鹿児島大学理学部同窓会のホームページ
2006年度の最新情報
第七高等学校造士館 第14回紀年祭歌
北辰斜に

【北辰斜の曲を用いた全国学校の歌】


寮歌「北辰斜に」の解説は「北辰斜に」の解説のページにもどる
寮歌「北辰斜に」の詳細は七高造士館寮歌「北辰斜に」のページへ


七高造士館の「北辰斜」の曲を用いた、応援歌は全国のいくつかの学校で知られています。


(1) 愛媛県立宇和島東高等学校 漕艇部応援歌「佐田岬」
佐田岬 〜漕艇部応援歌〜
作詞: 徳本光信 曲: (北辰斜めにさすところ)
 一.
  佐田岬(さだのみさき)に沈み行く 
  燃(も)ゆる夕日を背にあびて
  夕もやこもる宇和島の
  紺碧(こんぺき)の海音たてて
  漕(こ)ぐやオールの音高く
  鉄腕うなるボートマン
   
 二.
  世は享楽(きょうらく)の風(ふう)に酔い
  虚栄の夢にまどろむも
  戦雲暗し琵琶の湖
  比叡のおろし雲を呼び
  滋賀のさざなみ狂乱の
  怒濤(どとう)と化せん争覇戦(そうはせん)  
 三.
  一度(ひとたび)飾りし優勝も
  槿花(きんか)の夢と化してより
  咬龍(こうりゅう)暫(しば)し時を得ず  
  臥薪嘗胆(がしんしょうたん)技(ぎ)を磨く  
  健児七百血に泣きし
  星霜ここに幾年か
 四.
  あゝ慷慨(こうがい)の丈夫(ますらお)が
  今扼腕(やくわん)の骨ぞなる
  血潮(ちしお)をすゝる盟友(めいゆう)の
  雪辱(せつじょく)期する意気悲壮(ひそう)
  こげやオールのるるまで
  漕げや鉄腕折るるまで

佐田岬 〜漕艇部応援歌〜 mp3録音

【徳本少佐と応援歌「佐田岬」】

 宇和島中学校(宇和島東高等学校の前身校の一つ)端艇部が全国大会で初優勝を飾った大正14(1925)年、第1回近県中等学校端艇競漕大会(松山高等学校主催・三津浜)でも宇中端艇部は優勝の栄冠を手にした。その後、昭和に入り優勝を奪われては取り戻す状況が続いていた。しかし、琵琶湖に遠征しての全国大会では、その優勝は遠のいていた。選手たちは雪辱を期して連日猛練習に励み、先輩そして朋友もその挽回を願っていた。

 瞬時を惜しんでの練習にあっては、毎年6月に行われていた約1週間の兵営宿泊も彼ら選手にとっては痛手だった。当時選手であった岡田頼鹿(宇中32期)は、「僅か七日間と人々は云うかも知れぬ。然しそれが我々には如何に影響するか、吾等には一日練習を休めば前の三日の練習はなんにもならなくなるのだ」と記している。

 昭和6年(1931年)3月、3代目の配属将校として徳本光信(てるのぶ)少佐(後に大佐に昇官)が赴任した。在職は昭和10(1935)年8月までの4年間であったが、徳本教官にとっては、殺伐とした人生の中でやすらぎを覚え、人間としての幸福と平和の尊さを感じた期間であった。宇和島の素晴らしい自然を、若人たちを心から愛したのである。そして、若人の情熱を全身全霊をかけてただひたすらボートに賭ける宇中健児の姿を見て応援していた。

 徳本光信は軍人であると共に人一倍情愛の深い詩人であった。昭和6年の夏、5年生で端艇部の猛者であった菊池雅恵(宇中32期)が部員と相談の上、徳本教官に応援歌の作詞を願い出た。すると教官は心とく受け入れた。

数日後、職員室で菊池に対し 「みんなが気に入るかな」 と草稿を手渡しその場で一読した。読む程にその叙情性豊かな、しかも若人の溢れんばかりの意気を歌い上げて余すところのないすばらしい歌詞であった。

曲は、選手一同の相談で鹿児島七高寮歌「北辰斜めにさすところ」とし、教官の同意を得た。

翌朝、徳本教官は生徒控室の黒板に、巻紙に墨筆した詩を貼り出し、居合わせた生徒達が何事ならんと集まり読み始めた。

応援歌「佐田の岬」の誕生である。

 この時すでに30年にわたって歌い継がれてきた「思えばすぎし」。そしてこの「佐田の岬」の両応援歌は、宇中のボート部員・生徒のみならず、宇和島全市の青少年に愛唱されていくことになった。   

注: 徳本光信大佐は、昭和22年4月30日、部下の罪を一身に負い、B級戦犯として広東刑場で処刑された。

 (宇和島東高等学校,2006;p.25.)


