第七高等学校造士館 詳細年表
1926年 大正15年・昭和元年


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野球部対五高戦の応援団乱闘未遂事件

1919年; 対五高戦復活、9年の沈黙を破りて対五高戦復活し、再び赤旗白旗相競い陣鼓轟き渡る、時此れ大正8年12月。
復活後、既に八星霜、7勝1敗、燦たる歴史、此間五高武夫原頭を蹂躙する事三度、「武夫原頭は我等先輩蹂躙の地なり」と豪語するに至れり。然し龍南の勇士も決して弱きにあらず、只我部がかく連戦連勝を為し得るは我部の先輩が血と汗と涙とによって彩れる歴史の力の然らしむ所大なりとす。
対五高定期戦績 於五高
 3−1 勝             (七高野球部,1926) 
 
 《前略》
「武夫原頭は吾等先輩蹂躙の地なり」
この名文句は戦の前夜両応援団交歓の際、吾が是枝恭二団長が吐いた大獅子吼の冒頭語である。

 大正11年夏、武夫原に駒を進めて対五高野球戦は思い出多いものがあった。

 選手は主将中島茂(ショウト)、ピッチャー折田士、ファースト張、サード安川寛、レフト三浜輝雄、センター佐々木一郎の名手揃いであったため、2対〇で名投手筒井を擁する五高軍を破り、更にその勢い乗じて全国高校専門学校野球戦に優勝の栄冠を勝ち得たのである。七高の全国優勝はこれは空前絶後でなかったかと思う。

 私は理科を代表して是枝団長の下に副団長として采配を振るった。

 選手の練習を寮生は石垣の上から叱咤激励するのはいつもの習わしである。所がライトの某君が手技が拙いので随分やじられた。その「野次」が度を越したため選手一同が激怒してしまって、もう応援して貰う必要はないと強く主張した。これを聞いた寮生一同は更に憤激し、何で応援するものかと決議した。寮生あっての応援団である。これでは応援団は解消である。吾々幹部の悩みは極点に達した。幸い私は前年東寮の総務をしていたため八方奔走し誠意を披瀝して漸く苦心惨憺の末両者を和解せしむることが出来た。これが第一の試練であり、第二の試練は太鼓その他の準備である。

 直径一間以上ある大太鼓を川内町郊外の神社から借りることを約束、150個の小太鼓(鹿児島独特の皷を大きくしたような太鼓)を借り集めたこと。大太鼓は貨車一台借り切っての運搬、市内の示威行進には馬車に積む外ない。幟、旗、鉢巻き等々、次から次に準備は尽きない。

 第三の試練はそれらの資金調達である。私の発案で応援団用の手拭いを作りそのマージンを資金の一端に当てることにした。図案を募集すると実に立派なデザインが数種集まったので、夫々幾種類も染めさせて売ったら大人気で予想以上の数量を売り上げることが出来た。

 最後に私が最も誇りに思うことは、是枝団長と計って悠々吾が軍が2対〇で快勝するや否や太鼓の赤い紐、鉢巻きの赤手拭い凡て赤という赤をとりさり、赤い幟も赤い応援旗も巻いてしまい、応援団員を整えて静々と全く処女のごとく武夫原頭を退いた。勿論太鼓もたたかず応援歌も歌わず只唖のごとく黙々と静々と引き上げた。街に出ても依然としておとなしい行進で一里位を休憩所のお寺まで続けたことである。

 お寺に着くや否や用意してあった「コモカブリ」の酒樽二丁を蓋あけ応援団員は一時に堰を切った勢いでどっとばかりに祝勝の杯をかたむけた。勿論鹿児島からわざわざ応援に来てくれた市民のファンも一緒である。思う存分祝勝の高歌乱舞、喜びのうま酒に酔うては歌い酔うては踊った。おかげで陰で太鼓は殆ど全部といっていい位破れてしまった。その後始末に是枝団長と私は夏期休暇中鹿児島に残って一ヶ月間走り回った。

 その後数年にして、応援団の喧嘩で遂に対五高戦が中止の止むなきに至ったことを聞いた時、私達が取った措置はやはり適切誤りなかったことを今日尚悔いない思い出として内心の誇りを噛みしめている。  (井上,1963)
 
野球部対五高戦後の応援団乱闘未遂事件
 《前略》
 またこの年7月に熊本で行われた対五高野球戦の事は、忘るべからざる大なる事件であり、まだ鮮やかな記憶をもって居られる諸子も多くあるであろう。 今の高校野球とは全く異なったものであろうが、肥後と薩摩の戦であるというわけで、一般民衆諸君の応援も相当あった。

 七高が既に2回連勝していたので選手諸君も大いに緊張していたわけであったが、五高側も今年こそは積年の恨みをはらすべきだとの気持も強くあったであろう。それがその年もまた七高の勝となったのは好運と言うべきか如何か、それはとも角として、その時、七高生が五高の校歌をうたった事をとりあげて(勿論七高の校歌を歌った後ではあるが)、五高側はそれは吾々を侮辱する意志をもっていると主張し、恐ろしい対立となった。

 その時に校長は居らず、私ひとりが居ただけ、何やら私独りの責任になりそうな有様となった。警察に相談したら、若し乱闘となったら警察の手では何とも出来ないかも知れぬという。私は師団に電話して、その様な場合には兵隊を出して貰えるかと問うたら、
「貴官の要請があれば出しもしようが、しかし、それは結局暴徒扱いになりますが」
との答え。何とも策はない。

 それでとも角双方向かい合って、言うべきことを言わせて見ようという事となり、警官10数名を間に立てて双方対峙した。(いざとなったら警官は空砲を上に向けて放つという話まであった。)一時はどうなる事かと大に心配したが、七高の応援団長(重松俊明氏であったが)の釈明的な挨拶があったので、その場は無事に治まって応援団員も無事解散、暑中休暇であるので大部分は上り列車に乗るために停車場に集まっている処へ私は行って、真に涙を流して釈明に出たその咄嗟の措置に感謝したのであった。(私は真剣に悦んで涙を流したのであった。)

 その夕方になって、由比校長も来られ溝淵校長と晩餐を共にし懇談は楽しく進み、その夜も心地よくすぎて行ったのであるが、それ等も今思い出しては懐かしき極みである。
 その時の選手や応援団諸君にはそれ等の記憶もまざまざと残っているであろう。この時から対五高戦は禁止となった。何年頃からこの種の行事が始まったかについては記憶にないが、一高対三高、四高対八高などについては記憶も鮮やかであるが、殊に一高対三高戦は有名であった。
 《後略》    (石倉,1960)
 
 《前略》
翌大正15年は、それまで七高が勝ち続けたので、久しぶりに五高に遠征することとなった。主将はセンター橋本幸雄、バッテリーは杉本-永吉、井上勝信(弟)はセカンド、ピッチャーを勤めた、サード松本孝、ショート佐々木節夫、レフト西田豊明の諸君である。団長重松俊明(前京大教育学部長)、文科総務 永田文雄(電通PR部長)の諸君である。この試合も大接戦熱狂のうちに3対2で、わが方に凱歌が上がったのであるが、応援団の乱闘のことなどのため、逆に対五高戦中止の断が下ったのである。
 《後略》     (後藤,1960)
 

大正十五年度
 この年集いし人々
 

白鶴城の欄干に桜花散る頃、四人の新入部員を迎えることとなった。即ち京都三中より西村周一一塁手、鹿児島一中より井上勝信二塁手、小倉中より松本孝三塁手、鹿児島一中より佐々木節夫遊撃手の四戦士である。かくして、七高内野陣は新人選手により囲められることとなり、更に、一年生の玉置俊雄、押川篤行の面々の参加を得て新主将橋本幸雄、之を補佐する西川圭介、明日山秀文両マネージャー以下左記新チームは勇気凛々直ちに猛練習に突入した。
(尚井上信虎は実弟勝信の入部と入れ代りに退部することとなった。)

主将 橋 本(3)
監督 西 川〈2〉
監督 明日山〈2)
1 杉 本〈3)
2 永 吉〈3〉
3 西 村(1)
4 井上勝(1〉
5 松 本(1)
6 佐々木節〈1)
7 星 野〈2)
8 橋 本〈3)
9 西 田〈2)
9 白 石〈2)
9 渋 江〈2)
9 玉 置(1)
9 押 川〈1)

