鹿児島大学理学部同窓会のホームページ
2006年度の最新情報
第七高等学校造士館 第14回紀年祭歌
北辰斜に

【北辰斜の巻頭言について】


巻頭言

流星落ちて住む處
橄攬の實の熟る
あくがれの南の國に
つどひにし三年の夢短しと
結びも終へぬこの幸を
或ひは饗宴の庭に
或ひは星夜の窓の下に
若い高らう感情の旋律をもて 
思ひのまに歌ひ給え
歌は悲しき時の母ともなり
うれしき時の友ともなれば
いざや歌わんかな北辰斜め

りゅうせいおちてすむところ
かんらんのみのうるるさと
あくがれのみんなみのくにに
つどいにしみとせのゆめみじかしと
むすびもおえぬこのさちを
あるいはうたげのにわに
あるいはせいやのまどのもとに
わかいたかろうかんじょうのせんりつをもて
おもいのままにうたいたまえ
うたはかなしきときのははともなり
うれしきときのともともなれば
いざやうたわんかなほくしんななめ



寮歌雑感(もう一つの巻頭言)

黒木剛司郎(昭和14年・理甲卒)
第七高等学校造士館 開校百年記念誌.pp.41-44.

 旧制高校がなくなってから今年で半世紀が経過することになる。

 この間、かつて在学中の日常に青春の情熱を燃やした若者のはとんどは故人となり、健在な者たちも二十一世紀には、全てこの世から去るべき運命にある。東京はじめ各地で行われている寮歌祭も、やがてはその歴史を閉じる日が到来するのを避けることはできない。

 最近読んで一種の感銘を受けた本に、安岡章太郎著『死との対面』があるが、その冒頭で、小林秀雄の ”君、死支度はもう出来ましたか” との言葉が紹介されている。

 小林のいう死支度とは、自己の人生の最後に為しとげんとする仕事の準備のことであり、彼の場合、それは大作『本居宣長』 の執筆であった。

 旧制高校同窓会や寮歌祭も、そろそろ死支度にとりかかるべき時期かとも思われる今日このごろ、しきりと気になるのは
 「二十一世紀以後も、旧制高校と全く無縁の人々によって歌いつがれ、長く寿命を保ちうる寮歌がはたしていくつあるだろうか?」
という問題である。

 このことに関連する悲観的材料として、戦後の抜本的教育改革に際して、旧制高校の伝統をうけつぐべき教育組織の存続が占領軍によって拒否された現実がある。

 従って、はとんどの寮歌は、やがて人々から忘れ去られるものと観念するはかなさそうである。

 それでも、どうにか生き残るであろう寮歌を予測するてだては、市販されているCDやカラオケ曲集の中に見出せるのではと思われる。
 それらを列挙してみると

 「鳴呼玉杯に花うけて」「紅萌ゆる岡の花」「琵琶湖周航の歌」「都ぞ弥生」 「北帰行」

といったところである。

 なお、畏友・堺定兄が、平成九年十一月十五日のNHK (第一)深夜放送で聞いた、寮歌に詳しいという音楽評論家(三高出身) の説では、この五曲のうち、はじめの二曲を除く三曲のみが、今後も長い将来にわたって歌いつがれるだろうという。

 いわゆる三大寮歌のうち、残るのは北大のみと予想される根拠は、他の二曲の歌詞があまりに高踏的・独善的かつ時代錯誤的な点にある。また、残るであろう三曲には、そのような”くさみ〃が少なく、歌詞・メロディーともに、日本人特有のウェットな心情に訴える要素に富むという特徴が伺える。

 残念ながら、わが母校やとなりの五高も、一・三両高と同様な理由で落第というわけであるが、私は最近聴いたNHKのFM放送で延命に一線の希望を繋ぐことができた。

 その放送はいくつかの大学のコーラス部による部歌の競演であったが、最後に歌われたのが、鹿児島大学混声合唱団の「北辰斜めに」だったからである。

 ただし、巻頭言はなく、多彩な編曲が施されていて、まさに別世代の歌という印象が強いが、それでもまさしく「北辰斜めに」である。

 さらに、その後しばらくして頂いた鹿児島在住の弓道部OB・末永勝郎兄の便りは嬉しい話を伝えてくれた。それは、鹿児島大学弓道部の遠征に際して、西鹿児島駅のホームで、選手激励の「北辰斜めに」(巻頭言つき)および「朝日に燃ゆる」によるストームが展開されるという事実であった。ポート部の「天に五色の」も同様である。

 なお、鹿児島大学の学生諸君が、「楠の葉末」という名歌も忘れないよう強く要望しておきたい。

 ところで、「寮歌は男声コーラスでないとダメだ」というのが私の正直な気持ちである。

 かつて、故益満午郎兄が絶賛した日本女子大ほかの「楠の葉末」も、音楽的には美しくても、心に響く感動をあたえてはくれなかった。

 男声コーラスも、いわゆるポピュラー派ではなく正統派がよい。かつてNHK・FMで放送された九州大学男声合唱団(コールアカデミー) の数曲は見事であった。

 そのなかの「北辰斜めに」の巻頭言は、われわれのものと全く異なるものであったが、その発生の経緯を知りたいと思い、出井朗夫兄(昭和24年文甲) に調査を依頼した。

 彼が私の期待にこたえて、九大関係の知友に連絡してくれた努力の結果は、別添のコールアカデミーOB・平野耕生氏から出井兄あての書簡となって結実した。それを同兄の添状とともに入手したのは平成十一年の元旦である。私には何にも勝る有難い新春のお年玉となった。

 書簡の文面が、まことに丁重で行き届いているのに敬服するが、ことの経緯は明確に叙述されており、作詞者・藤井凡大氏(旧制福岡高校・九大卒)の巻頭言についての見解には共感を呼ぶところもある。

 『死支度』どころか、『旧制高校の残照いまだ消え難し』というべきであろう。

 ここに、平野氏および出井兄に深謝するとともに、とくにご了承を得て七高同窓の諸兄に書簡の要旨を紹介させていただくこととする。


平野耕生氏・書簡要旨

『・・・・私がコールアカデミーの定期演奏会でやりました、巻頭言。実はもう既に亡くなりましたが、我が団の永世名誉団員藤井凡大氏(旧制福岡高等学校、九大卒)が作ったものでございます。

    「巻頭言」
 頭を廻らせば南方遥か三千里
 流星頻りと来たりて落つる処。
 此処に集いし破帽弊衣の俊才健児、
 官幣に玉器を琢切し有体の身を養う。
 時に傾盃酎酔速袂踏歌して
 晶晶たる不滅の青春を謳歌する。
 その歌声は彼の聖山桜島に木霊し、
 霊洋薩摩の海を響動す。
 鹿児島造士館第七高等学校記念祭歌
 北辰斜め。

 以上が私が演奏会で怒鳴り上げた巻頭言です。…・十五年前になります。「旧制高等学校寮歌集」を演奏しました時、氏が創作してくれたものです。・・・・氏は「頭を……落つる処」までは、七高の定番であったように申しておりました。また、氏は「巻頭言というものは、伝承的なところもあるが、基本的には、アドリブで、その季節、シチュエーションにあったものを即興的に創作するものであり、それは、漢詩の素養ともあいまった、旧制高等学校の学生の一種の誇りでもあった」と申しておりました。

 出井様がいつ項「北辰斜め」をお歌いになっていたのか、何も分からずこの手紙をつづっておりますが、出井様にとって、大切な、思い入れの深い歌ではないかとご推察いたします。これからも、九大コールアカデミーに対しましてご指導、ご鞭撻のほど、お願い申し上げます。

 {追  記}

 上記の文面から察するに、私がかつて聴いたNHKのFM放送は、この定期演奏会のものと推察される。念のためテープを再度聴きなおしてみたが、巻頭言の文言は正しく手紙のなかのものと合致していた。元気溌刺たる若者の張りのある美声であった。これこそが、手紙の主・平野青年のものであろうと思われる。

 なお、この小文に対しては以下のような趣旨の貴重なご意見と、『巻頭言』の性格に関する厳しいご批判とを畏友・山口久一兄から頂いているので、あわせて紹介して諸兄のご参考に供したいと思う。

{寮歌の存続について}

◇山口兄の意見

 寮歌は、これを作り作曲した旧制高校生のものであるから、かれらが死にたえたとき寮歌も死ぬべきであり、無理に後世に残す必要はないと思います。

 寮歌は旧制高校の土壌と精神がなければ駄目なのです。楽器によるコーラスでは駄目なのです。蛮声と太鼓で歌うべきものだと思います。

☆筆者の意見

 戦後の高等教育に従事した者として、なにより物足りなく感じたのは、リーダー的気概を身につけた人材を育成するのが困難だということでした。そんなときに、かつての旧制高校の制度が優れたものであったとよく思いうかべたものです。

 のちの世のひとびとに『むかしむかし、僅か半世紀余りの寿命でしかなかったが、わが国には、ほんとうによい学校があったのだ』ということを是非伝えておきたいのです。それには、寮歌を歌いついでもらうのも良い方策ではないでしょうか。

 無理やりに残そうとしなくても、残るべきものだけ伝わってくれれば、それでよしとしましょう。

{巻頭言について}

◇山口兄の意見

 巻頭言は、即興的にさしはさむアドリブではありません。憲法の前文みたいなもので両者は一体なのです。むしろ一体であって初めて寮歌となるのです。従って私は他の高校生が作ったものは「北辰斜め」の巻頭言とは認めません。いや、認めたくありません。

 数多くある旧制高校の寮歌のうち本当の巻頭言のあるのは七高だけです。

 その証拠に日比谷の寮歌祭で巻頭言を許されるのは七高だけなのです。

 七高の巻頭言の重みを再認識してください。

☆筆者の意見

 まことにごもっともです。ただ、この巻頭言を作文し唱えているのは母校の同窓生ではなく九大の学生コーラス団であって、彼等に「七高の巻頭言」についての貴兄のいわれるような真剣な認識がないことは、上記の書簡から明らかです。しかし、それを期待するのは無理な話であり、「北辰斜めに」のすばらしさに共鳴しての行為と理解したいと思う。

私見として『これから公共放送で「北辰斜めに」を歌う際は、巻頭言ダケは遠慮してくれませんか』との希望を先方に伝えるので、山口兄よ、なにとぞご寛容ください。・・・しかし彼等のコーラスはじつにすばらしいものですぞ・・・。


 以上、堺兄からの寮歌に関する情報に触発されて書きつづってきた小文も、ここにきて、山口兄からのご意見により、上記のように二つの大きなテーマについてのささやかなディベートを展開するかたちになった。

 巻頭言の性格については、これが 「憲法前文」 にも匹敵するとすれば、その改変問題は、わが国の政界、言論・思想界などをまきこんで展開されるであろう憲法改正問題にも似た大問題である。しかし、このディベートの結果が山口兄説のとうりの 「進歩派」 の勝利におわることは明白である。つまり 「改変には絶対反対」 が圧倒的多数であろう。

 実は、初めてコールアカデミーの放送を聴いたとき、あまりにも堂々とあの巻頭言が唱えられていたので、私は、これはだれか母校の同窓生が作ったものではないかとの疑念をいだき、もしそうならエライコトになるぞと思って巻頭言に造詣の深い出井兄に調査を頼んだのであった。だから、調査の結果そうではなかったと知って、ホットしたのが正直なところである。出井兄も同じであったろう。

 もう一つ、寮歌存続問題の結論は、なかなかむづかしかろうと思う。鶴丸城跡に立派な記念碑も建立されている。私は、あれは寮歌の墓石ではないと思うのだが……・…。

 このテーマについて、会報誌上であらためてディベートするのも、いささかマンネリ化しつつある同誌の活性化と会員諸兄の老化防止とに役立つのではとも考えるが、いかがであろうか。


巻頭言「流星落ちて・・・」何時、誰が作詞したか −試論−

諏訪兼位(昭23理2)
第七高等学校造士館 開校百周年記念誌.pp.281-283.

一.

 最初にこの試論の結論を述べたい。

 巻頭言「流星落ちて・・・」は、大正十五年の七高創立二十五回の記念祭の折りに、小野宏氏(昭和三年文甲卒)によって作詞された。当時小野氏は文甲二年生であった。

 実はその六年前の大正九年に南寮の誕生を祝って「平和の光」という寮歌が東大から寄贈されたことになっている。「平和の光」の二番は次のような四行詞である。

「流星落ちてすむ処 橄攬の実のうるる郷
  物新たなる今日の日に一むら咲ける花のあり」

 小野宏氏が、この「平和の光」の歌詞から二行を本歌取りして、巻頭言の冒頭二行に据えたことは明白である。私はこの「平和の光」は、大正九年に、清水悦氏(大正十年理科卒)によって作詞されたと推定する。当時清水氏は理科三年生であった。

 すなわち、大正九年の清水悦氏作詞の「平和の光」をルーツとして、六年後の大正十五年に、小野宏氏によって巻頭言は完成された。これがこの試論の結論である。

二.