【ボート部の大記録「全国8冠」(平成13年度;2001)】

 「思へば過ぎし」100周年の平成13(2001)年度に、ボート部は前人未踏の「全国8冠」の大記録を達成した。全国高校選抜大会男・女クォドルプル、朝日レガッタ女子クォドルプル、全国高校総体男・女クォドルプル、国体女子クォドルプル・女子シングルスカル(加藤和美)、全日本新人大会男子ダブルスカル(水産高溝辺達也・宇東高船田憲司)の優勝である。なかでも女子クォドルプルは全国大会完全優勝という快挙を成し遂げる活躍だった。

 ボート部は大正13(1924)年の第2選手優勝から創立100周年までに22回の全国優勝記録があった。その度、美藤明伸監督のもとで平成11(1999)年から14(2002)年までのわずか4年間に、23回優勝して一挙に記録が倍増した。しかも世界大会への出場も頻繁となり、世界の強豪と覇を争うまでになった。《後略》

 (宇和島東高等学校,2006;p.106.)

宇和島東高等学校様より、「創立110周年記念誌 はばたく夢つながる110年の想い 今 前進の瞬間.愛媛県立宇和島東高等学校.110pp.」を送付していただき、上記文章を引用させていただきました。御礼申し上げます。

【他ホームページへのリンク】


(2)福岡県立筑紫中学校(旧制)
  
;現在の福岡県立筑紫丘高等学校

聴け玄海の 波洗う
その名も古き 筑紫野に
久遠の幸を 寿ぎて
新たに立てる 我等こそ
栄えある歴史 飾らんと
胸轟かす 健児かな

栄えある友よ 若き日の
進取の意気に 奮い立ち
覇業目指して ひたぶるに
鍛えし腕(かいな) 名を込めて
千里の道に むちあてん
奮え 筑高健児かな

福岡県立筑紫丘高等学校 聞け玄海の 〜応援歌〜 (mp3録音

   応援団指揮・全校生と斉唱・・・2001年9月1日筑紫丘講堂で収録.

 ※曲は、原曲「北辰斜」から採曲されたことは明らかだが、曲自体は歌詞に合わせて原曲からは変形している。

 昭和10年より少し前の作のようだが、いきさつは不明(中馬,1995)。Wikipedia;福岡県立筑紫丘高等学校の解説では、「制定された時期はおろか、作詞・作曲者は不明。生徒達が様々な学校の応援歌や校歌から気に入った言葉を集めて作られたらしい。七五調で、生徒が作ったものとしては上手くできており、なかなか人気がある。現校歌が制定される以前、校歌の代わりによく歌われていたという。校訓の一つ「剛健」をよく表している。」との解説があり、成立時期や作詞者の詳細は不明らしい。


(3)鹿児島県立大島中学校(現 鹿児島県立大島高等学校)の応援歌

鹿児島県奄美大島の旧制大島中学校は、奄美地域出身の逸材を輩出した学校として知られています。現在は、鹿児島県立大島高等学校となっており、奄美地方の拠点校としての位置づけは現在でも変わりがありません。

旧制大島中学校では、応援歌として「噫 常夏の国なれや」が歌われていました。昭和24年に新制大島高校に移行した後もしばらく歌われていたという証言がありますが、現在の大島高校では歌われていないそうです。大島中学・大島高校の同窓会である「安陵会」の総会では年配のOBにより時々歌われているようです。

大島高校の校歌の現状や歌詞に関しては、大島高校の生物学教諭である金井賢一先生(鹿大理学部生物学科OB)の御教示を賜りました。大島中学で「北辰斜に」の曲が歌われていたという情報は、七高造士館卒業生の黒木剛司郎先生(昭和14理甲;元茨城大学学長)から、友人の堺 定様(昭和14年文甲)のお話としていただきました。

噫 常夏の国なれや

作詞 関 祐明(大中五回卒)

一.
噫(ああ) 常夏の国なれや
花絢爛(けんらん)の春あれど
木枯(こがらし)襲う秋(あき)知らず  
葛衣(かつい)に耐えぬ夏あれど
孤裘(こきゅう)骨さす冬知らず
惰眠(だみん)栄華の夢に酔う

三.
太平の夢醒(さ)めて今
向上の気に血潮湧(わ)く
若人七百(一千)奮(ふる)いたち
図南の権威たらんとし
茲(ここ)城頭に巣籠(すこも)りて
翼鍛えぬ 幾星霜(せいそう)
二.
名も太平の洋の西
深き眠りに入れる秋(とき)
きたす黒潮瀬を早み
沃饒(よくじょう)の土にしぶき飛び
万木(ばんぼく)落ちて椰子(やし)の葉に
図南(となん)の急を囁(ささや)きぬ