 さて宿敵五高の状況はどうだったか。大久保橙青も打ち続く敗戦に十四年度戦績については筆を休めているが、この間にあって彼は次のような挿話を告白している。

 「浦島、佐柳と私は大正十四年五高を卒業して東大に
入った。大正十四年鹿児島に遠征してまた敗れ、五高は四連敗となった。 五高にとって投手の補強が最大の課題であったが、耳よりの話を聞いた。それは法政大学の予科にいる高橋一投手が高校入学の希望をもっており、彼の一切の世話を日本女子大の助手をしている姉さんがとりしきっているということであった。

 浦島と私は早速女子大の寮に姉さんを訪ねたが女の舎監が出て来て浦島と私を追い返した。それで高橋の下宿に訪ねてくる姉さんを待ち伏せして切々と五高の窮状を訴えたら姉さんは『弟を五高にやりましょう』 ということであった。

 大正十五年高橋は五高に合格した。前年既に市岡中学の名選手広岡が五高に入っていたが、この年市岡中学の二塁手億川も五高に来た。一塁は和歌山中学の稲沢主将、三塁は長崎中学の松瀬、捕手には済々黄の中島、控え投手には熊本中学の武を配し稀に見る強力チームが編成された。」

 彼ら五高先輩連の期待も宣なりと言うべきか。

 さて七高優勝時の石関、張、池松等は中島、三浜に続いて京大入学後、京大野球部の主力となり、関西大学野球の代表チームとして、或いは早慶明との東西対抗に、或いは大毎、阪急との定期戦に、時にはフレスノ等の外来チームとの対戦に活躍した。彼らは七高軍強化の為、僚友と語らって此の年六月十五日遥々南下して七高グランドで後輩七高チームと戦った。

七高 0 0 1 1 0 2 2 0 0 6
京大 1 0 3 1 0 0 0 2 A 7

七高は今年度より正投手に起用した杉本をマウンドに送り、此の強チームに対戦、京大投手飯島に激しく向って行き、中盤に追上げ七回に二点を奪い逆転なったが、先輩石関の救援に遭遇七A対六を以て惜敗した。

この試合のあと石関はコーチとして残り、特に杉本投手について次のように記している。
 「杉本君はコントロールは極めて良く、球は重い。然し変化球がないので教えて見たがとても間に合わないので、小生得意のインシュートを教えたらすぐ体得した。アウトコーナーをつく事と、このインシュートで彼の投手起用は成功した。」

 武夫原の決戦

 さて、七高軍は石閑、坂口、吉利など諸先輩のコーチにより熱心な練習を続け、七月九日試験終了と共に午後三時五十分発の列車で石関、中島、深田の三コーチに率いられて熊本に出発する。四年に亘って連敗に泣く五高軍は全校挙って雪辱の念物凄く、全市をあげて薩南征伐を呼号し
 「白竜赤鶴を呑む」
 の墨書が眼を射る。十日夜、
野球部が熊本駅に到着した時は大雑踏を呈したが、一人の酔漢はホームに突立って
 「永吉捕手や井上選手などの
大打者の顔が知りたい」
 と迫る者あれば
 「石開ヘッドコ
ーチャーはどなたです? 貴方が石開さんですか。お尋ねするが今年も勝つ気か、それとも負ける気か・・・」
 など
殺気立っていること夥しい

 十一日重松応援団長の率いる七高応援団は、午前九時五十五分鹿児島駅頭に雲集した数千の市民がその出陣を激励する拍手歓呼の中に悠々戦途についた。午後四時二十五分熊本駅に到着するや、勇ましき校歌を唱えて駅前広場に勢揃いをなし、重松応援団長は
 「愈々敵地に乗り
込んだのである。示威運動を行なうに当り声の続く限り、太鼓の破れるまで薩摩健児の意気を示せ」
 と絶叫して応
援団を激励した。それより出迎えの五高応援団幹部の案内により宿所に向けて示威運動を行った。


武夫原頭に於ける重松団長 
後の京大教授(哲学)
(提供、橋本)

試合前の打ち合わせ
審判 東大清水健・河野両氏と両軍主将
(提供・橋本)

 七月十二日、いよいよ合戦の日、午前十時ともなれば武夫原は幾万の市民により十重二十重に取りかこまれた。鹿児島市民応援団、五高応援団、七高応援団の順序に入場すれば、場は一転していよいよ戦雲急を告げんとす。戦いは二時半いよいよ切って落される。七高先攻、此の年より両校打合せの結果、審判は東大野球部に依頼することとし、態々東都より南下せる主審は後の清水外科教授として我が国脳外科の泰斗となった東大主将清水健太郎、その人である。塁審は河野選手、外交官として雄飛した人物である。

七高 0 0 3 0 0 0 0 0 3
五高 0 2 0 0 0 0 0 0 2

一回主審の開始宣言と共に五高武投手は第一球を投げたがボール、結局先頭打者井上(勝)は一−三後の好球を二遊間に呈し先づ出塁、続く佐々木の二裔に封殺されたが、佐々木すかさず二盗成り、続く星野三直、永書三瀬に止んだが七高軍攻勢甚だ急を示す。五高億川左飛、稲沢一邪飛、横尾三勧と凡退。

 二回七高三者凡退。五高広岡左翼右を抜く三塁打、松瀬遊撃右を抜く安打に広岡遣る。中島の投前犠打に松瀬二進、武の遊簡に松瀬三進、梶原の遊裔を一塁手失して松瀬遣り、梶原二盗ならず漸く攻撃止むも二点をあげ五高優位に立つ。

 三回から五高はエース高橋をプレートに送った。高橋は剛球投手であるが、立ち上がりに制球を乱すことがあるので、先づ控えの武を立てたのであって、二回の二点先取により安心して高橋を立てたと、五高の大久保は述べている。処が此の回新人の高橋は果然四球を連発、荒れに荒れることになる。先づ西田四球、橋本投前バントも投手失して二者生き、井上の二塁右を抜く安打に西田生還、走者一・三塁に拠る。井上二盗、之を野手失する間に橋本生還、同点となる。佐々木四球、星野三振の後、井上本盗を試みるも寸前憤死、二死となる。永吉よく選んで四球、松本の犠打を野手失し三者生き満塁、杉本四球で佐々木押出しの勝ち越し点をあげ、西村二−三の時永吉、三本間に挟殺漸く七高の攻撃終る。五高竹森三振目を捕手失して生き直ちに二盗なる。億川四球に出たが後援なし。

 四回七高三者凡退。五高二死後高橋、梶原連続四球、竹森遊葡を丁捕と転送、高橋本塁寸前アウトに得点ならず。 五回両軍凡退す。 六回七高永書中堅右を破る三塁打に出で、松本三葡、杉本打者の時永吉牽制にさされ、打者一郭飛に終る。五高三者凡退。

七回七高西村中飛、西田四球に出たが橋本の捕葡に併殺となる。五高二死後竹森一飯投失に生きたが億川遊飛に終る。

 八回七高井上右翼越三塁打に出たが、佐々木遊葡、星野投簡、永吉四球二盗なるも、松本三振に絶好のチャンス空し。五高稲沢三簡、横尾死球、広岡遊裔、松瀬も遊葡。

 九回七高三者凡退。五高最後の攻撃も中島三振高橋投裔、梶原の代打滝口遊飛に七高軍堂々の五連覇なり、またも五高軍恨みを呑む。ときに五時十分。


大正15年 3回3:2になったところ
ランナー橋本 バッター佐々木
(提供・西村)

武夫原頭の勝利のあと
(提供・橋本)

 此の試合について石関は次の様に述懐している。
 「試合前の予想では敵は法政で一年間投手をやっていた高橋が居る外、仲々メンバーも揃っており冷静に考えて当方、到底勝味はないと覚悟して試合に臨んだ。然し予想を裏切って七高が勝って了った。五高は高橋を最初から立てないで七高が得点したので途中から高橋を立てたが遂に及ばなかった。五十四年夏、甲子園大会を見に行った時、当時の五高遊撃手広岡さん(前朝日新聞社長)と久し振りに合って昔の思い出話をしてこの話になったら、広岡氏の云うには高橋は出足が悪いので初めから出したら調子が出ないので途中から出すことにしていた由。最初から高橋がプレートに立っていたら結果は逆になっていたかも知れない。敵のコーチの作戦の誤りだったと思っている。」

 さて此の日のカタストロフィは試合終了後におこった。

 遂に対五高戦中絶す

 試合終って七高応援団は五高の寮歌「武夫原頭に草萌えて」を合唱するや五高応援団はこれを侮辱なりとして激昂、大挙して七高応援団に打ってかからんの勢い、事態はここに紛擾した。試合後の顛末について五高溝渕校長は次のように記している。

