長崎の方をみると黒煙があちこちから
立ちのぼり、街全体が完全にやられたことが一目瞭然であった。先にも行けず、もどる力もなく、私は結局トンネル工場にはたどりつけなかった。

駅の周辺で、まごまごしている中に、偶然五組の班長の小田君に出会い、仲間に
会えて嬉しくて嬉しくてたまらなかった。彼の口から末弘隊長が無傷で、西郷寮の救援に行ったから、あんたはもう帰らんでもよいとさとされた。それを聞いて、ホッと気落ちし、何もする気力がなくなって、小田君と二人、駅前の桜並木の下に、表の避難の人々とゴチャマゼに坐りこんで、諌早行の列車を待った。

しかし、駅に入ってく
るすべての上り列車は、負傷者を満載していて、一般の人はあとまわし、また乗る気にもならず、次第に時間が経って、夕暮が迫ってきた。少しでも長崎から離れようと、線路沿いの道をたどることにした。だが100mも行かぬうちに、教頭の放れ牛が狭い道を閉ざすように立ちふさがり、行く手をはばんで、テコでも動こうとしない。

えい、
ままよということですぐ近くの家に入り込んで一夜の宿にした。爆撃のあおりで、皆逃げたのであろう。家の中は人っ子一人いず、もぬけの殻、しかも建具がすべて倒れ、窓ガラスが粉々に散り敷いて、燃えていないだけが取柄のガラン洞であった。その家の縁先につくられたヘチマ棚の下に身を寄せて、夜を過したと思う。

見はるかす長崎
の街は、真赤に燃え、その赤い火に裾野を照らされて、高い高い巨大な黒雲が立ちのぼっていた。その雲間を縫うようにして、双胴のP38が飛び抜けて行くのが望見された。

ともあれ、ねむれぬ一夜を過し、翌朝諌早行きの列車に
乗ることができた。諌早駅で、私のかっこうがあまりにもみじめで、一見して、戦災者とわかったのであろう、改札口で駅員さんが挙手の礼をし、キップのことなど何もいわずに通してくれた。

親切が身にしみたのは駅前の食堂
でのことである。お茶のみならず、握り飯を恵んでもらった。麦飯ではあったが24四時間ぷりの食事の味は、また格別であり、地獄に仏という実感がわいた。この地の市役所で戦災証明書を交付してもらい、やがて鹿児島への帰路につくことになった。

 《後略》  (田中,1979)
 

 《前略》
 戦局はもう絶望的な昭和20年4月、それでも桜島は春の錦江湾の向こうにのどかな噴煙をなびかせていた。一年余の城山の生活に別れを告げ、動員先の長崎に向かう列車の中で、私は初めて習う煙草の煙にむせていた。それは同級の岡本君が郷里の朝鮮から持ち帰った「みどり」という名の煙草であった。思えば彼も今は亡い。図らずも死出の旅となった級友達を含め、列車の中は何となくはしゃいでいたのが、悲しく空ろな思い出である。

 長崎市の西端のためか西郷(にしごう)というところにあった私どもの宿舎は、バラックの数棟であり、海軍の徴用工、佐高、五高、伊万里商等の動員学徒が詰め込まれていた。工場へは、宿舎の正門からの道と裏門から山沿いの田舎道と、どちらも15分位の道のりで、途中に長崎本線の踏切があった。

田舎道の方は踏切りの手前の小山に寺があ
り、高射機関銃の基地となっていて兵隊が泊り込んでいた。工場は三菱長崎兵器製作所、現在は長崎大学になっているが、航空魚雷を製造している大きな軍需工場であった。私どもが西郷(さいごう)寮と呼んでいた宿舎には、理科甲類四、五、六組約100名が一棟に収容され、部屋はいわゆる「蚕棚」という中二階を設けた八畳位の和室で、今では想像もできぬ構造であった。

つまり部屋の中で背を伸ばして歩くことができない代わりに、床面積が二倍に使えると
いう苦肉の策であった。天井板は取り外され星根裏が丸見えで、長崎の暑熱にやがて悩まされることになる。

とも
あれ、当時の私どもは青年の純真さと環境の一新から各職場で必死に仕事を覚え、兵器生産の世界に没入していった。思えば敗戦までの四カ月に私どもの生産した魚雷は、恐らく敵艦に命中することも戦地に到着することもなかったのではなかろうか。汗と血と死をもって造り出した九一式改良五型航空魚雷は、当時日産10本程度で、空雷としては日本の生産すべてを背負っているとの噂を聞いていた。

 私の配属は大橋工場第二機械工場松尾(?)組で、魚雷尾端にプロペラが取り付けられる直前の部分「尾框殻(びきょうかく)」を13フィートの旋盤で削る仕事であった。

周囲には長崎工業、長崎師範、瓊浦中学、長崎商業、長崎高女などのうら若い
生徒が、それぞれ平削盤やドリルなどの機械を操っていた。勤務は一週毎に昼夜勤交替し、私の相棒かつ先輩は、丸山君という大分から釆た徴用工で17歳位だったろう。組長は白髪のやや陰気で小柄な人であった。副組長の田中さんは大柄でさっぱりした気質が皆に好かれていて、私と同様夜勤だったため助かって、その後被爆者の救出に大活躍したらしいことを、後日ある報告書で読んだ。

 鹿児島の寮と違い、いろいろな人が同居する西郷寮の生活は、蚤と虱の収容所暮しとも言うべきもので、終戦間近の家畜なみの食生活と過労とが次第に皆の身体を蝕み、原爆当時は動員七高生の三分の一は病気その他の理由で帰郷していたと記憶する。

私の場合、鹿児島出発時62kgあった体重が51kgとなった。風呂場で腹の囲りが
黒く油汚れしていると思って軽石で必死に洗ったが落ちない、よく見たらやせてできた皮膚のしわだった、という笑い話が生まれた。

大腸カタルとか赤痢とかいわれた下痢に大半の人がやられた。毎日の血便と疲労のため、くず
れおちそうな足どりで寮に帰り着き、二階への階段を前に溜息をついていた自分の姿は悪夢の中にあったような気がする。頑丈な身体付きの私ですらそうだったのだから、級友の中にはもっと苦しんだ人もいたはずである。

 八月にはいって、米軍機が大挙して長崎の上空を通過することが多くなった。爆撃は一回だけであった。米軍機が落としていったビラに、「時は迫れり、市民は退避せよ」と書かれた日本語と時計の画をこっそり眺め、何のことか判らぬ不安を語り合いながら数日は過ぎた。8月6日広島に落とされた原爆についての情報も、私どもに伝わるのは大型爆弾による大空襲といった程度であり、三日後、それが私どもの頭上から襲ってこようとは夢にも思わないことであった。

 8月8日の夜は、何かと慌しかった。夜勤であった私は、60キロの鋼塊を抱え上げて旋盤に取り付けては削る、という動作を夜明けまで三回位繰り返したろうか。いつもと違って二時間おき位に警戒警報のサイレンが鳴り、そのつど、工場を出たり旋盤の陰に隠れて仮眠したりした。何となくくたびれた感じの夜が明けた。

工場の出
口で、同級の加藤君と誰かが出勤して来るのに出会い、私は、食べずに残していた夜食の黒パンを彼に渡して寮に帰った。それが彼の見納めとなった。お互いに父が七高の同級生という因縁もあり、明るく美しかった彼の顔は、今も私の眼に焼き付いて離れない。

さて、殺風景な寮の部屋で仰向けになったものの、数日前から工場長に申し入
れてあった静養休暇、といっても5日間程度のものであったが、その許可を今日もらうはずだと思い出したので、当時駐在の山口先生の出勤のお伴をして、再び工場に出かけた。

出際に、同室の本田君に「おい、下駄を借りるよ。」
と声をかけ、彼は今まで私が寝ていた窓際に、自分の布団を移した。後に判ったのだが、両手の指を組み合わせて胸の上に載せ眠っていた彼に、原爆の光は手の甲に指の痕を焼き付け、ケロイドとして残した。幸運にも彼は助かったのだが、私もまた、彼の新しい下駄とともに命拾いの道を踏み出していたのである

工場長とは会えず、山口
先生と工場の広場で別れた私は、何となく寮に帰る気がせずに眠く頼りない気分のまま、大橋の電停から電車に乗った。10時は回っていたであろうか、私は、浦上駅の切符売場の列に立っていた。いつまで待っても売り出す気配はない。休暇が取れれば帰省しよう、そして医者にも見てもらいぐつすり眠りたい、それには切符を手に入れねば、という算段であった。

炎天下の立ちん坊はさすがに辛く、20人くらいの列の一番後で、30分も立ったろう
か。前に立っている人に話しかけたら昨夜から並んでいるとのこと。何ということか、1日に数枚しか売らないという乗車券を、こんなことで入手できると思っていた自分の迂闊さ。

白けた気持で列を離れ、やってきた満員の
電車にぶら下がり、長崎駅へと向かった。しかし、もう駅前では降りなかった。それは名案を思いついたからであった。二ヶ月位前に知り合った人に、切符を買ってもらうよう頼むことである。その知合いは、誠に偶然に得たものであった。

その日私は尾堂君と長崎の町を歩いていた。諏訪神社の下の本屋にはいった時、水を飲みたくなった。
本屋の主人は、向いの煙草星に冷たい井戸水があると教えてくれた。二人が煙草屋にはいると、その女主人が 「七高さんは懐かしい。私は二高女出身よ」 と親切にしてくれ、それ以来数回訪問しては、煙草をもらったり、食事を馳走されたりしていたという知合いなのである。煙草屋は副業で、実はその隣の禅寺「光雲寺」の奥さん(川瀬なおみさん)が、いわば私の命拾いのきっかけとなったのは仏縁とでも言うべきであろう。

 電車は長崎駅前を左に折れ、小川町を通って諏訪神社下の馬町に着いた。私は、光雲寺の山門をくぐつて、本堂前の石段から奥に声をかけた。庫裡の方から奥さんが出てきて、私達は久し振りに世間話を始めた。朝のうち出た警戒警報はすぐ解除されて、街は正常に動いていた。ひんやりするような本堂の薄暗さを背にして、私は下駄履きのまま上がり框に腰を下ろし、照り返しで眩しい庭を眺めていた。

奥さんがお茶を入れようと庫裡に立った時、ど
こか空の遠くに急降下するような爆音が聞こえた。一分も経ったろうか、いきなり音もなく青白い閃光が辺を包んだ。何か判らない、とにかく本能的に眼と耳を手で覆って、畳に伏せた。二秒、三秒、いやもっと経ったかも知れない、途方もなく広がった感じで「バーン」という音が大気を満たした。地響きする音でもないし、砕けるような雷鳴とも違う音である。

次の瞬間、私は「焼夷弾だ!」と叫んで、庭先の防空壕に頭から飛び込んだ。私の声につ
られて、奥さんも本堂から飛び出して防空壕にはいった。話を交す間もなく、道路を歩いていた人が次々と壕に避難してきた。外では「退避!退避!」の声がしている。私は飛び込む前に見た奇妙な風景を思い出していた。

れは、黄色い太陽光の中を驚くべき暴風が駆け抜けて行く様であった。空を鳥のように飛んで行くのは屋根瓦であり、木々は身悶えするように揺れ動いていた。壕の中では、口々に 「何が起きたのだろう。どこかに艦砲射撃の弾が落ちたのだろうか」 と囁くだけで、一回きりで静かになった外界の不気味さになかなか壕を出られなかった。のうちこの寺によくやってくる長大の学生K君がやってきた。 「学校をサボって下宿の部星で昼寝していたら、隣室に吹き飛ばされた。何が何だか判らない」 という。本堂の屋根は、中央が抜け落ちて仏前に散らばり、空が丸見である。諏訪神社の回廊の銅屋根は、まるでしわくちゃの紙屑みたいであり、道路にはいろいろなものが転がって台風の後さながらである。

そのうち西から北にわたる空一面に赤黒いカーテンのようなものが湧き上がり、次第
に頭上に拡がってきたと思うと、バラバラと雨粒が落ちてきた。東の方からは、サイレンや半鐘が聞こえ黒煙が上がり始めた。市の中心街の方向である。またこの寺近くでも火が出て、尾根越しに炎が見え始めた。私達は、庭に穴を掘って寺の過去帳を埋め避難の用意をしたが、そのうち火事はおさまって、通行人の話から事態がどうにか判ってきた。

あの不吉な色をした煙のカーテンの下の浦上地区が爆撃され、そこへ行く途中の長崎駅前も炎上中で、
現地の様子は判らないという程度のものである。長崎大学の生化学教室に手伝いに行っている娘は大丈夫だろうかと、奥さんは心配するし、K君も私も仲間がどうしているか気になる。

よし金比羅山を越えて浦上に行ってみょう
と決心して、二人は出かけた。午後四時過ぎであったろうか。西山の水源地を過ぎ、初めての山道に差しかかったが、途中で現地からの負傷者に出会ったりで道に迷うこともなく、浦上一帯を見下せる山頂に出た。

正面の山々と
私達の立っている山との間を左手の長崎港へと連なる浦上平野は、折からの夕日の中に焼けただれて何もなかった。それこそ私のいた工場も密集した人家もすっかり姿を消し、野焼きの後のように、平らな地表から無数のくすぶりが立ち上がっているだけであった。

左方尾根伝いの向うに浦上天主堂の残骸が見え、その先方の長崎医大も恐
らく廃墟となった様子に見えた。その山道を一人二人と負傷者がのろのろとやってくる。上半身裸で靴もはいていない二人の青年が肩を組んでやってくるのを見て、K君が声を上げた。彼の同級生であった。

 二人は医大の教室で被爆した。突然目のくらむような光に包まれ、地底に引き込まれるような感じで気を失った。その後、どうして校舎を抜け出したか覚えていない。途中で某教授が天皇陛下万歳といって倒れたのを見た、などと苦しい息で語ったが、二人とも背中と足は焼けただれ血の混じった唾を吐いていたから、恐らく最後の執念でここまで来たのであろう。

麓の方で汽車の汽笛が聞こえた。赤々と燃える夕日の中で、地獄の光景に似合わない
現実的な音であった。寺の娘さんのいたと思われる生化学教室は恐らく絶望的だろうという両者の話に、K君は、日も暮れるし下宿に帰るからといい、この二人を汽車まで連れて行ってくれと私に頼んだ。私は両肩に二人を支えて、暗くなりかけた山道をそろそろと工場の方へ下って行った。