噫・・・ああ、感嘆の気持ちを表す声。
絢爛・・・きらびやかに輝いて美しいこと。
葛衣・・・葛の繊維で織った薄いかたびら。
孤裘・・・狐の皮で作ったかわころも。
惰眠・・・なまけて眠っていること。なにもせずに無益に過ごすこと。
太平=泰平。  太平の洋=太平洋
秋(とき)・・・たいせつな時。危険のさしせまった時。
瀬を早み・・・瀬の流れが早いので。
万木・・・多くの木。
図南・・・「荘子の鵬(おおとり)が南に向かって飛び立とうとするの意」から、南に発展しようとすること。転じて、遠くの地で大事業を起こそうとする計画。
城頭・・・城のほとり、城の上。
翼・・・ここでが図南の翼。
星霜・・・としつき・歳月。

※第七高等学校造士館(現 鹿児島大学)の紀念祭歌として作られた七高の代表的寮歌「北辰斜めに」が元歌である。
※当時、大中の先輩達が七高−東大と向学心に燃えていたことが窺える。

噫 常夏の国なれや (mp3録音)


(4)福岡県立明善中学校(旧制)
  
;現在の福岡県立明善高等学校。

 昭和10年より少し前の作のようだが、いきさつは不明。この学校出身の武藤誠氏が七高に入学して、「北辰斜に」を初めて聞いた時に、七高の歌は明善校の真似をしていると思ったというエピソードが伝えられている(中馬,1995)。

 明善高等学校の校歌制定の由来によれば; ”明善校応援歌「白旆の歌」の成立は大正12年(1923年)で、作詞者は当時3年生在学中の藤吉繁吉で、筆名を茨木冬吉と言った。 明治39年(1906年)1月2日久留米市細工町5番地に生まれ、大正12年島木赤彦の短歌に傾倒して入門し、この年明善校応援歌「白旆の歌」を作った。16歳の秋であった。曲は旧制第七高等学校の寮歌を当てた。しかし間もなく家庭の事情で明善校を中途退学し、父の家業を助けカバン類の製造販売をやりながら、傍らアララギに入会して短歌の制作を続けた。昭和3年志願して大連警察署特高課に勤務し、生活上の小康を得たが、戦争のために生活は根底から破壊され昭和22年ようやく郷里に引揚げてきた。その後、印刷所に勤めたり、司法書士をしたりしながら、作歌を続けていたが、昭和35年5月5日脳溢血のため急逝した。55歳。久留米市荘島町妙泉寺に葬られた。” (以上引用)
 とのこと。

白旆の歌(応援歌) 明善高校同窓会のホームページより

作詞:藤吉 繁吉

巻  頭  言

頭を巡らせば東に
    爛々たる高良の麗峰を仰ぎ見
西に 滔々たる筑水の清流に伏す
或いは又
   馥郁たる将軍梅の香りも高き
      ここ大原の古戦場に集い来て
菊地精悍陣中不滅の精神を受継ぎし
   我ら明善健児の誇りは何ぞ
曰く、伝統か!
   (曰く、伝統か!)
曰く、白旆の歌か!
   (曰く、白旆の歌か!)
嗚呼 いやでこの佳き日に 舞んかな謡わんかな
   我ら明善健児 白旆の歌を
「嗚呼 青春の饗宴に」
   (「嗚呼 青春の饗宴に」)


白 旆 の 歌

嗚呼青春の饗宴に 時代の風の吹き荒れて
盛るや緑酒の盃の色 今衰頽の色深く
此処玉楼の管弦に 尚武の士気は地におちぬ
栄華惰眠の幾歳を 起きてや明善健男児
男児の夢は醒めずして 文弱の世の反逆は
時の流れの果てもなし 尚武の国の光そも

  

狂瀾山と湧くところ 小笹ヶ原の夕まぐれ
白刃雨と降るところ 銀漢空に冴ゆる時
我が白旆の旗風に 血も紅の若き児が
刃向こう敵の強くとも 珠もてなりし龍胆の
必ず勝てや明善の 白旆高く翳しつつ
死しても止まぬ健男児 勝鬨共に挙げんかな

白旆の歌(mp3録音)


(5)鹿児島県立伊集院高等学校の応援歌

 宮地伸夫先生のお話によると、伊集院高校の運動会の応援歌として「北辰斜」の曲が使われていた。現在は歌われていないとのこと(宮地,1995)。

 また、中馬(1995)は、
 「前記の宮地先生のお話によると、当時の伊集院高校で運動会の応援歌として使われていたそうである。その頃の運動会は全学年を縦割りにして紅白戦の対抗戦の形式で、そのどちらかの応援歌として、代々に引き継がれていたが、後に横割りの学年対抗形式に変更となったために、応援歌が引き継がれることはなくなり、「北辰斜に」のメロディも自然消滅したらしい。」
 と記述している。