 「従来五高村七高野球試合に於いては、試合終るや遠来の学校生徒先づ引き上げ、その校門を出ずるを待って地元の学校生徒は解散することとし、而して遠来学校の勝ちたる場合は校門を出づる迄は太鼓を打たず、又凱歌を挙げず、地元学校の勝ちたる場合も同じく、遠来学校生徒の校門を出づるを待ちて凱歌を挙ぐる慣例なりき。然るに本年野球試合の七高勝利に帰するや、七高応援団は従来の慣例に反し、試合の場所に於いて太鼓を打ち五高の校歌を高唱せり。五高生は之を以て五高を侮辱せるものとし、大に激昂せり。ここに於いて五高応援団長は七高応援団長を語りしに、七高応援団長は五高の校歌を高鳴せしは、五高に敬意を表する意なりしが、五高応援団に対し侮辱せる如く響きしは甚だ遺憾なり。自分より五高応援団に釈明すべしと述べたり。五高応援団長は斯くする時は却って五高応援成の激昂を増す恐れあるを以て、貴下より余に対して謝罪せられたし。さすれば余は五高応援団に貴下の言を取次ぐべしと言えり。ここに於い応援団長の謝辞を五高応援団に伝うべかりしに、その激昂の甚しき為に之を為すを躊躇せしを以って、五高応援団は七高応援団長の既に陳謝せるを知らず、よって代表をして七高応援団の宿所に送り七高応援団長の再び、競技場に来り謝辞を述べんことを要求せり。七高応援団長は既に五高応援団長に対して謝辞を述べしを以て再び競技場に行き陳謝する要なしとして之に応ぜず。ここに於いて五高応援団は七高応援団宿所に迫り謝辞を要求し、両校卒業生等の斡旋により七高応援団は五高応援団に謝罪し漸く紛擾の解決を見るに至たり。」
 と。

 大久保の手記日く。

 「喜んで乱舞する七高応援団が『武夫原頭に草萌えて』を『武夫原頭に糞たれて』と歌ったというので大喧嘩となり騎馬憲兵が出動する騒ぎとなった。暴走した五高応援団の一部が五高選手合宿を襲撃するとの噂があったので、私は選手を、私の家に避難させてから夫々郷里に帰した。

 そしてその夜、私は浦島と主将、監督を伴い溝渕校長を官舎に訪ね野球部解散の申し出をした。溝渕校長は
 『福
岡の高専大会に出場申し込みをしているので解散はその後にするように』
 とさとされた。それで電報を打ち、選
手を途中から呼び返し福岡市郊外の春日原球場に集合させた。」 と。

 思えば明治四十四年以来九年間の沈黙を破って大正九年四月対五高定期戦が復活、再び赤旗、白旗相競い陣鼓の轟くところとなったが、爾来此の年に至る八星霜、七高は七勝一敗の燦たる栄光の歴史を綴り乍ら玄に又々中断の仕儀となって了った。此の対五高戦が南涙の我が七高野球部にとり如何に活力を亨けたかは筆舌に卑し難いものがある。かくてよき時代は終り、これからの野球部は永い冬の時代を味うことになる。これからの苦難の歴史は章を改めて詳述することとしたい。

 高専大会に

 さて五高軍粉砕の余勢をかつて、高専大会西部予選出場のため福岡に遠征、七月十八日福岡春日原球場に於いて皮肉にも再び五高と相見えることとなった。

七高 0 0 0 0 0 0 0 0 0
五高 2 0 0 1 0 0 0 A 3

此の日天気晴朗、梢雲あり。七高先攻にて開始、一回七高三者凡退。敵軍高橋投手快調なり。五高億川三瀬失、竹森投手左を襲う安打にて二者出塁、横尾は中直に終ったが、広岡の三塁右を破る安打で満塁、松瀬のスクイズで億川、竹森続いて生還、広岡も三進したが、梶原二裔に漸く五高軍の先制攻撃終り二点リードを許す。二珂七高二死後杉本、西村連続遊越安打に出たが西田遊直に止む。五高稲沢の二塁右を破る安打に出た外、凡退続く。

 三回両軍無為。四回七高星野二蘭後永吉左越大三塁打に出たが後援続かず。五高松瀬遊簡失に出で、梶原の投前犠打に二進、高橋の遊働に三進、阿南の中堅左を破る安打に松瀬遣る。稲沢は投裔に終るが三村○と五高軍優位を示す。

 五回七高三者凡退。五高二死後横尾投越安打に出たが後援続かず。六回七高井上、佐々木、星野と続く上位打線も凡退続く。(この回より七高投手井上二塁杉本となる)五高松瀬は投領失に出たが後続なし。七回七高永吉遊越安打に出、松本の遊簡に封殺、直ちに松本二盗なるも、杉本、西村と凡退。五高一死後億川二越安打、竹森四球に出たが後援続かず。八回七高三者凡退。五高松瀬四球、梶原遊裔は二・一と渡って鮮かに併殺なる。高橋捕郷飛に八回の攻撃終る。愈々最終回を迎えたが此の日高橋は極めて快調で佐々木左飛、星野右飛、永書左飛。遂に三村○で五高の復仇なる。

大久保此の時のことを思い出して日く。

 「借り物のユニフォーム、グラブ、バットで試合をした。春日原でまた七高とぶつかったが今度は三村○で勝った。七高に勝ったから後の試合はせんでもよかろうという選手もいたが、試合を続けさせたら西部予選大会で優勝し、京都の決勝大会では明治大学予科と対戦、十九回の延長戦の記録を作り、四対二でこれを破って全国制覇をなしとげ熊本に凱旋した。大逆転優勝をとげたので校長のいう通り辞職せぬことにした。」

 対五高野球戦中止以来その復活は両校総務委員の第一問題としてその解決を期待されていた。両校総務間にて従来の感情一掃という点までに到達した。十一月十四日時を同じくして両校にて声明書を発表するや全国新聞は五高村七高戦いよ〈復活せりと報じた。五高に於いては総務改戦の際、立候補者は揃って復活問題を第一に挙げたが、溝渕五高校長は

「俺が五高校長の椅子に坐って
いる間は断じて許可せぬ」
と断言し、総務部総辞職の事
態まで起った。七高総務部はこれに対し沈黙を守り、対五高戦復活は更に再開不可能となった。

 武勲の四勇士の巣立ち

 対五高戦の思い出と善後策の探索に明け暮れた大正十五年も天皇崩御と共に終り、明くる昭和と改元したその年の三月対五高戦に赫々たる武勲を立てた勇士は白鶴城を巣立って行く。

その名は主将橋本幸雄、捕手永吉秀志、
投手として三塁手として活躍した杉本孝三郎及び十三、十四両年度に亘り左翼手として、投手として活躍した井上信虎の四名である。

橋本は東大経済学部を経て終始一貫、
日本建鉄の興隆に貢献し、文字通り同社の育ての親であると共に、七高鶴陵倶楽部の庇護発展の為、戦前、戦後を通じて彼の示した愛情は合友一同の斉しく感銘するところ。

永吉は京大法学部から直ちに紡績業界に入り中国
で活躍、その後郷里の教育界に進み、加治木中学、鹿児島大学学生部などにあって後輩を指導し、特に七高野球部に対しては常にコーチの労を厭わず、折田と共に地元先輩として心強い存在であった。

杉本は京大薬学部から
大阪三越に入社、戦後は森下製薬に於いて活躍した。

上は東大法学部から官界に入り、大阪府経済部長など栄職を経て現在、間組顧問として健在である。

(鶴陵倶楽部,1981)
 

 私の高校野球生活で五高戦に3年連続勝利の記録を部史にどどめることができたのは、忘れがたい思い出である。

 しかし、勝利の喜びの蔭には、苦心が秘められているが、主将として陣容を整えるのに並々ならぬ苦労をした。どうにか五月中旬に至って完了したが、五高戦を控え日々を空しく過していくのが気か気でなく、夜もよく眠られなかった。チームメイト永吉さんの心からの援助がなかったら到底達成できなかったと思う。

 野球には技術・闘志ともに大切だが、何をさしおいても、チーム全員の協調が必要である。幸い全員よく和し励まし合いチーム編成の遅れを克服して黄金時代の五高に立向った。試合は先輩コーチの優れた戦術に支えられて一糸乱れず闘い接戦の末三村二で勝利の栄冠に輝やいた。

 試合終了後の有名な紛争の真相は年代記に譲るとして、このときの応援団長重松俊明君(故人、京大文学部教授)か団員を統率しながら先輩諸氏と共に一鱗即発の事態を避けるため、懸命の努力をしている姿が深く印象に残っている。

