----- 第七高等学校造士館 -----


そもそも現在の理学部は、文理学部を引き継ぐ格好で昭和43年に発足、さらに文理学部を遡れば、明治から昭和の太平洋戦争終了時まで続いた旧制高校のナンバースクール「第七高等学校造士館」がその起原となります。このページでは、平成7年3月に退官された橋口正夫・鹿児島大学名誉教授の書かれた「七高造士館」(特に数学関係)に関する原稿を記載します。

*七高造士館に関する資料をひろく募集しています。admin

  1. 沿革 
  2. 教授の逸話など 
  3. 参考文献
  4. 七高数学教授リスト

 

(1)沿革

明治6年までの鶴丸城

 設立は明治34(1901)年3月。前身は安永2(1773)年に薩摩25代の藩主島津重豪によって創設された藩学造士館。造士館は独自の学風を誇り、あまたの人材を輩出して明治維新の原動力となり、維新後も鹿児島県立中学造士館、鹿児島高等中学造士館、鹿児島尋常中学造士館として継承された。全国第七番目の高等学校の鹿児島誘致には、旧藩主島津忠重の絶大な支援が功を奏したといわれ、校名も昭和21(1946)年3月に「第七高等学校」と改められるまでは「第七高等学校造士館」と称されていた。昭和24(1949)年5月に鹿児島大学が創設されて七高転換の文理学部が発足し、残存する七高は「鹿児島大学第七高等学校」となり、翌昭和25(1950)年3月に半世紀にわたる歴史を閉じた。

 校舎は緑したたる城山を背に、錦江湾越しに雄大な桜島を正面に望む鶴丸城址にあり、南国の人情豊かな史と景の地をあこがれて全国各地および外地より英才が集まり、9279名の卒業生と 344名の修了生を送り出した。その間、昭和20(1945)年6月の鹿児島大空襲による校舎全焼、同8月の長崎における多数の勤労動員生徒の被爆等の悲惨な出来事も経験した。やがて終戦を迎えたが、戦災で灰塵に帰した鹿児島市はじめ県下の各都市に授業を再開できる場所はなかった。ようやく11月になって出水郡高尾野町の出水海軍第二航空隊の旧施設の利用が許され、昭和22(1947)年9月の鶴丸城址復帰まで、この落ち着いた北薩の地で、地道に変革の時期を過ごすことができた。あの厳しい食料難の中で多数の人員を暖かく受入れ、しかもこの地を県の文教地区にとの夢の中で七高の鹿児島復帰に理解を示された北薩地方の方々のご厚意がなかったら、七高が有終の美を飾り、当時至難とされた鹿児島大学の設立を見ることはなかったかもしれない。

城山から見た七高

 七高関係の資料は、戦災と戦後の鹿児島大火による鹿児島大学の類焼で藩学時代からの貴重な文献も含めてほとんど焼失し、記録誌や思出集等が当時を知るよすがに過ぎない。七高のあった鶴丸城址は県の歴史資料館「黎明館」は図書館に、出水航空隊跡は高尾野町立下水流小学校になり、由緒ある文教施設として歴史の中に生きている。昨平成5(1993) 年3月に同小学校創立百周年の記念行事があり、鹿児島大学男声合唱団OB会「楠声会」が招かれて七高寮歌集を披露し、地元七高会も1500冊の図書を贈って謝意を表した。校門横には教材の防空濠と並んで七高記念碑があり、地元ではここに七高があったことを郷土の誇りとして大切にしている。その七高も来る21世紀当初には創立百周年を迎える。 


(2)教授の逸話など

 

ウィルヘルム・ジュース (Wilhelm Suss) 教授

 第一次世界大戦で連合国側にあった日本は、敗れたドイツへ賠償の一つに文化使節の派遣を要求し、ジュース教授はドイツ語教授の一人として大正12(1923)年に七高に赴任した。当時理乙の生徒であった京都大学名誉教授の川畑愛義氏の七高の思い出 (文献(3) 後篇) によると、鹿児島の風光と人情をこよなく愛し、いつも和やかな顔に微笑をたたえて、決して感情を露骨に表すことなく、終始温情の匂う教授法であったという。当時の七高の思い出には必ず同教授の名が出るほど生徒に親しまれ、亡くなられた翌昭和34(1959)年には七高同窓生によるジュース先生追悼会が東京で開かれ、寄せ書きが上記の川畑氏によって同夫人に届けられたとのことである。