(6)大和高田市立高田商業高等学校

応 援 歌
              大和高田市立高田商業高等学校

  白熱煌う白砂に
  砕ける玉の雄々しくて
  苦節を越えし若人の
  生命を美しくたたえたり
  あゝ今ぞ聞く雄叫びに
  奮え市商健男児

  灼熱の地にまろびつつ
  酷寒の霜砕きつつ
  錬磨は遠く輝ける
  技の極美を追いていく
  あゝ今ぞ聞く歓声に
  奮え市商健男児

 ; いきさつについては、宮地(1995)に、宮地先生から中馬辰猪氏宛の手紙文の形で詳細に記述されており、宮地伸夫先生(現在、鹿児島市在住)の許可を得まして、全文を掲載いたします。一部は、宮地先生の御意見に従って、分かり易いように原文から修正しています。


 宮地伸夫先生からのお手紙

拝啓 寒さの中にもどこかに春を感じるようになって参りました。

 先日は、思いがけなく先生からのお便りをいただきましたときは、正直言って何のことだろうとびっくりいたしました。早速開封して見て、予想もしていなかった内容にまたまた驚きました。と同時に私の頭はちょうど四十年前に一足飛びにタイムスリップして、しばらくは一種の興奮状態になってしまいました。早速その日にでもお返事を認めたかったのですが、経緯だけでなく、歌詞もお知らせした方がよいのではないかと思い、部分的に記憶のあやふやな所もあったので、当時の同僚に問い合わせ、その返事を待っていて今日になってしまいました。何から書いたらよいか迷っておりますが、まず私の経歴から申し上げたいと思います。

 昭和七年生、昭和十九年三月串木野小卒、同年四月鹿児島第二中学校入学、その後終戦のどさくさに巻き込まれ、二十年の九月から、栃木県の栃木中学校、二十一年一月から千葉県印旗郡の村立八生農学校、二十二年一月から、鹿児島県伊集院中学校(旧制中から当時新制中に切り替え)に転入、(この時、農学校の一年を取り戻すため、一学年下の二年生に転入)、以後、そのまま新制伊集院高校第三期生として二十六年三月卒業、同年四月広島大学教育学部入学、三十年三月卒業。

 そして、三十年四月から、大和高田市立高田商業高校に赴任、ここで七年間奉職し、三十七年四月鹿児島に帰り、鶴丸高校を振り出しに県内各地を転勤し、平成四年三月に定年退職。そして、平成六年四月から、串木野の私立神村学園に再就職して現在に至っております。(※現在は、神村学園も御退職されておられるそうです。)

 次に、例の応援歌の件についてご説明いたしますが、始めに、私が赴任した当時の高田商業高校の様子をご紹介しておきたいと思います。

 私が赴任したとき当校は創立第二年目で、最高学年の二年生が二学級、一年生が三学級計五学級でした。また当時、大和高田市は赤字財政のため、市の予算編成が法により規制を受けていたこともあり、その結果、学校新設の認可が遅れ、第一期生の生徒募集・入試・入学式等も遅れ、やっとの思いで開校できたのだということでした。

また、校舎も、私が赴任した年度までは、以前の幼稚園舎での仮住まいで、できたばかりの学校が廃校になるかもしれないという噂が世間でささやかれることもありました。このようなことから世間からの特異な視線を感じた生徒達は、高田商業高校生であること誇りは持てませんでした。校長(昨年他界されました)はじめ全職員、この生徒達に先ず誇りと希望を持たせようと必死でした。

 「商業人はジェントルマンでなければならない。そのためには、学習指導以上に生活指導の徹底が必要である。そしてその生活指導推進の最善策はスポーツの振興である。そして、このことは生徒達が現在持っているコンプレックスの除去にも必ずプラスに働くはずだ。」

 との校長の信念のもと、用務員さんまで含め、全職員の一致団結ぶりは本当に見事なものでした。早速、幾つかの部や同好会が創設されました。

 その中に、野球部も含まれていた訳です。まだ、校舎もできていない時に始まった野球部の練習は、片道二キロぐらい離れた市民グラウンドを、行事の無いときだけ借りて練習するという不便なものでした。ほかの部も同じようなことでした。

 ところで、野球部のことで厄介な問題が浮上して来ました。それは、当時の、奈良県では夏の県予選大会には、第一試合から全校応援をする習わしになっていました。聞くところによると、他校の応援はブラスバンドがあったり、服装などもいろいろ金を使った派手なものばかりと言うことでした。しかし、高田商高は、野球部は選手の人数も道具も最小限必要なギリギリの状態で、まして、応援用のブラスバンドなどもありませんでした。

それどころか、校歌以外には応援歌も無かったのです。高田商高(当時一般には「市商」と呼んでいました)にとっては、初陣の試合です。生徒達の心情を察するときこのような状態のまま、試合に臨ませることは絶対にできない。せめて応援歌を最低二つは歌わせなければならないと言うことになったのです。