 《後略》  (橋本,1981)

つわもの達
5杉本 3橋本 8石川 6島崎
(提供、橋本)

大正十五年のバッテリー
杉本・永吉  (提供 永吉)

 《前略》

 私は京都一中の五年生の時に無理矢理に野球に引き込
まれ、当時一番下手糞がやる二塁手で七、八番ということで余り野球は好きでありませんでしたが、七高入学時に前歴があるため断わり切れず、サードで七、八番といことで、サードはグラブに入れるより胸で止めればよいということでした。

唯肩が少し強いのでフリーバッティ
ングの投手を二年間やった為め三年生の時それだけの理由で投手をやらされました。

 今から考えれば無茶なことで、カーブも曲らぬ投手が五高戟に出るなど、五高は法大から釆た、当時有名な高橋君、市岡申出身の広岡君など多土済々でとても今年は七高は勝てないとの前評判が高く石関氏の外に投手のコーチを受けたことなく終にカーブのない投手で、ナチュラルシュートが唯一の武器だったと思います。石関氏もコーチのやり甲斐のない投手と諦められたのではないでしょうか。

 四度目の五高戦に勝つには勝ったもののすぐ喧嘩になり、全国高専大会で再び五高に当り返えり討に合った次第です。

 《後略》  (杉本,1981)

 《前略》

 七高に入学すると次兄が野球部にいましたので私も佐々木兄と共に入部して橋本主将の下で村五高戦やインターハイを目標に毎日あの銀否の木の影がグランドを覆う頃まで練習しました。今まで対五高戦を数回観戦した鶴丸城内のグランドで練習や試合をするのは私の年来の夢でした。

同じく入部した松本三塁手、西村二基手、佐々
木遊撃手、私が二塁手と、一年生四人が内野を守り折田、右関先輩等の厳しいコーチに汗みどろになり、仇敵五高を撃破せんとの意気込みで昼食時間も返上して練習を続けました。試合が切迫するにつれて学校全体が異様なまでに盛り上り応援団の練習の大鼓の青も選手の一挙手一投足を振ひ立てる様に感じました。

照団神社への必勝祈
願のデモンストレーションでは大小の赤旗を振りかぎし大鼓隊や応援団と共に選手は鉢巻をしっかり結んで、山下通りを照団神社に向って歩き、二高女前では、小学生(母校女子附属)に激励の花束を頂くなどして市民の歓声は城山を接がさん許りでした。

 一学期の試験も無事終了して練習も仕上げ調整に移り愈々熊本五高グランド武夫原に乗り込むことになりました。

 愈々対抗戦の日が釆た。天候はいさゝか暑かったが風も静かで絶好の野球日和、初めて見る武夫原のグランドは風雲急を告げるが如く応援団の声援と大鼓の音、それに白旗赤旗が林立し、五高は一塁側、七高は三塁側、両柁の応援団長のデモ演説が両軍の拍手で終ると一瞬場内は不気味な静寂に続いて思い出した様に両軍は激しく太鼓を鳴らし、会場の声援は天に響くばかりグランドの静寂を破った。
大正十五年武夫原入場
先頭は石井コーチ、島崎、橋本、永吉、佐々木(節)の顔が見える。  (提供 橋本)

試合は坦々と進み一進一退、戦前の予想は五高軍七村三位で優勢、我軍は精神力でベストを早す以外にない。全選手は一心同体、コーチの先輩も万策を早され、結果は予想に反し一点差で勝った。選手一同、応援団の勝利の喜びも束の間でした。五高方応援団がどっとグランドを横切って七高応援団の方に怒涛のように走り寄った。選手一同は取るものも取りあえずコーチの命で逃げる様に走って公会堂に向った。一同は球場のことを案じながら膵利の喜びを押えて一刻も早く宿舎に引き返したいと念じた。公会堂は五高の応援団に包囲されているとか憲兵隊が出動したとか、噂が飛んで不安の時が過ぎ外は大分夕もやが迫った。

 宿舎に戻ったのは八時頃ではなかったかと思う。一同は精神的にも肉体的にもすっかり疲労囲壊して早々に夕食をすまし、不安の内に床についた。

 その時はこれが最後の対抗戦になるとは、毛頭思いもしなかった。なんと言っても、私の野球生活を通じて一番思い出深い試合であった。

 数日後福岡のインターハイで皮肉にもオ一回戦で再び五高と対戦、敗北したが、その時五高が京都で全国優勝したのも対抗戦の敗北が薬となったのだろうとつくづく運命興亡の縁しを感じた。

 東大野球部員として此の時の五高軍広岡、高橋両君と一緒に一シーズンではあったが、神宮球場などで六大学リーグ戦に参加したのもこれ又、私の野球生活での宿命だったのかと思う。

 《後略》  (井上,1981)
 《前略》

 大正十五年七月十二日、快晴。炎熱焼くが如き武夫原頭で最後の五高戦が繰りひろげられた。試合直前にホーム、プレートを中にはさんで、両校の応援団長が行う恒例の演説合戦で、重松団長が
 「復讐に燃えよ五高軍、雪
辱に狂え龍南軍、しからばわが好敵手たらん」
 と声高ら
かに結んだ光景は今でも歴然と思い浮べることができる。

 この試合はわがほうが三村二で勝ち、七高は栄えある六連勝の歴史を飾ることができた。試合後一寸した行き違いからグランドで応援団の小競合があり、さらにそれが祝勝会場にまで拡がって、ついにこの年をもって栄ある村五高戦の幕を閉じることとなったのは残念なことである。

なんでも両応援団幹部のあいだでどちらが勝って
も負けても先ず相手校の校歌を歌って敬意を表してから自校の校歌を歌うという申合せになっていたという。このことが五高の応援団員に徹底していなかったためか、わがほうが「武夫原頭に草燃えて」とやったら、五高の応援団がわがほうへ押しかけてきたらしい。

選手はすで
にグランドから引きあげていたからこのことは知らなかった。こういうことは余程徹底させておかないとこうい雰囲気のもとでは間違いがおこりやすい。かえすがえすも残念なことであった。

 《後略》  (西村,1981)
 《前略》
”対五高戦”(大正十五年)

 此の時代で最も嫌な印象であり、乍ら如何なる宿命か、現在、尚其のそうの当時の事共を想起すれば、この老兵の体内の血潮が青年のそれの様に起動され、瞬時に前身が熱くなる感を覚える事件(?)はあった。即ち大正十五年の対五高戦の勝敗の結果より端を発し、一歩処理を誤れば我々の間に大乱闘となり、両校生徒は勿論、両県民にも血雨を降らす教育上由々しき事件にまで発展したであろう出来事を書いてみよう。

 五高は前年(大正十四年)勝つべき戦を失い、無念やる方無く雌伏一カ年の猛練習をつみ、その上、当時東都の大学野球界に高評された法政大学主戦投手高橋君が五高文科に入学して、俄然活気づいていた。高橋投手も外角低目をつく速球と絶妙の制球力を完備すると共に、彼本来の特技を遺憾無く発揮し、各ナインのコンディションも上々となり、五高勢は申すに及ばず、熊本県民特に市民等の意気は戦わずして、我が七高七百の隼人を既に呑むの概を示した。

我が方も4月の新学期開始を契機として野球部も陸上部も本格的練習に入り、特に野球部は杉本半三郎投手を中心に昼休みを利用して、約40分間打撃に守備に猛練習を降雨時を除き、毎日行い、対五高戦に備えた。

そして、5月中旬より6月の梅雨期前まで、応援団も鐘太鼓の鳴り物入りで応援歌の練習、選手激励を開始し、日一日と対五高戦が近迫するにつれ激烈の度は、加速度的に増幅されていった。殊に、私の室が運動場に隣接しておったので、叱咤激励の怒号、美技に依る石油空き缶の強打音が鐘太鼓の乱打者に交錯して室内に谺し、話すら出来ぬ状態であった。

第一学期試験終了の即日よえい休養の暇も無く、、受験の疲労衰弱をものともせず、選手は猛練習に、応援団は終日選手激励に互に精魂の限りを尽くし、数日後に迫る決戦に備えた。目撃者ならでは想像も及ばず、選手応援団は勿論、多数の教職員を交えて真剣そのものであった。時折、見知らぬ顔の見物人は、五高側のスパイの疑で退場させられる者もあった。