浦上側の斜面の木々はほとんど地上数メートルを残し
てもぎ取られ、電柱は一定の方向に懐いている。地上に垂れた電線や千切れた大枝が道をふさいで、下山をひどく手間取らせた。残光を頼りに三菱兵器工場の焼け跡を過ぎ、西郷寮への道と交わる長崎本線のレールにやっとたどりついたが、当てにしていた汽車の姿はなかった。

付近の土手や畑の中には無数の負傷者が集まってきており、め
いめいにうめき声や叫び声を上げているが、救護隊はおろか歩き回っている人が稀なのであった。私は、もう口も利かなくなった二人を土手に休ませ、汽車が来るのを待つことにして辺りをうろついた。地上の出来事をよそに頭上は美しい星空となっていた。

先程から呼んでいる声に行ってみれば、頭に包帯をした中年の男である。抱えて小便
をさせてくれという。そうしてやると、三菱の製鋼所の工場長の金子(注 記憶定かならず)というがここで死んと伝えてくれ、と言われた。

畑の中から女の人の苦しそうな声が聞こえるので行ってみると、赤ん坊を抱いて横に
なっている。息がつけないので子供を退けてくれというので、赤ん坊の腕を掴んで引っ張ったら、皮がずるりと剥けた。柔らかくて冷たくて、思わず背筋がゾッとした(翌朝同じ所を通りかかったら、見るも無惨な死体となっていた)。

夜空の星はすっかり空を埋めて輝き、奇妙な感じの赤い火の玉はあちこちの煙突の頂部の足場が燃えている
のであって、時折流れてくる微風は枇杷の実の腐ったような匂いがした。汽車はまだ来ない。医大の二人は寒気がするという。私の工場服を一人に掛けてやり、 「もうすぐ汽車が来る。眠るなよ」 といって、何か情報はないかと近くを歩いてみた。 「水をくれ」 という声が、畑の方から聞こえる。

暗がりの道路でも、老婆が水を飲ませて、と
いう。水といっても傍を流れる小川しかない。ともあれ婆さんの手を引いて川縁に連れて行き、腰の手拭に水を浸して吸わせた。思えば、高等学生の腰手拭は武士のたしなみみたいなものであったろう。

人の気配を察して、畑の
声がまた「水、水」という。頭に閃いたのは、畑の南瓜であった。驚いたことに葉は皆吹き飛んで実ばかり転がっている。刃物はないし、ままよとばかり石に叩きつけてどうにかお椀を作ると、川の水を汲んでは運んだ。

昼間見
たらおよそ飲む気になれぬ田圃の川であったが、当夜これを末期の水とした人が幾人いたことであろうか。

11
過ぎ、遠くで汽笛が聞こえた。それから、偶然にも工場で知合いの長崎師範の生徒に会った。彼は負傷しなかったので、友達の救護をしていたのだという。汽笛が聞こえて30分も経ったろうか、二人で汽車を呼びに行こうと線路の上を歩き始めた。恐らく道ノ尾駅で停まっているのだろう、負傷者があれ程待っているのに、と話しながら二人は急いだ。

途中に20メートル位の鉄橋がある。その向うの闇に真黒な機関車が停まっていて、息を潜めるよ
うに時折蒸気を吐く音がしている。渡ろうか待とうか、二人はしばらくためらった。停まっているのか動いているのか判らぬ黒い怪物の前に飛び出すのはやはり恐ろしい。

よくよく見定めて二人は橋を渡ると、機関手に、早く行って
くれ、沢山の人が待っている、と告げた。何故そこに停まっていたのか判らないが、とにかく列車は現地に着いた。もう12時を大分回っていた。列車は貨車ばかりであった。土手から人を乗せるのは大変である。まるで貨物のように、負傷者は真暗な貨車に転がし込まれた。

医大の二人も乗り込んだ。池田君に村田君といったが恐らく
それが最後の姿であったろう。上衣を返してもらって、私は長崎師範の防空壕に寝にいった。この学校は兵器工場の裏手にあって、生徒も沢山死んだらしい。防空壕は負傷者で一杯なので、地面に敷いた布団の上にごろ寝した。時時、B29が特有の爆音を響かせながら高空を過ぎていったが、対空砲火の音も迎え撃つ戦闘機の音もない。

数万人
の生と死が交代しつつある浦上の空は、無心の星が瞬くばかりであった。夜露を受けながら、しばらくはまどろんだと思われる。

いつもと同じ夏の朝がやってきた。昨夜から七高生に一人も会っていない。皆は一体どこにいるのだ
ろう。昨夜行こうとして諦めた西郷寮ももう鎮火したであろう、そこには誰か釆ているかも知れぬと思った私は、朝の光に改めて見る前夜の地獄を通っていった。

西郷寮は黒焦げの消し炭の塊で、あちらこちらまだくすぶってい
た。私達のいた棟の焼け跡の見当はついたが、そこに一体の白骨となった焼死体があった。ちょうど私の部屋の辺である。仰向けとなった姿で、眼窩は黒く灰が溜り誰とも見分けがつかない。級友の一人には違いないので、合掌して別れ、付近に散らばっていた寮生の持物を防空壕の横穴に運んだ。

あれだけの火の中で、不思議にも郡君の黒
いマントと誰かの柳行李が焼けずに転がっていたのである(後日、この白骨は粂君のものであることが判った。彼の部屋でよくレコードを聞かせてもらったことを思い出す)。

寮の入口の方には兵隊が釆ていて、後片付けか何か
をやっていた。炊事場だった所には、昨日炊いた御飯が笊に盛ったまま半焦げになって、灰の中から見えていた。

 私は思いついて、焼跡の鉄帽にこの御飯を手掴みで盛り、針金を通して吊り下げ寮を去った。七高生がどこにいるのか当てはない。再び工場への道に出て、道ノ尾のトンネル工場に七高生がいるとの話を聞き、歩き始めた。の中の偶然なるものは本当は無作為なものではなく、一つの運命の筋書き通りなのかも知れない。

道ノ尾への路上
で、丸い顔を油と煤だらけにした工員の丸山君とばったり出会った。聞けば、ピカッとした時旋盤の下に潜ったとのこと。元気を出せといって、鉄帽ごと御飯を手渡して別れた。

初めて釆てみたトンネル工場の前で、リヤカーに
山口先生を乗せた七高生数人と出会った。先生は工場の庭で被爆し、飛んできた鉄片で眉間に穴があき、血の滲んだ包帯が痛々しかった。

一緒に道ノ尾の病院へ先生を送っていき、私は、身体を壊しているためすぐ帰省させても
らう了解を取って、皆と別れた。道ノ尾駅長のスタンプを押した紙切れが、日本国中どこへでも行ける切符ということで、それをもらい汽車を待った。

駅前の桜の木の下には、藁むしろを敷いた十数人の負傷者が寝かされてい
た。もう傷口に蛆が湧き、人間とは思えない扱いで転がされていた。待つ程にやってきたのは、浦上の方へ行く空(から)の列車であった。昨夜列車が着いた所には、今日は看護婦や救護班が出動し、炊出しや怪我の手当をしていた。

大工専の動員学生が数人腰を下ろしてろしていたので、顔見知りに声をかけたが、空ろな眼をしていて声も出さない、きっと彼等はその時確実に死への道をたどつていたのであろう。負傷者の積み込みが始まった。元気な者は踏台代りとなった。私の肩を踏んで列車に乗り込んでいく負傷者が何人あっだろう。

午後三時頃、漸く発車となった。私は
客車のデッキに掴まって乗っていた。車内を覗くと、椅子席には毛髪が焼け縮れ、三倍位に膨れ上がって目鼻も判らぬ大坊主達が黙然と坐っており、通路は裸か、ずたずたの衣類で男女の区別もつかぬ半死半生の人々で一杯であり、さながら地獄列車の姿であった。

私の足元には、十六、七の挺身隊の娘が、もんべは裂け排泄物にまみれて伏
せており、胸に縫い付けられたやけに大きな姓名札が哀れを誘った。

列車は道ノ尾、喜々津とかなりの時間停車し
ながら走った。途中の駅には憲兵がいて、「元気な者は降りよ」と怒鳴った。私は、焼け跡で足の親指を切り布で巻いていたので、それを見せたが、「足の一本位、這ってでも行け」と叱られ、駅に引きずり降ろされた。

そこで
駅の便所に隠れ、発車とともに飛び乗るという妙手を繰り返して、やっと諌早駅に着いた。乗客はすべてここで降りて、海軍病院に連れていかれるとのことであった。客車の外壁に白く光っている何本もの筋は、負傷者の身体から出た淋巴液であろう。

ガランとなった客車を眺めて、私は昨日からの悪夢から解放された気がしていた。機関車
に水を補給している所に行き、その水を飲み顔を洗って、機関手に「この汽車はどこまで行くのか」と聞いた。肥前山口に行くと聞いたので、私はたった一人で、まだ生臭い客室に乗っていた。

肥前山口で乗り換えた列車は、熊
本の方から来たもので、車内一杯の乗客であり、話は長崎の空襲のことで持ち切りだった。陸軍大佐は 「あれは八トン爆弾であろう」 と言い、ある乗客は有明海越しに長崎の閃光を見たといった。そこには、あの残酷な浦上の地獄に遠い生の世界があった。

よれよれになった私の肉体を支えていた生への張り詰めた執着は、どうにかもう確か
なものになりそうであった。残してきた級友や知人が生死の境をさ迷っている時、生き残るチャンスを与えてくれた運命は、私を列車とともに放射能から遠ざけつつあったのである。

夜中10時過ぎの博多の町に降り立った私に
は、7月の空襲で焼け出された家族の移転先の住所が判らなかった。親類の家の近くと聞いただけで、その親類の家すらよく知らない。ともかくその家の近くに行って、七高の寮歌を歌いながら歩いてみた。家族が気付くかと思つたからである。やっと捜し当てたわが家で深い眠りに落ちた時、短くて長かった私の長崎動員生活は終わったのであった。  (谷口,1979)
 

長崎に重大事が起こったということを学校では2,3日後に知ったが、なお模様は不明のところ、14日朝学友1名の遺骨を抱いた生徒中隊長末弘喜三が浅野館長に報告してより、事の極めて重大なことが判明。直ちに教官を派遣し、現地滞留の教官とともに生徒の安否・入院者の調査、学校・父兄との連絡にあたらせた。(増村,1960)
8月14日 午後、長崎生徒隊長末弘喜三が帰校、浅野館長に状況を報告。当時、長崎における死者は1名、行方不明1名、重傷者18名、負傷者20名と把握されていた。のち、負傷者50名にのぼると判明。(西條ら,1998)
なお、戦後に学校を再開した後にも、原爆被災者のうちには長期欠席を続けるものがあり、昭和21年3月の試験には特別措置を決定したのであった。(増村,1960)
長崎 原爆被災関係戦没級友 14名
 理甲4  修・園田 亘・冷川昭男
 理甲5 加藤洋一・貴島龍三郎・権藤英男・二宮廸夫
 理甲6 上田祐二・田中規恵・西園浩一・平島信彦・百留邦彦・増田俊夫・吉田光夫  (西條ら,1998)
※「長崎原爆七高戦災学生のための鎮魂の碑」が同窓会及び七高同窓会本部、長崎七高会の協力により、長崎市白鳥公園に建てられた。さらに、三菱兵器製作所で原爆死した全員の氏名を刻んだ供養塔が、製作所の北東にあたる現三菱重工業独身者寮の玄関横にある。(西條ら,1998)
※平成9年(1997)4月10日、理甲1、2、3組、理乙1、2組が糸山口でクラス会を開き、当時を偲んだ。(西條ら,1998)
 長崎原爆学徒被害調査行       黒木長太郎

  上田裕二君、加藤洋一君、貴島竜三郎君、久米 修君、権藤英男君、園田 旦君、田中規恵君、
  西園浩一君、二宮廸夫君、冷川昭男君、百留邦彦君、平島信雄君、増田俊夫君、吉田光夫君

 やがて長崎原爆一周年が来ます。私共は今高尾野町の新学園で学業に農耕に精進しております。諸子が不幸にして原爆のぎせいとなられたことはまことにいたましい極であります。されど諸子の英魂がとこしえに吾等日本民族と共に、七高と共に存続して、平和日本の建設に、七高の復興に限りなき力となっていただくでしょう。

 今、文集追悼号の企画あり。私は当時、被害調査の任をおびて二回現地に出かけました。その調査行を記録してして責をふさぐことにしたいと思います。

 昨年一度、本年また一度長崎動員(三菱兵器製作所)に附添って各一ヶ月宛長崎に勤務し、いずれの一ヶ月もあわただしい戦争中ではあったが、宿舎西郷寮や広報においては鹿児島に比すればむしろ楽しいほほえましい日夜を諸子と共に続けました。実際長崎は、当時の九州では不思議なくらい安全地帯でありました。私が二度目の長崎勤務から帰校してからは、鹿児島では敵の空襲が日一日と激化して町は次々と破壊され、衣食住の困難と共に身のおき所に苦しむようになりました。

 足手まといの末っ子を疎開すべく、8月5日吉松・人吉・湯の前を経て宮崎県に行き、日豊線にそうて南下、都城からは徒歩で11日鹿児島に帰った時には私の家は全焼して無くなっていました。

 このような事で困っている時、鹿児島師範の大木教授(七高卒)から長崎がやられたことを聞きました。たいしたことではあるまいと思ったのですが、次に帰鹿した小田道隆君(七高動員学徒)の話を聞いていよいよ重大なることを知り、14日朝、末弘喜三君(動員学徒、生徒隊長)の正式報告を受け、その日の夕刻発の汽車で長崎に出発しました。途中、15日正午過ぎ、八代駅で終戦の詔勅が出たことを知りました。

 16日午前、諫早に下車、直ちに同地の海軍病院に行きました。加藤洋一君と冷川昭男君が同病院で死亡されたことを知り、桐野忍君と上田祐二君を見舞いました。上田君はベットに上向に休んだまま動けませんでした。されどニコニコしながら色々と話しかけ、父君の来られるのを何よりも待っている様でありました。看護婦さんが「あんな方(上田君)が一番危ないのです」と言いました。一刻も速く福山中学校の父君に連絡の必要を感じました。「あの人(桐野君)は大丈夫です」と言われて安心しました。次に収容所になっている女学校に行きましたが、さきほどまでいたと言われる松村敏之君がおりません。看護婦さんも主治医も松村君がどこに行ったのかを知らない。(あとになってから栗野の疎開先の家庭に帰ったことが分かりました) 市役所所員の案内で同地の学校職員療養所に行きました。此所には七高生が多数収容されていることを期待していたのでありますが、西園浩一君一人だけ居りました。「丁度いま搬入したばかりです」と言って未だ床も整えず、上半身を畳の上に下半身は板間に寝かせてありました。勿論自力で動けず、また全く口もきけません。息づかい苦しげに、目は殆んど動かず、私をじっと見つめております。自分の手をさし伸ばすようでありますので、私が手をさし出し、所謂握手の恰好であります。いつまでも離そうといたしません。全くいじらしくてなりませんでした。正に重態と直感しました。

