鹿児島大学理学部同窓会のホームページ
2006年度の最新情報
映画「北辰ななめにさすところ」鹿児島ロケ
2006年10月8日(日):13:00〜23:00
鹿児島市の県民交流センター前広場(旧県庁跡地)
鹿児島大学が大きく関わる映画「北辰ななめにさすところ」が公開予定です。
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| 朝日にもゆる | (midi録音) (mp3録音) |
寮歌「朝日にもゆる」の紹介 | |
| 武夫原頭に | (midi録音)(mp3録音) |
映画「北辰斜にさすとこころ」の鹿児島ロケが、鹿児島市を中心に10月いっぱいのスケジュールで行われています。10月8日(日)には、最大の見せ場でもある、公会堂襲撃シーンが撮影されました。
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史実では、大正15年(1926年)7月12日に、以下のような事件が起こりました(対五高戦応援団紛糾事件)。 その後、七高応援団は、宿舎である熊本市の公会堂に引き揚げ、鏡割りをして祝宴の大騒ぎをしていました。七高側の謝罪に納得しない五高応援団は、七高に再度謝罪させるべく、幟や旗を翻し、太鼓を打ち鳴らして、寮歌を高唱し、大挙して宿舎の公会堂に押し寄せました。これに同調する熊本市民も多数押し寄せ、当時の新聞報道によればその数3000人に達したと伝えられています。 七高応援団は公会堂の中に立て籠もり、一触即発の緊迫した事態の中、七高の責任者教官が警官隊の出動を要請し、警官隊が両者の間に割って入る形となり、両校応援団の話し合いが行われました。その結果、再度、七高応援団長が謝罪することにより、両校の乱闘は避けられました。 映画ロケでは、憲兵隊も出動したことになっていますが、各種の資料を読み比べると、憲兵隊出動は、後世の著述に因る後付けの尾ひれの可能性が高いようです。当時、現場に居合わせた七高生や教官の多くの回顧談の記述に拠る限り、出動したのは警官だけだったようです。ただ、後世に書かれた解説文で、警察官の出動が、「北署の警官の出動」⇒「騎馬巡査の出動」⇒「騎馬憲兵の出動」と、時代が下がるに従って大袈裟な表現に変遷していく過程が文献から読み取れ、これらの記述が「騎馬憲兵が出動する騒ぎになった」という説の定着に一役かっているようです。 七高と五高の野球定期戦は、この紛糾事件のあと、五高の溝渕校長の「俺が校長である間は断じて対七高戦は許可しない」との意向もあり、中断となりました。第二次大戦をはさんで、七高対五高の伝統の一戦は、長く中断したままでしたが、1946年になって復活し(復活対五高戦)、旧制高校の廃止と共に、1948年に終焉を迎えました。 |
![]() 大正15年熊本で行われた対五高戦 七高応援団長の重松氏(後の京都大学教育学部長) 鶴陵倶楽部(1981)より |
![]() 大正15年の対五高戦 七高生の選手・応援団の入場 鶴陵倶楽部(1981)より |
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![]() 武夫原頭での勝利のあと;七高造士館野球部のメンバー 鶴陵倶楽部(1981)より |
映画のロケは、県民交流センター前に13:00時集合ということでしたが、エキストラの面子が意外に集まりが悪い。13:30から、エキストラは40歳以下と以上の組みに別れ、それぞれに役が与えられました。今回は、公会堂襲撃シーンのため、大人数が必要なのは、五高応援団と熊本市民で、衣装や小道具もその数に併せて用意されていました。七高応援団、警察官、憲兵は特に最初から依頼されていたようです。特に憲兵役には、背の高い体格の良い人が選ばれていたようです。
理学部の教員連にはあらかじめ声がかかっていたため、多数の教員がエキストラで参加しましたが、法文学部その他はあまり来ていなかったみたいです。やはり、学生の集まりがあまり芳しくない。皆で慌てて、携帯電話で、研究室に電話して動員をかけていました。
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当日は日本晴れの快晴。気温はさほど高くはなかったのですが、日差しが照りつけ、少し汗ばむ陽気でした。受付のテントには、冷たい麦茶の給水所が設けられ、スタッフの人が「水分を取ってください」とさかんに呼びかけていました。羽織袴や学生服のエキストラは、暑いためか、待ち時間はシャツをはだけていた人が目立ちました。 プロの俳優さんは、仲裁役で登場する柔道家「宇都先生」役の長島さんが有名どころで、あとは、市民や応援団の中に、演技指導で数名のプロ俳優さんが混じっていたようです。 16:00頃から、公会堂として設定の建物(鹿児島県県政記念館)の前で、撮影場所の確認とリハーサルが行われました。演技指導として、熊本弁のできる俳優さんが、熊本弁の罵声や怒鳴り声を、市民役や応援団役のエキストラに稽古をつけていました。 18:00から弁当の支給があり、かの有名なロケ弁なるものをもらいました。ロケ弁とは言っても普通に売っている仕出屋の弁当です。弁当の時間の間、監督さんや理学部長は、新聞社やテレビ局の取材を受けていました。 |