 又、両部共に情報蒐集して、作戦を有利に導かんと躍起になっておった。

 私自身も陸上部長の重責を荷う関係上、野球及び陸上共に各方面より、情報を総合して、勝敗を予測すると共に、野球は四分六分で、贔屓目でも五分五分で、幾分五高勢に歩がある様な感じすらした。東都に於ける高橋投手の戦歴よりすれば当然であった。

五高陸上部は、納富以下の優秀選手がおり、我が部としても勝敗の帰趨は予断を許さず、然も野球が不覚の一戦ともならば、我が部の手で名誉挽回の決意と其の熱意には、部長として骨の髄まで悲壮感さえ味あわされた。

 愈々大正十五年七月十二日(?)に野球、翌十三日(?)に陸上の決戦を行うべく、十一日(?)由比館長以下殆どの全職員、両部選手、生徒応援団が指揮に従い、整然として特別仕立ての列車に乗車、多数の先輩市民の盛大なる見送りと、激励の辞に送られ、一触鎧袖の意気は将に天を衝き、特に私は陸上部長として手兵ならざる部員約30名を引卒して乗車出発した。恰も明治10年白雪を踏み勇躍麑城を出発して熊本城攻略に向かう数千の健児を指揮した猛将桐野利秋になった錯覚すら起こした。其の意気や推して知るべしだ。

 到着後、私は陸上部員を引率して、所定の宿舎に向かい、部長としての激励の言葉を残し、教官宿舎に引き揚げ、明日の戦勝を夢みるねく入床したが、なかなか眠られず、暁方仮睡したのみで離床、水浴して身を潔め、牛乳配夫、新聞配夫すらにも出会わない静寂の市中を夢遊病者の様に逍遙した。たまたま、路傍に建てられた石地蔵に拝礼し、両部の戦勝を祈ってから、運命如何をお伺いしたが、美空ちゃんの唄う歌詞の様に、地蔵は何も告げてはくれなかった。自然科学の教官たる私が馬鹿らしい気持ちになったのは今も尚解せぬ謎だ。

 当日は、雲一つ無く、真夏の日射しは熾烈で鉄をも融かる酷熱、然も午後一時より両校生徒代表並に応援団長の挨拶、引き続き試合開始であるから、早昼食をすませ、十二時に宿舎を出発した。流汗は滝の如く皮膚表面を流れ去るのが意識され乍らも、少しも酷暑を感じなかったのは多分緊張の極限を超え、寒暑の感覚機能を麻痺させたのであろう。

 定刻より、両軍の所定の行事も滞りなくすみ、主審の命に依り、両軍主将と塁審を交えた五名に五高野球場のグラウンドルールの指示を与え、愈々試合開始となる。両軍応援団は鐘太鼓をリズミカルに打ち、自校のエール応援歌の高唱に交わる中、主審の試合開始が宣され、一瞬満場寂として声無く見守る。斯くして試合は炎天下に開始される。嗚呼、泣くも笑うも二時間半!!

 運命を知る者は神のみか。天又吾れ等に栄冠を与え給う。即ち逆転勝ちとなり、又々予測と期待を裏切り、五高敗れ去る。

 試合終了直後、両校の生徒代表応援団長の挨拶があったが、勝者も敗者も共に流涙は流汗と共に乾地表を濡し、発声は震え、特に五高方の挨拶は涙なくして聞けなかった悲劇の一幕であり、青年の純情一途を表現した聖なる場面でもあった。

 次に、互いに相手方のエールを唱和する様に予め了解済みだったのであったと私は記憶するが、五高側の一般生徒に不徹底であったのであろうか、最初に七高側より五高のエール”武夫原頭に草萌えて”を始めた瞬間に、五高側より了解も得ずして他校のエールを高唱するのは侮辱も甚だしいとの猛烈なる抗議を一方的に吹きかけ、満場騒然となった。

代表者間での談合の結果、七高健児の隠忍と統制宜しきを得て、約一時間以上に亘る騒ぎも表面上は一先ず解決した様ではあったが、割り切れぬものを残して解散する事となった。そこで、浅山生徒主事を通じ、生徒代表並びに団長に、静寂に引揚げ相手方を刺激しない様に注意して、長旗も必要以上に翻がせず粛々として公会堂の祝勝場に向かった。

 私は翌日の競技に備える為に、大多数の部員には宿舎に帰り静養を命じ、代表五名をい引き連れて野球部員に次いで先頭に立ち、酷暑に依り過熱された土煙を吸いつつ勝った喜びよりも何か割り切れぬ不安の気持を胸に蔵して祝宴場に向かった。先輩の御好意に依る菰被り一樽とビール、サイダーが氷冷やされ、吾等の到着を待っていた。

 そこで始めて水入らずの開放感で、急に戦勝の喜びが胸にこみ上がり、涙さえ流すまじき気持となった。先ず由比館長閣下の手で酒樽の鏡が取り外され、木杓で教官も生徒も各自各様の器に酌み終わって、館長の発声にて第七高等学校造士館野球部万歳が三唱され、乾杯後、私は痛飲した。

 生徒諸君は応援歌やら北辰斜を高唱しつつ、七高ダンスに心ゆくまで戦勝を味わいつつある折柄、遙か遠方より微かなる五高の校歌が聞こえ始め、一瞬一周にドップレルの原理に従い歌声は次第に高まり、正に我方に近接して来るのが確認出来た。数分ならず数条の長旗を先頭に白鉢巻きを交え、二、三百人の五高勢が我が祝宴場入口に殺到し、試合終了直後のエール合唱問題を蒸し返し難題を吹きかけて何時はてるとも知れず、其の間、刻一刻と市民の五高ファンの数も増して来た。

 このまま推移すれば由々しき大事件に発展する恐れが濃厚となって来た。然も五高側より、校長は別として当面の責任者生徒主事、部長位は来場すべきは当然であり乍ら、誰一人も来らず無責任も甚だしかったので、陸上部長であったが重責を荷う私としては、何とかして国家の至宝である両校生徒を無事に別れさせねばならぬと決意した。そこで、浅山生徒主事と同道して、由比館長と面会した。館長は椅子に腰かけマドロスパイプを口にして、少しも動ずる色なくして淡々として現実の騒動など留意しておらぬと悠々たる態度には力強き極みであった。

 我々の決議に対しても、特に五高当局の無責任を責める激烈なる語句に対しても一言半句の返事すら無い為、癪にさわり席を蹴って仲間に報告に帰った。

 真夏の陽は西山に傾き、やがて暮色蒼然とし到らんとし、五高方と市民等の弥次馬多数が乱闘騒ぎにまで発展させる様な態勢となった。私は堪り兼ね生徒主事の善処方を懇請した。五高側より関係教官の来場を促し、両校生徒代表を交え談合するのが最善の方法であるとの結論を得たので、其の旨を浅山主事を通じ、館長に申し入れ指令を仰ぐ事となった。話し終えると、考えておられたが、「君等の思う様に取計れ」との一言の発声音を聞くのみだった。

五高に電話したが一向に埒があかず、徒に時の経過を待つばかりであった。愈々危機は刻一刻と迫り、これ以上放置する余裕もなくなったので、七高生及び関係者を全部公会堂内に入れ、出来るだけ二階に集まる様命令が出た。万が一にも奇襲攻撃されてはと考え、私は近くにおった生徒等に、座して死を待つより身を護る為に階段の上に椅子や机を積み重ね防塁とし、窓のカーテン掛の真鍮棒を取りはずし、襲撃者来たらば片端より打叩けと、教官にあるまじき暴言の指令を勝手に与え、私自身が全責任を取り死を覚悟した程であった。

 幸に事無きを得たのは、誰が通報して下されたか、北署の警官を主体とした数十名の一団が非常態勢装備で帽子の顎皮をして、白服に黒ゲートルそして二列縦隊のままおっとり刀で現場に駆けつけ、直ちに指揮官の命令一下散開して各部所につき、警戒の任に当たって、事件の解決を計ってくれた。白服とて夜目にも彼等の存在は判然しておるので、地獄に仏に遭うとは此の事かと合掌して拝みたい位であった。

 現今の学生生徒諸君には地獄の鬼の再現した様な憎しみを感じ、彼等の好意を辱うする所か、却って騒動の拡大速度を増大する正の触媒的存在となった事であろう。

 時代の推移と急激な思想の変化には各位も今更ながら驚かれる事でしょう。

 自分自身の命が助かった喜びばかりでなく、他の歓喜は、激烈なる選抜試験を通過し、幾百人の犠牲に於いて入学した俊才で、然も未知数であり、世界的大学舎になるgか、大政治家、大実業家、大技術者はたまた大思想家が生まれるか測り知れぬ将来性と希望を托する国家の至宝を、万が一にも死傷者を出す事にもでもなれば、上は天皇陛下、下は父兄に対してのみならず、日本国民全体に申し訳なき事と脳裡に焼き付いていたからである。