 先を急ぐので辞去し、その夜は市役所の世話で旅館の畳の上に休みました。

 旅館に泊まったことは当時感激の一つであります。今一つ諫早での感激があります。それは前記主治医を松村君のことで伺った時、私をまあまあと言って御座敷に通し、入浴及び銀飯にてこてなされた上、御令嬢のアンダシャツを着せられたことである。

 17日、早朝発の汽車で長崎に向い、道の尾駅に下車、道の尾寮に立ち寄って七高生を索めしも無く、三菱兵器本社に行きました。惨憺たる廃墟筆舌につくされず。此所で分かったことは、時津国民学校に武田寛君が収容されたが、既に鹿児島に帰ったこと、園田旦君の死亡、及び七高生の収容所は諫早以外では、大村、川棚、針尾、佐世保の四カ所の外には無いということであった。白木の箱に納められた園田君に礼拝した後、ずっと原爆前後を通じて居残った平瀬新一郎君と原爆後帰省先よりいち早く走せ参じた石神民也君の二人の元気な姿に接し、色々の事を聞き取りました。午後になって、野中、尾崎、岡の三先生が来着されました。教官四人となりましたので、大村、川棚、針生、佐世保と手分けして各1所ずつ調査することを話し合い、その夜は道の尾寮の一室に泊まりました。

 18日未明、寮に収容された婦女子達が騒いでおります。事情を聞くと「今日敵軍が上陸するから婦女子は避難せよ」という隣組からの達旨によるものでありました。私共四人は二番列車で出発する予定であったが、それを変更して、一番列車に窓から飛び込みました。その列車は早岐に行くのか肥前山口に行くのか、駅員も車掌も知らない。結局、列車は肥前山口に行きそこでストップしました。避難者群でごった返し、とても予定の調査は不可能となりました。一旦調査を打ち切り、私は19日帰校し、他の三先生は佐賀県下に留まられました。肥前山口駅のホームでは、七高卒業生山口幸一君(九大工学部学生で長崎動員学徒)の父君に会いました。幸一君を心配して来られたのではあるが、結局幸一君は爆死されたのです。

 又この駅で小手川道郎君が吉田光夫君の母君を紹介しました。光夫君を心配して大分より長崎に行かれる途中、あの混乱で諫早より引き返されたのであります。

 私が帰校して間もなく西園君の父君が七高に見えました。また、篠原君の父君、貴島君の母君が子弟の安否を心配して来られる。これ等の父兄に対して調査未了者が多いため、はっきりした説明をなし得ざる心苦しさ。予定した三先生からの御報告も当時の交通状態では不可能でありました。

 8月28日、夕刻、私は再び長崎調査行に出かけました。

 8月30日、こんどは北より南に調査せんものと、早岐より海岸線を南下の車中、偶然篠原君の母君と兄君に出会い、「警察署で調べるのが一番手っ取り早い」と教えられ、そのまま長崎に直行しました。長崎の市役所、警察署で四時間ばかり収容者名簿と検死者名簿をめくりましたが、七高生は一人も見当たらず。某国民学校の収容所で久米修という患者名を発見して(久米君は死亡していたことになっていた)小おどりして喜びましたが、これは八才の児童で同名異人でありました。その夜は友人の瓊浦女学校校長宅に泊まりました。
 31日早朝、兵器本社に行きました。ここで前回来た時以外に判明したことは、加藤洋一君の遺骨が島原の同姓同名の人の家に誤り持ち帰られ丁寧に保管されているちいうことだけでありました。その朝、本社では三四百人の工員達が朝の集合をして、復興委員長から達旨を受けとるところであったので、私はこの機会を捕え、工員達に、七高生で消息不明者(氏名を読み聞かせながら)についてたずねて見ましたが、何ものも得られなかった。

 長崎を辞去して、先ず諫早の病院をたずね、西園君と上田君の死亡を知りました。西園君の父君には速やかに連絡が出来たのであったが、上田君への父君へは連絡の書面が遅着した様で残念でありました。

 諫早の次の岩松駅で下車して大村海軍病院に行き、大井君が二三日前退院したことを知って喜び、第十二病棟に大谷顕一君を見舞い重患に見えしも看護婦さんは「大丈夫です」と言うので安心しました。

 午後はほどい土砂降りとなったが一刻も速く調査を終了するのが私の任務であるので、晴雨昼夜にこだわっておられません。ずぶ濡れとなって大村警察署まで歩きました。偶然此所で貴島君の母君に出会いました。母堂は枕崎から鹿児島市に出て来られて知人宅に泊まり込み、毎日七高に出頭、「竜三郎の消息如何」と尋ねられたのであったが、私が長崎に再度出向いたことを聞かれ、あとを追って来られたのだそうであります。貴島竜三郎君については、「被爆当日、西郷寮入り口付近にて、やられて苦悶している本人を見た」という噂を伝え聞きしも、その噂を確認する何等の手がかりも得られず。母堂は、せめて我が子の身に付けていたきれっぱしの一つでも手にしたいと必死の努力をつづけておられたのであります。

 大村警察署で分かったことは、篠原・百留・吉沢・本田の四君が葛城療養所に収容されていることであった。私は喜び勇んで葛城に向かいました。小さい某駅で下車し、夕方薄暗い中を小径を辿って行きますと、丘山のさびしい建物の一室にしょんぼり電灯がともっている。番人がいて「此所には誰もいない、それは大村共済病院の分院だ」と言うので、もとの下車駅に引き返しました。分院への路は途中真っ暗になり、地面は雨で満水夜空を反射して光っており、道路と溝の識別が出来ない。全く進退窮まりしが、幸に通りがかりの若夫婦でこの辺の地理に明るい二人の後について安全に歩けました。分院は工員寮舎の中にありました。行って見ると「それは本院の方だ、本院に行くには汽車道を真っ直ぐに歩いた方が早く、30分で行ける」と教えられました。鉄道線路を二十五六分歩いて通りがかりの青年に尋ねたところ、「行き過ぎた」と鮮人らしい口調で教えてくれた。本院に行って聞きますと「それは嬉野海軍病院だ」と言われました。大村警察署を出て以来、午後より夜にかけて全部無駄足を踏んでちょっとがっかりしました。警察、葛城、分院の三者の言う事、結果においてはすべて出鱈目と思われても仕方がないけれども、三者いずれも親切に教えられ、私は感謝の気持ちで聞きました。只ひたむきに苦しみなやみ居るであろう子等を索めで歩きつづけたのであります。

 その夜、汽車に乗り二三駅北方の某駅(嬉野行きのバスの出る駅)に下車し、夜明けまでバスを待ちました。待合室で「あなたは疲れているようだ。気つけ薬(ウイスキー)をあげましょう」と言って、佐賀の人から一杯戴きました。その味は今に忘れられない。

 9月1日。未明飯盒炊さんをして、6時発のバスで嬉野に着きました。病院は森の木立の中の簡素な建物と見えた。案内されて病室に行きますと、吉沢俊夫君と本田昭男君がベットを並べて退院前の元気そうな姿でニコニコしておりました。散々さがし索めだ結果で、この時ほど嬉しかったことはありません。百留君は早くに退院したそうであるが、終に亡くなったのであります。

 先を急ぐ旅なれしば、直に辞去しました。門前に佐世保行のトラックがありました。若い下士官に乞うて便乗したが、でこぼこ路面を上下左右にひどくゆれて三時間苦しみました。
 日中カンカン照りつける佐世保の焼け跡を歩いて、先ず警察署に行き用件を述べると「ここでは分からない」と取り合ってくれない。小使室で湯茶を乞うて昼食をなし、佐世保海軍病院に向かう。海兵団の正門を通っていくのであるが、番兵の若い水兵さんが「あなたの郷里は」ときくので、「なんでそんなことをきくのか」と反問すると、「自分も黒木で宮崎県のものだ」と言って急に親切な態度になりました。病院には「学徒はいない」ので引き返さねばならぬ。海兵団の構内は非常に広くて正門からずいぶん遠く歩いて来ている。引き返して正門から出るよりも別門から出る方が海軍共済会・海仁会の病院には大変な近道だと黒木さん(水兵)が注意してくれました。黒木さんの別門通過許可証をたずさえて悠々と別門から出ようとすると、番兵にとがめられ正門に引き返せと言う。百方嘆願の末「今度だけは許す、今後は相成らぬ」と言われ、再び来ることはあるまいと思いながら出て行きました。共済会・海仁会とも「七高生は居りません」

 それから汽車に乗り、川棚に下車して福田病院を調査せしが「居りませぬ」。針尾の海兵団の方hあ貴島母堂の調査により七高生は居ないことが分かっておりました。
 以上で調査をうち切り帰途につきました。乗り換えの肥前山口駅では超満員列車を一つ見送って八時間の待ち。川尻では往きは徒歩連絡であったが帰りは汽車通じ、上川内と川内の間は往きと同様に徒歩連絡者延々とつづく。女の人夫あって私の荷物を引つたぐる。「何をするのか」「持ってあげる」「たのまない」。実際此所では永久に持っていかれた人が多いとききました。

 9月2日帰校。消息不明のもの、不明のものについて家庭との連絡をとりました。  (黒木,1960)
 私は9月に原爆後に消息不明の生徒の安否調査に長崎方面に派遣された。長崎で先ず中村教授宅を訪れると、被災当時の傷などからみて、当然死んだものと考えていたとのことで大歓迎をうけ、翌日三菱兵機に行くと唯一生き残っていた某課長は私の顔を見るなり「先生ほどの負傷をした人で生き残っている者は一人もいない。今日元気で働いていても明日は死んでいくのが現状だ。調査などと呑気なことを言わず、すぐ家に帰って静養しなさい。いつどんなことになるか判らない」と言う。これは大変なことになったとは思ったものの、出来る限りの調査はやって行かねばならない。その夜、大村市の旅館の暗い電燈の下で住所氏名、家族の疎開先、妻の名前などを詳細に紙片に記入してポケットに納めた。こうしておけば何処でどうなっても家族の者と連絡がつくだろうと思ったからである。

 翌朝大村市役所を訪れて色々話を聞きき、荷物を預けて海軍病院に出かけた。七高の被災生徒が収容されているかも知れぬからであった。

 病院から市役所に帰ってくると「七高生が来ている」とのことである。末広君であった。彼は長崎動員の際に中隊長(?)をしていたのだが、私が調査にでかけたことを聞き知って鹿児島をとびだし、長崎、大村と私の後を追い回したのでった。誰に頼まれたわけでもない。「先生は一人では心許ないから、自分が応援に行かなければ」というのである。旅行をするにも食料をかついで行かねばならず、汽車に乗るにも一苦労の時勢であった。私は「百万の味方を得た思いだ」と彼の手を握ったが、良い生徒に恵まれた自分の幸を深く心に刻んだことであった。(山口,1960)
12月15日には、勤労動員中に爆死した生徒16名の校葬が、出水町西照寺において同窓生井上徳命住職を導師として厳粛に営まれ、9遺族がこれに参列した。(増村,1960)
12月15日 14時より、戦没生徒16名の学校葬を、出水町の西照寺で行う。9遺族が参列。導師井上徳命師(明治40年文科卒業)、弔辞は生徒代表末弘喜三。

●長崎 原爆被災関係戦没級友 14名
 理甲4 灸 修・園田 亘・冷川昭男
 理甲5 加藤洋一・貴島龍三郎・権藤英男・二宮廸夫
 理甲6 上田祐二・田中規恵・西園浩一・平島信彦・百留邦彦・増田俊夫・吉田光夫
●その他での戦没級友 2名
 文科 野村伝栄(4月8日 鹿児島市山下町の自宅で爆死)
 理甲 鰺坂三夫(7月27日 鹿児島駅で爆死)

終わって、文科2年は、野村伝栄君追悼クラス会を同寺の一室で行う。
※「長崎原爆七高戦災学生のための鎮魂の碑」が同窓会及び七高同窓会本部、長崎七高会の協力により、長崎市白鳥公園に建てられた。さらに、三菱兵器製作所で原爆死した全員の氏名を刻んだ供養塔が、製作所の北東にあたる現三菱重工業独身者寮の玄関横にある。   (西條ら,1998)
 名もない小さな原爆忌だが、昨年の平成6年8月4日で19回続いている。昨年は、新宿ビルの小料理の店「松澄」に16人が集まった。七高13人、長崎高女の福田(植木)さん、木村(市の瀬)さん、山村(原田)さんの三人が花を添えてくれた。

 昭和47年8月、女子挺身隊のお姉さんだった秋山(森)さんから、思いがけない長崎の便りが届いた。七高同窓会名簿で僕の住所を知ったという。手紙には僕のすぐ近くで被爆した長崎高女五人の方々が、命の恩人の寺田さんに一席設けて御礼のご馳走をしたいそうですよ、とあった。命の恩人と大袈裟にいわれては面映ゆいが、あれから30年近く経って、長崎は僕の心の中から殆ど消え去っていた。いや、無理やり消そうとしていたのかもしれない。忌まわしい過去は想い出したくない。被爆は自分の恥部であるかのように、ひた隠しにかくしてきた。長崎が僕の青春を奪った錯覚に陥っていたのだろうか。毎年めぐってくる8月9日も他人事のように何の感慨も湧かなかった。

 ところが秋山さんの長崎の便りは、心の奥底に潜んでいた被爆前後の長崎を俄に浮上させ、ただもう懐かしい楽しい想い出だけに昇華されていた。秋山さんは挺身隊で、年上だったから、七つ年下の長崎高女五人のために一肌脱いで「寺田さんなら私が連絡してあげるわよ」と、まとめ役をかってくれたのかも知れない。皆さんに会いたい。僕は長崎行きを心に決めていた。

 昭和50年は被爆30周年ということで、19年入学の同級生が中心となって、原爆の犠牲となって級友14人の鎮魂の碑を、僕達の宿舎だった西郷寮跡地の白鳥公園に建立し、8月9日は碑の除幕式だった。6月頃の便りに「ついては8月9日の日程を知らせて欲しい」という。