 平成十一年六月十一日付の南日本新聞に、私は「旧制七高校歌・巻頭言のなぞ−作者名乗った清水先輩」なる一文を寄稿した。

 たちまち反響があった。黒木剛司郎氏(昭和十四年理甲卒)から六月十七日にお手紙をいただいた。その手紙には、中馬辰猪氏(昭和十二年文甲卒)が、昭和五十九年度の東京七高会会報に載せられた「巻頭言の作詞者は誰れか」なる文章のコピーが同封してあった。

黒木氏はお手紙に「巻頭言については、中馬さんの文章にもあるように、なかなか複雑な経緯があるようですが、作者が誰であろうと、私ども後輩に、素晴らしい名詩文を残された先輩に感謝しつつ、高唱しつづければよいと思う次第です。」と快淡と書いておられた。

 六月十九日には、城井睦夫氏(昭和十七年文甲卒)から詳しいお電話をいただいた。巻頭言は小野宏氏の作詞に間違いないことを力説された。

 中馬氏の文章は簡潔ながら、濃い内容のものである。

 大分県出身の小野氏は、鹿児島の山下小学校に数年間通った。小倉中学から大正十四年に七高に入学した。七高卒業後は東大法学部に進んだ。七高では文芸部員として活躍していた。

親せき同士の同人雑誌「同胞」に、立派な作品をいくつか寄稿するといった、感性豊かな詩人であった。

小野氏のいとこの多田潔氏(昭和三年文甲卒)は、八行からなる巻頭言を小野氏に見せられ、感想を求められた。ちょっと物足りないような感じがすると言ったところ、小野氏は翌日か翌々日かに、巻頭言の最後の二行「歌は悲しき時の母ともなりうれしき時の友ともなれば」を書き加えて、これではどうかと見せてくれた。多田氏は立派なものになったと賛意を表した。

 大正十五年の対五高戦応援歌「朝日に燃ゆる茜の旗」 の作詞者は不詳とされている。しかし、泉六郎氏(昭和五年文乙卒)などは、小野宏氏の作詞だと推測している。

 以上述べたことから、巻頭言は、大正十五年の第二十五回の盛大な記念祭の折に、小野宏氏によって完成されたことは間違いない。なお、小野宏氏は明治四十年七月十四日に出生し、昭和三十三年三月十五日に逝去された。享年五十歳であった。

三.

さて、巻頭言のルーツとなった大正九年の 「平和の光」の作詞者は誰であろうか?

 中馬辰猪氏は作詞者を懸命に探された。七高時代に作詞せずに、東大に進学してから寄贈歌を作詞するとは考えられないので、七高時代に記念祭歌・寮歌・応援歌などを作詞した人で、大正九年に東大に在学していた人を念頭においた。

 先づ、七高時代に多くの名歌を残し、「平和の光」が発表された当時、七高生であった小山栄三氏(大正十年文科卒)に相談された。因みに、小山氏は七高在学中、大正八年度東寮寮歌「花玉こうに」、大正八年東寮応援歌「聞けや我が東寮の」、大正九年対五高戦応援歌・野球部部歌「熱球血を畷りて」、柔道部部歌「銀泥紙燭に」などの名歌を作詞した。さらに東大文学部に進学後、大正十年第二十回開校記念東大寄贈東寮寮歌「夜光の虫の」を作詞した。

 小山栄三氏は、「平和の光」を作詞したのは、井田正一さんか林道夫さんのどちらかにちがいない」と中馬氏に答えられた。

 井田正一氏(大正八年独法科卒) は、大正七年第十七回開校記念祭歌「夕陽直射す」を作詞し、東大法学部に進学した。中馬氏は井田氏に「平和の光」作詞のことをたずねたという、井田氏は「それは僕ではない。」 と否定された。

 林道夫氏(大正八年英法科卒)は、大正七年第十七周年記念寮歌「白露しげき」を作詞し、東大経済学部に進学した。林氏が昭和四十二年六月二十日に逝去されたため、中馬氏は御子息の林陸朗氏に会って「平和の光」作詞のことをたずねられた。

陸朗氏は「父は晩年まで「あららぎ」派の歌人で選者をつとめていた。しかし東大時代、七高に寄贈歌を送ったかどうかはわからない。」と答えている。

中馬氏は、林道夫氏が「平和の光」の作詞者であると断定はできないが、最有力候補だと考えておられる。

四.

 さてここで、平成二年に発行された七高校歌集をひもといてみたい。

東大寄贈のものは、大正八年全寮寮歌「紫珊の海に」、大正九年南寮寮歌「平和の光」、大正十年東寮寮歌「夜光の虫の」(小山栄三作詞)、大正十二年頃の東寮寮歌「狂風一度」(加藤経雄(大正十二年文乙卒)作詞) の四つの寮歌である。

九大寄贈のものは、昭和十六年東寮寮歌「星屑散るよ」(築山達雄(昭和十六年理乙卒)作詞)の一篇である。

他に先輩寄贈としたものは、大正十二年頃の東寮寮歌「白き夜を」(和泉利重郎(大正十二年文甲卒)作詞)の一篇である。

 寄贈寮歌六つのうち、四つは作詞者の姓名が明記されている。しかし、大正八年の「紫蘭の海に」と大正九年の「平和の光」の二つは、単に東大寄贈とあるだけで作詞者の姓名が明記されていない。

 この二つの寮歌はともに四行詞であり、しかも歌詞がよく似ている。

私は同一作詞者によるものと推定している。

すなわち、「紫蘭の海に」の五番の歌詞は、
「ああ南溟に憩いして やがて大空遙々と図南の翼伸さなん 図南の翼伸さなん」
であり、

「平和の光」の三番の歌詞は、
「ああ南浜にさすらひて胸に図南の略を秘め ここに花守るよろこびを共にわかたん時は来るぬ」 

である。読者諸賢も両者の類似性に気づかれるであろう。

 ここで私は独断的な推定を敢てしたいと思う。大正八年および大正九年に、七高在学中の学生が、この二つの寮歌を作詞し、姓名を名乗らず、「東大寄贈」という形で発表したのではないか?大正八年にも大正九年にも七高に在学していた学生0これが清水悦氏(大正七年九月理科入学、大正十年三月理科卒業)ではないかと考えるのである。

 清水悦氏について語らねばならない。

昭和二十一年の春休みに、私は宮崎県えびの市の吉田温泉の親せき宅に止宿していた。吉田温泉は、京町温泉の北、矢岳高原のふもとにある、ひなびた温泉である。

 四月八日のことである。

私は、一人の湯治客、四十歳代なかばの中肉中背で色白の紳士に声をかけられた。これが清水悦氏であった。大正七年七高理科に入学したものの、微分の概念が本当にはよくわからず、理科には向いていないと思いながらも、ずるずると卒業してしまったこと、寮では文科の連中とばかり付き合い、文学論議に明け暮れて、七高時代を過したことなどを語られた。

そして最後に、「流星落ちて・・・」の巻頭言は実は、大正九年に自分が作詞したと語られた。私はびっくりしてしまった。あの格調高い巻頭言の作詞者と直接話しているのだと。

 しかし私は十七歳で若過ぎた。もっと詳しく巻頭言のことについて尋ねるべきであった。私は清水氏の御住所をきくことすらしなかった。清水氏のことは心にかかりながらも、半世紀の歳月は、あっという間に過ぎ去っていった。

 清水氏は明治三十三年三月二十二日に、京都市伏見区新町で出生。京都二中を経て、七高理科に入学した。七高時代の保護者は兄の清水半兵衛氏であった。七高理科を卒業後、京大理学部地球物理学科に入学し、一年で退学。その後、昭和三年三月に、京大工学部採鉱冶金学科を卒業した。
 
しかし、京大卒業後の消息ははとんどわからない。京大採鉱冶金学科の同窓会「水曜会」でも消息は得られない。七高同窓会の名簿は、わずかに宮崎市在住とある。おそらく宮崎市周辺で採鉱冶金関係の仕事に従事していたと推測するほかない。

私は本家の清水半兵衛氏のご子孫に接触したが、二十年ぐらい前(昭和五十五年頃)入院加療の末、八十歳ぐらいで他界されたという悲しい消息を得ただけであった。

 清水氏は流星のごとく消えてしまった。若き日に文学青年であった清水氏の、いささかペシミスティックな風ばうを思うとき、「平和の光」の作詞者は清水悦氏であると、今でも私は確信している。

拙論を終るにあたり、関係資料を御教示いただいた、七高会の中馬辰猪先輩、黒木剛司郎先輩、城井睦夫先輩、園田実信事務局長の四氏、日本福祉大学の片方信也教授、南日本新聞社の久永純也編集委員、以上の六氏に厚く御礼申しあげる。


巻頭言のこと

山本 宏 (昭24修理甲; 九州工業大学名誉教授)
第七高等学校造士館 開校九十五周年記念誌 pp.310-312.

◆巻頭言のルーツ

七高の巻頭言は名文である。中馬辰猪先輩は、次の南寮歌がそのルーツではないかと言われる。

新に生る南東を祝ひて(東大寄贈)
 流星落ちてすむ處
 橄攬の實うるる郷
 物新たなる今日の日に
 一むら咲ける花のあり

◆巻頭言の始まり

筆者の手元に昭和六年発行の〈校歌集〉がある。松井清孝・入江政士編集の赤い表紙の本である。

 このうち入江は私の従兄で、昭和八年文甲卒、ラグビ一部で南寮であった。巻頭言として知られる「流星落ちて住む處...」は、それまでの寮歌集には巻末におかれていたが、昭和六年の校歌集から巻頭におかれた。これは「こんな素晴らしい句は巻末では勿体ない。巻頭におくべきだ」という入江の主張が容れられた結果で、ここに初めて巻頭言になり、「北辰斜に」と対をなすに至ったということである。このことは生前の入江から幾度度か聞いたことである。

 現に手元の昭和三年発行の寮歌集では巻末におかれている。

◆巻頭言への疑問

 それはそれとして、同じ七高に学んだ者でも、私達のような後の世代が朗誦する巻頭言は、古い時代の巻頭言とは一部に違いがあるのではないかと思われる。私見を掲げるので、ご教示いただければ幸いである。

昭和六年発行の校歌集の巻頭言は、
  流星落ちて住む處
  橄攬の實の熟るゝ郷
  あくがれの南の國に
  つどい江し三年の夢短しと
  結びも終へぬこの幸を
  或ひは饗宴の庭に或ひは星夜の窓の下に
  若い高らかな感情の旋律をもって
  思ひのままに歌ひ給へ
  歌は悲しき時の母ともなり
  うれしき時の友ともなれば

になっている。現在のわれわれは、

 つどいえし ⇒ つどいにし
 高らかな ⇒ 高らふ

としている。

@「つどいえし」と「つどいにし」
 昭和六年の「つどい江し」の「江」とは変体仮名の「え(江)」である。従って、これを「に」と読む可能性は大きい。昭和三年では「つどいえし」と普通の平仮名「え」で印刷されている。これからすれば、ここは
  「つどいえし」
が正しいのではないだろうか。それに、ここでは「つどいにし」より「つどいえし」の方が前後の関係から適切ではないかと考えられる。

A「若い高らかな」と「若い高らふ」
 「若い高らふ」について国語学者の金田一春彦博士は、安西愛子氏との共著である「日本の唱歌(下)」(講談社)で、「若い高らふ」とは聞かぬ言葉と書いておられる。昭和六年では、
  「若い高らかな」
になっていて、素直に意味がとれる。

 昭和三年では、「若い高らかな」とある。「な」は変体仮名の「な(奈)」で、「ふ」と読み違える可能性が大きい。よくは分からないが、「若い高らかな」⇒「若い高らふ」となってしまったのではないだろうか。

◆正しい巻頭言

 以上のように、われわれが普通に朗誦する巻頭言の一部には、古い寮歌集の巻頭言の読み違いがあったのではないだろうか。そして、それには変体仮名が使われていたことに関係がありそうである。もちろん、数少ない昭和三年と六年の二冊の寮歌集からだけでは結論的なことは言えない。しかし、古い寮歌集にある巻頭言の方が、あくがれの南の国、第七高等学校造士館に学ぶことのできる若者の喜びが素直に吐露されているのではないだろうか。このような場合には技巧など必要ない。

 本来の巻頭言と思われるものを掲げてみよう。如何だろうか。ご教示をお願い致し度い。


 流星落ちて住む處
 橄攬の實の熟るゝ郷
 あくがれの南の国に
 つどいえし三年の夢短しと
 結びも終へぬこの宰を
 或ひは饗宴の庭に或ひは星夜の窓の下に
 若い高らかな感情の旋律をもって
 思ひのままに歌ひ拾へ
 歌は悲しき時の母ともなり
 うれしき時の友ともなれば
                  


あまりにも有名な「北辰斜に」の巻頭言

第七高等学校造士館の寮歌の顔でもある「北辰斜に」が歌われる際には、必ずと言って良いほどこの巻頭言「流星落ちて..」が吟詠されます。巻頭言「流星落ちて住む處...」と寮歌「北辰斜に」は一心同体として受け止められています。

全国的にも寮歌「北辰斜に」に巻頭言「流星落ちて..」が付くことは有名な事例として認知されており、巻頭言と言えば「流星落ちて住む處...」が必ず例として挙げられるほどです。

寮歌の本体に「巻頭言」なる詩を付ける様式の起源は、いわゆる「檄」とか「檄文」と称される日本伝統の口上文もしくは看板文だったと推定されます。旧制高校でも対外試合やストームの席上で、あらかじめ作文された檄文、場合によっては即興の檄が朗読される風習が一般に行われていました(藤井 in 黒木,2000)。檄文は通常は、その場限りの文章でしたが、例外的に名文が記録され、再度吟詠されることもあったようです。

そのような前口上が固定化したものが、巻頭言と言われる前文のようです。たまたま、第七高等学校造士館の校歌集で、北辰斜の巻頭言「流星落ちて..」が印刷され活字化されたため、それが名文であったこともあって、毎年繰り返し吟詠されるようになった。巻頭言を作文した作者本人も、それほど深い意図もなく作成した檄が、「巻頭言」として固定化されてしまったのでしょう。