 ところが、当時、高田商高には音楽の教員は配置されておらず、かといって、外部に、作詞作曲を依頼できるような予算も勿論ありませんでした。困った揚げ句、

 「私が高校(伊集院高校)時代の運動会の応援歌(これが北辰斜にの替え歌だったのです)のメロディを覚えているので、それでよければそのメロディに合う、七・五・七・五・七・五・七・五・七・五・七・五となるような歌詞を募集したいのだが」

 と申し出たところ、

 「そうしよう」

 と言うことになり、早速、職員、生徒にこの条件付きの歌詞募集がなされ、それらの中から一つの歌詞が選ばれました。(この歌詞は確か一昨年他界された、当時の飯田真作教頭先生のものだったと私は思っておりましたが、今回、何人かの元同僚に問い合わせたところ、残念ながらはっきりした確認は得られませんでした。)このようにして一応の準備はできたのですが、私は楽譜を書いたり、楽器を弾く能力は無く、結局、私が生徒に歌って聞かせ、生徒がそれをまねて歌うと言うことを繰り返して、やっと歌えるようになりました。

 この時、

 「このメロディは、もともと、鹿児島にあった旧制第七高等学校の寮歌で、鹿児島県人には広く愛されているものである」

 と言うことも同時に紹介したのですが、代々引き継がれて行くうちに、最近では歌そのものだけが引き継がれているようです。

 このようにして誕生した応援歌は、早速その年の予選大会から歌われました。確かこの初陣の試合は橿原球場だったと思います。応援の練習中、

 「人数や楽器などでは、他校にはかなわない。しかし、節度ある態度と、声の大きさ(ファイト)では、絶対に負けず、正々堂々の応援をしよう。“市商健児ここにあり”の気概を世間に精一杯示そうではないか。」

 と、職員も生徒も一生懸命でした。楽器は、幼稚園から借りた、カスタネットとタンバリン、お寺から借りた太鼓だけでしたが、翌日の新聞に、

 「高田商高の応援に、橿原の森の鳥も鳴き止んでしまった。」

 と大見出しで、前例の無い、応援のすばらしさを絶賛してくれたほど、素晴らしい応援で、このことが、生徒達の世間に対するコンプレックスを吹き飛ばしてくれたのは明らかでした。

 その後、毎年、野球のときだけではなく、夏の金剛山登山のキャンプファイヤーのとき等にも愛唱されていたのをついこの前の出来事のように思い出します。

 そして、私が、ちょうど鹿児島に転出することになった三十七年の春の選抜に、高田商高がついに初出場を果たしたのでした。私にとって高田商高からの最高の餞をもらった感じでした。私は鶴丸高校に、赴任が遅れることの許可をもらい、私にとっては初めてで最後の甲子園での応援をさせていただきました。「北辰斜に」のメロディはこうして、三十七年の春に始めて甲子園のスタンドに、このときはブラスバンド吹奏のもと鳴り響いたのです。

このブラスバンドがいつから登場していたのか、私の記憶に残っていなかったので、当時ブラスバンドの指導をしておられた商業科の新井功先生(定年退職後大和高田市在住)に問い合わせましたところ、この甲子園初出場の三〜四年前にブラスバンド部を結成し、しかも、昔発行されていた、全国の寮歌集の中に「北辰斜に」を発見し、そこから得た正しい楽譜をもとにブラスバンド用に編曲し、指導しておられたのだそうです。 

 この甲子園初出場の試合は第一試合で一対○で惜敗しましたが、私が鹿児島に帰ってから、三十九年には甲子園夏の大会初出場で準々までいきました。そして久しぶりに、昨年の春の選抜第二回目の出場となった訳です。

 このように、県内の大会では、昭和三十年以来、ひょっとしたら今でも毎年、そして、甲子園では、計三回「北辰斜に」のメロディが流れたことになります。

 また、卒業生が部、学級、学年の同窓会をやると、校歌とともにこの応援歌がよく歌われるとのことです。このことは、やはり、「北辰斜に」のメロディが若き日の彼らの情熱を涌き立たせるのに十分な名曲だからに違いないと思います。

 なお、その後高田商業高校は、急速に堅実な発展を見せ、第一回生も、三年時には下級生に対する先輩として立派な見本となるまでに成長し、就職も百%で、現在では、それそぞれ、立派な社会人に成長しております。また、創立四年目ごろからは、生活指導面では全国から参観者が続々訪れるまでになり、スポーツ面では各種の全国大会で活躍し、また、高校入試では、開校間も無いのに競争率が連続して県下トップを示した時期もありました

私自身が二十才台にタイムスリップして興奮状態になってしまったと見え、くどい文章になりましたが高田商高の応援歌が「北辰斜に」のメロディで歌われるようになった経緯についての説明を終わらせていただきます。