 50年8月、30年ぶりの長崎だった。除幕式前夜、秋山さんの他五人のご婦人方に、高級中華レストラン「四海楼」で山海の珍味をご馳走になった。五人は、瓦礫の中から僕が引っ張り出した長崎高女の少女、いや御夫人方だという。石田(宮川)さん、今村(江口)さん、林田(塩谷)さん、又野(稲田)さん、福田さんだった。お互いの無事を喜び合い、懐旧の情にかられながらの歓談は尽きなかった。(この会の模様は東京七高会会報十一号に「金ボタン」として発表) 彼女達と顔見知りだった植月君にも同席してもらった。

 「皆さんも明日の除幕式にぜひ列席してください」
と僕達の突然のお願いにも快く応じていただいた。その上、除幕式には元工作技術課の活水高女の三山(石丸)さん、太田(浅香)さん、榊田(藤瀬)さん、川口(井上)さん、前田(田中)さんの五人も誘って下さった。原爆死した加藤洋一君や冷川昭夫君に淡い恋心を懐いていた彼女達の列席・献花は何よりの供養になったのではなかろうか。

 除幕式の翌日、地元の石田さん、林田さん達の案内で、被爆した夜、皆で雑魚寝した高い石垣のあった道ノ尾の家がそのまま残っているからと、見に行った。もちろん空き家ではなかったが、30年前そのままの佇まいに驚くやら懐かしいやら、14歳の少女達がふっと甦った。

 今村さん、福田さんは、わざわざ東京近郊から帰郷しての参加だったが、他にも工作技術課の土橋(佐々木)さん、木村さんが東京地区在住とか。七高は林君が東京、西片君が前橋、僕が川口。たまたま七人も近くに住みながら会う機会はない。後髪を引かれる思いの離別だった。

「来年は東京地区だけでも集まりましょうか」

 小さな原爆忌の切掛だった。翌51年8月、七高は林君、西片君と僕、長崎高女は今村さん、土橋さん、福田さん、それに活水高女の元工作技術課の上田(岡田)さんの七人が赤坂の「海皇」に集まって海鮮料理を囲んだ。一回きりのつもりだった。

 ところが毎年八月が近づくと
「又、やってきましたナー(原爆忌のこと)」
と、林君や西片君に電話で催促され、土橋さん、福田さん達五・六人集まっては、食事しながら一杯飲み始めていた。(彼女達は全く飲まない) そのうち工作技術課だでなく、被爆した他の級友も加わり、最近では十四・五人の集まりになった。この十九年間に色々なことはあった。

 昭和54年6月、今村さんが被爆が遠因の乳ガンで亡くなった。四年前の鎮魂の碑の除幕式には病いを押してのご出席だったと、あとでお聞きした。哀悼の意を表して「第四回」は欠番にさせてもらっている。

 工作技術課で彼女達に烏口の使い方や、トレースの技術指導をしながら、万葉集の話や七高寮歌を教えてくれたという、橋本(昭20・文3)先輩には、彼女達のたってのお願いで、十年近く出席していただいた。ここ五・六年は健康がすぐれず欠席されている。

58年5月8日、元大学教授の加藤(大12・文乙)大先輩と、林君、西片君、僕の四人でゴルフを楽しむチャンスに恵まれた。工作技術課で僕の目の前で被爆負傷し、血みどろになった加藤洋一君を引きずる様に背負って逃げたが、彼は数日後亡くなった。大先輩は加藤洋一君の父君である。80歳を過ぎて矍鑠たる父君のパートナーとしてプレイできるとは、戦後38年夢想だにしなかった。

 父君は、息子の同級生三人とゴルフが出来て、まるで洋一とプレーしているみたいだ、とても嬉しいと喜んでくださった。又、西片君は獨協中学でも先輩後輩の仲とわかり「奇縁だなァ」と感慨ひとしのご機嫌だった。

 原爆忌では決まって、あの頃の話が繰り返され、そのたびに少年のままの洋一君が話題の中心になる。この年はゴルフの話が一つふえた。洋一君もあの世からビックリして耳を傾けていたにちがいない。その後、父君とは東京七高会で、暫くお目にかかっていたが、平成元年7月、86歳のご高齢で亡くなられた。

 《中略》

 昭和19年4月七高入学の僕達は翌20年4月、2年進級と同時に学徒報国隊として、三カ所に分かれて動員された。文科(ひと組だけだった)は熊本市健軍の三菱航空機工場へ、理甲一・二・三組と理乙一・二組は大分県糸口山の小倉造兵廠糸山口分廠に、そして、僕達理甲四・五・六組は長崎市大橋の三菱兵器大橋工場に。それから四ヶ月後の8月9日午前11時2分、大橋工場の職場、工作技術課で被爆した。爆心地より僅か1.4kmの近距離であった。

 幸いガラスの破片が左下腿に刺さった程度(今でも小指大の欠片が筋肉内に刺さったまま)で殆ど怪我はなかったが、一ヶ月後の9月9日、二次原爆症が下痢と高熱で始まった。始めは赤痢と間違われたが、そのうち頭髪が大量に抜け、歯茎が腐り、高熱は一ヶ月以上も続いた。

 このころ新聞は毎日のように原爆症で何人死亡と報道していた。医者にかかっても薬はない。カルシウムが効くというので、母は来客用に飼っていた鶏を潰してスープを毎日作ってくれた。冷蔵庫のない時代、保存がきかないから、毎日は大変dったろう。一体何羽、僕のために潰したのだろうか。九死に一生を得た。中学の仲間内では「トミオはケシンだツワヨ(死んだそうだ)」と暫く噂されたという。

 《中略》

平成6年度、日本列島は気象観測史上最高の猛暑となり、九州各地の異常渇水は記録づくめとなったが、8月27日、長崎はやや凌ぎやすい小雨だった。

 白鳥公園では、大きく葉末を広げた楠の樹陰に処々水溜りができていた。午後5時前より50回忌の哀悼慰霊祭はしめやかに取り行われた。翌朝の朝日新聞(長崎版)は次のように報じた。
「・・、原爆の犠牲になった14人の50回忌の追悼慰霊式が27日、七高の寮跡地の白鳥公園=同市白鳥町=であり、全国から、同級生、遺族ら約140人が集まった。
 追悼式は、旧制七高の1944年入学OBらで作る七高北辰会が呼びかけた。被爆30周年の75年、同会が中心となって建てた被爆学友の鎮魂の碑を前に、当時の学徒隊長の末弘喜三さん(69)があいさつ。「すさまじい閃光の中で我々は生死を分けた。14人の死は非常に残酷なものだったが、生き残った我々も常に生きていることへの自戒の念、贖罪の気持ちをうつうつと感じてきた。」と、犠牲者に核兵器廃絶と恒久平和を誓った。献花、献酒の後、当時よく歌ったという寮歌「楠の葉末」を歌うと、同級生の中には天を仰ぎ、涙をこらえる姿も見られた。...」

 活水高女は元工作技術課の三上さん、太田さん、榊田さん、前田さん、米崎(井崎)さん、川上(鶴田)さん、中原(浜口)さん、田川(井崎)さん、根葉さんの9人。長崎高女は石田さん、林田さん、又野さん、福岡在住の山口(深見)さんの4人が参加してくださった。

 14人の犠牲者のうち加藤洋一君と冷川昭夫君は工作技術課だった。

 冷川君はこの日、長崎にわざわざ帰って来て被爆した。西郷寮の隣の長崎医大射的場の壕に避難していた秋山さんは、その手記に、彼に出会った状況を克明に書き綴っている。

『・・。やがて壕の一隅から一人の男性が立ち上がって私に近づいて声をかけた。
「森さん!」
 顔をあげると同じ課の七高学徒報国隊の冷川君であった。
「あら! 冷川さん。あなたは休暇をもらって門司に帰っていた筈だったでしょう? それがどうしてこんな所に」
 と、私は言いながら、思わず自分の目を疑った。彼はすらりとした長身の男性で、いつも物静かであり、音もなく行動するようなやさしいが学生であった。特に大きく輝く瞳が印象的で、その大きな目が彼を冷川さんであるということを証明していたが、ランニング一枚の彼は顔から肩胸にかけて皮膚がだらりとむけたようになっていて別人のような様相であった。

「まだ休暇は残っていたのでけれど仕事が心配で、早目に帰ってきたんです。浦上駅で降りて、こちらへ来る途中、大橋附近でこんな目にあってしまって...」

 と、これだけ言うと、ヘタヘタと座り込み、火傷のせいか寒い寒いと言いだした。知った人に逢って気の弛みが出たのかしら、それにしてもこの様子はただ事ではないと思い、
「しっかりして冷川さん。頑張るのよ。私が七高の誰かにすぐ連絡して救助にきて貰うようにするから...」
 
 彼はかすかにうなずいた。私は夏と言うのにその日はワンピースに上にブラウスを重ね、かすりのモンペを着ていたので人目もかまわず、ワンピースを脱いで、丁度首のところで結ぶようなスタイルのものだったので、横になった冷川さんにそれを着せかけ、紐の部分を結んであげて、その壕を急いで飛び出した。

もう壕の中は何時の間に怪我人や火傷を負った人で一ぱいになり、そのうめき声が充満していて、いたたまれない気持ちになっていたので、その場を逃げ出したかったのでもあった。壕を出ると、その辺は逃げまどう人が目的もなくただ右往左往していた。

やがて白線の入った帽子の七高生を見付け、私はその人に冷川さんの事を呉々も頼み、その場を離れる事にした。....』
(以上、秋山さんの手記より)

 廣田君の手記「ちょっとの間」によると、当時負傷者の臨時収容所になった諫早の女学校の講堂で偶然冷川君と隣合って寝かされていたが、11日か12日に亡くなったという。

 被爆から30年後、冷川君のご母堂は、新聞報道で知ったからと鎮魂の碑の除幕式にかけつけて下さった。ご母堂の参列は当時の参加者の涙を誘った。人間のはかなき事は老少不足とわかっていても、原爆による夭折は余りに酷いではないか。14人の母親の苦悩の跡を、ご母堂のお姿にかいまみたからだろう。

 《中略》

 原爆慰霊祭は、傘を拡げる人もなく、小雨の中滞りなく終わった。雨は時折、人を感傷的にするようだ。

 50回忌を過ぎると、白鳥公園を訪れる級友も更に少なくなるだろう。いずれ鎮魂の碑も苔生して、由来を知る人もなく、日がな一日楠の下露にそぼ濡れ、時の流れに押し流され、忘れ去られるにちがいない。

 公園をあとにした僕達は、次の懇親会場である市内万才町の長崎グランドホテル(社長・宮崎氏・昭25・文甲)に移ったが、開宴まで小一時間間があった。ロビーで寛ぎながら、49年前の長崎の回想に耽った。

 初め、魚雷の部品をマイクロメーターを使いながら旋盤で削る仕事だった。男性だけの職場で工員さんである。国のために勝つまではと、真面目に働いていた。しかし、ひと月経つかたたないかのうちに削る材料がとだけがちになった。暇だからと空になった材料置き場で、こっそり本を読んでいたら班長にみつかって、警棒で撲られそうになったっけ。

 不慣れな労働のためか、6月初め原因不明の高熱で病院に入院させられた。同じ職場の伊万里商業の生徒が家に帰ったからと、見舞いに「のんき」を持ってきてくれた。見たら飴だった。当時は貴重品だった。熱が下がらないので一ヶ月の帰郷静養を命ぜられた。

 元気になり、7月初め、工場に復帰すると、病後で肉体労働は無理だからと工作技術課に配置がえになって、小さな手動式計算機のハンドルを1日中ガチャガチャ廻しながら歯車の計測をする仕事に替わった。

 今迄は機械の騒音の中、鉄に囲まれて、ひたすら肉体労働する男ばかりの職場。ところが工作技術課は本や書類、図面など、いわば紙に囲まれた、静かで明るい頭脳労働の職場。しかも、女性(女子艇身隊の森さんと三浦さん、長崎高女3年生15人)が多く、七高生垂涎の部署だった。

 内心嬉しかったが恥ずかしくて彼女達とは殆ど口をきかなかった。七高生の沽券にかかわるとでも思っていたのだろうか、表向き彼女達には無関心を装っていた。

 女人禁制だった旧制高校の五校に昭和23年入学した永畑道子氏(作家)は「最初の一ヶ月は同級生が顔を見ようともしなかった」といい「一緒に歩いても、お互い口もきかなかった」(戦後史開封・産経新聞)と語っているから、こういう態度は旧制高校の伝統だったのかも知れない。

 工作技術課に移った7月初め頃、加藤君や冷川君は「顔もみない、口もきかない」期間はとっくに過ぎていたから、彼女たちとのコミュニケーションも出来上がり、既に憧れのキミになっていた。しかし、僕は8月9日までの僅か1ヶ月間に、心情的余裕などなかったから、彼女達との出会いは、言わば被爆直後から翌日までの生き地獄の中だけだった。

 「助けて!」
 の悲鳴を聞いて反射的に瓦礫をはね除け、長崎高女の生徒たち幾人かを引っ張り出した。瓦礫といっても紙だけの職場、鉄材などがなかったから好運だった。たいした怪我もなく皆元気で外に跳び出していった。ひとり重傷だった加藤君を背負って逃げる途中、組み立て工場から魚雷の鉄の部品の下敷きになった無数の悲鳴をきいたが、どうにもならなかった。加藤君は救援列車にのせてもらった。一時、彼女達と緊急避難したのは西郷寮に近い田圃の中の小川だった。

 岩崎技師(九大卒)だったか、よく覚えていないが、早くここを離れて道ノ尾方面に少女達を連れて逃げるように指示された。道ノ尾に新しい空き屋をみつけて、彼女達十数人と一晩雑魚寝させてもらった。西片君もいた。森さんも一緒だった。この夜、空襲の恐怖に打ちのめされた皆の気持ちを解そうとして、僕が七高の俗謡「うちの隣にヨカ婿もろた」を歌ったという。覚えていない。山口さんは、乙女心に歌詞の意味が面白かったらしく、正しい歌詞が知りたいと、かつてお手紙を頂いたことがあった。片岡(昭和12・理甲)先輩の「七高さんが歌った歌(昭和54年度、東京七高会会報)」に全歌詞が紹介されていたので、コピーをとって送った。

 翌10日朝、西片君はひとり早く出かけ、僕は彼女達と一緒に、焼けただれ一面廃墟と化した街並を通り、工場へ引き返し、工作技術課跡まで戻って解散した。

 長崎高女の皆さんとは、被爆の修羅場で、このたった2日間がホントの出会いだった。だから、彼女達の顔も名前もはっきり覚えてないまま別れで、その後30年の歳月が流れた。50年8月、長崎で再開を果たした喜びも束の間、更に19年の月日が経てしまった。昭和56年には秋山さんが、57歳、乳ガンで亡くなった。今、僕も70になんなんとして、人生のたそがれ坂を下りながら世の無常を、ひしひしと痛感している。
 《後略》    (寺田,1995)
   七高生の思い出