寮歌「北辰斜に」の巻頭言「流星落ちて..」の文面は、名文ではあるのですが、他の寮歌に歌詞に見られるような難しい漢語を使うでもなく、日常語を用いた極めて平易な文章です。例えば、熊本大学の巻頭言「仰げば北斗爛々として..」と較べても言葉に凝ったところがありません。さらに、最初の二句は他の七高造士館寮歌からの援用です。これらの点からも、この巻頭言「流星落ちて..」が即興に近い状況下で作成されたと推定できるのかも知れません。

最初は即興の檄だったものが、一度固定化されると、毎年繰り返し唱えられていくうちに、「不磨の大典」のように儀式化されて、北辰斜と一体視されるようになってしまった。このような過程で寮歌「北辰斜」の巻頭言「流星落ちて..」が認知されていったと推定されます。

寮歌で、このように固定化した巻頭言を本格的に始めたのは第七高等学校造士館の寮歌「北辰斜に」だったとされています。寮歌を歌う前に巻頭言なる檄文が朗詠されると少々カッコいい。「北辰斜に」に触発されてか、その後、全国の寮歌に「巻頭言」や「前口上」、「序章」、「序歌」というものが付けられるようになり、これらの事例が、昭和に入ってからであることを考え合わせると、多くが寮歌「北辰斜に」の巻頭言「流星落ちて..」に影響されたのであろうと思われます。しかし、本当に、固定化された巻頭言が、北辰斜が最初だったのかどうか、正確な時代考証が必要で、ここでは断定できません。

ちなみに、七高造士館以外の旧制高校の寮歌には本来巻頭言などなく、数多くある旧制高校の寮歌のうち本当の巻頭言のあるのは七高造士館だけだそうです。それが証拠に、旧制高校OBが集う寮歌祭で巻頭言が許されているのは七高造士館だけだ、とのこと(山口 in 黒木, 2000)。

しかし、寮歌「北辰斜に」の巻頭言「流星落ちて..」が、全国の寮歌に与えた、もしくは、与え続けている影響はかなり大きなものであったと評価することができます。

2007年2月26日


巻頭言の成立時期

寮歌「北辰斜に」の巻頭言「流星落ちて..」の作成時期は、大正十五年(昭和元年)の記念祭の折に完成されたという説が有力です(諏訪, 2000)。

当初は、詩文「流星落ちて..」と寮歌「北辰斜」は別個の存在として扱われており、昭和6年より以前の七高造士館寮歌集では、詩文「流星落ちて..」は巻末に置かれていました(山本, 1995)。

昭和6年頃までは、詩文「流星落ちて..」は、特に寮歌「北辰斜に」固有の巻頭言ではなく、寮歌全般を歌う際の巻頭言として唱えられていたようです。現在の寮歌「北辰斜に」の巻頭言「流星落ちて..」では、最後の節で、「いざや歌わんから北辰斜! いざや舞わんかな北辰斜!」と吟唱されますが、当初の詩文「流星落ちて..」には、そのようなな節はなく、「歌は悲しき時の母ともなり うれしき時の友ともなれば」で終わっています。

しかし、昭和6年(1936)版の七高造士館校歌集(松井清孝・入江政士編集)から、詩文「流星落ちて..」は、巻頭に置かれるようになり、文字通りの「巻頭言」となりました。これは、編集者の一人の入江氏(昭和八年文甲卒)が、「こんな素晴らしい句は巻末では勿体ない。巻頭におくべきだ」と主張し、その意見が反映された結果だと伝えられています(山本, 1995)。

実際に巻頭言「流星落ちて..」が寮歌「北辰斜に」と一緒に歌われるようになった時期については、七高造士館卒業生の各種証言などから、昭和7年か8年頃からで、それ以降の時代、寮歌「北辰斜に」を歌う前にこの巻頭言「流星落ちて..」が吟詠されるようになっていったようです(網淵,1977)。

また、昭和11年秋に鹿児島にあるラジオ局(JOHG鹿児島放送局)の放送で寮歌「北辰斜めに」をが歌われた際に、この巻頭言「流星落ちて..」が唱えられ、有名になったとの逸話も伝えられています(新崎 in 網淵,1977)。これは、九州高等学校校歌放送大会と呼ばれたもので、昭和11年10月に行われました。九州地区にあった、高等学校4校(福岡高等学校・佐賀高等学校・第五高等学校・第七高等学校造士館)がリレー中継で各校の寮歌を生放送するもので、七高造士館からは、東寮の委員長・室長らが出演したと記録にあります(堺,1995)。九州高等学校校歌放送大会は、その後、昭和13年2月16日にも行われています(堺,1995)。

昭和初期以前の七高造士館の卒業生にとっては、巻頭言「流星落ちて..」は、まったく、もしくは、あまりなじみのない存在であり、巻頭言「流星落ちて..」が寮歌「北辰斜」と一心同体視されている現在の扱いに違和感を覚えていた、という感想も伝えられています。

また、1962年(昭和37年)に発行された、七高造士館の寮歌を集めた「思い出の”七高歌集”」というレコードには、寮歌「北辰斜に」が、正調とストーム調の二種類が録音されています。そのストーム調では、歌の最初には「いざや歌わんかな北辰斜!」というかけ声が入っているだけで、巻頭言「流星落ちて..」は唱えられていません。これは、1962年当時の録音の主力となった七高造士館OBが大正年間の卒業生であったこともあって、巻頭言「流星落ちて..」はあまり馴染みのない存在だったからだ、と言われています。

巻頭言「流星落ちて..」が寮歌「北辰斜に」と一緒に歌われるようになって、巻頭言「流星落ちて..」の最後の節に、「いざや歌わんかな北辰斜! いざや舞わんかな北辰斜!」が付け加えられたようです。そして、昭和10年代に入ってから、いわゆる寮歌「北辰斜に」の巻頭言「流星落ちて..」が成立し、一心同体化していったと考えられます。

2000年発行の七高造士館寮歌を集めたCD「久遠の七高寮歌−魂のふるさと白鶴城−」は、大戦後卒業の七高造士館末期のOBが主体となって録音されたCDです。この中も、寮歌「北辰斜に」が、正調とストーム調の二種類が録音されています。ストーム調の寮歌「北辰斜に」の冒頭では、巻頭言「流星落ちて..」が名手によって朗々と吟詠されています。

巻頭言「流星落ちて..」の最後の節は、時期によって若干の変遷があったようです。最初の頃は、「いざや歌わんかな北辰斜!」だけで終わっていたようですが、後には、「いざや歌わんかな北辰斜! いざや舞わんかな北辰斜!」となり、さらに、「いざや歌わんかな北辰斜! いざや舞わんかなかの国士の舞いを!」という句も知られています。

2007年2月26日


巻頭言の作者

「北辰斜に」の巻頭言の作者は、有力な証言から小野宏氏(昭和三年文甲卒)とされています(諏訪, 2000)。

第七高等学校造士館南寮々歌の中の、『大正九年 新に生まる南寮を祝いて「平和の光」』(1920年)の第二番に「流星落ちて住む處 橄攬の實の熟るゝ郷」の一節があるところから、南寮の関係者ではなかろうか、との推測も立っています。

巻頭言「流星落ちて...」の最初の二節の本歌である『大正九年 新に生まる南寮を祝いて「平和の光」』の作詞者は東大先輩寄贈となっているだけで、不明です。しかし、いくつかの証言から、林道夫氏(大正八年英法科卒)、もしくは、清水悦氏(大正七年九月理科入学、大正十年三月理科卒業)ではないかと推定されています(諏訪, 2000)。

2007年2月26日


鹿児島大学における巻頭言の現状

2007年現在、新制鹿児島大学に伝えられている巻頭言「流星落ちて..」は、正調な句ですが、最後の節は、、「いざや歌わんかな北辰斜! いざや舞わんかなかの国士の舞いを!」と唱えられる場合が多いようです。

1970年代まで鹿児島大学内のサークルとして存在していた寮歌愛好会(2007年現在では消滅して存在していない)では、「三年の夢短しと」の部分が、「四年(よとせ)の夢短しと」と、大学の現状に合わせて改変されて唱えられていた、という証言もあります。

現在の鹿児島大学では、寮歌「北辰斜に」と巻頭言「流星落ちて..」は、一体のものとして歌われています。

一般の学生の間で、寮歌「北辰斜に」と巻頭言「流星落ちて..」が歌われる機会は激減していますが、学生寮や運動系サークル・音楽系サークルの多くで、現在も歌い継がれています。

2007年2月26日


第七高等学校造士館のその他の寮歌の巻頭言の事例

第七高等学校造士館の寮歌として、現在、約160曲の歌が伝えられていますが、その中で固有の巻頭言を持つ寮歌はごくわずかに過ぎません。檄文や檄には多くの名文が知られており、そのいくつかは文献上に記録されています。やはり、特定の歌に付く巻頭言は例外的な存在で、七高造士館の時代には、むしろ檄が頻繁に朗詠されていたと考えられます。

数少ない、特定の歌に付く巻頭言の例を以下に挙げてみましたが、実際に七高造士館時代に作成されたものは、二例しかありませんでした。

昭和十年 天覧試合ホッケー部々歌 北斗掠めて の巻頭言

作詞 山本 力 昭和十一文甲

  あゝ薩南に瑞雨みちて
  ~の稜威はいや明けく
  こよなき光榮を浴びにし我等
  浄き感謝永久に
  身にしめ やがて捧げん此の命

昭和十六年九大先輩寄贈歌四十周年記念祭に捧ぐ東寮々歌 星屑散るよ の巻頭言

作詞 築山達雄 昭十六理乙

    序   

 秋深き筑紫路の一宵はらから相集ひて、母寮四十路の齡に心からなる喜びの盃を拳ぐれば、すふか思は搖か錦江の煙波に漂ひ魂は燃えて寮(すみか)の庭に舞ふ。郷愁の幻懐旧の涙一として胸を彩り心を傷ましめぎるはなく、茲につたなき詩藻あり。もとよりこの意を盡くすべくもあらず。されど君等酌め、去りゆきし人のやみ難き想と情とを…

昭和六十年 開校八十五周年紀念祭歌−久遠の像に寄す− さはれ幾年 の巻頭言

作詞 宮原正徳 昭和十六文甲

過ぎ去りし歳月よ、幾度か花ひらき散りし堀の蓮の花よ、白鶴城の誇り高き歴史よ、七高の
英智は常にわれらを導き、七高にそだてられた身体(からだ)は生ある限り、なお、理想の道を求めん。
 ここに集いしわれらが友よ、あふるる光の城あとに久遠の像をたたえ、いぎや歌わんかな、
八十五年記念祭歌、われらが歌声は城山に、はた又遠き日の空にこだません。

平成二年 開校九十周年記念祭歌 歓迎歌−君かえり給う− 澄みわたる の巻頭言

作詞 鹿児島七高会

みんなみの空晴れわたり 風ふくや 美しかりし魂の 友がき ここに集いけり
あつき血潮は 若き日の想い出 ふかく歌うなり
七高の旗は空高く 堀辺の水に ひるがえり 今九十の秋となる
君にささげむ なさけの酒を かたみに歌わんかな 若かりし日を

2007年3月1日記


巻頭言の流用の事例

全国各地の大学の寮歌や応援歌を調査してみますと、各種寮歌に関して、巻頭言の模倣や後付けが全国的に行われていることが判ってきました。下記のその事例を列挙してしてみました。

多くの例から、太平洋戦争後の新制大学になってから、学生が面白半分に、旧制高校の巻頭言を引用した結果、いつの間にか剽窃の事実は忘れ去られ、大学の伝統として定着いくという過程が読み取れます。

2007年2月5日


七高造士館寮歌「北辰斜に」の巻頭言「流星落ちて..」も変遷している

巻頭言「流星落ちて..」も、最も有名な最初の二節「流星落ちて住む處 橄攬の實の熟るゝ郷」は、第七高等学校造士館南寮々歌 大正九年新に生まる南寮を祝いて「平和の光」からの援用で、これも厳密主義者に言わせれば、「創作性の無い剽窃」ということになってしまうのでしょう。

また、巻頭言「流星落ちて..」が最初から、寮歌「北辰斜に」に付いていた訳ではなく、寮歌全般の巻頭言だったようです。大正4年の寮歌「北辰斜に」の作曲から、巻頭言「流星落ちて..」が寮歌「北辰斜に」の巻頭言として歌われだす昭和6年までは、15年以上の隔たりがあります。これも厳密主義者の観点では、「作者を無視した後付け」ということになるでしょう。

さらに、巻頭言「流星落ちて..」は作成された当時のオリジナル版から、若干の語句の修正も行われていることがわかっています(山本, 1995)。これも厳密主義者の立場に立てば、「原作を蹂躙した改竄」ということになるのかも知れません。

七高造士館OBでも、昭和初期以前に卒業された方々にとっては、巻頭言「流星落ちて..」はまったくなじみのない存在だった、という感想も伝わっています。

以上の事柄を考えて、現在は七高造士館OBにとって絶対神聖視されてるかのように見える巻頭言「流星落ちて..」ですら、模倣・後付け・改作の歴史を経て、現在の状態に落ち着いていると言えます。

結局、熊本大学で五高寮歌「武夫原頭に」の高唱の前に、他校の寮歌の巻頭言を真似た句が唱えられていたり、北海道大学で寮歌「都ぞ弥生」に別の寮歌の巻頭言が叫ばれたりしていても、「剽窃だ! 後付けだ!」と目くじら立てることもないのではないでしょうか。

これも、新しい伝統と見なされるので、頑なに古い形式にばかり拘っていないで、「寮歌祭」でもどんどん新しい巻頭言をやって、若い世代に寮歌を伝えていけば良いのに、とも思えます。

2007年2月26日


東北大学の明善寮々歌「山紫に」の巻頭言

明善寮は第二高等学校から継続する伝統ある学生寮で、その寮歌「山紫に」は第二高等学校の有名な寮歌となっています。しかし、新制大学「東北大学」になってから、大戦後のいつの頃からか巻頭言が付くようになりました。その巻頭言は、「北辰斜に」の巻頭言「流星落ちて住む處...」の模倣です。橄攬の実はどう考えても、仙台では寒過ぎて、実るどころか温室でないと栽培すらおぼつかないと思うのですが....

