戦争と第七高等学校造士館
長崎原爆被爆の記録

原爆はこうしてつくられ落とされた
−悲運の長崎と被爆した学友たち−

原爆はこうしてつくられ落とされた−悲運の長崎と被爆した学友たち−

原爆はこうしてつくられ落とされた−悲運の長崎と被爆した学友たち− 上山惟康(1999)
原爆はこうしてつくられ落とされた−悲運の長崎と被爆した学友たち−.346pp. 
デジタルプリント,東京. 1999年8月9発行.

はしがき

 20世紀も終わりに近く、まもなくミレーラムを迎える。この百年を振り返ってみると、実にさまざまなことが起こつているが、私にとって、いや多くの人にとって最大の事件は、やはり真珠湾ではじまり、原爆投下で終わった太平洋戦争ではなかったろうか。

 近代戦の所産である総力戦の概念、そこには前線と後方の区別はなく、戦力低下をねらう都市への無差別攻撃が生まれる。ヨーロッパで始まり、中国へ、そして日本全土へと拡大し、あげくの果に途方もない破壊力をもった原子爆弾が行使される。


 1945年(昭和20年)8月15日、日本は太平洋戦争に敗れ無条件降伏するが、その直前の六日に広島、九日に長崎に原子爆弾が投下され、両市とも壊滅的な打撃をうけ、約30万人の命が失われる。

 当時、われわれも長崎の三菱兵器に勤労動員され、航空魚雷の製造に従事していた。旧制の第七(しち)高等学校造士館の二年生、17、8歳の時である。
                                                   
 私は、原爆投下の前日に、病のため長崎を離れたおかげで、幸運にも業火(ごうか)をまぬがれたが、多くの学友たちが原爆の犠牲になり、生きながらえた者も原爆後遺症で長く苦しむことになる。そして、誰しもが心に癒しがたい傷を負う。


題字:加茂冬蔭
 以来、私は長崎のことを口にするのを深く慎しんできたが、一方は原爆はどのようにしてつくられ落とされたのか、なぜ長崎が生け贅にされたのか、その背景や経過をつぶさに知りたいと願うようになる。

 しかし、回顧録などの断片的な情報はあっても、その真相は40年もの長い間、厳秘のベールに包まれてきた。原爆の核心部分は依然として機密であるが、ようやくここ10年、当時の往復文書、覚書、議事録などの生資料が公表され、原爆開発から投下に至る主要な経過が、ほぼ明らかにされたかと思う。

 そして、調べれば調べるほど、長崎は悲運に包まれており、巻き込まれた学友たちはまことに不運だったと思うようになった。

 そこで、核分裂現象の発見から原爆が構想され、ウラン研究、パイロットプラントの段階を経て、本格的な開発製造がはじまり、原爆投下に至るまでの全過程をたどり、長崎の悲運を明らかにしてみたいと思う。
 
 アメリカが原爆開発を明確に意思決定したのは、太平洋戦争の直前であるので、見方を変えれば太平洋戦争は皮肉にも原爆の開発にはじまり、原爆投下で終わったとも言える。よって、原爆開発の経過を叙述するに当たっては、当時の時代背景を思い起こしていただくよすがに、真珠湾にはじまる太平洋戦争での印象的な出来事と、友人たちと共有する私の青春のつたない思い出を添えることとした。

 長崎の被爆については、これまで発表された表の記録によらず、専ら七高の学友たちの手記を中心に構成した。多くの学友たちの手記を実名で収録させていただいたのは、これらの貴重な記録をまとめて残したかったからで、お許しを乞う次第である。

 原爆開発の歴史については、特に「資料 マンハッタン計画」から多く引用させていただいたことを記して、感謝の意を表する。

 核分裂現象は、人類が初めて原子力エネルギーを手にした画期的な発見でありながら、不幸にして原爆開発を指向し、第二次大戦を通じて最も悲劇的な結末を迎える。

 戦後、アメリカが意図した原子力の国際管理は機能せず、各国が原爆開発に狂奔し、その威力も運搬手段も長足の進歩を遂げ、冷戦下で頂点に達する。

 現在でもインド、パキスタンの核開発、先進国の臨界前実験などが世界を騒がせており、今日依然として、人類を破滅の淵に突き落としかねない凶器として、重くのしかかっていることに変わりはない。

 そのためもあって、われわれが現在享受している原子力の平和利用によるメリットも色あせて見えるし、人類は未だに原子力のもつ表裏二面の特質のなかを揺らいでいるといえよう。
                                      
 原子力という言葉すら知らないままに、突如凶暴な原子爆弾によって、前途有為(ぜんとゆうい)な若い命を奪われた悲運の学友たち、そして数多くの原爆犠牲者たちの冥福をあらためて祈り、謹んでこの一文を捧げる。(合掌)