 昭和20年、戦局はいよいよ深刻さを増し、三菱兵器工場の工作技術課に配属されたのは、わずか14歳、女学校三年の5月でした。

 学生の多いここの課長さんである黒田さん(東大卒)は珍しく進歩的で、女学生の私達を橋本さん(20年卒東経)に預けたのです。私達は彼に、トレスに必要な幾何を習い、後は七高生の人生論(?)を聞き、寮歌を歌い、また黒田さん指揮による昼休みのコーラスは、七高の蛙も加わり、菩提樹、四季、それは思いもよらぬ楽しさでした。

 6月下旬、橋本さんに召集がきて、女学生も夜間外出承知で駅に行きました。

 「ワーッ」
 ビル蔭からマントを翻した七高生、それは大蝙蝠の集団のようで無気味でした。彼等は、橋本さんを中心に円陣を組み、羽織袴のリーダーが、腸(ハラワタ)の飛び出しそうな声で、
    流星落ちて住む処!
話に聞いていたストームの始まりです。
    北辰斜にさすところ 大瀛の水洋々乎
寮歌、応援歌、声を限り、もう声というより鍋底をこする音、これでもか! とうとう彼等は裸になり、加藤さんは赤フンで頑張っていました。

 やっと回ってきた出番に、私達は活水と一緒に、讃美歌の中から「又逢う日迄」を歌いました。
    神共にいまして 行く道を守り
    神の御糧もて 力与えませ
    又逢う日まで 又逢う日まで
    神の御守り 汝が身を離さざれ

 七高のあまりの騒ぎに警察が出てきました。翌日、黒田さんが大尉の軍服姿で出頭されると、流石警察も一言もなかったそうです。

 一方、私達は予想通り、無断夜間外出の廉で立花先生に始末書を取られました。日頃から大学生のリーダーを快しとしなかったオールドミス先生は、ホッとしたようでした。
 後、彼女は即死、黒田さんは原爆に倒れながらも菩提樹を歌われていたと聞きました。

  原爆
 8月9日、甘いピンクの風に、フワッと頬を撫でられ....
 「生きている、生きている」
 気絶でもしていたのでしょうか。あとはどこをどう走ったのか、燃える枕木、爆発するガスタンク、死人、怪我人、たどりつkたのは西郷寮近くの川の中でした。
 「新型爆弾よね。」
 日蝕に似た鈍い太陽が橙々色に地獄を照らし、あまりの恐怖に声を忘れたかの如く一時は無気味な静けさでした。時折、気狂いの一人笑い、てんかんの発作、苦しまぎれの流行歌
 「赤い花なら曼珠しゃげ、オランダ」
 と斃れる工員。

 七高生は沈着でした。
 「今のうちに少し眠りなさい。様子をみて道ノ尾に行こう。」
 狙い撃ちの機銃掃射を必死に避け、寮らしい所に着いたのは夕方でした。散乱した建具、ガラスを片付け、炊き出しのおにぎりとタクアンにやっと人心地ついたようでした。

 「日本は負けたよね。帰る家は? 親兄弟は?」
 落ち着くと別の不安に沈む女学生に、寺田さんが歌いました。
 裏の山には小鳥が一羽、竿は短し小鳥は高し、五円あったら又来てお鳴き、十円...二度来て、百円あったら回数券で...
たいした意味もないこの歌が、この戦争に似てでもいるというのか妙に心に残りました。

 彼等は縁にかけ月に向かって歌いました。
 「北辰斜にさすところ....」
 斃れた友への哀悼か、加藤よ、冷川よ、よ! まさに、悲しき時の母でした。

 あの日、塩谷さんと私は、加藤さんに頼まれた「電気工学」64,5頁の大作に取り組んでいました。ちょうと完成予定で心ワクワク、青写真し、製本し、それを渡せば男にもったいないあの色白で「感激!!」といってもらえたはずなのに....彼の席は中央の鉄梁の真下でした。

 ある日のこと
 「物差貸してください。」
 50センチのを女学生が差し出すと、シャツの衿ぐりから背中に差し込み、ゴシゴシ掻きながらもどる彼の姿に、顔をみあわせたこともありました。寮は蚤が多く睡眠不足か、よく居眠りを見ましたが、きっとあの時もそうと思います。

 「惚れた女房と別れるのは辛いよ。」
 びっくっりする私に
 「仕事のことさ」
 といったのは冷川さんでした。

 高い背、窪んだ目『冷川』苗字に似合った人なのに、一番面白いのは何とも不思議でした。
 「お別れに」
 と汚れた手拭いでこすりながら渡された真赤なセルロイドの石鹸箱、
お返しにか石津さんは猫の絵を画き、私達はサイン帳を彼の机に重ねました。
どのように間違ったのか、返されたノートを私は黙って仕舞いました。
 『目は恋の的』
 絵の中の子猫のような彼女には、まだまだ時間が必要な言葉でした。

 門司のはずの彼が正面に原爆を受けるとは! 
惚れた女房に会いたかったのか、どうしようもなくドジな人でした。

 「大事なこと伝えずにごめんなさい。
 石津さんはあの日休んでいて亡くなったのです。
 どうぞお二人共安らかにー。」

 加藤、冷川さんが九里東平氏の「あの夏の死」の鈴木、宗川であることは、すぐに解り、感慨無量でした。この本は昨夏江口和子さんから送られたもので、この原稿の途中で書き送った手紙は彼女の死と行き違いでした。

 本が出たといっては本を、歌を聞いたといっては歌を、慰霊祭(七高)には病苦を押して出席し、この30余年、私達仲間のために尽くしてくれた人でした。それは工作技術課が私達の「心のふるさと」であり、七高生は「心の兄」であったからといえるでしょう。

 橋本さん、水野さん、原爆症の時は、皆をお見舞ありがとうございました。用意されていた香典が二人分余ったそうですね。(20年卒)

 西片さん、田中さん、寺田さんには足が痛いのに送って下さってすみません。

 最後に、七高卒業生の御発展と御健康を祈り、この誇りある『わが青春−七高時代』に一隅に、青春の証として仲間15名を載せてくださることをお願いいたします。

 長崎県立長崎高女三年
 佐々木美竹(土橋)、原美恵子(塚本)、植木寛(福田)、稲田静子(又野)、江口和子(今村)、北村洋子、北島洋子、菊沢のり子(湯村)、宮川田鶴子(石田)、萩富美子(岩下)、石津倭子、塩谷不二子(林田)、一ノ瀬玲子(木村)、岩津三千子(中野)、深見美代子(山口)

(山口,1979)
  過ぎし日

 水をかえたばかりの池は真青に晴れわたった五月の陽の光が底まで差し込み、鯉の悠々たる泳ぎにつれ、水面はきらきらと光を反射にながら水の輪をひろげる。柔らかく、みずみずしく、そのためにある種の脆さをも感じさせるあたり一面の若葉の萌葱は澄んだ水にもまして、さらに眩しい。

 知らず知らずのうちに、このようなごく自然な平和な静寂さに身をおくことを好む年齢になっている自分に気づく。

 夏の到来を思わせる強い日溜まりの安らぎのなかに、ふとあの時の一瞬の閃光が目の前をかすった。浦上を中心に長崎市全体を悲劇の舞台に包み込んだあの光線が。そして今年もまた、その日はめぐりこようとしている。敗戦への道を暗く、重苦しく歩み始めていた日本に最後のダメージを与えたあの強烈な熱線は、戦後三分の一世紀を過ぎた今でも脳裡に黒々と焦げ付いている。そして、何かの拍子に、心の雲間からその焼け爛れた正体を覗かせては、薄れる記憶に待ったをかける。

 配給されたオールシーズン用の上下のモンペ、ちびた下駄、両肩からはすにかけた頭巾と救急袋。このいでたちからしてすでに戦さの勝敗は明白であったのに、素直で純真であった私達女学生は”欲しがりません勝つまでは”を合い言葉に、昭和19年の9月から活水の校舎をあとに三菱兵器製作所大橋工場に学徒報国隊として通うことになった。

 困難の中で鍛えられてこそ、人間は成長するものであろうが、毎日の烏口を握ってのトレスの仕事はあまり心地よいものではなかった。遂に右手の親指、人差し指、中指の三本が一度に指腫れになり、外科で切開してもらう始末であった。ずきずき痛む包帯を巻いた手を労りながらも仕事は休まなかった。周囲の状況が指腫れ等で休めるような安易なものではなかったこともあったが、職場が楽しく張りのあるものであったのだ。

 同じ職場の6、7名の七高生は私達の良き教師であり、パイロットであり、尊敬する兄のような存在であった。暗雲漂う世相下、勉強そっちのけで時代の私達に、
 ”いかなる逆境の中でも探求心を忘れるな。俗人に陥るな”
 と、工場の仕事の合間をみては万葉集の講義をして下さった。
 「あかねさす、紫野行き標野生き、野守は見ずや。君が袖振る。」
 自分が手を振られているような錯覚を起こしたこと。寮歌やコーラスで明るい雰囲気を作って下さったこと。そしてその寮歌を口すさむ時の、未来に向かって羽ばたく可能性を無限に秘めたような誇り高き孤高の額に、乙女らしく憧憬の思いを抱いたこと。七高生の方々とのすばらしい出会いは、私達の毎日の生活を、心をどんなにか豊かにしてくれたことか。

 私達の青春時代の一コマになった大橋工場の跡地の大学で、今、長男は医学の道を歩みはじめている。鯉の動きに見入っているその横顔には、その若さの中にいる者だけが持っている輝きがある。この息子と同じ年齢で、”永遠に清く、純なれ”と私達15人にサイン帳の一冊、一冊にサインを残されて、原爆でお亡くなりになられた七高生のKさんのことを思うと、胸がしめつけられる。

 自分に与えられた時と場で、必死に生き抜くこと、真摯に生きることが人生でもっとも大切であることを教えられたようで、あおの苦しくそして反面楽しくもあった学徒報国隊時代に得た感覚は、今も私の心の中に生きているようである。

 今は亡き七高生の方々のご冥福をお祈りしつつペンを措きます。    (川上,1979)
もう一人の長崎原爆死七高生−原田龍郎君のこと−

一.

昭和二十年八月九日長崎原爆による七高生犠牲者は十四名(2)すべて理科二年在学中の諸兄であった。

 しかるに昭和二十四年十月現在『最新会員名簿』 (一九五頁)、昭和三十二年改訂『会員名簿』(二一四頁) にはいづれも、

 「於長崎戦災死亡者」 (一六名)
としるされてゐた。

ついで昭和四十六年『七高七十周年記念誌』では
 「於長崎戦災死亡者」 (一四名)
と改められ、

末尾に

 鰺坂三二夫 (昭和二〇年鹿児島駅にて爆死)
 野村伝栄(昭和二〇年四月八日鹿児島にて爆死)

と附記して長崎原爆死七高生は十四名であり、他二名は別の犠牲者として記鐘(四二〇〜一頁)、最新刊昭和五十三年『会員名簿』でも同じかたちで踏襲されてゐる(四一八〜九頁)。

原爆死七高生にまつはる悲しい記憶は昭和二十二年三月卒業生をはじめとする戦後七高生の胸裡に今なほ残るところである。当初十六名とされたのがなぜ十四名に改められたかについては増村宏先生が昭和四十三年五月二十日刊行『出水文化』八号誌上に「鯵捕竺土夫・野村伝栄両君の死」と題する一文を発表され、この間の事情を明弁せられたことが誘困となったと思はれる。

 すなはち当時文科二年在学中の野村伝栄氏は熊本市健軍町の三菱重工業熊本航空機製作所に勤労動員中であったが、休暇を得て鹿児島市の自宅に帰省中、昭和二十年四月八日(日)空襲に会ひ、姉・弟もろとも爆死してしまった。

 また鯵坂三夫氏は理科二年五組に在学、長崎市三菱重工業長崎兵器製作所に出動してゐたが、終戦後になっても帰宅せず、家族からの間合はせで学校が調査したところ、七月下旬休暇を得て鹿児島に帰省し、二十七日長崎動員先へ戻る途中、鹿児島駅附近の大爆撃に会ひ爆死したと推定されるに至った (同誌四六〜九頁)。

 しかるにいかなる事由によってか戦後発行の各名簿は昭和四十六年の第三巻目に至るまで「十六名」としるしたはかりでなく、昭和二十年十二月十五日出水郡高尾野町移転中の七高が出水西照寺において長崎原爆死者の追悼式をいとなんだ折、生徒代表末弘喜三氏の弔詞にも野村・鯵坂両氏を「長崎戦災死者」に含め、十六名として読み上げられたといふ。(2)

長崎原爆犠牲七高生慰霊碑
(長崎白鳥公園)

 かくして長崎原爆死七高生は十六名であること、ほとんど定着したかのごとくであったが、厳正実証を旨とする歴史学者増村先生はこれを黙過するにしのびず、すでに昭和三十五年刊『鹿児島大学十年史』所収「七高略史」でこのことにふれ、原爆死者は十四名であり、他二名は鹿児島市空襲時の犠牲者である旨明記された。

また同じ年発行された『七高思出集』前篇でも野村・鰺坂両氏の名をあげ、このことを説かれたこと諸賢御承知のごとくである(二八四〜二九九頁「思い出から、記録から」)。

 増村先生の再三にわたる指摘によってか、昭和四十六年刊以後の名簿では十六名を十四名に正されたことまことによろこばしい。なほ七高学籍簿では鯵坂氏についてはじめ「於長崎戦災死亡」とあったが、のち「鹿児島駅爆死」に改められ、野村氏については「昭和二十年四月八日死亡、敵機空襲ニヨリ爆死セルモノナリ」と記録してある由である(増村先生『出水文化』八号)。

 以上によって長崎原爆死七高生は十四名であったこと、半は公的なものといふべき「七高会名簿」誌上、今日確定したといってよいであらう。

ニ.