東北大学の明善寮々歌「山紫に」の巻頭言

流星落ちて住むところ、
橄欖の実の熟るる里、
あこがれの北の國、
仙台の地に集いて、
三年の夢の短しを、
あるいは星夜の窓に、
あるいは宴の庭に、
若き感情の旋律もて歌いたまえ。
歌は悲しき時の友ともなり、
嬉しき時の友ともなれば。
いざや歌わんかな、
我らが歌を、
いざや舞わんかな
我らが舞を。
明善寮歌、
一番 二番、
アインスツバイドライ!
本歌
第七高等学校造士館
大正四年 第十四周年紀年祭歌
北辰斜に

巻頭言

流星落ちて住む處

橄攬の實の熟る
あくがれの南の國に
つどひにし三年の夢短しと
結びも終へぬこの幸を
或ひは饗宴の庭に
或ひは星夜の窓の下に
若い高らう感情の旋律をもて 
思ひのまに歌ひ給え
歌は悲しき時の母ともなり
うれしき時の友ともなれば
いざや歌わんかな北辰斜め

−−−引用ここから 

http://members.aol.com/kamisugi6/asahi/51.htm
午前十一時半寮の正門で寮委員長(当時)の法学部二年横地昭彦君が
「流星落ちて住むところ・・」
と、寮歌「山紫に」の巻頭言を読み上げ、これに続いて全員が歌いながら行進開始。

http://somae.8m.com/profile/meizen.htm

5月寮歌を歌えるようになる。ただし、寮歌に入る前に長々と口上を述べる『巻頭言』は、寮自治会の委員長(不在のときは副委員長)以外歌うことは許されない。ソウマエはどうしてもこれを歌いたいので、10数年後、「披露宴に限っては新郎が巻頭言を歌ってもよい」という風習を3年かけて定着させ、自分の結婚披露宴で思い切り歌った。

−−−引用ここまで

2007年2月5日

長崎大学の巻頭言

新制大学「長崎大学」は、長崎医科大学、長崎水産専門学校、長崎経済専門学校などが合同して、1949年に発足しました。長崎大学で寮歌が歌われる際の巻頭言は、寮歌「北辰斜に」の巻頭言の完全な写しです。長崎大学の巻頭言は、大戦後になってから、経済学部(旧制長崎高等商業専門学校)の学生達が面白半分に真似たものが定着したのではないかと推定されています。

長崎大学の巻頭言

巻頭言

流星 落ちて 住む所
敵檀(かんらん)の実の 熟るる里
憧れの グビロヶ丘に 集いにし
三歳の夢 短かしと
或いは宴の庭に 
或いは星月夜の 窓のもとに
若き 高鳴る 感情のメロディーもて
思いのままに 歌い給え
歌は 悲しき時の母 ともなり
楽しき時の友 ともなれば
いざや 歌わんかな  我等が歌
泰西の学
アインス,ツヴァイ,ドライ
本歌
第七高等学校造士館
大正四年 第十四周年紀年祭歌
北辰斜に

巻頭言

流星落ちて住む處

橄攬の實の熟る
あくがれの南の國に
つどひにし三年の夢短しと
結びも終へぬこの幸を
或ひは饗宴の庭に
或ひは星夜の窓の下に
若い高らう感情の旋律をもて 
思ひのまに歌ひ給え
歌は悲しき時の母ともなり
うれしき時の友ともなれば
いざや歌わんかな北辰斜め

−−−−引用ここから

http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/dousou/bulletin/bull38/38-12.html

最後は,今井春二先生(昭25)の「巻頭言」により校歌合唱,万歳三唱でお開きで,あっと言う間の3時間でした。二次会の席上,H先輩をはじめ多くの方の愉快な話を伺いましたが,紙面にすると何かと差し障りがあるので来年の総会の時にでも披露出来ればと思っています。来年は1月の第3あるいは第4土曜日に支部総会を計画致しますので,沢山の方の参加をお待ちしています。最後に,「巻頭言」を知らない卒業生が増えているとのことなので,参考までに紹介して支部だよりを終わらせて頂きます。

−−−−引用ここまで

熊本大学の「武夫原頭に草萌えて」の巻頭言(正規)

もともと、第五高等学校寮歌「武夫原頭に」には巻頭言はありませんでした。現在、熊本大学で五高寮歌「武夫原頭に」が歌われる時には、「仰げば星斗爛煥として...」という巻頭言が付けられます。しかし、これは旧制佐賀高等学校の寮歌の巻頭言「不知火寮訓」の模倣であることが判っています。それも、新制「熊本大学」になってから、工学部で始まった風習が全学に広がったと推定されています。

熊本大学
「武夫原頭に草萌えて」の巻頭言

巻 頭 言

仰(あお)げば星斗爛煥(せいとらんかん)として
永遠(えいえん)の真理(しんり)を囁(ささや)く
頭(こうべ)を巡らせば蘇山(そざん)遠々(えんえん)として
我等若人の情熱をそそる
天地(てんち)の恵み豊かなる肥後の一角(いっかく)
立山(りつざん)の麓(ふもと)白川(はくせん)が畔(ほとり)
これぞ我等五高健児(けんじ)の地なり
いざや舞わんかな狂わんかな歌わんかな
我等が剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の調べを
武夫原(ぶふげん)頭(とう)に草萌えて
一(アイン) 二(ツヴァイ) 三(ドライ)
本歌
佐賀高等学校の不知火寮訓

仰げば星斗闌干として
永久の真理を囁き
頭を廻らせば不知火炎々として若人の熱を語る。
自然の恵豊なる此の筑紫野の一角
天地の精気凝りて立てるもの
実に吾が佐高不知火寮なり

−−−−引用ここから

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/bufugentouni.html

さきに五高寮歌「武夫原頭」の巻頭言について、メールしました。前述したように、あの巻頭言は、旧制五高の方ではなく、熊本工業専門学校大正12年卒の方が、旧制佐賀高等学校寮歌の巻頭言をそっくりそのまま真似て(「不知火」を「阿蘇」などと固有名詞はいいかえておりますが)作ったものです。それがあまりに名文なので、新制熊本大学で(恐らく他校の巻頭言とは知らず)定着したものと思われます。

貴方の寮歌が、旧制五高の寮歌を紹介するものであれば、もともと「武夫原頭」には巻頭言はなく、この巻頭言を掲載なさるのはいかがなものでしょう。

−−−−引用ここまで

2007年2月5日

和歌山大学寮歌「花の霞に」の吟唱

和歌山大学の寮歌「花の霞に」は、昭和15年に、吉田正巴作詞、打垣内 正作曲で作成されました。太平洋戦争後の新制大学になってから、吟唱と呼ばれる巻頭言がつきましたが、内容は熊本大学の巻頭言の写しです。

和歌山大学寮歌
「花の霞に」


(吟唱)
仰げば星斗蘭干として
  永遠の真理をささやき
黒潮は濤々として
  我等が熱情を語る
比所自然の恵み豊かなる
  紀伊の一角名草が丘
 我等が四星霜の春秋を送る
歌は悲しき時の母ともなり
  楽しき時の友ともなる
いざや歌わんかな 我等が熱血の寮歌
  花の霞に 一 ニ 三
本歌
佐賀高等学校の不知火寮訓

仰げば星斗闌干として
永久の真理を囁き
頭を廻らせば不知火炎々として若人の熱を語る。
自然の恵豊なる此の筑紫野の一角
天地の精気凝りて立てるもの
実に吾が佐高不知火寮なり
熊本大学
「武夫原頭に草萌えて」の巻頭言

巻 頭 言

仰(あお)げば星斗爛煥(せいとらんかん)として
永遠(えいえん)の真理(しんり)を囁(ささや)く
頭(こうべ)を巡らせば蘇山(そざん)遠々(えんえん)として
我等若人の情熱をそそる
天地(てんち)の恵み豊かなる肥後の一角(いっかく)
立山(りつざん)の麓(ふもと)白川(はくせん)が畔(ほとり)
これぞ我等五高健児(けんじ)の地なり
いざや舞わんかな狂わんかな歌わんかな
我等が剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の調べを
武夫原(ぶふげん)頭(とう)に草萌えて
一(アイン) 二(ツヴァイ) 三(ドライ)

関西学院大学の校歌「空の翼」の前口上

関西学院大学の校歌「空の翼」は、1933年に、前年の大学創設を祝して、北原白秋作詞・山田耕筰作曲で制定されました。当初は本歌だけでした、大戦後になって、「前口上」が付けられるようになりました。「空の翼」の前口上の内容は、佐賀高等学校の不知火寮訓、もしくは、熊本大学の巻頭言の模倣と見なされ得ます。

関西学院大学
校歌「空の翼」の前口上

仰げば星斗 闌干として 
悠久の眞理を囁き 
頭を巡らせば六甲の山野
冴冴として若人の血を湧す 
天地の精氣孤りて樹つるもの 
嗚呼實に我母校
然れば歌わん哉 叫ばん哉 狂わん哉 
熱血の歌 情熱の調べ

本歌
佐賀高等学校の不知火寮訓

仰げば星斗闌干として
永久の真理を囁き
頭を廻らせば不知火炎々として若人の熱を語る。
自然の恵豊なる此の筑紫野の一角
天地の精気凝りて立てるもの
実に吾が佐高不知火寮なり
熊本大学
「武夫原頭に草萌えて」の巻頭言

巻 頭 言

仰(あお)げば星斗爛煥(せいとらんかん)として
永遠(えいえん)の真理(しんり)を囁(ささや)く
頭(こうべ)を巡らせば蘇山(そざん)遠々(えんえん)として
我等若人の情熱をそそる
天地(てんち)の恵み豊かなる肥後の一角(いっかく)
立山(りつざん)の麓(ふもと)白川(はくせん)が畔(ほとり)
これぞ我等五高健児(けんじ)の地なり
いざや舞わんかな狂わんかな歌わんかな
我等が剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の調べを
武夫原(ぶふげん)頭(とう)に草萌えて
一(アイン) 二(ツヴァイ) 三(ドライ)

2007年2月5日

近畿大学の「近大節」の前口上

近畿大学で歌われている「近大節」には、前口上が付いています。しかし、その文面は明らかに熊本大学の巻頭言の模倣です。これだけでしたら、単なる模倣で済まされますが、さらに、問題を複雑にしている事態として、近畿大学応援部OB・OG会により「近大節」の著作権が強く主張されている点が挙げられます。

近畿大学
近大節の前口上

仰げば北針斜を指すところ
永遠の光ありて不滅の光芒は
燦として輝き。            
頭をめぐらせれば北に比叡山脈
南に金剛楠公父子がおおいたち
東をながむれば信貴生駒連山は
きょうきょうとしてそそり立つ。
おお!これぞ自然のめぐみ
豊かなる河内野の一角に誇り立つ
おお!我等が母校近畿大学なり
おお!衆児三万、
いざやいざ歌わんかなおどらんかな
舞わんかな狂わんかな我等が熱血の歌、
闘争のおどりは名物近大節の一節を
ソウリャ……
本歌
佐賀高等学校の不知火寮訓

仰げば星斗闌干として
永久の真理を囁き
頭を廻らせば不知火炎々として若人の熱を語る。
自然の恵豊なる此の筑紫野の一角
天地の精気凝りて立てるもの
実に吾が佐高不知火寮なり
熊本大学
「武夫原頭に草萌えて」の巻頭言

巻 頭 言

仰(あお)げば星斗爛煥(せいとらんかん)として
永遠(えいえん)の真理(しんり)を囁(ささや)く
頭(こうべ)を巡らせば蘇山(そざん)遠々(えんえん)として
我等若人の情熱をそそる
天地(てんち)の恵み豊かなる肥後の一角(いっかく)
立山(りつざん)の麓(ふもと)白川(はくせん)が畔(ほとり)
これぞ我等五高健児(けんじ)の地なり
いざや舞わんかな狂わんかな歌わんかな
我等が剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の調べを
武夫原(ぶふげん)頭(とう)に草萌えて
一(アイン) 二(ツヴァイ) 三(ドライ)