 ただ、最後になってしまいましたが、実は、この応援歌を歌うたびに、私の頭のどこかにいつもあった気掛かりは、伊集院高校で既に替え歌として長年歌われていたものを窮余の策で使ったものとは言え、元はといえば、七高御出身の方々にとっては、門外不出であって欲しいお気持ちも強くお持ちなのではないか。それを、何の断りも無しに、全く縁のない学校が恰も自分で作ったかのように、公の場で歌っているのは何事か、とお考えの方もお在りなのではないだろうか。もしそうであるなら本当に申し訳ないことなのだが、と言うことでした。

 四十年も経過した今頃、こんなことを申し上げても始まりませんが、今改めて、無断で使わせていただいたことをお詫び致しますと共に、四十年間に渡り高田商高の生徒の青春の血を涌き立たせて頂きましたことを感謝申し上げ、さらに、欲張りですが、今後とも是非このメロディを高田商高の応援歌のメロディとして使わせて頂けますよう、勝手ながら改めてお願い申し上げます。

 昔を懐かしむ余り、思いつくままにペンを走らせましたため、ますます乱筆乱文になりましたことお許しください。

 今後ともどうぞ十分ご自愛の上お過ごしくださるようお祈り致します。
 
                           敬具
  平成七年三月二十四日
 
                    宮 地 伸 夫 



(7)北多久町立北多久中学校の応援歌
  ;現在の多久市立中央中学校:1983年に北部中学校と南部中学校が統合して中央中学校となる。

応援歌

      多久市立北部中学校
        不二見 達朗 作詞
        七 高 寮歌  曲

  暗雲去りて紺碧に
  北天山の峰仰ぎ
  北中一千若人が
  自由と平和の旗の下
  今ぞ集うて闘いは
  拍手の波に開かれり

  赤き土にぞ照り映える
  ラインの色も鮮やかに
  我等のナイン今ぞ撃つ
  ああ白球は青藍の
  希望の空の果て遠く
  飛び行き胸の血は踊る

  鉄腕 鉄脚 いまここに
  力の限りを示さなん
  わが北中の伝統を
  築く力は荊棘(けいきょく)の
  道といえど敢(あ)えて行く
  聞けその若き雄叫びを

  勝敗共に何かせん
  ただ若人の限りなき
  力をここに示すのみ
  走れ健児よ跳べ健児
  投げよ健児よ北中の
  光栄永遠(とわ)に輝かん

 中馬(1995)によると、不二見達朗氏の談話を紹介されている。以下はその引用;


 私は、佐賀県小城中から北京大学に学んだ。卒業して華北交通に入社し、そこで七高出身者村口猛俊君(昭和十五年理甲)と一緒になり同じ寮で生活を共にした。彼は暇さえあれば酒を飲んで「北辰斜に」を歌う人であった。お互い兵隊となったので僅か一年の短い交遊ではあったが、彼から受けた印象は強烈であった。終戦後郷里に引き揚げ、教員生活に入ったが、機会があったら「北辰斜に」の曲を活かして見たいと考えていた。

 たまたま北多久中に勤めることになった時、応援歌を作る話が出たので、自ら作詞し、曲は「北辰斜に」を採用して、生徒には鹿児島の旧制第七高等学校の寮歌と同じ曲であることを説明して歌わせた。

 思えば薩南健児の歌を北京で習得し、更に佐賀の中学校で、中学生が大きな声で合唱する姿を見るとは不思議な気がする。更に多久聖堂の楷樹が、県木として指定され学問の木として敬せられているが、この木は大正十四年七高から贈られたことと併せて運命的なものすら感ずる。  (中馬,1995;p.102)

※佐賀県の県木は楠の木となっている。


(8) 逗子開成中学校・高等学校の応援歌「黒潮」

 ウィキペディア「北辰斜に」の記事によれば、尾崎良江 『平成の愛唱寮歌八十曲選』 国書刊行会、1997年11月、188頁。ISBN 4336040443に掲載されているとのこと。


(9) 旧制仙台第二中学校の「凱歌」
  
:現在の宮城県立仙台第二高等学校
凱 歌
1.
  暁かけて匂ふなる
  桜の花に武士が
  ひそかに秘めし情こそ
  我が若人の精神なれ
  五城楼春の月
  清き哉 その光
4.
  敵塁如何に堅くとも
  鉄腕更に叱咤して
  天地動もす雄叫びは
  我が若人の力なれ
  我が友よ 矛とれや
  戦はば 我勝たん
2.
  灼熱怒風何かある
  攻めなば攻めよたおるとも
  尚止まずてふ意気こそは
  我若人の生命なれ
  泉岳我が希望
  何時の世も高からん
5.
  夕陽西に輝けり
  ああ我勝てり我勝てり
  聞け常勝の意気こそは
  我若人の誇りなれ
  我友よ歌はなん
  いざ共に光栄の歌
3.
  血涙こめて築き得し
  光栄の歴史を今にして
  など汚すべきわが胸に
  北陵健児の誓ひあり
  広瀬川 我が思ひ
  永久に尽きざれん