  専門は微分幾何学((上)(付))。卵形線、卵形面などの論文が多く、日本語による幾何学の本も出版している。かねて夫人に自分の数学研究の基礎は鹿児島時代にできたと話していたという。昭和3(1928)年に帰国、グライフスワルト大学私講師を経て昭和9(1934)年にフライブルグ大学教授に就任、学長をも勤めた。当時ドイツ数学会の会長として数学研究所の設立に奔走、昭和19(1944)年にオーベルヴォルファッハ数学研究所を設立し、昭和 33(1958)年に急逝するまで所長としてその発展に尽した。同教授および同研究所については、文献(17)、(18)に慶応義塾大学名誉教授の小畠守生氏による詳細な紹介がある。 

黒木長太郎教授

 七高に赴任した折、理科の大先輩久保田温郎、村上春太郎の両教授より「数学をしっかりやってくれ、そうすれば化学も物理も自ら伸びる」と激励され、両手を差しのべて抱き込まれるような愛情を感じたと、七高教授会の暖かい雰囲気を七高の思い出 (文献(3) 前篇) で述懐している。当時理乙の生徒であった愛知がんセンター名誉総長の今永一氏は、教授の追悼文 (文献(16)) の中で、当時の七高は理科の大学合格率が他の高校に比べて低く、これは数学のせいだとの世論が校内にあり、黒木先生はそれに応えて迎えられ、数学を十二分に体得されている上に教え方が上手で、生徒たちはいつしか数学に興味を覚えてよく勉強するようになったと、その信望ぶりを述べている。

  黒木教授は、やがて「黒長」の愛称で広く親しまれるようになり、温厚誠実で実行力に富む人柄を買われて生徒主事に就任、のちに教頭をも勤めた。やがて戦時体制に入ると、自由な気風の高校生活にも厳しい規律が求められ、生徒たちからは黒長打倒と叫ばれたりもしたが、持ち前の人間味と説得力で大任を全うした。  戦後は学校法人津曲学園に移り鹿児島高等学校校長兼鹿児島経済大学学長を勤めた。黒木教授は小・中・高・大のすべての教職を経験し、その意味でも貴重な存在で、教育指導の目標は誠実・清潔・礼節であるとの信念を貫き、独自の教育を実践してその実をあげた。なお、当時の鹿児島経済大学では、数学は語学と共に最も重要な教養科目とされ、週2コマの通年講義が全学生に必修として課されていた。 

天草卯教授

 戦後間もなく、当時出水にあった七高に赴任。講義は周到に準備されて分かりやすく、時折挟まれる雑談も有益であった。ドイツ語を得意とし、数式などもドイツ語読みで新鮮な感じを与えた。赴任して間もなく教務課長に任ぜられ、戦後の難しい時期の煩瑣な教務事項を次々と処理し、七高の鹿児島復帰やその後の鹿児島大学の設置でも中心的役割を果たした。大変な生徒思いで、1年限りで修了する最後の学年の大学受験でも、新制高校卒業者に比べて不利にならないよう文部省にくい下がり、それが叶わぬとなると授業内容を入試を意識したものに切り換えるなど、現実への対応もできる方であった。

 天草教授は、鹿児島大学の発足と共に文理学部教授に就任、その基礎造りに貢献した。まずは一般教養の授業。これまで3年かけて教えていたのを1年半で済ますことになり、学部の先生方から一般教養は何をしているのかと苦情を言われるのではと案じたが、結果は「さすがに七高はえらいもんだ。今度進学してきた学生は学究的でしつけも良くできている。」と褒められて嬉しかったと、七高の感化力を讃えている(文献(3) 前篇)。七高は戦災で灰塵に帰して、数学教室も全くの無からの出発であったが、天草教授は七高より移った佐伯徳樹・廣井種吉両教授、團井豪・西村巖両助教授らと協力して常に斬新な発想と行動力でその充実に努め、第1回生の卒業を見届けた翌昭和29(1954)年、既に文理改組が話題になり始めた頃であるが、若手による新しい発展を願って鹿児島大学を去った。