−−−−引用ここから

http://www.beef-net.co.jp/kindai/news/

近大で古くから歌い継がれてきた「近大節」の件で校友の皆さんにお願いがあります。この近大節という歌は、戦時中に学徒出陣をされた私達の先輩を戦地に送る際に歌われた  「報国節」がその原形で、正真正銘近大がその発祥でありますことは皆さんもよく御存知 のことと思います。ところが、この私達近大生の魂とも言える近大節が過去何度にもわたり、近大以外の大学あるいは他の団体によって歌詞の一部を変更し、メロディーもそのままに明らかに盗作され、 中には営利目的の放送や印刷物にも掲載された例があり、まったくもって言語道断言わざるを得ません。私は応援団のOBですが我々応援団OB会ではこのような事実を黙って見過ごす事ができず、事あるごとに抗議を行って参りました。他大学では明治大学や日本大学、また他団体では石原プロダクションなどがその事実を認め、謝罪・あるいは今後一切使用しない旨の確約を頂いております。ここではっきりさせておきたいのですが、この近大節の作詞作曲の著作権は近畿大学応援団 OG・OB会が保持しておりまして、これは文化庁に正式に登録されております。したがいましてこの近大節が勝手に使用された場合、著作権の侵害にあたりますことは言う迄 もありません。つきましては、校友の皆様方、万一この近大節が勝手に他団体に使用されていますのを発見さ れた場合その情報提供を是非お願いしたいと思います。ご連絡は私が応援団OB会の事務局長を致しておりますので、校友課に連絡先を言っておきますので、そちらでご確認下さい。最後になりますが、近大の学生や校友が集まってこの近大節を歌って頂くという事は何ら問題ありませんし、それどころか我々としても本当に有り難い事だと思います。ただ、これを例えばCDやテープにしたり、あるいは印刷物にする場合は、誠に恐縮ですが学生団体や校友の皆さんも近大応援団OB会の事前の承諾をとって頂くよう付け加えましてお願いし ます。   以上

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E6%8F%B4%E6%AD%8C

注1:この歌を流用・拝借した同じ曲調と節回し、類似の歌詞の歌が長い年月をかけて全国の大学や高校の間に広まったが、現在は、近畿大学応援団(現在の近畿大学応援部)が、歴史的な事実背景と共にその著作権を主張しており、無断での公的な使用を一切禁止している。なお、前述ページにて、学徒出陣者を送る「報国節」が原型とされているので、著作権の保護期間は終了していると考えられる。なお文化庁には、「作詞・作曲 石中仁人」と登録されているが、石中仁人氏は作曲家としての活動が知られ、またJASRAC全信託(JASRACに全支分権を委託している権利者)でありながらJASRACへの登録がないなど、その根拠があやふやである。

http://hosei-endan-ob.com/cgi-bin/bbs/OB-KAIbbs.cgi?no=988&reno=971&oya=916&mode=msgview&page=0

近大節の著作権について。:   近畿大学応援団OB会は著作権を保有している事を理由に各校・団体等に公的使用禁止の通達を出し、各校当局等もそれに応じ、公的使用差止め状態になっているケースが多く見られますが、著作権は団体が所有する場合は発表より50年で権利が消失する既定になっています。近大節の元となった報国節(日本大学大阪専門学校)の発表より既に60余年経過しており、近大節の発表からも50年以上は経過しているはずです。著作権の権利消失期限を過ぎていないと主張するならば、神田周辺5校(日大・法大・明大・中大・専大)他の方が先に発表していた事になってしまい事実と矛盾してしまいます。50年以上前に近大節以外の応援団節が歌われていたという証拠があれば、近大節の著作権消失が立証できるはずです。応援団節を使用する為に近大以外の応援団側から裁判を起こす事はないでしょうけど、もし、○○節を公的使用したことに対して近大応援団が法的手段に打って出てきたとしても裁判には勝てると思います。(その代わり消失以前に使用してきたことに対する賠償金が発生する可能性もあります、どれくらいの回数使用したかを証明するのは困難なので謝罪で済む可能性も)本当は嘗て近畿大学応援団より公的使用か許可されていた日本大学応援団が現在していれば、賠償金を発生させずに近大節の著作権消失を訴えることが出来たはずなのですが・・・  南洋航路・ラバウル小唄と報国節・近大節の関係性については文化庁が近大節の著作権を認めたという時点で、(類似していても)公的に別物と認められたと考えるべきでしょう。

−−−−引用ここまで

2007年3月12日記

松山大学(松山商科大学)有師寮寮歌口上文

松山大学には、学歌のほか、寮歌が数曲伝えられています。その中で、有師寮の寮歌には、口上文と呼ばれる巻頭言が付いています。巻頭言は、寮生が代々口伝で伝えてきたものだそうです。文面から、熊本大学の巻頭言を参考に作成されたもと思われます。

松山大学(松山商科大学)
有師寮寮歌口上文


 石鎚連山東に仰ぎ 
 古城そびゆるその麓
 味酒が原の一郭に 
 健児の宿る棲家あり
 その名も松山大学有師寮
 さあ 
 我ら歌わんかな
 歌わんかな
 有師寮第一寮歌
 一番・二番・三番
 eins, zwei, drei,

本歌
佐賀高等学校の不知火寮訓

 仰げば星斗闌干として
 永久の真理を囁き
 頭を廻らせば不知火炎々として若人の熱を語る。
 自然の恵豊なる此の筑紫野の一角
 天地の精気凝りて立てるもの
 実に吾が佐高不知火寮なり
熊本大学
「武夫原頭に草萌えて」の巻頭言

巻 頭 言

 仰(あお)げば星斗爛煥(せいとらんかん)として
 永遠(えいえん)の真理(しんり)を囁(ささや)く
 頭(こうべ)を巡らせば蘇山(そざん)遠々(えんえん)として
 我等若人の情熱をそそる
 天地(てんち)の恵み豊かなる肥後の一角(いっかく)
 立山(りつざん)の麓(ふもと)白川(はくせん)が畔(ほとり)
 これぞ我等五高健児(けんじ)の地なり
 いざや舞わんかな狂わんかな歌わんかな
 我等が剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の調べを
 武夫原(ぶふげん)頭(とう)に草萌えて
 一(アイン) 二(ツヴァイ) 三(ドライ)

−−−−引用ここから
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/6336/song3.html


今まで、寮長から寮長へそして学年長から学年長へと口伝えられてきた「寮歌口上」と「第二寮歌」。文章として日の目を浴びることは、かつてほとんどなかったと思われるものです。HP開設を機にここにベールを脱ぎます。寮歌口上は、私が前任者の先輩から教えられたままですが、原作文と変わっていたら申し訳ありません。また、年に1回だけ、それも新入寮生にとっては、忘れることのできないのが、「第二寮歌」でしょう。この曲の想い出が、しょっぱい味がするのは、私だけではないはずです。ちなみに、私達の代の時に音頭を取ってくださったのが12期生の西村先輩でしたが、私の中では今でも忘れることのできない強烈な想い出のひとつです。

−−−−引用ここまで

2007年3月27日記

名古屋工業大学の新愛寮連讃歌の前口上

名古屋工業大学
新愛寮連讃歌の前口上

 自然の恵み豊かなる
 中共工業地帯の一角において
 われらが優秀なる
 名古屋工業大学のグランドの一角において
 こうべを上げて山月を望み
 こうべをたれて故郷を思う
 いざや舞わんかな
 われら独特の舞を
 いざや歌わんかな
 われら独特の歌を
本歌
佐賀高等学校の不知火寮訓

 仰げば星斗闌干として
 永久の真理を囁き
 頭を廻らせば不知火炎々として若人の熱を語る。
 自然の恵豊なる此の筑紫野の一角
 天地の精気凝りて立てるもの
 実に吾が佐高不知火寮なり
熊本大学
「武夫原頭に草萌えて」の巻頭言

巻 頭 言

 仰(あお)げば星斗爛煥(せいとらんかん)として
 永遠(えいえん)の真理(しんり)を囁(ささや)く
 頭(こうべ)を巡らせば蘇山(そざん)遠々(えんえん)として
 我等若人の情熱をそそる
 天地(てんち)の恵み豊かなる肥後の一角(いっかく)
 立山(りつざん)の麓(ふもと)白川(はくせん)が畔(ほとり)
 これぞ我等五高健児(けんじ)の地なり
 いざや舞わんかな狂わんかな歌わんかな
 我等が剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の調べを
 武夫原(ぶふげん)頭(とう)に草萌えて
 一(アイン) 二(ツヴァイ) 三(ドライ)

水産放浪歌の前口上

水産放浪歌は、北海道大学水産学部の愛唱歌として有名ですが、鹿児島大学水産学部の水産逍遙歌、全国の水産系の学校の愛唱歌としても知られています。その前口上の本歌は、「蒙古放浪歌」の序文と思われます。「蒙古放浪歌」は、昭和初期に流行っていた歌で、旧陸軍中野学校で愛唱されていた「無線放浪歌」や「三三壮途の歌(さんさんわかれのうた)」の元歌といわれています。「蒙古放浪歌」の序文は、拓殖大学の愛唱歌となってから、付けられたと思われます。「蒙古放浪歌」の替え歌は、その他に「無線講放浪歌」(電気通信大)、「蒙古放浪歌」(拓殖大)、「蒙古放浪歌」(高崎経済大)、「蒙古放浪歌」(専修大)、「蒙古放浪の歌」(岡山大空手部)などが知られています。

北海道大学水産学部の水産放浪歌の前口上

富貴名門の女性に恋するを純情の恋と誰が言うぞ。  
暗鬼紅灯の巷に彷徨う女性に恋するを不情の恋と誰が言うぞ。 
雨降らば雨降るもよし風吹かば風吹くもよし  
月下の酒場にて媚を売る女性にも純情可憐なる者あれ。 
女の膝枕にて一夜の快楽を共に過ごさずんば  
人生夢もなければ恋もなし。 
響く雷鳴 握る舵輪 
睨むコンパス六分儀  
吾ら海行く鴎鳥 
さらば歌わん哉 
吾らが水産放浪歌  
水産放浪歌 

水産大学校の水産放浪歌の前口上

富貴名門の女性に恋するを純情の恋と誰が言おうか
暗き紅燈の巷に勤めく女性に恋するを不浄の恋と誰が言おうぞ
月下の酒場に媚びを売る女性にも水蓮のごとく純情可憐なるものあれ
風吹かば風吹くよし
雨降らば雨降るよし
酒は飲むべし百薬の長
女買うべし人生無上の快楽
酔うてヨウチョウ美人の膝枕に快楽の一夜を過ごし
明くれば人生に夢なく又恋もなし
握るハンドル操る舵輪叩く電鍵覗くコンパス六分儀
あぁ我は海行く鴎鳥
明日の命を誰が知る
さらば歌わん我等の歌を
水産放浪歌    
Eins! Zwei! drei! Sir!
本歌
拓殖大学
蒙古放浪歌
作詞 仲田三孝 作曲 川上義彦
【序文】
風紀名門の子女に恋するを 
純情の恋と誰が言う
路頭に迷う女性に恋するを 
不純の恋と誰が言う
雨降らば降るがよい 
風吹かば吹くがよい
泣いて笑って月下の酒場に 
こび売る女性は 水蓮の如き純情あり
酒は飲むべし百薬の長 
女は買うべし人生無上の快楽
幼少美女の膝枕に快楽の一夜明ければ 
夢もなしまた金もなし
砕く電剣握る美林 
のぞくコンパス六分の儀
ああ我山行 渡鳥 
いざ唄わんかな 
蒙古放浪の歌を

2007年3月13日記

名古屋大学の「伊吹おろし」(第八高等学校寮歌)の前口上

第八項高等学校の代表的な寮歌である「伊吹おろし」には元々は巻頭言や前口上は付いていませんでした。しかし、後身の新制「名古屋大学」に移行して以降、大戦後になって、恐らく学生が面白半分に「蒙古放浪歌」の前口上を真似して、「伊吹おろし」の巻頭言として付けたようです。最近、「伊吹おろし」の前口上は「セクハラである!」との強い主張がなされ、公の場では唱えられなくなっているそうです。

八高等学校寮歌伊吹おろし(前口上)

富貴名門の子女に恋するを、純情の恋と誰が言う。

路頭にさまよえる女に恋するを、不浄の恋と誰が言う。

泣いて笑って月下の酒場にて媚を売る女の中にも、

睡蓮のごとき純情あり。

酒は飲むべし百薬の長、女は抱くべし陶酔の境。

女の膝枕にて快楽の一夜を過さば、

人生夢もありなばまた恋もありなむ。

風吹かば吹け、雨降らば降れ。

いざ行かんかな若き男の子よ。

暗鬼凄めく混乱の巷

いざ高らかに歌わんかな、第8高等学校寮歌、伊吹おろし


1,2,3

本歌

拓殖大学
蒙古放浪歌
作詞 仲田三孝 作曲 川上義彦

【序文】

風紀名門の子女に恋するを 
純情の恋と誰が言う
路頭に迷う女性に恋するを 
不純の恋と誰が言う
雨降らば降るがよい 
風吹かば吹くがよい
泣いて笑って月下の酒場に 
こび売る女性は 水蓮の如き純情あり
酒は飲むべし百薬の長 
女は買うべし人生無上の快楽
幼少美女の膝枕に快楽の一夜明ければ 
夢もなしまた金もなし
砕く電剣握る美林 
のぞくコンパス六分の儀
ああ我山行 渡鳥 
いざ唄わんかな 
蒙古放浪の歌を

−−−引用ここから
http://rifle.blog27.fc2.com/blog-entry-71.html

名大の伊吹おろしも、阪大と名大の対抗戦「名阪戦」で歌われますので私もなじみがあります。伊吹おろしの歌詞も掲載していますが前口上はありません。
それには理由があります。昔は名古屋大学体育会が発行する機関紙に伊吹おろしを前口上つきで掲載していたようです。しかしある時、とある先生から「セクハラじゃないのか?」という指摘があり、検討の末、機関紙から前口上が消えてしまったようです。
で、ホームページに伊吹おろしの歌詞を掲載するときも、どうしようか私とも協議した結果載せないことになりました。
何か問題を履き違えてるんじゃないのか、といいたくなりますが、仕方ないです。