 しかるにわたしは長崎原爆死七高生に今一人「理科一年甲類五阻」に在籍、同じく長崎勤労動員中の「原田龍郎君」がゐたといふ重大な事実を提議したいと思ふ。

 しかし同じクラスに所属せられてゐた諸氏は「原田龍郎」の名を記憶せられてゐる向きは一人もゐないであらう。といふのは御承知のごとくこの年の七高一年生すなはち昭和二十年度入学生は、一月三十一日付合格発表がなされたものの、戦局苛烈の故に入学式が行はれぬまま中学時代の動員先でそのまま作業に服することを余儀なくされた。

すなはち三月二十四日付左の通達がなされたのである。

 貴殿ハ此鹿本校へ入学ヲ許可セラレ四月一日付ヲ以テ本校生徒卜相成ルべキ他動労動員出動中ハ自粛自戒以テ事二当り能ク其ノ動員ノ精神二則り出身学校教官ノ御指導ノ下一層精励努力アラムコトヲ望ム

一、此度一年問授業停止ノコトト相成リクルニツキ始業式ノ期日ハ明二十一年度二琴ア行ハルルモノト考へ置カレ度シ

二、(略)

三、学籍票、戸籍抄本、写真一葉裏面二科・組・氏名ヲ明記ノコト)ヲ四月三十日(月)迄二教務課へ提出セラレ度

これよりさき一月三十一日付入学許可通知書には

 来ル二月二十日迄二入学料金参円ヲ会計課二納入スベシ(郵便二依ル老ハ書留)右期限二納付セザル時ハ入学許可ヲ取消スベシ

とあり、四月一日をもって学籍上乃至学年暦上では七高生になったものの、実際は中学生当時の状態のまま残されたのである。

ついで六月五日付

 昭和二十年度本校入学者ハ七月初メ本校二召集シ入学式ヲ行ヒ短期訓練ノ後勤労動員セラルル予定ナリシモ動員ノ期日、場所等未ダ本省ヨリ指示無之ニツキ本校ヨリ各自二対シ指示アル迄ハ現在ノ勤労動員地、自宅等三ノリテ待畿セラルベシ

との通達あり、名実兼備の七高生たるべくなほ若干の期間を必要とされた。わたしのごとき前年秋以来(中学四年生当時)長崎県下に本拠をもつ海軍飛行横工場へ動員せられてゐた。四月以後自主的に白線帽をかぶってゐたが実際は中学生とかはらず、ストーム・コンパ・寮雨も話に開くだけで何ともじれったい思ひをしたこと、今も忘れられない。

 六月十七日鹿児島市大空襲で七高校舎の大部分が焼失、八月終戦をはさみ、十一月二十六日出水公会堂七高復興本部において入学式挙行、ここにやうやく昭和二十年度入学生は本物の七高生の仲間入りをしたこと、関係者御記憶のごとくである。そしてその学期終了後の十二月十五日西照寺において「長崎戦災死亡者十六名」の追悼式が行ほれたのであった。

三.

 それでは次に文科生であったわたしがなぜ理科甲頬原田籠郎君を知ってゐるか、何が故に彼を長崎原爆死七高生に加へねはならぬかを語りたい。

 原田君ほ長崎県立瓊浦中学校四年卒業(繰上げげ)で昭和二十年四月七高理科に入学した。「昭和二十年度学籍簿理甲(五)」によると、三十三名のクラスで学籍番号二十二。原田君は福岡県京都郡苅田町を本籍地としたが、父上が由鉄勤務であった関係上北部九州各地を転居、昭和十六年四月佐賀県南部の中学校入学、ここでわたしと同じクラスになったが、翌年八月瓊浦中学校へ転校した。

同校三年在学中の昭和十八年十月体力車検定で中級を受けるほど体力にすぐれ相撲も強かつた原田君は、脾弱でいじめられっ子であったわたしのよき庇護着であった。しかし長崎転校後は特に手紙をとりかはすといふほどでもなかったが、昭和二十年二月二十四〜六日の第二次入試に際し、七高構内においてはからずも再会、久潤を叙すとともにお互ひの合格を期したのである。

そしてこれが彼との永別であった。

 八月九日の長崎原爆の被害激甚、七高理科二年生に多くの犠牲者が出たことを聞き知るに及び、瓊浦中学校当時のまま長崎における工場動員を続けていたはづの原田君の運命いかんを思はないではなかった。しかし昭和十七年夏以来事実上の交渉は絶へてゐたこともあって、それほどつよく思ひを此処にあつめるに至らなかったのである。

 その年十一月出水開校時もしかするとまたひょっこり構内で再会するかといふ期待がなくもなかったが、同じ中学出身七高生はゼロ、寮もなかったため他クラスとの接触範囲も少なく瓊浦中学出身者を誰も知らなかったこともあり、原田君の安否を確認できぬままずるずる時が過ぎた。

この頃になると彼の長崎原爆死はもはや疑ひない事実としてわたし自身が確認したはづであったが、これといふ提言もしないまま遂に卒業を迎へてしまったのである。事情を知る一人として七高当局に提言を行ふべき処それをよくしないままであったわたしの怠慢、恥ぢ入るほかない。すなはち長崎原爆死七高生は十四名に非ず、今一人

 理科甲類一年五組二十二番 原田龍郎 君

を加へ十五名たるべきこと、また昭和四十六年度版より中退者に○印を附し入学年度の旧クラスに記入する措匿がとられて以後、当然彼を「理科五組」(昭和二十年度入学理科生は当初甲・乙に分けられてゐたが途中から類別をなくし、通しクラス名となった)に加へることを提議すべきであった。省みて慚愧に堪へぬところである。

 しかし先年から、「北辰斜に」作詞者簗田勝三郎氏の事蹟を触り起し、おおむね明らかにする作業を終へてのち、長崎原爆死七高生をめぐる事実をこのまま埋もれさすべきでない、との思ひが強まってきた。増村先生にこのことをお話ししたところ、あの史眼透徹の先生にしてなほ「長崎原爆死七高生十五名」の事実を御存じなかったことを知り、急拠拙文を草して七高会に提議すべき責務感に駆られたのである。

 かくして昭和五十九年夏鹿児島を訪れた際、七高会本部責務者上村剛一鹿児島大学法文学部教授にお願ひし、八月六日午後、七高学籍簿をひもとくことを得た。そして原田君が正しく昭和二十年度入学理甲五組生徒であったことを確認したのである。

 学籍簿(学籍票) は父上杉松氏のものとみられる達筆で記入され、将棋・相撲を得意とし「軽薄ナラズ精力的」 「寡黙ニシテ少シ短気」、餅を好み登山を趣味とする彼の性向が細かにしたためられてゐる。しかし学校側が記入する成績乃至及落欄には一覧表が当然のごとく空白、第一学年 (二十一年三月) 「落」を消して「欠」とある。しかして該当頁に

 昭和二十二年三月三十一日付規則第七条第四項により除名(二学年を超ゆるも尚同級に止まる者)

とのはさみ込みあり、また学籍表右肩No.22の個所に「?」を附す貼紡がなされてゐた。

 思ふに原田君宅が「長崎市竹ノ久保町四五〇番地」にあったことで父母・兄1・弟2・姉1計一家七人全滅したため七高に連絡する手だてもなく、出身校瓊浦中学校とてもすでに卒業・進学した生徒であった故に掌握されぬまま、したがって七高当局も事態をつかめず時が過ぎ、「欠」「?」として処理されてしまったものと推察される。

 以上の調査結果を上村教授にお話しした処、教授はこのことを知らぬままであったとして興味を示されるとともに、次回の七高名簿作成時には原田君を昭和二十三年第四十五回卒業理科五組に○印を附し加へることを確約して下さった。

爆死につづく戦争終結、出水移転・鹿児島復帰、そして学制改革による七高そのものの消滅とつづいた激動のなか、正式に七高入学が許可され学籍簿に登載されながら、七高会名簿に七高生として認知されることなく、したがって当然加へらるべき原爆犠牲七高生一覧から脱落・放置され、関係者も事のいかんを知らぬままであった原田君の名が、爆死後四十年を越える今日、やうやく認知されるに至ったのである。

 ことがかくのごとく遅延したこと、ひとへにわたしの怠慢の故であり、原田君に対し七高会に対し、まことに申訳ない次第である。しかし上村教授の御高配により右の結果を見るに及んだのは、久しき胸のわだかまり晴れ、蒼穹を仰ぐ心持である。在天の彼のみたまも定めて安堵せられたと思ふ。

四.

以上により長崎原爆死七高生は理科二年十四名に昭和二十年四月入学理科一年甲類五組所属原田龍郎君を加へ十五名とすべきこと、諸賢の御同意を得られる処と確信する。

しかし此処に至ってなほ危惧するのは、昭和二十年度入学生にして長崎市の工場に勤労動員中原爆犠牲者となり、学籍薄に残るものの七高会名簿に記入せられぬまま放置されてゐる「七高生」がなほ居るのではないか、といふことである。瓊浦中・長崎中等の出身者にして心当りの同窓諸兄には何卒御調査願ひたい。しかして長崎原爆死七高生数にあやまりなきことを後世の人にあきらかにしていただきたいのである。

(付記)

七高学籍簿閲覧をお許し下さり、次回の名簿における訂正を確約いただいた上村剛一先輩に厚く御礼申し上げる。

また七高時代東洋史の授業を通して史学研究の道をお教へ下さり、その後今日に至るまで史学界の大先輩として叱正を仰いできた増村先生には暗和六十年五月十七日心筋梗塞のため急焉帰幽せられた。先生は四高出身であるが昭和十二年御着任以来七高生以上に七高を愛せられ、七高史上幾多の貴重な提言をなきれ、我々の景仰するところであった。まことに痛惜に堪へない。つつしんでみたまの平安をお祈り申し上げる。

(1)  上田裕二(大分〉、久米修(兵庫〉、権藤英男(大分)、冷川昭男(大分)、加藤洋一(埼玉〉、園田亘(鹿児島)、田中重恵(鹿児島)、西園浩一(鹿児島)、百留邦彦(鹿児島)、増田俊夫〈島根)、平島信彦〈鹿児島)、二宮辿夫(大分)、貴島龍三郎(鹿児島)、吉田光夫 (大分) の各氏である。

(2)  後日、増村先生が末弘氏にたづねられたところ「学校でそうしておけといわれたので、そうしたのである」とのことであった(『出水文化』八号四八頁)。

 (山口,1988)
終戦前後の七高造士館
   (戦没学友十六名の、永遠の冥福を祈りて

   

末 弘 喜 三 (昭22理甲6)

 二十世紀黎明とともに設置された第七高等学校造士館の第四十四回生として、昭和十九年に入学した吾々は、戦火により焦土と化す前の蒲洒な自鶴城キャンバスにて、短い月日ではあったが先輩と共に学び、伝統ある校風を引き継ぐとこのできた最終の学生となった。

 昭和十九年から二十年にかけては、国家総動員体制の厳しい戦時下、終末を迎える苛酷な戦局のもと、波乱万丈の苛烈異常の体験、学友から犠牲者が出る非運に翻弄されたのだが、自由と自治を掲げた伝統ある高校生活を守り、青春を謳歌した思い出が、次の様に深く脳裡に刻まれている。

 「鬱蒼たる大樹の繁る城山、緑滴る楠の木立が映え、日に七色に変わる峻険たる桜岳を仰ぎ見る城址に、白亜色のストイックな木造校舎が粛然と並ぶ。風格高き教授を敬う純心溌刺たる求道者であり、階段教室の講義に真理と知性の昂ぶりを覚える学究者が集。苔むす石垣、濠、欄干を逍遙しつつ、虚無の中に永遠の生命の価値を求めて友と語り合う葦であり、古色蒼然たる寮舎にて魂と魂とを結び合い、雄図に燃えて寮歌を高唱、ストームを乱舞し、誇高く自由と自治を求める若き魂塊の存在がある。」

 城山の森に調和した古風な講堂で、重厚な風貌の浅野館長より人生の尊厳を説く入学の祝辞を受け、自治を目指す高校生として門出に立った。

 昭和十九年三月に閣議決定した「決戦非常措置要綱に基づく学徒勤労動員実施要綱」により、文・理三年生全員は小倉陸軍造兵廠に動員が決まり、五月十二日に壮行会を挙行した。なお、昭和十六年十月に施行された「高校修学年限六ケ月短縮措置」により、三年生は九月に帰校、第四十二回卒業式が講堂で挙行された。

 対応して、八月には文科二年生全員は三菱重工業長崎兵器製作所への動員が決まり、九月には理科二年生全員の小倉陸軍造兵廠への動員が決定した。

 従って、学窓を共にしたのは、二年生とは一ケ月余、三年生とは五ケ月という短い月日であったとはいえ、寮生活や部活動を通じて、築かれてきた古き伝統を心身ともに引き継ぐことができ、戦後の出水、鹿児島における復活した高校生活にて後輩に伝えるように努めた。

 サイパン、グァムと防衛第一線の玉砕が続き、戦局は厳しく、鴨池飛行場戦闘機掩体壕構築、港や駅での軍需品荷役作業、農耕作業等の勤労奉仕に頻繁と駆り出される日が多くなった。

 厳しい環境下にあっても、一日七時間の授業のあとは、弊衣破帽に長髪、腰手拭で闊歩は当然のことで、黒紋付に自縛を肩にかけ、朴歯の高下駄で寮歌を唱いながら逍遙したり、裸足、裸で天文館ストームをかける「七高さん」には、市民は寛容であった。

 しかし、前線出陣間近の気鋭の若き陸軍将校から、軍刀の白刃かざして「蛮風止めろ」の抗議を受けたり、三菱重工業長崎兵器製作所にあっては、海軍士官あがりの工長から長髪、腰手拭いの厳禁を迫られたが、泰然として抵抗するなど、青春の証を蛮カラに求め続けた。

 昭和十九年十月二十七日、全国高等学校全寮制度の実施により、国士寮第四寮が開寮、市内在住二年生全員も寮生となり全寮制が始まった。

 城山寄りの台地、雨天体操場と生徒集会場の間に寮舎が新築されたもので、翌年六月の空襲で校舎・他の寮と共に焼失する短い宿命であった。

 入寮式の宴は、国士寮第一(東)、第二(西)、第三(南)の三寮申入れによる合同歓迎ファイアーストームによって始まった。厳しい燈火体制下にあり、教官はもとより、警察、憲兵の許可をとる。

 広い草咽す運動場のド真中に大炬火を築き、褌一枚の裸に炬をかざし「北辰斜め」を絶唱しつつ、乱舞した青春の燃える一駒が幻想のように脳裡に刻まれている。

 在校生は一年生のみとなった。さらに、徴兵年令が十九歳に引き下げられ、文科に学徒出陣の令状。きけわだつみの声の最終世代として、九月に清水君、十月に中野君が入隊、終戦までに文科生三十九名中十七名がストームで送られて征った。

 昭和二十年が明けると、文科一年は熊本市健軍の三菱重工業熊本航空機製作所に動員が決まり、一月九日、壮行会を開き出発した。高等学校修学年限がさらに二年に短縮されたため、三月に二年生全員は動員先の工場にて繰上げ卒業となり、第四十三回卒業生は大学へ進学した。