 それにも拘わらず数刻前には逆上して暴挙を敢えてする煽動的司令を与えた矛盾に対し、自身の修養の浅さに対し、今も尚甚だ慚愧に堪えない次第である。当時、第七高等学校造士館教授高等官七等従七位のラベルを貼られた既成者の私一人位は天国に行こうと、地獄に行こうと、天下の態勢に何等の影響が無いであろう。只、老母と妻が悲嘆の涙にくるるだけだが。

 危機に直面しながら泰然とし、然も五高側に対しても一言半句の批判も不満も漏らさず、秘かに胸に蔵めて淡々たる気持ちで帰路につかれた由比館長閣下の様な大人物には、今日迄も尚お会いした事はない。

 兎角平時は一見豪傑然たつ知人が、重患に陥った際、医者に哀願する醜態を見て憐れさと、愛想をつかした事があったが、由比先生こそは真の古武士的存在であり、その大悟徹底した人生観に対し敬意と追慕を捧げると共に、哀心より先生の御冥福を祈る次第である。

尚、当時の野球選手は次の通りである。
大正15年七高野球選手。
投手:杉本、捕手:永吉、一塁手:西村、二塁手:井上勝信、三塁手:松本、遊撃手:佐々木節夫、左翼手:星野、中堅手:橋本(主将)、右翼手:西田、補欠:渋江・白石・玉置、マネージャー:西川、応援団長:重松       
 《後略》  (松原,1960)
 
 「ワアッ」
とばかり大喚声を挙げて私達応援団は躍り上がって喜んだ。勝った、勝った。五高に勝ったのである。歓喜はその極に達した。暫らくして、重松応援団長は我等の昂奮を鎮めるかの如く令して言った。
「歌え高らかに武夫原頭に」
と。私達は大声でこの五高代表歌を歌い始めた。

 ところが、中途で、団長の号令が再び耳に響いた。
 「止め、歌を止め」 
 何故だろう。みんなみんな解せぬ思いで渋々ながら歌をやめたものの、訳が分からないままでは気持ちは仲々納まるものではなかった。然し、暫くして漸くその訳が分かった。
 「我等の運動場武夫原に於いて、敵七高軍が今この歌を歌ったのは、吾等が母校を侮辱するものである。直ちに歌うを止めて、改めて陳謝せよ」
 「さもなくば、実力を以て七高応援団を膺懲する」
 との五高応援団の強硬な抗議なのだそうである。まさしく敗戦の腹癒せの言いがかりでしかない。そうだとは分かっても、グラウンドに眼をやれば、一塁側に陣取った白旗数流靡かしての相手応援団の大集団は、今にも斜めにつっきって、三塁側の吾々の方に雪崩れ込まんばかりの勢いなのである。

 歌い止めた後、成行如何を待つ間、カンカン日照りの暑さと滲み出る気持ち悪い汗が、この場の苦々しい憤懣を余計いらいらさせた。こうこうして小一時間もたっただろうか。両方の応援団長の間でどう話がついたか分からないまま、とど、勝った筈の我軍の私達応援団が、シンボルの長い赤旗も棹に巻き、太鼓も鳴らさずに隊伍を整えて宿舎まで帰路に着く事になったと知らされたのである。埃っぽい道を粛然と長い行列を作って歩きながら帰る自分達が、まるで敗残軍でもあるかのような惨めな思いをさせられた事は、どうにも我慢がならなかった。

 それでも宿舎たる県会議事堂正面広場の真中に四斗樽の新しい菰被りが一つ悠然と据えられているのを見た時、勝利の酒だと知ってみて苛々した気持の幾らかは消えたのである。軈て、樽の鏡が抜かれ、由比館長先生が真新しい柄杓で一杯先鞭をつけられてから、教官先生方、応援団長以下次々と廻ってきてから、我々陣笠の番になってこの冷酒を口に含んだ時、初めて勝利感に浸る思いであった。愚にもつかない相手の理不尽な言い分も、今はもう許してやろうじゃないかとの寛容な心のユトリが誰の胸にも湧いていたようである。

 長い夏の陽も漸く落ちかかり、暮れようとする頃おい、宿舎敷地の周囲の空気が何となくザワめいて来るのを感じた。異様な慌ただしさである。何だろうかと訝しく思っている中に、五高応援団が大挙して宿舎めがけて押し寄せて来たとの情報である。しかも、手には銘銘、木刀や棒切れなどを持ってであるとか。

 「先程の七高軍の態度では吾々は承伏できない。改めて正式に謝罪すべし」
 との執拗な要求をつきつけているとの事。蒸し返しにしても何たる身勝手な言い分だろう。一旦静まっていた吾々の憤懣が勃然と再びこみ上げてきた。こちら側は、
 「問題は既にグラウンドで解決している筈である。今更陳謝の必要はない」
 と返事をした相だが、相手側は承伏せず飽くまで頑張っていて引き下がる気配はない。

 空気は益々険悪化して来た。こうなっては、一旦は我慢していたこっちの応援団の連中も、
 「男らしくない奴等だ。来るなら来い。やっつけてやろう。」
 と言い出して覚悟を定めにかかり、手頃な武器を捜し始めたものだった。武器といっても僅かばかりの棒切れ位しか見付からなかったものの、こう双方が殺気立って来ては何時衝突が起こるか風楼に満つである。倒々、鎮撫のため警察隊が出動して宿舎と五高応援団の間に人垣を作るまでに緊迫して了った。議事堂構内と構外に両軍が対峙する事何時間だったろう。随分長い間だった。

 待ち草臥れていた吾々一同の前に立った団長は言った。
 「私は応援団を代表して陳謝した。いわれない暴力を挑まれて当方も暴力を振るうは愚なりと思っての事である。不満であろうが諸君諒とされたい。」
 聞いた私達は口惜しかった。残念だった。然し、じっと隠忍し切った団長の胸中を察して我々は共々暗涙に咽んだのだった。そうだ。暴に酬いるに暴を以てして流血の悲惨事でも引き惹したとするならば、それこそ天下の嗤い物となったであろう。

 事態は暫くして収まったものの、その場の後味の悪さは何としても払拭し切れるものではなかった。

 それにしても、館長、教官の先生方初め応援団幹部の人達が、不祥事を起こさないためにどうんなにか苦慮呻吟されたかを察する時、私達団員が唯だ単純に悲憤慷慨したのは、年少だったとは言え申し訳なく思う次第である。大正15年7月12日の事。もう丸37年経った昔である。この事件あって以来五高との対抗野球は中止となって了った。(昭和21年に復活して1回丈けあったと聞いたが)

 戦が済んでから、こんな不快な事はあるにはあったが、五高戦は懐かしい愉しい想い出である。しかも長い電灯に終止符を打たれた最後の対抗戦を応援団の一人として経験出来た自分は本当に倖せだったとつくづく今想いかえしている。

 だが、翻って私が立場を変えて五高生だったとしたらどうだったろうかとも考えてみる。恐らく今ここで大人気ないと、非難している相手側五高の応援団に入っていたらどうだろうと思う。若者の客気からとはいえ、思慮浅きまま見当違った母校愛の気持ちから付和雷同の徒として行動していたに違いない。というのは、九州でのナンバー学校二つの中、五高は父の出身地熊本にある。父は五高受験を望んだ。然し、気候、風景の佳い事や西郷さんの出た処というような単純な好みから、私は敢えて七高を選んだのだった。進路方向次第でどうなるか分かったものではないからである。

 想えば入学早々西寮に入れられてから、直ぐさま五高戦の事を聞かされ、応援の仕方も歌も随分根気よく習わされたものだった。「北辰斜に」は勿論だが、野球部の歌の「熱球血を啜りて」や「雲低迷の」の外、この年新しく作られた「朝日に燃ゆる」等何べん歌った事だろう。今年は敵地熊本へ遠征の年である。五高は北敵なりとして前年の勝利を今年にもと昴然の意気軒昂として五高戦ムードは日と共に濃くなるばかりであった。斯くして三ヶ月。苦しかった第一学期の試験が7月10日に終わった。結果が黒丸だろうが青丸だろうが構ってはいられない。気持ちはただもう熊本へ熊本へだった。翌日の11日は鹿児島市民の応援団共々に特別増結車三輛に乗り込んでの北上である。竜ヶ水、加治木、牧園を経て、矢嶽の険を越えれば早や敵地に入るのである。蘆花は矢嶽を越える時、「さらば桜島よ」と感傷の言葉を「死の陰に」の中に書いたが、私達書生にはそんな感慨は露ほどにも湧くどころではなかった。