−−−引用ここまで

信州大学思誠寮々歌「春寂寥」の前口上

旧制松本高等学校の後身である信州大学には、旧制時代から続く寮がいくつか存在します。思誠寮もその一つで、松本高等学校の寮歌が口伝で伝えられています。新制信州大学になって以降、代表的寮歌である「春寂寥」に前口上がつけられました。内容は完全に蒙古放浪歌もしくは水産放浪歌の模倣です。「春寂寥」にはオリジナルの短い前口上がありましたが、現在ではほとんど唱えられていないようです。

春寂寥の前口上

富貴名門の子女に恋するを
純情の恋と誰が言ふ
路頭に迷える女性に恋するを
不情の恋と誰が言ふ
泣いて笑って風月月下の酒場に
媚を売る女性の中にも
水蓮の如き純情あり
風吹かば風吹くがよし
雨降らば雨降るがよし
酒は飲むべし百楽の長
女は抱くべしこれ人生無上の快楽
妖色美人の膝枕に快楽の一夜明くれば
夢もなし 又、金もなし
いざ歌わん 春寂寥の歌
eins zwei drei
本歌

拓殖大学
蒙古放浪歌
作詞 仲田三孝 作曲 川上義彦

【序文】

風紀名門の子女に恋するを 
純情の恋と誰が言う
路頭に迷う女性に恋するを 
不純の恋と誰が言う
雨降らば降るがよい 
風吹かば吹くがよい
泣いて笑って月下の酒場に 
こび売る女性は 水蓮の如き純情あり
酒は飲むべし百薬の長 
女は買うべし人生無上の快楽
幼少美女の膝枕に快楽の一夜明ければ 
夢もなしまた金もなし
砕く電剣握る美林 
のぞくコンパス六分の儀
ああ我山行 渡鳥 
いざ唄わんかな 
蒙古放浪の歌を

春寂寥の本来の前口上

アルペンの風さつさつと
吹き来たり吹き来去る
信濃の高原に 
青春多感なりし歌声を持って
いざや歌わん
松本高校思誠寮寮歌 
「春寂寥」
EIN! TWEI!! DREI!!!

水産大学校の水産放浪歌の前口上

富貴名門の女性に恋するを
純情の恋と誰が言おうか
暗き紅燈の巷に勤めく女性に恋するを
不浄の恋と誰が言おうぞ
月下の酒場に媚びを売る女性にも
水蓮のごとく純情可憐なるものあれ
風吹かば風吹くよし
雨降らば雨降るよし
酒は飲むべし百薬の長
女買うべし人生無上の快楽
酔うてヨウチョウ美人の膝枕に
快楽の一夜を過ごし
明くれば人生に夢なく又恋もなし
握るハンドル
操る舵輪
叩く電鍵
覗くコンパス六分儀
あぁ我は海行く鴎鳥
明日の命を誰が知る
さらば歌わん我等の歌を
水産放浪歌    
Eins! Zwei! drei! Sir!

−−−−引用ここから

http://harusekiryo.hp.infoseek.co.jp/si01.html#ha

寮歌を集めました。口上も含みます。

http://scrapbook.ameba.jp/tsiredure_book/entry-10022547698.html

寮歌のに用いられたこの文句は本来は、旧制松本高校のものでなく、北大の寮歌のものと聞いています。 詩も口上も、今振り返れば恥ずかしいものですが、これを仲間と唄い自分の孤独を慰め将来を模索していた頃がありました。

−−−−引用ここまで

熊本大学の「武夫原頭に草萌えて」の巻頭言(非正規)

第五高等学校寮歌「武夫原頭に」には巻頭言はありませんでした。現在、熊本大学で五高寮歌「武夫原頭に」が歌われる時には、「仰げば星斗爛煥として...」という巻頭言が付けられます。しかし、これは旧制佐賀高等学校の寮歌の巻頭言「不知火寮訓」の模倣であることが判っています。それも、新制「熊本大学」になってから、工学部で始まった風習が全学に広がったと推定されています。

さらに、巻頭言「仰げば星斗爛煥として...」が正規巻頭言と呼ばれているのに対し、第二巻頭言とでも言うべき「非正規」の巻頭言が、熊本大学では昔から唱えられてきました。巻頭言(非正規)は文面からして、明らかに蒙古放浪歌の序文の模倣です。恐らく、大戦後に新制熊本大学になって以降、それもかなり早い時期にこの巻頭言が創作されたようです。

最後にアイン・ツバイ・ドライの後にサ−とかけ声を入れているのは、明らかに水産放浪歌の前口上(本歌はも蒙古放浪歌の序文)の影響と思われます。Sir !という言葉を語尾に入れる言い回しは船乗り用語で、最後にサーとかけ声を入れるのも、水産放浪歌の前口上の特徴です。

熊本大学
「武夫原頭に草萌えて」の巻頭言(非正規)

雨降らば雨降る想いに
風吹かば風吹く想いに
そヾろ人の世のはかなさを知る。(ウォー)
ハイソサイエティーのメッチェンと
恋をするのが眞の恋であって
下町の娘と恋をするのが眞の
恋でないと誰が言えようか(ウォー)
酒は飲むべし百薬の長
女は抱くべしこれ無上の*
快楽なり(ウォー)
いざ歌わんかな踊らんかな狂わんかな
我等剛毅朴訥の調べ
武夫原頭に草萌えて
一 二 三 サー
* 昭和33年以前には「買ふべし」と言っていた


巻頭言裏巻

雨降れば雨降るを思い、
風吹かば風吹くを思い、
雪舞わば
雪舞うをぞ思う。
これ すなわち熊大学生寮健児の
日本の国おこしとぞ知る。
ハイソサエティのメッチェンと
恋をするのが真実の恋であって、
高田原の姐ちゃんと
恋をするのは真実の恋ではないと
一体誰れが云えようか。
酒は飲むべし百薬の長、
酔うて枕す二本木の宿
、醒めては握る天下の剣。
花は摘むべし山合の百合花、
啼鳥は聞くべし老梅の鶯、
女には抱かれるべし
 これ又 無常の快楽なり。
いざや歌わんかな、
浸らんかな、
偲ばんかな 
我らが若きロマンの歌
・・・・アイン、ツバイ、ドライ サ。
本歌

拓殖大学
蒙古放浪歌
作詞 仲田三孝 作曲 川上義彦

【序文】

風紀名門の子女に恋するを 
純情の恋と誰が言う
路頭に迷う女性に恋するを 
不純の恋と誰が言う
雨降らば降るがよい 
風吹かば吹くがよい
泣いて笑って月下の酒場に 
こび売る女性は 水蓮の如き純情あり
酒は飲むべし百薬の長 
女は買うべし人生無上の快楽
幼少美女の膝枕に快楽の一夜明ければ 
夢もなしまた金もなし
砕く電剣握る美林 
のぞくコンパス六分の儀
ああ我山行 渡鳥 
いざ唄わんかな 
蒙古放浪の歌を


水産大学校の水産放浪歌の前口上

富貴名門の女性に恋するを
純情の恋と誰が言おうか
暗き紅燈の巷に勤めく女性に恋するを
不浄の恋と誰が言おうぞ
月下の酒場に媚びを売る女性にも
水蓮のごとく純情可憐なるものあれ
風吹かば風吹くよし
雨降らば雨降るよし
酒は飲むべし百薬の長
女買うべし人生無上の快楽
酔うてヨウチョウ美人の膝枕に
快楽の一夜を過ごし
明くれば人生に夢なく又恋もなし
握るハンドル
操る舵輪
叩く電鍵
覗くコンパス六分儀
あぁ我は海行く鴎鳥
明日の命を誰が知る
さらば歌わん我等の歌を
水産放浪歌    
Eins! Zwei! drei! Sir!

神奈川大学宮面ヶ丘寮歌の前口上

神奈川大学寮歌の中の逍遙歌の前口上です。水産放浪歌の前口上を模倣したものと思われますが、本歌は「蒙古放浪歌」の序文です。文章は現代風になっていますが、寮歌の前口上としてはちょっとどうかな。

神奈川大学宮面ヶ丘寮歌(逍遙歌)の前口上

作詞/作曲 中濱基夫

(前口上)
富貴名門の乙女に恋するを純情の恋であって
裏町の廊屋に住める貧しき乙女に恋するを
不情の恋であろうと誰が云う
雨降らば雨降る時 風吹かば風吹く時
コツコツと響きし靴の音に もしやあれは
神奈川大学宮面ヶ丘寮生ではないかと
胸をときめかすも客の手前
あまた多くの男性に汚されし唇を今日もまた
赤きルージュに染め誰を待つのかネオンの乙女

酒は飲むべし これ百薬の長
女買うべし これまた人生無情の快楽なり
胡蝶美人の膝枕 昨夜の未練さらさらなし
我は浮草 根無し草 明日の命を誰が知ろう
いざ高らかに唱わんかな神奈川大学宮面ヶ丘寮歌

宮面ヶ丘に花咲きて
 (はいー)

本歌

拓殖大学
蒙古放浪歌
作詞 仲田三孝 作曲 川上義彦

【序文】

風紀名門の子女に恋するを 
純情の恋と誰が言う
路頭に迷う女性に恋するを 
不純の恋と誰が言う
雨降らば降るがよい 
風吹かば吹くがよい
泣いて笑って月下の酒場に 
こび売る女性は 水蓮の如き純情あり
酒は飲むべし百薬の長 
女は買うべし人生無上の快楽
幼少美女の膝枕に快楽の一夜明ければ 
夢もなしまた金もなし
砕く電剣握る美林 
のぞくコンパス六分の儀
ああ我山行 渡鳥 
いざ唄わんかな 
蒙古放浪の歌を

京都大学の逍遙歌「紅萌ゆる」の前口上

第三高等学校の逍遙歌「紅萌ゆる」は、日本三大寮歌の一つに挙げられています。もともと、「紅萌ゆる」には前口上や巻頭言は付いていませんでした。第三高等学校では、特定の寮歌に付かない序歌というものが存在し、各種寮歌が歌われる前に吟詠されていました。大戦後、新制「京都大学」になって、学生が面白半分に「紅萌ゆる」に巻頭言を付けて歌うようになったようです。が...、その内容は、水産放浪歌の前口上(本歌は蒙古放浪歌の序文)の完全な真似です。

“逍遙の歌”(第三高等学校寮歌)の前口上

高貴名門なる乙女に恋するを、純情なる恋と誰が言う。

路頭に彷徨(さまよ)う女に恋するを、不純なる恋と誰が言えようか。

春宵微笑の膝枕、月下の巷(ちまた)に春を売る女にまさに睡蓮がごとき純情あり。

風吹かば吹け、
雨降らば降れ。
酒は飲むべし百薬の長、
女は買うべしこれ人生無上の快楽なり。

さて、ここに集いし我等が同胞(はらから)、共に歌おうではないか。

第三高等学校寮歌 紅萌ゆる逍遥の歌 アイン・ツバイ・ドライ
本歌

拓殖大学
蒙古放浪歌
作詞 仲田三孝 作曲 川上義彦

【序文】

風紀名門の子女に恋するを
純情の恋と誰が言う

路頭に彷徨う女に恋するを
不純の恋と誰が言う

雨降らば降るがよい
風吹かば吹くがよい

泣いて笑って月下の酒場で恋する女は
水蓮の如き純情あり
酒は飲むべし百薬の長
女は買うべし人生無上の快楽
幼少美女の膝
枕に
共に快楽の一夜明ければ
夢もなしまた金もなし

握る電剣散る美林
のぞくコンパス六分の儀
ああ我山行 渡鳥
いざ唄わんかな 蒙古放浪歌の歌を

第三高等学校の序歌

ああ永劫の時の歩みに今くれゆくか我等の青春
若き生命の影にまたたく不断の光と不滅の追憶(おもひで)
夢ひき結ぶ学びの庭に悲しき思ひを胸にひめつつ心静かに友よ歌はん


北海道大学水産学部の水産放浪歌の前口上

富貴名門の女性に恋するを純情の恋と誰が言うぞ。  
暗鬼紅灯の巷に彷徨う女性に恋するを不情の恋と誰が言うぞ。 
雨降らば雨降るもよし風吹かば風吹くもよし  
月下の酒場にて媚を売る女性にも純情可憐なる者あれ。 
女の膝枕にて一夜の快楽を共に過ごさずんば  
人生夢もなければ恋もなし。 
響く雷鳴 握る舵輪 
睨むコンパス六分儀  
吾ら海行く鴎鳥 
さらば歌わん哉 
吾らが水産放浪歌  
水産放浪歌
第三高等学校『行春哀歌』の前口上

我等が華やかに美はしかりし青春の饗宴は
かくも静かにまたかくもあわただしげに尽きなんとす
友よ更に新しき盃を求めながら
我等と共にうすれゆく日の影にこの哀歌を声ひくく誦せん

−−−引用ここから

http://www.geocities.jp/kun4am/412minawakai/data_song1_ryoka.html

京都大学の前身は、第三高等学校でした。このため、部のコンパや水輪会のレセプションの際、締めくくりとして、皆で円陣を組み、前口上に続けて“逍遙の歌”(第三高等学校寮歌)を歌うのが慣例です。
読むからに蛮カラな風です。通常、この前口上は現役主将が行うのですが、仮に将来女性主将が誕生すると女性がこんなセリフを口にするのでしょうか。

−−−引用ここまで

京都大学漕艇部部歌「琵琶湖周航の歌」の巻頭言

「琵琶湖周航の歌」は、第三高等学校(現・京都大学)水上部(ボート部)の歌として、大正7年(1919年)に発表されました。ボニージャックスや加藤登紀子さんの歌で、寮歌としてよりもポピュラーソングとして有名です。新制の京都大学になってから、琵琶湖周航の歌に巻頭言がつけられたようです。内容からして、水産放浪歌の巻頭言と熊本大学の巻頭言を参考にして作製したようです。

琵琶湖周航の歌の巻頭言

風吹かば 風吹くままに
波立たば 波立つままに
漫ろヨットの儚さを知る
叡山三千尺 
天地の恵み豊かなる
琵琶湖のほとり
これぞ我が神陵の地なり
いざ歌わんかな
琵琶湖周航の歌
eins、zwei、drei!!