 戦局はさらに厳しく、三月に入ると沖縄上陸前哨戦の米機動部隊による九州全域の空襲、三月十九日には鹿児島市がグラマンによる初空襲をうけ、七高校舎も波状攻撃の銃弾による被害を蒙けた。空いた校舎は出動前の部隊の兵舎となり、対空機関砲の台座が数基構築された。

 政府は事態の深刻化に対応して、決戦教育措置要綱を発令し、国民学校初等科を除き、学校における授業は四月一日より二十一年三月三十一日に至る間、原則として中止されることとなった。この令のため、二十年の七高入学者は、中学での動員先で引き続き工場勤務となり、入学式は延期された。

 四月に入り二年生になった理甲一、二、三組と理乙一、二組が小倉陸軍造兵廠糸口山工場へ、理甲四、五、六組が三菱重工業長崎兵器製作所へ動員が決定。四月八日鹿児島市内空襲のさなか、学徒隊結成式が講堂で挙行された。

 理科壮行のために、文科代表として飯干、小田原君と共に帰鹿し、平之町の自宅に立ち寄った文科二年の野村伝栄君が、この八日のB24爆撃機空襲で不運にも爆死して七高学生犠牲者第一号となった。

 学生犠牲者第二号は長崎動員先より体調不良休養のため帰鹿した理甲二年五組の鯵坂三夫君である。七月二十七日、灼熱の太陽の照りつける鹿児島駅に到着した時、大空爆に襲われ、防空壕に直撃を受け不運にも爆死した。冥福を祈りつつ、二人の面影を偲ぶ。

一.野村伝栄君(鹿児島市平之町)

  鹿児島一中 四修0色白で小柄、端麗、情緒的な青年だった。音楽部で山根教授に師事、音声はバスで荘重だった。カメラを好み、クラシック音楽を愛し、動員先の熊本で購入したレコードを自宅に持ち帰り、部屋に入った処でB24投下爆弾の直撃を受けた。一刻早く防空壕に入り助かった両親に看取られた。

二.鯵坂三夫君(鹿児島県川辺郡勝目村)

  満州の新京一申出身。エキゾチックな風貌で小太り。ロ数は少ないが、芯の強い負けず嫌い。ラグビー部で暗くなるまで黙々とポールを追っていた。釣を愛し、東寮での釣談義、長崎では休日に海釣りに出掛けるなど話題豊富な心温まる青年だった。休養のため鹿児島駅に帰り着いた時、空襲を受け爆死したと迎えに行った学友が語る。

 憶えば、七高長崎派遣学徒隊一〇六名が、敗色濃き祖国を守らんと、若き青年達の情熱をたぎらせて三菱重工業長崎兵器製作所西郷寮に入ったのは、桜花爛漫の四月十一日、快晴の日だった。

 長い国際交流の歴史、史跡が豊かで、出島のオランダ館、大浦・浦上の天主堂、石畳の坂道の多い長崎の街が、静に吾々を迎えてくれた。寮は郊外の家並みから離れた松林にあり、空襲には安心だと話し合っていたものだ。

 日本全土は連日のように、B29、艦載機による猛爆、艦砲射撃に曝されており、主要な都市、工場地帯は灰墟となる被書を蒙っていたのだが、長崎の街は無気味に安泰で、七月末にB25爆撃機の散発的空襲を受けるまで、警戒警報も少ない平穏な日が続いていた。

 休日になると、友と連れだち電車で中心街の散策に出掛け、映画をみるか、皿うどんが喰える店を捜すか、諏訪神社、光雲寺をめぐり古本屋で良書を探すなどの息抜きが楽しめた。初夏の晴れた日、茂木の海にハイキングに出掛け、枇杷を腹一杯賞味し、寮歌を高唱した青春の日が懐かしく思い出される。

 兵器製作所は特殊魚雷生産の新鋭大型工場で、大橋本工場を中心に市立商業学校に分工場、トンネル疎開工場があり、それぞれに配置され、昼夜の二交替制であった。学生は九大、佐賀高校、活水女専及び高女、長崎高女、諌早工業、佐賀商業等から動員されてきていた。

 旋盤やドリルなどの工作機械を操って部品生産に当たったが、単調すぎるので高校生に相応しい部署に配置替えを無謀にも工場長に直接要望した。

 意外にも諒承を得て、設計・工程管理補助やトラック輸送・物流関連等に配置転換(配転)が進められた。

 五月には盟邦ドイツが無条件降伏、六月には沖縄が玉砕、祖国死守特攻の壮挙が連日のように報道され、本土決戦への国民的興奮の中にあって、気力をふり絞る苦渋、学生の本分である学究が出きぬ欲求不満、作業の単調さによるストレス等精神的苦痛は増すばかりであった。

 また、大豆柏や高梁入り飯など家畜なみ、不足気味の食生活による肉体的疲労は体力を蝕み、休養を要する学友が多くなるのは止むを得ない。唯一の憩いの場は、衒うことなく話し合える西郷寮のみであった。

 蚕棚まがいの部屋で、蚤と虱の猛攻に悩まされたが、これと平気に共存するか、徹底してつぶすのを得意技とするか、ユーモラスで憐れな起き伏しであったが、それぞれが自己の座をつくり音楽や読書、なかには数学の難問に取り組むなど多彩な日常であった。

 輪に坐って駄弁することも多く、故郷より送り物の炒り大豆を齧りながら人生観を論じ、愛を語る。興ずれば蓼々と寮歌を唱い、セレナード等を口遊んではロマンにひたる。時には教授に講義や談話の時間を求めるなど荒廃し勝ちな生活を豊かなものにすべく努め合った。

 八月に入ると、空襲警報が頻発されるようになり、六日には広島に新型爆弾投下の歴史的悲劇の大本営発表があった。中村教授が核分裂爆弾ではないかと心配されたが、暗い不吉な予感を覚えたのみで、三日後に長崎が襲われるとは夢にも思わなかった。

 八月六日、テニアンを飛び立ったB29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、午前八時十五分、広島にウラン原爆(リトル・ボーイ)を投下。瞬時にして死者七万人、負傷者十三万人という身の毛も弥立つ恐るペき多数の犠牲者を伴う人類史上最大の惨禍をもたらし、広島は六時間にわたる火焔地獄に包まれた。

 八月九日、ウランに比べて六割以上の破壊力をもつプルトニウム原爆(ファットマン)を搭載したB29爆撃機「ボックス・カー」がテニアンを飛び立ち、第一目標である小倉が天候不良のため、第二目標長崎へ進路を転じた。

 午前十一時二分。不運にも長崎市中心より外れた浦上地区松山町の上空に原爆は投下され、五官米上空で炸裂した。

 凄まじい閃光、数千度の高熱線、恐るべき一次放射能、秒速360mの強烈な衝撃波、爆風、轟音が一瞬にして吹き荒び、半径2キロメートルの地域の全てを壊滅し尽くし、死者七万四千人、負傷者七万七千人という莫大な犠牲者とともに長崎を廃墟とした。

 人道上、水遠に許されない人間の創り出した極悪の悲劇であった。瞬時に倒壊した石造・コンクリート、曲がった鉄骨の残骸、瓦礁の焦土に死屍累々、坤き泣く無数の重傷者が踊る修羅場に人間的悲惨の極を見た。戦争に関係のない数万の無垢の市民、女性、子供までを渦中に巻き込み、瞬時に殺戦する無差別破壊兵器の残虐、放射能汚染による絶望的死。まさに神に対する冒涜であり、聖なる地球に二度とあってはならない暴挙である。

 全てが破壊し尽くされ、死屍累々たる廃墟に駆けつけ、助けを哀訴している重傷者の多さに戸惑い、助かりそうに思える人のみを肩に担ぎ、担架に乗せるという選択をしたこと。 三日目から救援にきた警防団の手助けも始まったのだが、累累たる無名の亡骸を広場の一隅に集め、ひたすら手を合わせ冥福を祈るのみで茶屋に付したこと。思い出すと痛恨の極みで、手を差しのべることの出きなかった数えきれない多くの犠牲者に対し、ひたすらお詫び申し上げるのみである。

 核兵器という悪魔の登場の時空に、七高長崎派遣学徒隊は不幸にも遭遇する運命を担い、残酷極まる歴史を綴ることになった。

 八月九日は曇り勝ちの蒸し暑い日だった。警戒警報が午前十時過ぎには解除になり、各工場は平常業務に、寮では夜勤者が睡眠に入った。

 トンネル工場の私はミーリング機の部品加工作業を手仕舞いして、警報解除により開催されることになった大橋本工場での打ち合わせ会議に出席するため、トンネルの出口にさしかかった時、九大の動員学徒後藤氏に呼びとめられ立話に入った。

 瞬間、凄まじい閃光に全空間が包まれる。一瞬に隊長意識が働いて、「焼夷弾落下」と叫びながら内部へ踵を返した。その刹那、壮絶な轟音と衝撃波が襲ってきて、三十米近くも木の葉ように空中を吹き飛ばされた。運良く機械通路に沿い飛ばされたらしく、意識が回復した時は、額面裂傷の血は固まり、強打した腰の痛みのみで、コンクリートの土間に転がっていた。

 トンネル工場でみると、入口広場にあった施設は全て倒壊、作業していた人は大火傷・打撲の重傷。トンネル出口近くで作業していた人は衝撃波により機械に激突して即死か重傷者が多く悲惨の極みで、私を呼び止めてくれた恩人である後藤氏は機械に激突し即死、心から冥福を祈った。しかし総体的にはトンネル内部で作業中の人は比較的無事だった。

 意識不明であったタイムラグで学友と連絡がとれず、他に比較して軽傷の部類に入ると判り、元気な工員を引き連れて大橋本工場の救援と山口教授や学友との連絡へと、士気を鼓舞しっつ出発した。道路は建造物が倒壊し、木造は燃え続け、車輌は横転、電柱等か倒れ塞ぎ、血塗れの負傷者が延々と続いている。想像を絶する惨憺たる焦土に踏み込むわけで、恐怖心に戦くものの、思惟の範囲を遥かに越えた思考と心理が働き行動を律してくれた。

 重傷者の救出に破壊された工場内を廻るうち、救護に活躍中の学友とも会えて無事を喜び合い、次第に友の安否や周辺の情況が明らかになってくる。西郷寮の総ての倒壊・全焼と市立商業学校工場の惨状等、思いもかけない悲報が入る。西郷寮全焼の裏山に無数の重傷者が倒れ伏し救いを求めている。大火傷・打撲による重傷の学友は一人を除き助け合い避難していった。市立商業学校は完全に壊滅して殆ど全員が倒れ伏し、重傷者が掘る惨状を呈し、学友が駆けつけ救護活動が続けられていた。

 枕木が燃えている鉄道路線を無残に火傷・打撲の学友を担ぎ歩いていると、土手下のせせらぎのある畦道に、学友と担がれてきた重傷の学友が横たわっている。十数名の学友の生きている姿に接し、お互いに感極まり涙し、握手し合い、激励し合った。

 午後四時頃、地獄に仏とも思えた無蓋列車が到着し目前に止まった。避難してきた呻き苦しむ重傷の人、介護の人々を満載し、逆行して行く列車を見送った時、無事に助かるように唯祈るのみであった。

 さらに友を捜し、夕闇迫る頃、道之尾駅にたどりつくと、顔面負傷の山口教授をはじめ、負傷した友を担いできた学友が屯しており、胸迫る思いで生存を喜びび合い、お互いの情況を話し合う。トラック班の二宮君が爆心地運行中のこと、粂君が西郷寮で焼死した等の不運が明らかになる。

 客車型の救援列車が暗闇に入ってきたのに無理矢理に教授、学友を押し込んだ。静かに出て行く列車を見送ったが、これらの列車での別れが最後になった学友の面影が思い出される。

 当日、長崎にて直接被爆した学友は百余名中の六十名弱と少なく、病気療養、他用で不在が多かった。

 紙一重の差で生死を分かつ摂理によって、不運にも十四名の学友が原爆の犠牲となり、若き生命を、守らんとした祖国に捧げた。

 七高造士館を愛し、七高生を誇りとし、若し生きていてくれたら、日本再建に立派に貢献する人材であった亡き学友について、追悼文集等より抜粋、その面影と被爆時の模様を偲び、歴史の重要な一駒として書き残し、永遠の冥福を祈念したいと筆を取った。

 安全な憩いの場と信じていた西郷寮は、爆心地より1.5キロメートル。窓は爆心地に向け開口していた。二十棟余の木造二階建宿舎総てが被爆の瞬時に倒壊、高熱線により火災が直ちに発生して瞬くまに全焼した。

 学友は夜勤帰りの十九名が熟睡中、他に四名が外出中で、二名が故郷より帰寮中であった。

 学友の大半は衛撃波で戸外に吹き飛ばされるか、梁・柱・屋根等の下敷きになるか、窓際に裸で寝ていた人は、高熱線により身体の半面が大火傷になる等のため、九十五%が重傷。お互い助け合い避難したが、梁下になり動けなかった一人が焼死。重傷のうち二名が原爆死。外出中は一名が原爆死。帰寮中の二名が原爆死の被害である。

一.粂修君 (大阪府池田市西市場)

 十八年入学、休学後の体調であったが動員参加。神戸一申出身。冷徹な理論家でニーチェを語る哲学の良き善導者であった。「戦争は愚劣だ。戦争は終わる。必ず日本人の社会は存在しうる。」と未来を語る発言は衝撃的であった。寮崩壊で梁下で動けず、燃え上がる火をみて、助けようとする友の手を断り舌を噛み自決した。翌日、焼け跡にて半焼けの遺体を発見、見覚えの金歯で確認。寮を見下ろす丘に鍬で穴を掘り遺体を埋葬、石を置き、花を捧げ、、水遠の冥福を祈った。喉仏は七高本部に届け、家族に届けられた。

二.園田亘君 (鹿児島県川辺郡枕崎町)

 鹿児島中出身。蒙放磊落な楽天家で仲間の人気者。典型的な国を愛するタイブの薩摩兵児で、弓道部に入り姿勢の大切さを守っていた。窓際に裸で就寝中、高熱線で上半身火傷、胸部打撲の重傷、歩行困難で夕刻遅く発見したため、トンネル工場で介抱。翌朝、道之尾病院に搬送。帰鹿の体力無く、十六日の朝原爆死。長崎まで捜しにきた母親が茶屋後の遺骨を持ち帰られた。

三.平島信彦君 (鹿児島県姶良郡加治木町)