凱歌(mp3録音)

 ウィキペディア「北辰斜に」の記事によれば、「北辰斜に」 が元歌と指摘されている (さらに、仙台二中凱歌の影響を受けた例として、旧制多賀工業専門学校の 『吼洋寮逍遙歌』 (1946年頃作詞) が挙げられる)。とのこと。

旧制多賀工専 吼洋寮逍遙歌
作詞 塩田信雄(専金22)
作曲 塩田信雄(専金22)
採譜 宮澤信雄(学機37)
一.
 暁(あかつき)にかけて匂うなる
 櫻の花の武士(ものふ)が
 ひそかにこめし想いこそ
 我(わが)若人(わこうど)の心なれ
 五城樓(ごじょうろう)春の月
 清きかたその光
三.
 秋天山(しゅうてんやま)は紅葉(もみじ)して
 漁火(いさりび)影をひそむとも
 濁(にご)れる浮世逃(のが)れ來て
 思索(しさく)の跡を尋(たず)ぬべし
 星深く永遠(とわ)の夜(よ)に
 真理(しんり)こと伝(つと)うなれ
二.
 鶏頭(からあい)赤く炎熱(えんねつ)に
 灼熱(しゃくねつ)人を倦(う)ますとも
 吾等(われら)が自治を如何せん
 科學の巨歩(きょほ)を歩(あゆ)むのみ
 会瀬浜(おうせはま)夏の夜は
 共に泣け人の世を
四.
 響(とよ)める野分(のわき)に木枯(こがれ)せし
 木草(きぐさ)も生(せい)の営(いとな)みに
 かくれし悩み注(そそ)ぐなり
 歡喜(かんき)は常に苦難(くなん)あり
 望洋(ぼうよう)の健児吾(わ)れ
 救わなん國民(くにたみ)を

 ウィキペディア「北辰斜に」の記事によれば、仙台二中凱歌の影響を受けた例として、旧制多賀工業専門学校(現在の茨城大学工学部)の 『吼洋寮逍遙歌』 (1946年頃) が挙げられる、とのこと。


(10) 愛媛県中島町立睦月中学校の応援歌
  :現在の松山市立中島中学校;愛媛県温泉郡中島町睦月島 ⇒ 2005年から松山市中島町睦月島

  高松の下永遠に
  輝く睦月健児等の
  校章薫る秋の空
  行け青春の血は満てり
  血潮に燃ゆる睦月中
  雄図りりしく輝かせ

  苦戦の涙にじむとも
  堂々の容失わず
  山風我に吹き巻くも
  清々の意気いや高し
  倒れてやまぬ睦月中
  雄途りりしく輝かせ

睦月中学校は、愛媛県の瀬戸内海に浮かぶ睦月島という小島にある中学校です。太平洋戦争後に、中学校の応援歌に「北辰斜に」のメロディーが用いられ、現在でも歌い継がれています。その経緯に関しましては、詳細な記述がありましたので、下記に引用します。現在、睦月中学校は、中島中学校に統合され、廃校になっています。中島町は、2005年に市町村合併により、松山市になりました。


歌い継がれる造士館の寮歌

宇都宮良治 (故宇都宮孝平〈大正9・英法〉子息)
弓友だより、第20号:27-30.(1997)

拝啓
 早春の候ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。

 私は、造士館弓友会の遺族会員です。

 亡父宇都宮孝平は大正九年卒で、父が生前会誌をお届け頂くたびに楽しそうに読む姿を見ておりました。

 父没後も母綾子宛に会誌をお送り頂くことを母は大変感謝し、大切に保管しておりました。

 私は二年前にサッポロビールを定年退職し郷里松山に帰りましたが、その前年に母は逝きました。その後遺族会員宛にお送り頂く会誌は父母の霊前に供えております。

 さて、先日私の母校愛媛県立松山東高等学校(もとの松山中学−父も卒業)の友人と酒を酌み交わしておりましたところ、その内の林 定亨君という親友(元愛媛新聞社員)が、「自分が中
学生のとき、母から口伝えに聞いていた造士館の寮歌を土台にして、中学の野球部の応援歌をつくり、応援歌として正式に採用してもらったが、この間墓参に帰って同級生と懇談しているうちに今でもその中学の応援歌として歌われているので驚いた。楽譜も歌詞もあるが、作曲者不詳、作詞者不詳となっていたので、その由来を話しておいた。」と語りました。