 さて、戦力として戦前の予想はどうだったのかというに、自軍に於いても方々は不利だったのは事実であった。それが敵の好選手と評判されていた高橋投手を打ち込んで見事また勝ったのだから、愉快の限りであった。

 応援には我が西寮の熱の入れ方は凄まじい位だった。副応援団長の大角さん(既に亡くなられたとか)ばかりでなく、主戦投手杉本半三郎さんを擁していたせいだったかとも思う。私にあてがわれた部屋は二階だったが、入寮して間もなく見下ろすと講堂の背中との間の細長い空き地に長い長いテントが張られるのを見た。これなら雨の日もピッチング練習出来る訳だとは分かったが、屋根だけでなく、側面の四方も塞げた妙なテントなのである。敵五高からこっちの戦力を探りに入ってくるスパイの眼を防ぐためのものだと知ったとき、その戦意のなみなみならないものを感じたものである。

 テントへの出入り監視は仲々きびしく、味方七高生と雖も特別の関係者以外は誰も中を覗いた者はいない位だった。想えば私の七高入学初めの一学期三ヶ月間は何の事はない、五高戦と一緒に暮らして了ったと言ってもよいようだ。 

 《後略》  (本田,1963) 
 
《翌年:昭和2年》 

 対五高中止以来、その復活は両校総務委員の第一問題として、その解決を期待されていた。本年七高小野総務と五高総務との間にて、従来の感情一掃という点にまで到達した。11月14日、時を同じくして両校にて声明書を発表するや、全日本の新聞は五高対七高野球戦いよいよ復活したと報じた位であった。この好機を逸しては永遠に復活の時機は来ないと思われた。五高においては総務改選の際、立候補者は揃って復活問題を第一に挙げたが、溝渕五高校長は、
「俺が五高の校長の椅子に座っている間は断じて許可せぬ。」
と断言し、総務部総辞職の事態まで起こった。七高総務部はこれに対し沈黙を守り、対五高戦復活は更に再開不可能となった。  (anonymous,1970)
 
《昭和5年》

 私は東寮、昭6文乙で友人に推されて文科総務に立候補した。友人達の熱烈な応援により地元中学出身者を斥けて当選した。私は文科総務になると直ちに、五高七高戦の復活を志した。

 当方から熊本に出向き、又先方から鹿児島に来て貰い、熱心に話し合いを重ね、双方の意見の一致を見た。そこれ、私は由比館長に経過を報告し、お許しを願った。由比館長は関係者と話し合われたすえ、お赦しを頂いた。

ところが、五高側は溝渕校長のお赦しが得られないとことわって来た。それで、五高、七高戦の復活は失敗に終わった。 (川中,1995)
 《前略》
坂口 私は五高戦の幕切れに、アシスタントコーチでね。卒業の翌年大学から派遣されて...あそこで両方応援団が対立して、けんかしちゃった。それで、最後に公会堂でね。とにかくゲームが終わるころから、これはもうあぶないから...前の晩から、われわれのところに、五高の応援団がきましてね
「あすの試合は勝つも負けるも君たちのコーチいかんによる。七高が負けるようにしてもらわないと、あとで困ったことが起こりますよ」
と、こういうその (笑)....。

大村 脅迫だ。

坂口 脅迫にきたわけですね。それから、相手は高橋というピッチャーですよ。それが、全国で、高専大会で優勝しちゃったやつですけどね。そのゲームのときに、杉本、春沢という連中がピッチャーでしてね。ばかにまた、シュートがずごく曲がるんですよ。これはもうナチュラルシュートでね、カーブがないピッチャーです。それで困りましてね。3対2で勝ったんです。それでもう8回ごろから選手のところに僕が−−僕はサブコーチですからね、あぶないですから、裏の球園の土堤を越えて、たんぼ道へ入っているんだ。
 それで、ゲーム終わるとたんにね、あいさつもせずにね、裏から公会堂に入った。そしたら向こうから、応援団が、僕らのあとをつけて、一緒に入ったんですよ。どんどん、太鼓をたたいてね、公会堂の前まで、やってくるんですよ。まん中に騎馬巡査さんが入っていましたね。投石がありますしね。結局は双方応援団長が最後に握手しましたけどね。

井上 最後は握手で....。

坂口 握手で終わりです。それでね、社会的に弊害があるからと、県知事同士が話し合いましてね。

大村 陸上競技もやめちゃう、中止となって....。で、臨時列車編成して、鹿児島へ一列車特別列車で....何かけんかしたり、応援団に入ったりしてね。

坂口 当時はね、4年、5年おる人でも、ざらだったですね。僕のキャッチャーの棚橋君なんていうのは、2年の裏でね、キャプテンなんですよ。翌年は橋本君に譲っているんですね。
 《後略》  (国崎ら,1963)
 
 《前略》
菱山 対五高戦の話が出ましたが、五高戦での乱闘事件を福迫さんにお願いします。

福迫 私は昭和2年の卒業ですが、その時分はまだ肥薩線が通っていたころで、夏ですから暑い。夜行列車で行ったが、熊本がまた暑い。着いてから熊本日日新聞のある上本街のところまで隊伍を組んで行ったが、前の晩ろくに寝てないからみんなくたびれていましたよ。そのときの応援団長が重松俊明で、いま京都大学の教授をしているが、彼がいった言葉をいまも覚えております。
「ここは鹿児島の天文館だぞ!」
といった。それでみんな気合いが入った。それからの乱暴というものは実に目のさめるような活気のあるものだった。

宿舎は県会議事堂だったが、私は五高の友達のところに行っていたんですが、あとで聞くと、その晩やりあいがあったという。いま、鹿大の助教授をしている○君が野球の補欠で連絡に行くときつかまったとか、宿舎のまわりにストームをかけられたとかいう話を聞きました。

 そのときの五高のピッチャーはもと法政にいた高橋という優秀な投手で、その彼はインターハイ全国高校大会でも優勝もしている。だから、熊本の人、五高の人はもちろん優勝間違いなしと思いこんでいた。その高橋は先発じゃなく、二番目に出たが、五高がさきに2点か3点リードした。で、五高の応援団など感きわまりない状況だ。しかし、すぐに七高が逆転してそのまま押し切ってしまった。

七高のピッチャーは杉本といって、いままで9回投げた実績のない投手。それが9回投げ切って勝っちゃった。(笑)  さあおさまらないのが五高勢だ。いつものしきたりどおり五高の応援歌をさきに歌いだしたのはいいが、それとともに木刀なんかをひっさげたのがグランドを横切って突っ走ってきた。

こっちは七高の歌をやるどころじゃなく、早々に県庁に引き揚げてしまった。また、宿差から引き揚げるとき、まず僕と同級のもの二、三人がさきに出て電車通りにきて後ろを見ると群集がワーッとばかりに押し寄せてきている。

結局、あとはご承知のとおり憲兵が入るやらしてやっと駅まできたというのが事件のあらましです。

 以後私はこの五高戦は、それがすんであとの学生の気風というものは非常に違う。ぜひこの五高戦は復活しなくちゃいけないと同窓会などのたびに先生方に説いたものです。しかし、七高の掘館長はやろうというが、五高の溝口校長はがんこに、おれの目の黒いうちは七高戦はやらさんとがんばったんです。結局、私どもが最後の五高戦をやったわけですよ。

井上 それは何年でしたか。

福迫 大正15年ですね。
 《後略》  (中島ら,1963)
 
 《前略》
上村 この辺で、対五高戦のことについて思い出を一つお願い申し上げます。
     私が対五高戦で思い出しますのは、あおの橋を渡って城塞の突き当たりのところに檄文が、実に名文の檄文が大規模に張り出されてあったのを思い出すのですが。

押川 やぐらを組んでね。

上村 あの檄文が今申します通り拡張高い非常な名文だった。いまだ忘れかねているのですがね。

島本 私、いつも思うのですがね。あのときの名文をいまどきの人に書かしたらどういう文章で書くとかね。いつも興味を持っているんですがね。

土谷 熊本から来ておった尾崎君とかね、その人などが漢文調で、いわゆる風はショウショウとしてというような、そういう文章でね。何か壮士を思わすような感じで書いておりましたね。