                                       1999年6月

もくじ

は し が き
原爆はこうしてつくられ落とされた
 −悲運の長崎と被爆した学友たち−
1
一. 真珠湾奇襲攻撃 2
(一) 太平洋戦争勃発 2
(二) 猛烈な雷撃訓練 6
(三) 真珠湾の魚雷攻撃  10
(四) 軍神横山少佐 13
(五) 特殊潜航艇の生い立ちと構造 16
(六) 真珠湾へ潜入 18
(七) ニミッツの危機管理 25
二. 原爆開発の構想とウラン研究 29
(一) 核分裂の発見 29
(二) アインシュタインの書簡と「ウラン諮問委員会」の設置 37
(三) 「国防研究委員会」の発足、ブッシュとコナントの登場  42
(四) 「科学研究開発局」の創設、「最高政策グループ」の任命  45
(五) 原爆開発の意思決定  46
三. ミッドウエー海戦 49
(一) 指宿のお墓 49
(二) 祖父と前田どん 52
(三) 父の歓送会 55
(四) 東京初空襲 59
(五) ミッドウエー上陸作戦 62
(六) 暗号解読のうえ迎え撃つ 63
四. 優雅な三年生 71
(一) 軍事教練の強化 71
(二) 学友らとの交遊  73
(三) 奇妙なウナギ捕り 79
(四) 小魚掬(すく)い  82
(五) 予科練のホームステイ  85
(六) 鹿児島のお祭り 89
五. 山本司令長官の戦死 96
(一) ガダルカナル攻防戦 96
(二) 山本長官の戦死 98
(三) 再び暗号解読 100
(四) 映画「海軍」のロケーション 104
六. 原爆開発の具体化 108
(一) パイロットプラントの段階へ  108
(二) 原爆開発の全般政策 110
(三) マンハッタン計画 113
(四) 司令官グローヴズ准将 114
(五) 世界初の原子炉(エンリコ・フエルミ炉) 116
(六) 「ロスアラモス科学研究所」とオッペンハイマー博士  121
(七) 大規模製造施設  124
七. 七高入学の頃  127
(一) 進学前  127
(二) 旧制七高入学  129
(三) 父帰る      134
(四) はじめての寮生活         137
八. 原爆開発の進展 142
(一) 開発の急進展 142
(二) プルトニウム生産用原子炉 146
(三) 徹底した機密保持  149
(四) 海外での諜報活動        154
(五) ウラン資源の確保              156
(六) 運命の決定、日本への原爆行使        157
(七) 原爆投下専門の部隊編成          161
(八) 原爆基地テニアンの整備          164
九. 長崎へ勤労動員             167
(一) 航空魚雷の専門工場へ配属 167
(二) 工場の宿舎  169
(三) ささやかな抵抗        171
(四) ノミ、シラミとの格闘      172
(五) 休日の楽しみ              174
(六) 三等水兵の悲哀         178
(七) 鋳造工場へ配置転換       181
(八) 電気炉の作業             183
(九) 空襲でわが家焼失          185
(十) 長崎は空襲されないという風説         187
(十一) 技師たちとの会話    189
(十二) ほのかな慕情       190
(十三) 極度の消耗でダウン、一時帰省      193
十. 原爆投下作戦準備 198
(一) ルーズベルト大統領の急逝  198
(二) 暫定委員会」(後の「原子力委員会」)の発足  200
(三) 原爆投下部隊テニアンへ進出     206
(四) 目標の選定と技術課題の詰め    207
(五) 「リトルボーイ」と「フアットマン」   209
(六) 主要目標として京都、広島が浮上  216
(七) 「暫定委員会」の原爆対日使用方針  220
(八) シカゴ・グループの反対意見  222
(九) 目標が長崎へ暗転    225
(十) ウォーナー伝説      229
十一. 原爆実験  232
(一) アラモゴードの実験とポツダム会談     232
(二) グローヴズの実験報告書        237
(三) フアレル将軍の印象記     239
(四) 模擬爆弾「パンプキン」による日本爆撃訓練   241
十二. 原爆投下 246
(一) 原爆投下命令 246
(二) 予行演習  248
(三) 広島への投下    250
(四) 長崎への投下      255
(五) トルーマン、スチムソンの声明       259
十三. 被爆した七高生たち          263
(一) 空襲警報解除後の不意打ち   263
(二) 運命の分かれ目   266
(三) 爆発の閃光と衝撃波      269
(四) 自決した粂(くめ)さん       277
(五) 園田さんの死      280
(六) 工作技術課の加藤さん     282
(七) 悲劇の分工場、上田、田中、西薗、百留、増田さん  287
(八) 爆心に居合わせた権藤、二宮さん   290
(九) 死神に魅せられた冷川(ひやかわ)さん     292
(十) 行方不明の平島、貴島、吉田さん   296
(十一) 重傷を負った学友たち     296
十四. 終 戦 305
(一) 疎開先での日々 305
(二) 終戦の日 308
(三) 母校を訪ねて        313
(四) 造船所で被爆した姉         316
(五) 終戦後も続いた救護活動          323
(六) 被爆した学友たちのその後       328
(七) 悲運の長崎              335
参考文献 343

著者略歴

上山惟康(うえやま これやす)
1927年 生まれ。
鹿児島市武小、県立鹿二中、七高卒。
1950年 京大工学部卒。
1950年〜53年 大学助手。
1953年 東京電力入社、
1985年 理事原子力開発本部副本部長
1985年〜97年 小田急建設、専務、副社長。

原爆はこうしてつくられ落とされた
 −悲運の長崎と被爆した学友たち−
一九九九年八月九日発行
著 者 上山惟康
発行者 小林昭弘
発行所  有限会社 デジタルプリント
東京都三鷹市中原
印刷・製本 株式会社 平河工業社
落丁・乱丁はおとりかえいたします。

謝辞:

本書の著者である上山惟康様から、御高著の全文転載を快諾していただきました。上山様に御礼申し上げます。



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