本歌
佐賀高等学校の不知火寮訓

仰げば星斗闌干として
永久の真理を囁き
頭を廻らせば不知火炎々として若人の熱を語る。
自然の恵豊なる此の筑紫野の一角
天地の精気凝りて立てるもの
実に吾が佐高不知火寮なり

 

拓殖大学
蒙古放浪歌
作詞 仲田三孝 作曲 川上義彦

【序文】

 風紀名門の子女に恋するを
 純情の恋と誰が言う
 路頭に彷徨う女に恋するを
 不純の恋と誰が言う
 雨降らば降るがよい
 風吹かば吹くがよい
 泣いて笑って月下の酒場で恋する女は
 水蓮の如き純情あり
 酒は飲むべし百薬の長
 女は買うべし人生無上の快楽
 幼少美女の膝枕に
 共に快楽の一夜明ければ
 夢もなしまた金もなし
 握る電剣散る美林
 のぞくコンパス六分の儀
 ああ我山行 渡鳥
 いざ唄わんかな 蒙古放浪歌の歌を

熊本大学
「武夫原頭に草萌えて」の巻頭言

巻 頭 言

仰(あお)げば星斗爛煥(せいとらんかん)として
永遠(えいえん)の真理(しんり)を囁(ささや)く
頭(こうべ)を巡らせば蘇山(そざん)遠々(えんえん)として
我等若人の情熱をそそる
天地(てんち)の恵み豊かなる肥後の一角(いっかく)
立山(りつざん)の麓(ふもと)白川(はくせん)が畔(ほとり)
これぞ我等五高健児(けんじ)の地なり
いざや舞わんかな狂わんかな歌わんかな
我等が剛毅木訥(ごうきぼくとつ)の調べを
武夫原(ぶふげん)頭(とう)に草萌えて
一(アイン) 二(ツヴァイ) 三(ドライ)
 北海道大学水産学部の水産放浪歌の前口上

 富貴名門の女性に恋するを純情の恋と誰が言うぞ。  
 暗鬼紅灯の巷に彷徨う女性に恋するを不情の恋と誰が言うぞ。 
 雨降らば雨降るもよし風吹かば風吹くもよし  
 月下の酒場にて媚を売る女性にも純情可憐なる者あれ。 
 女の膝枕にて一夜の快楽を共に過ごさずんば  
 人生夢もなければ恋もなし。 
 響く雷鳴 握る舵輪 
 睨むコンパス六分儀  
 吾ら海行く鴎鳥 
 さらば歌わん哉 
 吾らが水産放浪歌  
 水産放浪歌

−−−−引用ここから

http://www.ne.jp/asahi/on-yado/kawasemi/BBS2401-2410.htm

あまり知られていない、巻頭言というのがあるようです。
「琵琶湖周航の歌巻頭言」
風吹かば 風吹くままに
波立たば 波立つままに
漫ろヨットの儚さを知る
叡山三千尺 天地の恵み豊かなる
琵琶湖のほとり これぞ我が神陵の地なり
いざ歌わんかな 琵琶湖周航の歌 eins、zwei、drei!!

最後のドイツ語がいかにも旧制高校らしいですよね!

−−−−引用ここまで

北海道大学の寮歌「都ぞ弥生」の前口上

 日本三大寮歌の一つにも数えられる、かの有名な寮歌「都ぞ弥生」には元々巻頭言などなかったそうです。大戦後の新制大学「北海道大学」になってから、かなり早い時期に、全く関係のなかった昭和11年作の寮歌「嗚呼茫々の」の「楡陵謳春賦」という巻頭言が付けられるようになったそうです。北大恵迪寮関連のホームページ上の情報では、「嗚呼茫々の」の作詞者は御存命で、自分が作った「楡陵謳春賦」が「都ぞ弥生」の巻頭言として使われていることを嫌がっているらしい(2002年のWebページの記述から)。

 2005年になって、「楡陵謳春賦」の作者である宍戸氏は、北海道大学当局に手紙を出され、"自分の書いた楡陵謳春賦が寮歌「都ぞ弥生」の巻頭言(前口上)として唱えられることは残念でならない”と訴えられたとのこと。北海道大学学生委員会はこれを問題視し、”大先輩の作者の御意向を尊重して、良識ある対応をとるように”との広報を2005年7月に学内向けに出しています(北大学生委員会広報誌;えるむ116号)。これを受けて、北大生活協同組合は、販売している北大グッツの中に紹介してあった寮歌「都ぞ弥生」の前口上としての楡陵謳春賦を削除する作業に着手したと伝えられています(北海道大学生協2006)。

ただし、「楡陵謳春賦」が「都ぞ弥生」の前口上として唱えられることは、北海道大学の卒業生の証言から恐らく昭和40年以前から行われていた事で、現在は、「楡陵謳春賦」と「都ぞ弥生」はほぼ一体化した歌として、北大の学生文化の中に定着しているようです。「都ぞ弥生」の前口上としての「楡陵謳春賦」を廃止することに関しては、北大OBの間でも賛否両論があるようです。

北海道大学寮歌
都ぞ弥生

楡陵謳春賦(前口上)

我らが三年を契る絢爛のその饗宴はげに過ぎ易し。
然れども見ずや窮北に瞬く星斗永久に曇りなく、
雲とまごう万朶の桜花久遠に萎ざるを。
寮友よ徒に明日の運命を歎かんよりは楡林に篝火を焚きて、
去りては再び帰らざる若き日の感激を謳歌はん。

本歌
北大予科恵迪寮の寮歌「嗚呼茫々の」
楡陵謳春賦

吾等が三年を契る絢爛のその饗宴(うたげ)はげに過ぎ易し
然れども見ずや窮北に瞬く星斗永久に曇りなく、
雲とまがふ万朶の櫻花久遠に萎えざるを。
友どちよ 
徒らに明日の運命を歎かんよりは楡林に篝火を焚きて
去りては再び帰らざる若き日の感激を謳歌はん

−−−−引用ここから

http://music.2ch.net/natsumeloj/kako/1010/10105/1010573053.html

投稿日: 02/03/10 09:32

「都ぞ弥生」の巻頭言に使用されているのは、昭和11年あたりの寮歌「嗚呼茫々の」 の巻頭言です。
この作者S氏は未だご存命ですが、自ら創作した巻頭言が「都ぞ」 に使われていることにブチ切れですよ。
本人が許可した覚えはないそうで、 カナーリ激怒しておりました。また、「前口上」ということばにもブチ切れですよ。
「イナカ芝居と一緒にするな。{巻頭言}と言え」とボヤいていました。
もう九十歳に近いのに元気な方でした。

http://www.teineboshi.com/teineboshi03-2004-6.htm

最近の「都ぞ弥生」斉唱における前口上について (リレー「ていね星」2004年1月)

近年、「都ぞ弥生」を謳うとき、掛け声「明治45年寮歌、赤木顕治君作曲、・・・」の前に、別の前口上が絶唱されることが多い。42期としてそのような慣例は知らなかったのでその由縁が解からなかった。特に若い人が音頭をとる場合に多い。

  「吾等が三年を契る絢爛の・・・・」

  先般、何とはなしに見たインターネット(北大文学部OBホームヘ゜ーシ゛)でその流れが解かったので、ご存知の方も在るとは思うが受け売りする。この行為は昭和末期(「昭和」もこういう言い方がされるようになったのか。)に始まったらしい。リーダーが都ぞ弥生(M45)斉唱の前に、「嗚呼茫々の」(S11)の「序」である「楡陵謳春賦」(読みかたわからん)だけを前口上として節をつけて唱えるようになった。両寮歌は年代も離れまったく無関係であるが、某レコードが発売した寮歌集の歌い方が始まりであるらしい。「嗚呼茫々の」作詞者は激怒しているそうだが、最早これを正調歌唱法と信じる同窓生が多く、前口上付きが定着してしまったようである。然れども、我ら42期生は昭和末期より一世代前に卒業したのであるから、「嗚呼茫々の」の「序」は認めるとしても、吾等が集まりにおいては、このしきたりは行わないこととしようではないか。それにしてもこの「序」は、都ぞ弥生には遠く及ばないまでも良く出来ていると思う。

http://www.hokudai.ac.jp/bureau/gakumu/erumu/erumu-no116/miyakozo.htm

えるむ116号(2005年7月) 北海道大学学生委員会
「都ぞ弥生(明治45年寮歌)」のいわゆる”前口上”について

 皆さんは,「都ぞ弥生(明治45年寮歌)」を歌う前に「楡陵謳春賦 吾等が三年(みとせ)を契る絢爛のその饗宴(うたげ)はげに過ぎ易し…」と,いわゆる“前口上”と称して節をつけながら述べていませんか。
  かなり以前(約30年以上前)から,「都ぞ弥生」を歌う前にこの文句を述べることが通例になっているようですが,「都ぞ弥生」には序文は存在せず,「楡陵謳春賦」は「鳴呼茫々の(昭和11年寮歌)」という歌の序文として作られた作品です。
  「鳴呼茫々の(昭和11年寮歌)」,そして,この歌の序文「楡陵謳春賦」の作者で,本学のOBの宍戸昌夫 氏から,「都ぞ弥生」を歌う前にこの序文を述べることについて,作者の本意としておらず,残念でならないというお手紙が本学に寄せられました。
  「楡陵謳春賦」は,名文句ゆえ「都ぞ弥生」を歌う前に述べられるようになったものと考えられます。しかしながら,作者の宍戸氏は,このことを本意としておりませんので,これからは,大先輩である作者のお気持ちを尊重し,良識ある対応を望みます。


http://www.hokudai.seikyou.ne.jp/cgi-bin/koeboard?799

No.799  日付:2006/10/4 
質問:  手帳掲載の”都ぞ弥生”の前口上に関して 
生協で売っている北大の手帳に載っている「都ぞ弥生」の前口上は別の寮歌の前口上です。前口上の作者の方は、大学にその前口上を使ってほしくないと申し入れているので、確認のうえ訂正等お願いします。(教職員農系総代会議)
生協からの回答:  
広報課様に問い合わせたところ、昨年7月発行の広報誌にご指摘のことが掲載されていることを知りました。12月発売予定の2007年版からは前口上を削除いたします。また、他の商品には掲載されていない模様ですが、もし見つかれば削除いたします。ご指摘ありがとうございました。  06年9月 専務補佐 樋浦)

http://akyura.sakura.ne.jp/diary/?200510

2005年10月03日(月):     「えるむ」の最新号に 「都ぞ弥生」の前口上について という記事があります。これまで(っていうか記事によれば30年以上前から)、「都ぞ弥生」を歌う前には「楡陵謳春賦」という前口上をいってから歌うのが通例でしたが、この前口上はそもそも「鳴呼茫々の」の前口上として作られたもの。で、この「鳴呼茫々の」を作歌したOBから「都ぞ弥生」のときに使うのはやめてほしいとの苦情(?)がきたので、善処してくださいとのこと。で、さらに 弘前大学の北溟寮の寮歌の序章 は前口上とそっくりらしい。
これが、「いいものはみんなで使おう」というオープンソースな概念にも通じるのかどうかは定かではありませんが。ただ、寮歌そのものの前には作歌者は述べられるのに、前口上では作歌者の公表はないので、著作権意識には欠けているのは否めないかも。それでは、作歌者は浮かばれないです。「えるむ」の場合は、応募した人は「パクリ」だとわかってて、選んだ人が「パクリ」とは知らなかったということ。たぶん学生用広報誌なのに選定時に学生の意見を聞かなかったのが原因で、そのあたりが大学らしいといえばらしいんですが、、。寮歌の場合は、初めの頃の人は多分出所も知ってて、でも、いい前口上だからと使い初めて現在に至って、今頃本人登場。歴史だ伝統だと語る割には、意外とその場の流れやノリに流される学生らしさの結果なのかもしれません。絵やロゴはいいとして、北大出身者としての問題はやっぱり前口上でしょう。だって、少なくとも僕の中では、前口上と「都ぞ弥生」は一心同体といっても過言ではないほど、結び付いてしまってますから。「都ぞ弥生」のテンポも年代によってずいぶん違うようですし。人はやっぱり自分の経験が一番なんですよ。「去りては再び帰らざる若き日の感激」を思い出す時、やっぱり前口上と「都ぞ弥生」は一体なんです。で、歌ってるときは、タイムスリップしてるのでこんな問題は知らずに歌ってることになります。という屁理屈で、僕はやっぱり前口上なしで「都ぞ弥生」は歌えません。(2番以降も歌詞忘れたので歌えませんが、、。)たぶん、作歌したOBやその頃の先輩方も同様に前口上のついた「都ぞ弥生」など歌えんのでしょうが。現役の皆さんがどうするかは自由だと思いますが、、。

http://8905.teacup.com/shiketa/bbs?OF=20&BD=10&CH=5

2006年10月21日(金):   前口上が他の寮歌のものであったというのは知ってたが、まさか作者が反対してるとは。しかし、この前口上、30年も歌い継がれている時点で、この作者の手からは完全に独立してしまっていると言えるのではないか。そこでは作者の意図などどうしようもあるまい。また、作者にとって「都ぞ弥生」が青春であったというならば、我々にとっては「都ぞ弥生とその前口上」こそが青春なのである。前口上のなかった時代の人間は「自分で作るべきだ」と簡単に言えるかもしれないが、我々、後の世代の人間にとっては「都ぞ弥生」に前口上があるというのは、太陽が東から昇って西へ沈む如く自明の理であり、自らの手でどうこうできる存在ではない。仮に前口上を廃止しようという動きが起こるならば、全国に散らばる北大OBの若年世代の同志から猛烈なる反対の声が挙がるであろう。なんか最後の方は演説になってしまったが、個人的にはこのままでいて欲しいな。前口上好きな人間多いから、弁論大会とかキャンペーンやれば、かなり人が集まるだろう。現役世代の熱い前口上に対する熱い思いを語れば、作者も納得してもらえるような気がしないでもないが。