押川 私たちのときに最後の対五高戦があって熊本に行ったわけです。そのとき五高は全国から最優秀の選手が入っていたわけですよ。それで絶対に今年は負けない。ところが、七高が行って伝統の力で勝ったんですよね。もちろん、実力はあったんですけれども。ところがそこへ市民が入ってきて、あと公会堂に押しかけてきたわけですよ。そして、市民も入ってけんかになった。とうとうやめになったわけですけど。

 その後私は、その年京都に行きましてね、一高対三高戦をネット裏から見たんですよ。この前、新聞で五高七高戦がとうとうけんかで終わったという記事が新聞にでておったが、どうかいうよういなことで。ところが見ておりますと、とてもスケールが五高七高戦に比べると小さいのですね。

土谷 規模が一高三高の戦いは小さかったということをおっしゃいましたけれども、これは初めに言うたように、五高という学校と七高という学校の対校戦であると同時に、市民が一体となって鹿児島市と熊本市のファンの一つの交戦の場でもあたんだからね、どうしても規模が大きくなる。

押川 あの旗ですね。のぼり何十畳敷というような馬鹿でかいものでしたよね。五高は白、七高は赤の。

上村 最後の五高と七高のけんかのことについて、どなたか知っておられる方はいらっしゃいませんか。何か騎馬巡査が出動したというような....。

押川 とにかく五高は市民と一緒になりました、その市民の中に、いわゆるいまで言う愚連隊も入って、そして七高の宿舎に押しかけてきたわけですよ。当時熊本の公民館ですがね。そこで少し乱闘があって、結局、警察官がさっと来て静まったんですね。そういうことでとうとう対五高戦も中止ということになったわけです。

 そのとき七高が勝ったのですよね。だけれども相手に敬意を表するために”武夫原頭”を歌ったわけです。ところがこっちは勝っているもんですからね、その歌い方に、何と言いますか粗雑なところがあったわけです。そこで敵はそれを憤慨したというようなことなども大きな原因でしょうね。

そのときに五高は七高には負けましたけれども、その年の全国のインターハイでは五高が優勝したんですからね。だからいかに七高が試合をファイトで勝ったということがわかるわけですね。とにかく強かったのです。

その後、六大学野球で鳴らした高橋という有名なピッチャーがおりましたね。それから市岡中学から臆川というのが、これはセカンドでしたが、優秀な選手が来ておりますし、名手ぞろいなんですよ。

土谷 野球は五高も七高も強かったでしょう。有名な石関という人がおりましたね。一年生のころでしたか、大正12年ごろですよ。石関さんの頃七高は全国インターハイで二度目の優勝を飾って黄金時代をつくった訳です。

島本 私は残念ながら五高の野球戦というのは見たことがない。水泳の試合で絶対に見せないんですよね。だから行ったことはない。水泳の帰りに応援団に加わって上町あたりを練り歩いたけれども、おこられて帰ったことがある。大正15年の五高戦でけんかになったもんだから、われわれ水泳試合もやめよう、こういう五高を相手にできないということで脱退した。

 《後略》  (上村ら,1963) 
 
 ※押川教授(後に鹿児島大学教養部長)は昭和5年卒で、大正15年の対五高戦は御自分の目では見ていないはずの計算になるのだが.....。

【公式校務】

1月
2月 学校教練実施以来、第一回の教練査閲を実施せり。(七高祝賀会,1926)
3月 外人教官官舎二棟を建設竣工せり。傭外人教師官舎二棟を下荒田町に建築。(七高祝賀会,1926)
入学試験制度改正、二班制度実施さる。(七高祝賀会,1926)
4月
5月
6月
7月 対五高対抗戦紛糾事件起こる。(七高祝賀会,1926)
8月
9月
10月 雨天体操場を建築。(増村,1960)
25日、開校25周年、藩学造士館創設153年記念式典を挙行した。(増村,1960)
記念祝賀会より天文観測室が寄贈され、昭和2年8月に完工した。(増村,1960)
文部大臣代理栗屋学務局長臨場す。(七高祝賀会,1926)
11月
12月

【総務部】

文科総務  水田文雄
理科総務  田之畑喜一
理事 横田 亮 岩佐氏照 矢倉 裕
倉園清市 上之園 勉 曽根重雄

【文芸部】

2月 学友会雑誌第60号、発行される。
7月 学友会雑誌第61号、発行される。

【端艇部】

5月 3日、磯浜にて、15年度新入生歓迎競漕大会が行われた。対寮レースでは西寮1着。4分43秒2/5。系統優勝レースでは、文甲二が理甲一に反則負けとなる。(七高端艇部,1926)
8月 2日、端艇部対八高戦が、瀬田川コース瀬田鉄橋より下1300mで行われた。一尺差で敗れる。(七高端艇部,1926)

【柔道部】

7月 福岡遠征。15年度から、高等専門学校柔道争覇戦の形式が少し変更された。従来は京大主催で全参加学校が京都に集まって試合が行われた。然し、15年度から、東大、京大、九大が主催者となり、福岡、京都、東京で予選を行い、更に、優勝戦を、京都、或は東京で行う事になったのである。
11日、我部は遠征の途に上つた。相手は福高と宮崎高農であった。然し時利あらずして、高農は半数位で易々と破る事は出来たが、福高との試合に惜しくも敗れたのである。(七高柔道部,1926)
 かえりみれば長い歴史である。汗と油とに綴られた感激の歴史である。如何に多くの若人が、或は戦勝の極に狂喜し或は敗戦の苦に泣いた事であろう。
しかしながら、意気に感じて立った大丈夫に対して、誰がその正否を論らう者があろうか。一死以て、尽くして下された先輩諸子の誠の心は永久に、我部の根底となって、部員一同の士気を鼓舞して行くであろう。我々は、唯満腔の感謝を捧げるのみである。
 源流すでに遠くして、濁波を揚ぐる此の末の世に、武に恵まれた薩南の地につどい来て、古い由来を有する歴史の中に、ひたすら武士道に精進する、我現在部員は、実に幸であると言わねばならぬ。将叉その責任は且つ重大であると言わねばならぬ。そして、今や我部に勃興し来つた改革断行の機運は、我部、将来の多望を意味するものであり、そして、栄ある歴史を作る第一歩である。(七高柔道部,1926)

【剣道部】


【野球部】

 嗚呼弐拾幾春秋の栄ある歴史 我等が胸の琴線に触るる時懐かしき追懐の想は湧く。薩南の地に幡居して遠く京洛の巷に其強を知らる、我部先輩の尊き努力の結晶の偉大なるを知るべし。
 七高造士館のある限り我が野球部の盛名は轟かん、鶴陵城下草燃ゆる所、我等は尊き歴史の讃美と憧憬に満ち、一層の努力を以て前進せんとす。(七高野球部,1926)
大正15年我校創立25周年紀念式の行はるる時栄ある我部を守れる部員次の如し。(七高野球部,1926)
投手  杉本半三郎 捕手  永吉秀志 一塁手 西村周三
二塁手 井上勝信 三塁手 松本 孝 遊撃手 佐々木節夫
右翼手 西田豊明 中堅手 橋本幸夫 左翼手 星野正直
補欠  白石 栄 監督  西川圭介 記録  明日山秀夫
6月 対京都帝国大学 於七高
 7A−6 負
7月 福岡遠征戦績
 対五高 3−0 負
7月15日 対五高定期戦績
       3−2 勝
8月 鶴陵倶楽部主催、由比館長を会長に頂き、鴨池にて全国中等学校野球南九州予選大会を開く。
参加校、九州学院、熊本商業、鹿児島一師、鹿児島商業、鹿児島二中、鹿児島一中、鹿本中学、加治木中学、宇都中学、鹿児島工業、熊本商工、鹿児島実業の12校にして熊本商業優勝す。(七高野球部,1926)
9月 南九州中等学校野球大会(七高野球部主催) 七高にて挙行
 参加校数11  鹿児島一中優勝    (七高野球部,1926)
11月  

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【1926年の写真集】


第七高等学校造士館記念祝賀会 (1926)
記念誌
354pp.七高祝賀会,鹿児島.

【目次】

表紙
写真集

行幸記念碑の碑文
序文

目次

造士館(藩校〜県立学校)沿革概要

第七高等学校造士館沿革概要

寄宿寮沿革

生徒監

総務部沿革

文芸部沿革

端艇部

柔道部史

剣道部沿革史

七高野球部史

庭球部

弓道部沿革史

蹴球部沿革史

山岳部のことども

水泳部沿革史

陸上部

鶴陵会沿革史小稿

音楽部報

七高仏教青年会沿革略史

歓送録

七高出身者学位調

卒業生徒調

奥付


【引用文献・参考文献】


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