 天草教授は、示唆に富んだ寸言で多くの教訓を与えた。例えば、「入試問題は易しい程よい。数学のできない人が入って来ませんからね。」という具合。ちなみに、次は昭和22 (1947)年度の七高入試の数学の問題である。易しいという言葉の意味が窺えて興味深い。(鹿児島高等学校校長の海江田卓氏 (1950理六) 提供。文科は3番〜5番のみ。)   

  1. 正四面体の相対する稜の中點を結ぶ直線を軸として一方を90°だけ回転さすと、これは他方に平行となることを証明しなさい。

  2. 二點P、Qが円周上の一點Aを同時に同方向に出発して夫々一定の角速度α弧度/秒及びβ弧度/秒で此の円周上を運動する。出発後1秒の時から4秒の時までの間に於けるP、Q間の距離が最大及び最小になる時を求めなさい。但しα−β=1である。

  3. (イ) 円形の針金が日光によって光線と垂直な平面上に作る陰影は何と言う曲線であるかその名称を書きなさい。

    (ロ) く形(矩形)の紙がある。これを真半分に折るともとのく形と相似な形になる。どんなく形ですか。

  4. 赤球二個と青球一個と紫球一個と合計四個の球がある。これを一個つるすか、又は二個縦に連結してつるすか、又は三個縦に連結してつるすかして信号をするときに全部で何通りの信号をなし得るかを実際に順序よく列挙して示しなさい。但し赤球はaで、青球はbで、紫球はcで表わして答えなさい。
  5. aはAの不足近似値(即ち真の値より小さい近似値)で誤差は絶対値に於てdよりも小さいならば a+(A−a2)/(2a+d) の方がaよりも更によい近似値であることを證明しなさい。但しA及びaは正數である。

 

(3)参考文献

  1.  鹿児島大学十年史、同三十年史,鹿児島大学 (1960;1980) 
  2.  北辰斜にさすところ、第七高等学校造士館50年史、財界評論新社 (1970) 
  3.  七高思出集、前篇、後篇、第七高等学校造士館同窓会 (1960;1963) 
  4.  七高同窓会名簿、七高同窓会 (1964) 
  5.  七高七十周年記念誌兼会員名簿、第七高等学校造士館同窓会 (1971) 
  6.  会員名簿、第七高等学校造士館同窓会 (1990) 
  7.  全国旧制高校人物名鑑、名簿刊行会 (1989) 
  8.  全国旧制高校名鑑、人物名鑑社 (1993) 
  9.  鹿児島大学総合名鑑、学友会センター出版部 (1988) 
  10.  鹿児島大学職業分野別名簿、文教出版 (1993) 
  11.  東京大学理学部数学教室大学院数理科学研究科名簿、東大数学同窓会 (1994) 
  12.  京都大学卒業者人名録、京都大学卒業者名簿編纂委員会 (1977;1994) 
  13.  九州大学理学部同窓会名簿、九州大学理学部同窓会 (1990) 
  14.  鹿児島百年、上、中、下、南日本新聞社、春苑堂書店 (1968;1967;1968) 
  15.  郷土人系、上、南日本新聞社、春苑堂書店 (1969) 
  16.  黒木長太郎先生追悼録、黒木長太郎先生追悼録刊行会 (1974) 
  17.  小畠守生:オーベルヴォルファッハ数学研究所(1)、(2)、蟻塔 3、4月号、共立出版 (1976) 
  18.  小畠守生:ジュース教授のこと、数学セミナー 3-82、 日本評論社 (1982) 
  19.  百年のあゆみ、高尾野町立下水流小学校創立百周年記念事業実行委員会 (1993) 
  20.  日本の数学100年史、上、下、岩波書店 (1983;1984) 
  21.  日本の数学100年史付録1、上智大学数学教室 (1993)

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