−−−−−引用ここまで

2007年2月5日

弘前大学の北溟寮々歌「都も遠し」の序章

弘前大学の北溟寮は、弘前高等学校から続く伝統ある寮で、各種の寮歌が知られています。その中でも有名な「都も遠し」には序章という巻頭言が付けられて歌われています。

北溟寮の公式ホームページ(http://www.eurus.dti.ne.jp/~thy/DAYNIGHT/daynight33.html)によれば、「都も遠し」の序章は北大の「楡陵謳春賦」に非常によく似ており、模倣だろうとの見解です。それも、大戦後の昭和40年代くらいに創作されたものと推定されています。しかし、両者の文章を読み比べる限り、「都も遠し」の序章はかなり練られた文章で、単なる模倣とは見なせないかも知れません。

北溟寮寮歌『都も遠し』 序章

 雪を頂く秀峰岩木を背に
 負うたるや古城の桜 悠々たるや岩木川の調べ
 絢爛たる我らが青春の饗宴(きょうえん)は無下に過ぎ易し
 然れども見ずや君
 北溟に輝く幸福星に影はなく
 雪とまがう鷹陵の名花 永久に萎まざらんことを
 寥々と未来の運命を嘆かんよりは
 若き恩寵の聖火を焚きて 歓楽の美酒(うまざけ)を酌み交わし
 いざいざ謳歌せん記念祭

本歌(?)
北大予科恵迪寮の寮歌「嗚呼茫々の」
楡陵謳春賦

吾等が三年を契る絢爛のその饗宴(うたげ)はげに過ぎ易し
然れども見ずや窮北に瞬く星斗永久に曇りなく、
雲とまがふ万朶の櫻花久遠に萎えざるを。
友どちよ 
徒らに明日の運命を歎かんよりは楡林に篝火を焚きて
去りては再び帰らざる若き日の感激を謳歌はん

−−−−以下引用 http://www.eurus.dti.ne.jp/~thy/DAYNIGHT/daynight33.html ※引用には省略箇所があります。

寮歌『都も遠し』の序章について書いてみたいと思う。

【歌い継がれてきた歌】
 北溟寮の寮歌である『都も遠し』は、戦前の弘前高時代から新制弘前大学に変わり、さらに緑が丘に移って30年を経た今に至るまで、幾世代もの間歌い継がれてきた大切な歌である。

【序章】
この『都も遠し』が歌われる前には、序章として必ず唱えられる一節がある。入寮してはじめてこの『序章』+『都も遠し』を聞いたわたしは、戦前の弘前高等学校時代からこのスタイルが受け継がれていると何となく 最近まで考えていた。弘前高を代表する寮歌である『都も遠し』自体は、大正11年脇本忠信・作詞 菅谷知巳作曲とクレジットされる。しかし、戦前・戦後に編集された寮歌集などを見ても、『序章』は影も形もない。また、以前話題にした官立弘前高等学校同窓会作成のビデオ『弘高青春物語』(第19夜『寮歌』の項参照)においても『都も遠し』のメロディは流れているが、序章はでてこない。

【序章のなぞ】
 旧制高校の寮歌というものは、年代の相違はあるとはいえ狭い領域で影響しあい、ある程度類似したタームを使い回していることも多いのだが、これはその範疇を越えている。 弘前高等学校側にその資料が見つけられない以上、現行『都も遠し』の序章は昭和40年代くらいに北大から輸入された文化である、というのが妥当な推論ではないか、と思われる。

【誰がいつ?】
 誰かが (多分)軽い気持ちから面白半分にはじめて、何十年かたつとそれはもうだれにも手出しができないような伝統と思われている…。 わたしは声高に「これはニセものだ」「パクッたものだから格好悪い」とする気持ちはない。コピーからはじまったものでも、すでにこれだけの年数を経て、オリジナルになってしまったような感があるからだ。 でも疑問は残る。 だれが、いつ、いったいどんな経緯で、われらが北溟寮に『序章』を持ちこんだのだろう。いまは全く歴史の闇のなかに埋もれているが、いつか明かされる日があるのだろうか……。

−−−−引用ここまで

2007年2月5日

大阪市立大学(大阪商科大学予科)の逍遙歌「桜花爛漫」のプロローグ

大阪市立大学商学部の前身である大阪商科大学予科の逍遙歌「桜花爛漫」は、作詞者・作曲者・成立年すべて不詳の歌ですが、1916年(大正5年)に旧制大阪高等商業学校 角力部 (相撲部) の応援歌として成立したと推定されています。1943年(昭和18年)頃に「プロローグ」が付けられました。旧制第四高等学校の寮歌「北の都に」、旧制新潟高等学校の寮歌「生誕ここに」 等の影響が指摘されています。しかし、「プロローグ」の吟詠には、旧制卒業生の一部には根強い拒絶反応が見られ、寮歌祭では別のプロローグが使わているそうです。

大阪市立大学(大阪商科大学予科)
の逍遙歌「桜花爛漫」のプロローグ

〜 プ ロ ロ ー グ 〜

卯の花開く現世 (うつせみ) に 
血潮の嵐渦を巻く

ここ城南の一聖地 
香陵に育まれし我等が商大予科健児

我等が青春の喜びは胸に溢れ 
(かいな) に熱き血潮のたぎるを覚ゆ
友よいざ この麗日に 
贅無き宴催さば

行春の歌合はせつつ 
栄ある使命果たさなん


いざ歌はん哉 
大阪商科大学予科逍遥歌


桜花爛漫 月朧
桜花爛漫 月朧

アインス・ツヴァイ・ドライ・サァー


本歌(?)
第四高等学校南寮々歌 「北の都」の歌詞
岡本順一 作詞 駒井重次 作曲

一、
北の都に秋たけて
吾等二十の夢数う
男女の棲む国に
二八に帰るすべもなし
五、
竪琴とりて自治の歌
声高らかに奏づれば
三つの城辺の山彦の
今を限りに呼びかえす
二、
そのすべなきを謎ならで
盃捨てて歎かんや
酔える心の吾れ若し
吾永久に緑なる
六、
自由の為に死するてふ
主義を愛して死するてふ
男の児の意気地今も尚
石は砕きて砕き得じ
三、
そのすべなきを謎ならで
盃投げて呪わんや
歌う心の吾れ若し
吾永久に緑なる
七、
藻の花ひらくうつし世に
潮の流れ渦をまく
名もなき道を行く勿れ
吾等が行手星光る
四、
髪は緑の青年が
友情の園に耕いし
いや生き繁る友垣や
三年の春をめぐる哉
八、
氷塊の如わが胸に
抱く心の解け出でて
語り明かさん今宵かな
星影冴ゆる記念祭


新潟高等学校 「誕生ここに」の歌詞
作詞 山田 定雄  作曲 小林 盈蔵

一、 
生誕ここに一年と  春は再び廻り来ぬ

草木緑に萌え出でて  雲雀は高く歌ふなり

若き誇りの二百人  光を浴びて丘に立つ

二、
揺れたち昇る陽炎や  ふりさけみれば紫の

一抹佐渡ヶ島霞  薔薇色雲よ真白帆よ
希望憧憬わが象徴  乗せて漂ふ青海波

三、
ああ青春の喜びは  胸に溢れて熱き血の

漲る吾が腕かな  さわれ微かにひそかにも
かすりて過ぐる悒愁の  黒き眸に涙あり

四、
そは歓楽に悲哀を  ふと思い出し若人が

やがて来るべき烈日の 激しき戦知ればにか
運命の前の凋落の  一葉の影思へばか

五、
無心の砂は崩れ来て  鳶は舞ひ居り悠久を

この麗日の丘の上  頌春の歌あはせつつ
贅なき宴催せば  散りこそかかれ花の雪

−−−−引用ここから
http://www.asahi-net.or.jp/~wa4k-ngtn/ocusongs/okranman.html

作者は不明です。
言い伝えでは、大正5年頃、旧制大阪高等商業学校 角力(すもう)部員であった足助重夫氏 (大正9年卒、昭和42年逝去) が1番の歌詞 (『芳葩爛漫』参照) を作ったとのことです。しかし、多数の卒業生の努力にもかかわらず、その確証は得られていません。その後、昭和4年ごろ、剣道部の諸先輩が2番・3番・4番を作詞し、剣道部歌となっています。プロローグは昭和18年頃に付いたと言われています。 (明らかに、旧制第四高等学校の 『北の都に秋たけて』 や旧制新潟高等学校の 『生誕ここに』 に影響を受けています。なお、プロローグの無かった世代が牛耳る同窓会 "有恒会" の意向としては、このプロローグを付けて歌うことを望んでいないようです。ケンカになるとか。)こうして、幾人もの学生の手によって少しずつ出来上がってきたのが、この曲です。有恒会の資料でも、作者は不明のままです。同窓生の "共有財産" だからでしょう。(2001.3.2) なお、メロディーは 旧制第一高等学校の 『平沙の北』 (明治38年 [1905年]、第15回紀念祭南寮寮歌) が原曲ではないか、とのご指摘をいただいております。ありがとうございました。


−−−−引用ここまで

2007年3月12日記



巻頭言

流星落ちて住む處
橄攬の實の熟る
あくがれの南の國に
つどひにし三年の夢短しと
結びも終へぬこの幸を
或ひは饗宴の庭に
或ひは星夜の窓の下に
若い高らう感情の旋律をもて 
思ひのまに歌ひ給え
歌は悲しき時の母ともなり
うれしき時の友ともなれば
いざや歌わんかな北辰斜め

りゅうせいおちてすむところ
かんらんのみのうるるさと
あくがれのみんなみのくにに
つどいにしみとせのゆめみじかしと
むすびもおえぬこのさちを
あるいはうたげのにわに
あるいはせいやのまどのもとに
わかいたかろうかんじょうのせんりつをもて
おもいのままにうたいたまえ
うたはかなしきときのははともなり
うれしきときのともともなれば
いざやうたわんかなほくしんななめ


北辰斜に
一、
 北辰斜にさすところ
 大瀛の水洋々乎
 春花かをる~州の
 正氣はこもる白鶴城
 芳英とはにくちせねば 
 歴史もふりぬ四百年

一、
 ほくしんななめにさすところ
 たいえいのみずようようこ
 はるはなかおるしんしゅうの
 せいきはこもるはっかくじょう
 ほうえいとわにくちせねば 
 れきしもふりぬしひゃくねん

二、
 紫さむる黎明の
 靜けき波に星かぞへ
 荒涼の氣に咽ぶとき
 微吟消えゆくさつまがた 
 不屈の色もおごそかに
 東火をはく桜島

二、
 むらさきさむるしののめの
 しずけきなみにほしかぞえ
 こうりょうのきにむせぶとき
 びぎんきえゆくさつまがた
 ふくつのいろもおごそかに
 ひがしひをはくさくらじま

三、
 悲歌に耳藉す人もなく
 沈み濁れる末の世の
 驂鸞の夢よそにして
 疾風迅雨に色さびし
 古城の風に嘯ける
 健兒七百意氣高し

三、
 ひいかにみみかすひともなく
 しずみにごれるすえのよの
 さんらんのゆめよそにして
 しっぷうじんうにいろさびし
 こじょうのかぜにうそぶける
 けんじななひゃくいきたかし

四、
 南の翼この郷に
 三年とゞまる鵬の影
 行途は萬里雲わきて
 雄圖もゆる天つ日や
 かどでの昔叫びにし
 理想の空に長駆せん

四、
 みなみのつばさこのさとに
 みとせとどまるほうのかげ
 ゆくてはばんりくもわきて
 ゆうともゆるあまつひや
 かどでのむかしさけびにし
 りそうのそらにちょうくせん

五、
 あ
若き日の光榮は 
 今年十四の記念祭
 祝ふもうれし向上の
 旅の衣に散りか

 樟の下露Cらけく
 けふ南明の秋にして

五、
 ああわかきひのこうえいは
 ことしじゅうしのきねんさい
 いわうもうれしこうじょうの
 たびのころもにちりかかる
 くすのしたつゆきよらけく
 きょうなんめいのあきにして


【参考文献・引用文献】


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