第七高等学校造士館 写真集

黒木剛司郎さんのアルバム集
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三浦靱郎先生の遺品
三浦靱郎先生の遺品

 先生は昭和11年から3年間、独文担当で在任され、バスケット部のコーチも担当するなど、生徒から敬愛された方です。

多くのクラスとの記念撮影がありますが、東京七高会会報に一部掲載しました。

お送りするのは、都合で未掲載になっているものです。


明治38年のものは、三浦吉兵衛(ご尊父、創立時の独文担当で明治末に五高に転任)先生の遺品ですが、最前列の左端3人が、左から三浦・小松原・堀田の諸先生です。

貴HPの創立25周年記念誌の永年勤続者のなかに、堀田教授の写真があります。

小松原先生は漱石の弟子の一人(英文)で、のちに姫路高校や八高の校長を歴任されました。

堀田先生は独文で吉兵衛先生の親友でした。

二人の交遊ぶりを示す葉書多数はかって七高会報に紹介しました。


靱郎先生の写真のうち、理3甲1のは背景に島津珍彦男の銅像が写っているのと、私の一年上なので、どっぺって同級になった猛者がいたので懐かしい写真です。

このクラスは新米の若い先生をいじめることでも有名でした。

黒木さんのクラス写真

黒木さんのクラス

昭和11年入学ですが、1年次の担任は漢文の田森先生。

2年と3年は化学の松原先生でした。

3年に進級する昭和13年春、厳格な授業と実験指導で知られた久保田温郎先生が突然退任されたことで、松原先生が無機に続いて3年次の有機化学も担当されたのでした。

有機が先生のご専門であり、先生としても七高就任以来初めての担当科目であったことで、講義はきわめて熱のはいった活気のあるものでした。


卒業予餞会の席で拝聴した、先生の

「お前たちとは2年ものつきあいだった・・・・」

と落涙されつつ別れを惜しまれた挨拶が忘れられません。

先生は、落第2年目の背水の陣にある生徒を研究室の一隅に寝泊まりさせ、試験勉強を監督されたほどの熱烈な教育者でありました。

裏門直前の生徒本人は、先生が夕刻食事に帰宅されると助手の眼をごまかしては、天文舘あたりをさまよったようです。

これが発覚して先生から、

「お前は何のために七高生になったのか!!」

と大目玉を食うと、

「はい。天文舘に通うためです・・・」

と答える猛者もいたようです。

なお、森山、升巴(旧姓・渡辺)両君の名がでていますが、この二人だけが先の戦争で遠い異国(ビルマとテニアン)で果てた戦死者です。

黒木さんの父上(黒木長太郎先生)の遺品から
亡父の遺品から

大正末期から昭和の敗戦後まで在職していた父・長太郎が残した写真も沢山ありましたが、七高会会報などに載せております。

ここでは、戦時下のインターハイで優勝した弓道部の写真をお送りしてみます。

  • 七高造士館卒業生の黒木剛司郎さん(昭和14年理甲)から貴重な写真情報を提供していただきました。
  • これらの写真は、他には未公開の貴重な映像だと思います。
  • 貴重な写真を御提供下さった黒木剛司郎さんには篤く御礼申し上げます。

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