 加治木中出身。痩身で真面目一本の優しさに満ちた青年。語学に興味を持ち、独、仏、伊は勿論ラテン、エスペラント等の語学文献を収集、熱心に勉学していた。寮にポータブルを持ち込み、ドイツ国歌等を原語で楽しみ、クラシック音楽(セレナーデ、レクイエム)を聞き、涙ぐむ純情さがあった。窓際に裸で就寝中、高熱線で火傷、吹き飛ばされ打撲傷で重傷であった。諌早海軍病院で治療後、単独自力で鹿児島に必死に帰ったが、八月の末に自宅で原爆死。

四.貴島竜三郎君(鹿児島県川辺郡西南方村)

 十八年入学。休学後の体調未調整のまま動員参加。鹿児島一中出身。数学の先天的才能に恵まれ、友への面倒見が良く「ドラゴン」の愛称で慕われていた。健康に留意し、読書家であり思索家であった。当日は休みをとり外出、寮入口付近で被爆。放射能・高熱線を真面に受け、全身火傷と打撲で歩行困難。救援列車に担ぎ乗せられたが其の後不明。捜しにきた母上も遺骨は発見できず。

五.冷川明男君 (福岡県門司市本村町)

 門司中出身。すらりとした長身、涼やかで大きな瞳が印象的で、物静かであった。友からの協力依頼に親切に応ずる世話好きでもあった。門司での自宅療養を早く切り上げ、補上駅に午前十時半に到着、帰寮中大橋路上で緒方君と会い立ち話に入った瞬間被爆。放射能・高熱線と衝撃波を真面に受け強度の火傷と全身打撲の重傷。近くの壕で倒れていた処、同じ職場(工作技術課)の森昌子さんの連絡で学友が駆けつけ、諌早女子商業講堂に広田君と共に収容された。諌早の村野さん等の手厚い看護を受けたが十二日原爆死を広田君が確認。捜しに来た母上は遺体発見できず、戦後になって村野さんから模様を聞くことができたとのこと。緒方君は冷川君の長身の蔭にかくれた為、熱線・放射能の直射を受けず、爆風による打撲傷の重傷のみであった。鹿児島に帰り治療、体力を回復。昭和六十年死亡。

六.権頭英男君 (大分県日田市大字竹田)

 日田中出身。明朗快活で清濁併せ呑む九州男児。彫りの深い風貌、馬上姿が似合うスポーツ万能の青年。馬術部では根気の良い馬の世話役。帰省中の日田を出発、長崎市浦上にある親戚に立ち寄った処で被爆。捜しに来た兄上より其の事情を知り、学友達と共にくまなく捜索したが、残念ながら遺体は確認できなかった。爆心地に近く、親戚の方々と共に即死とみられる。

 市立商業学校は爆心地に僅か一キロメートルと最も近く、工場が入っていた体育館は強烈な衝撃波により一瞬にして倒壊、吹き飛んだ。勤務中の四名全員が凄まじい爆風で機械等に激突して重傷、一次放射能を真面に受けており、他に比し死亡が突出している。学友四名は全員が打撲傷に加え、放射能被爆で原爆 死した。

七.西園浩一君 (鹿児島県日置郡串木野町)

 鹿児島二中出身。色白で細身、温和な額立ち、好感の溢れた言葉使い、帽子をキチンとかぶる、真面目さが目立った青年。グライダー部で長距離飛翔に挑戦した熱意は見事だった。爆風で機械に激突、頭部、胸部打撲、歩行困難で学友が諌早海軍病院に搬送。十六日に原爆死。捜索にきた両親は遺骨を発見できず。

八.田中規恵君 (鹿児島県日置郡串木野町)

 鹿児島一中、四修。ふっくらした体躯。やさしい顔立ちだが、謹厳実直なファイトマンとの印象が強かった。孤独を愛し、ハイネを読む詩人の一面もあった。柔道部、見事な業を持っていた。爆風で台座に激突、胸部・側頭部を打撲。諌早女子商業で治療後、田中正久君等の介護を受けつつ帰鹿。八月の末に自宅で原爆死。

九.百留邦彦君 (大分県中津市中殿町)

 中津中出身。大分弁で早口にしゃべる明朗活発、精力的実践家で世話好き。蚤や虱の超克者として人気あり。工場では機械操作の練達の早さ等で工員や動員中学生の尊敬を集めていた。爆風による全身打撲で、大村療養所、嬉野海軍病院と転院のあと自力で中津市の自宅に帰る。回復したかにみえたが、八月二十四日、病状急変して原爆死。

十.増田俊夫君 (島根県那賀郡浅利村)

 北九州市の東筑中出身。痩身、物静かで理知的な瞳が印象的。根気強く努力するタイブ。数学が得意、難問と取り組んでいた。また、孤独を愛する読書家でもあった。爆風で吹き飛び全身打撲、歩行困難で倒れていた処を上野君等担架で搬送。諌早ついで嬉野海軍病院で治療後、両親のいる島根県浅利村に満身創痍に拘わらず十六日にたどり着く。八月二十九日、家族の手厚い看護のもと自宅で原爆死。「霊魂の不滅を信ずる」と遺言している。

 大橋本工場では十二名が勤務中であり、運悪く衝撃波進路の窓際、入口にいた二人が重傷、あとは重傷一人、中・軽傷で救援作業後自力退避。トラック班六名中二人が爆心地を走行中、四名は市外走行中。

十一.加藤洋一君 (東京都板橋区練馬土支田町)

 暁星申出身。白哲・端麗な美青年。歯切れの良い東京弁、数学天才でキザに見える程微積分の難問と取り組む一方、籠球部でドリブルを楽しんでいた。中学はフランス語で英語に苦しんでいたが、徹夜する努力、情に脆い純心さは学友にも人気があり、工場では女学生等に慕われていた。数学の才能が認められ工作技術課に配転されていたが、警報解除でトンネル工場より帰り座った椅子が衝撃波の進路。爆風で頭部、胸部を打撲。重傷、学友に担がれ諌早海軍病院にて治療。吐血するなど病状急変して十二日に原爆死。捜索に駆けつけた父親の胸に抱かれて遺骨は東京に帰る。

十二.吉田光男君 (大分県北海部郡臼杵町)

 臼杵中出身。大分なまりの朴訴で生一本なバンカラ青年。愛と人生を真剣に語りかけ、寮劇では脚本を書く文才をみせていた。「野ばら」「菩提樹」さらに「オ・ソレ・ミオ」等を原語で声高らかに歌ってくれた美声は見事だった。七月末に大分から帰り、乙機工場で勤務中、運悪く衝撃波で飛ばされ全身打撲の重傷、救援列車に乗せて学友と共に搬送された。大村療養所にて治療をうけたが、其の後の行方は判明せず。原爆死。

十三.二宮迪夫君 (東京都麻布区桜田町)

 麻布中出身。小太りの体躯。色白の江戸っ子坊ちゃんタイプの明朗な青年。鷹揚な人柄である反面、行動的なファイトマンで、自己の主張を通す強さがあった。トラック班に所属。爆心地松山町付近を走行中であった事が判り、学友と共に数回にわたり捜索に出掛けたが、乗車トラックは発見したが特徴のある金歯をもった黒焦の遺体は残念ながら発見できなかった。即死とみられる。

十四.上田祐二君 (大分県宇佐郡駅館村上田)

 加治木中四修。色白で紅顛、少年らしさの残る美青年。清純無垢で家庭的暖かさの溢れる人柄は皆に好かれた。航空マニアでグライダー部では惜しみなく精力的に活躍した。機械好きでもあり、選に洩れたトラック班に懇願の末、ようやく配転を獲得、喜んで運転に打ち込んでいた。爆心地である三原町付近を走行中被爆。強烈な衝撃波で車外に吹き飛ばされ、全身打撲、火傷、足に裂傷。学友に担がれ諌早海軍病院にて治療。野村軍医(一高・東大)、諌早の寺田藤子さん等の手厚い看病を受け、東大進学を目指すと語るなど回復したかにみえたが、容体急変して二十八日午前四時に破傷風・原爆死。待ち望んでいた父上はその日の午前七時にすれ違いに到着されたとのこと、慎に残念至極。遺骨は慈父に抱かれ故郷に帰れたのがなによりだった。

 トンネル工場では十六名が勤務中であったが、全員は幸いにトンネル奥の機械で作業に付いていたため、直接的な外傷は無かった。救援作業中の残留放射能の影響による原爆症によって発熱、出血、脱毛した人が多い。

 工場は消滅したが、救援活動のさなか、八月十五日思いもかけぬ終戦を迎え、奈落の底に落ち込む様に茫然となったものの、トラック班の坂田君、郡君、平瀬君等は作業を続け、急遽、鹿児島から駆けつけた黒木・山口教授等を中核として学友の救援・捜索は続けられ、九月初旬に学徒隊は自然解散した。

 終戦後の七高の再開は、白鶴城キャンパスは三月より六月の空襲で廃墟、鹿児島市全域も焦土化しており、適切な校舎の確保が困難のため遅れていたが、浅野館長等の尽力により出水郡高尾野町にある出水海軍第二航空隊跡に漸く移転することにより決定した。

 昭和二十年十一月二十六日、出水町公会堂で開校式が行われ、同時に昭和二十年度の新入生の入学式が挙行された。

 館長の入学許可宣言、館長告辞、二年生の歓迎の辞と続き「北辰斜めに」の大合唱で戦後の新しき七高生が誕生した。広漠たる出水原野に建つ荒れ果てた兵舎跡の校舎、国破れて山河ありの空虚感、価値感の大いなる変移に悩んだものの、再び学窓に集うことのできたのは有難いことだった。敗戦後の食糧難、住宅不足の時に受け入れて戴いた高尾野、米之津、出水の方々に感謝の念で一杯である。

 まず、大戦の犠牲となって戦没した学友、鹿児島市の空襲犠牲二名、長崎市の原爆犠牲十四名の冥福を祈る学校葬を挙行することが決まった。

 昭和二十年十二月十五日、午後二時より、出水町の西照寺にて、戦没学生十六名の学校葬が九遺族が参列され、井上徳命師(明治四十年文科卒)を導師として挙行され、・水遠の鎮魂を祈った。静めやかな供養のあと「楠の葉末」を全員で絶唱、若き命を捧げた学友に対し哀悼の意を表し、心から永遠の冥福を祈った。

 戦後三十年を前にして、同期の集まりで 「長崎原爆七高戦災学生のための鎮魂の碑」建立の提案が、和君、林君からあり、参加者全員の賛同のもと直ちに、募金活動と建立地の選定作業が開始された。

 すさまじい閃光のもと生死を分けた、十四名の死は将に残酷である。生き残った吾々も常に生きていることへの自戒の念と購罪の気持ちで鬱々として過ごしてきたが三十三回忌を契機に十字架を背負う重荷を少しでも軽くしたいという切なる願望があり、全国の学友に呼び掛けが始められた。

 同窓各位の絶大なる協力があり、七高同窓会本部、長崎七高会の協賛、恩師他多数の方々の御支援を戴き、見事な鏡魂碑の建立と立派な追悼文集を発刊することができた。

 西郷寮の跡地の一隅が奇しくも白鳥公園となっており、市当局に相談した処、建立の許可を幸いに得た。碑は時緑色の蛇紋岩を選び、表面碑文は

  君な忘れそ楠蔭の
    南の国のおきふしを  「七高寮歌惜別」より」

 裏面には犠牲になった戦災学徒十四名の名前と趣旨を記した。さらに碑のバックとして楠の木の植樹を計画、手配し翌年までに完成したのである。

 昭和五十年八月九日、鎮魂碑が建立された白鳥公園に七高同窓会副会長上村行穂先生の参列を始め、同窓生、長崎七高会、福岡七高会、かつて職場の花であった長崎高女、活水高女卒の方々約百名が参集、遺族は園田君の両親、増田君の令弟二名、新聞報道を見て駆けつけた冷川君の母堂の参列があり、運命の時刻十一時二分のサイレンを合図に冥福を祈る黙祷を捧げ、碑の除幕式及び亡くなった戦災学生十四名に加えて、原爆後遺症に苦しみ其の後残念ながら死去した川合室一君(昭和二十五年死亡)、篠原幹一君(昭和二十八年死亡)、岡本正三君(昭和二十九年死亡)、能見祥司君(昭和三十九年死亡)の学友四名の鏡魂のための慰霊祭が厳かに挙行された。

 鎮魂碑の除幕は、七高会副会長上村行穂先生により厳かに行って戴いたが、亡き学友はもって瞑することができたであろう。

 廃墟から国の再建への心の使途として果たしてくれた尊い友の死の重みに深く謝し、永遠に安息の日を迎えられんことを心から祈った。

 長崎七高会には大変お世話になった上に、その後、毎年八月には鏡魂碑前にて原爆忌を行い、花を捧げて戴いているとのことで、心から有難く、唯々感謝申し上げている。

 入滅して五十年、絶対空の涅槃に入る学友の霊に対し法要を行うため、平成六年八月二十七日、白鳥公園にある鎮魂碑前にて、長崎原爆七高戦災学生五十回忌追悼慰霊祭を挙行したが、同窓生等百十人が参集して静めやかに学友の永遠の冥福を祈り「北辰斜めに」と「楠の葉末」を捧げた。

 核兵器は人類滅亡の危険をもたらす恐るべき究極の武器であること、放射能の残虐性は、直接浴びた学友が全員原爆死したという恐るべき悪魔であることを身をもって体験している。

 平成十一年、五十四回目の原爆の日を迎える広島で、原爆慰霊碑に納められた原爆死没者名簿は二十一万二千十六人を数え、長崎では十二万千五百八十八人であるから、計三十三万三千六百四人といぅ莫大な死没者を数えることになった。加えて、同年三月末の被爆者健康手帳所持者は三十万四千四百五十五人であるから、被爆者は六十四万人を数えるという恐るべき原爆による人的被書の実態を明らかにしている。

 どれはど歳月を重ねても、この原爆による恐るべき惨禍の事実は消えない。

 半世紀が過ぎたとはいえ、世界はいまだに核兵器の脅威のもとにぁる。紙一重で生を得た青々は核兵器が人類を破滅に導く究極の悪であることを体験から訴え続けなくてはならない。絶望することなく「人類と核兵器は共存できない」と声高く主張したい。

 核廃絶への道筋は未だ不明だが、人類のために核兵器の無い絶対平和が築かれ、環境破壊の無い美しい地球が、二十一世紀に再生することを心から望む。

 過酷な世界大戦の終戦間際になって、悲しくも犠牲になった七高戦没学友一六名の永遠の冥福を祈りてこの文を捧ぐ。

 (末弘,2000)

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【引用文献・参考文献】



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