エキストラには、ロケ弁とお茶の配付 |
19:00頃、西日が城山の山陰に隠れると、本番リハーサルの開始。群集のざわめきや驚きの声などの台詞は、中に混じっているプロの俳優さん達がリードしていました。リハーサルは何回も繰り返し行われ、細かいチェックが監督から入ります。
あたりもすっかり暗くなり、投光器で県政記念館が明るく浮かび上がる中、本番撮影が行われました。本番撮影では、さすがにエキストラの面々も皆緊張していました。本番は、2,3回の取り直しで、OKが出ていました。最近の映画撮影は、ハイビジョンビデオカメラで撮影しているようで、すぐに監督が画像チェックできるようです。
カメラは、固定台の上から撮影したり、レールの上を移動して撮ったりしていましたが、さすがに現場スタッフは手慣れたもので、短時間で、櫓やレールの組み立て分解をこなしていました。
休み時間はあるものの、撮影は立ちっぱなしで、夜が更けるまで続き、エキストラだけをこなすのでもいささか疲れました。
2006年10月10日(火)記述
映画ロケのテントと受付
エキストラは170名が必要とかで、鹿児島大学でも動員をかけたようですが、人数が足りず、通行人等の一般の方々にも参加を呼びかけていました。結局、携帯電話で各自が知人をかき集めて、何とか必要人数が充足できたみたいです。
会場からの鶴丸城趾の遠景
ロケの会場は、七高造士館のあった旧鶴丸城址のすぐ近くです。鶴丸城の城壁と中に立っている県立歴史資料館「黎明館」が見えます。
撮影用の機材など
映画の撮影機材は、遠隔地ロケでも大がかりです。工事用アームの上にあるのは、照明用のライトです。
映像用の小道具
映画用の小道具はほとんど新調されたものですが、応援団の大太鼓は、熊本大学から借りてきた五高同窓会の寄贈品。高校生の学生帽も精巧に再現されています。
撮影用の幟
応援団の幟も、七高の赤、五高の白が撮影用に新調されました。やや古色をつけて古びて見させるようになっています。
公会堂として設定の建物
鹿児島県県政記念館(旧鹿児島県庁本館)。映画の設定では、七高応援団が宿舎としてつかった熊本市の公会堂となっています。建物自体は鹿児島県庁の旧庁舎を移築したものです(土台ごと水平移動した上に90°回転させた)。太平洋戦争中の空襲で焼け残った鹿児島市内でも貴重な建築物です。
市民役のエキストラ
映画の時代設定が大正15年夏ということで、エキストラの市民の服装も当時を模したものになっています。白シャツに、パナマ帽やハンチング帽、履き物は、雪駄か下駄を履きます。
鹿児島大学の教職員もエキストラで参加
鹿児島大学の教職員も理学部を中心に多数が参加しました。これは着替える前の様子。
面高理学部長もエキストラ参加:新聞とテレビの取材を受ける
理学部の面高学部長もロケのエキストラとして参加されました。南日本新聞社やMBCから取材を受けました。
女子高生もエキストラで参加
エキストラの人数が不足気味のため、女子高生も多数エキストラで参加しました。五高の学生服を着て、五高応援団の恰好に着替えています。
七高応援団
今回の撮影では、七高生は公会堂に立てこもる役のため、七高応援団は数名のみ。五高学生服が黒なのに対して、七高生は紺色の学生服を着ていました。公会堂のバルコニーから七高造士館の鶴丸の赤旗を振っています。
五高応援団
ロケでは七高生の宿所である公会堂を五高応援団が襲撃するシーンが主であるため、五高応援団役は多数がエキストラ出演しました。大半が現役の大学生や高校生です。
夏服の警官隊
史実では、公会堂を五高応援団の熊本市民が襲撃したため、鎮撫のための警官隊が出動しました。設定が夏のため、警官は白の夏服を着ています。
憲兵隊
公会堂の周りで鎮撫のために出動した憲兵隊の役として、若い人で背の高い方々が選ばれて憲兵役のエキストラをこなしていました。
五高応援団の幟
公会堂を襲撃した五高応援団の、五高カラーの白幟です。五高の校章が染め抜かれています。幟には「五高魂」「龍南健児」「剛毅木訥」などの言葉が踊っています。幟が風で煽られて、旗持ちのエキストラは大変だったようです。
神山監督の地元テレビ局によるインタビュー
監督の神山征次郎さんが、地元テレビ局や新聞社のインタビューを受けていました。
映画ロケのエキストラに対する演技づけの指導
エキストラに対してプロの俳優さんによる演技指導が行われました。五高応援団と熊本市民役の人々に、怒鳴り声や罵声の稽古をつけているところです。
映画ロケの夜間の本番撮影
ロケは16時からリハーサルが始まり、18時からロケ弁で夕食。19時から本番撮影が始まりました。数秒のカットを撮影するのにものすごい手間暇がかかります。市民を交えた大群集シーンを早めに撮影しましたが、撮影が夜遅くにまで及んだため、途中から帰る人も数多くいたようです。この夜は、公会堂周辺のカットを、多数撮影していました。
【引用文献・参考文献】