 私は、彼に自分の父も造士館に在学し、弓友会の方から永年のご厚誼をいただいていると申しますと、その譜面を持って近く会うことを約し別れました。

 そして今日、彼が楽譜を持ってきてくれました。

 そのコピーをお送りしますから、造士館の寮歌とどう違うか、また同じなのかをお教え頂けませんでしょうか。

 彼の話しでは、歌詞の 「睦月中」とあるところ以外は、母君が歌って教えてくれた造士館の寮歌をそっくりそのまま当時の応援歌として使ったということでした。

 睦月中学は、愛媛県温泉郡中島町睦月という島にあります。

 愛媛県都松山市の沖合いに浮かぶ小島で、みかんや漁業の島です。地図をご覧になると載っているかいないかとゆう可愛らしい小さな島です。

 なぜ鹿児島の造士館の寮歌(或はそれを口伝えたもの)が、この瀬戸内海に浮かぶ愛媛県の小さな島の中学で今も歌われているのでしょうか。

 それは、林君の母君が鹿児島の出身で旧姓を竹内といい、そのお父上の竹内栄吉氏が造士館ゆかりの方であったことに起因するのです。

 竹内栄吉氏は、竹内栄十氏(西南戦争のとき西郷隆盛に従軍)の子供で、栄吉氏は鹿児島が空襲にあった際、直撃弾を受け不幸にも亡くなられましたが、母君は、戦争当時は大達市で小学校の先生をしておられたので爆撃には合わなかったのです。

 林君の父君も同じ頃大連市の小学校の先生をしておられたので、その縁でお二人は結ばれました。(仲人は母君の伯父、永田五郎氏 − 鹿児島県人で二階堂代議士の後援会員)

 彼は大連市で生まれ、一家は終戦直後父君の郷里である愛媛県中島町睦月に引き揚げ、島での生活が始まりました。母君は少女時代から父上の歌われる造士館の寮歌”七高さん″の歌う寮歌−に憧れていたのかも知れません。乙女の胸に去来するものがなんであったかは知るよしもありませんが、終戦後、想像もしなかった離れ小島で生活をすることになり、郷里の鹿児島や亡き父上を偲んで造士館の寮歌を口ずさんでおられたのでしょう。

 彼は睦月中学生になるや、大連市でやっていた野球を中学生の友達に教え、映画「瀬戸内野球少年団」を地でゆくような野球部生活がはじまりました。

 やがて中島の島内にある中学校の対抗試合が盛んになるにつれ、「睦月中学の応援歌が欲しい」ということになり、校内で応援歌が募集されました。

 彼は、すぐに母君がよく口ずさんでおられた造士館の寮歌のメロディが頭に浮かび、応援歌選考の際、それを皆の前で歌ってみたところ見事当選してしまったのです。

 母君も自分の愛唱歌が子供の中学校の応援歌に採用されるとは夢にも思わなかったでしょう。

 このときから、造士館の寮歌が瀬戸内海に浮かぶ小島の中学校の応援歌に生まれ変わったのです。

 造士館ゆかりの父が歌う寮歌をその娘が覚え口ずさむ〜大連〜結婚〜引き揚げ〜その息子が母の歌っていた寮歌を中学校の応援歌として歌う〜いまも睦月中学校で歌われている〜

〜そして、40数年後にたまたま中学の同窓会で本人がそれを発見〜松山の高校の友人に偶然話しをする〜その友人の父が造士館の弓道部に在籍したことがあり、今もご連絡を頂戴している〜その譜面をこのたびお送りすることになる 

− 寮歌の旅といいますか、心の旅路といいますか、歌と人生の深い縁を私は思わぎるを得ません。

 同封の譜面と歌詞は、長いあいだ歌い継がれているうちに造土館の寮歌とは少し変化しているかもしれませんが、この応援歌のルーツは間違いなく造士館の寮歌です。

 実は、これと良く似た物語が愛媛県立宇和島東高等学校の応援歌にもあるのです。そのことを、彼は新聞社にいた関係で知っており、愛媛新聞社刊の 「愛媛の野球100年史」1383頁のコピーを一緒に持参してくれましたので、あわせてお送りします。

 余談ですが、鹿児島市と宇和島市は古い縁があり、島津家の媛君が宇和島藩主伊達家に嫁いでこられたため、宇和島地方には鹿児島の風習がいくつか残っており、例えば名物料理「薩摩汁かけご飯」は、鹿児島から伝わったものだといわれています。

 ところで、宇和島東高等学校は今年の春の選抜野球に出場しますので、造士館発祥の応援歌が再び甲子園で歌われることでしょう。

 では、ご多用中誠に恐縮ですが、 ”この譜面にあるメロディや歌詞が、造土館の寮歌と全く同じものなのか、またはどこが違っているかをお教え頂くお便り″を私宛に賜われば幸いでございます。

 また、私の父が生前出版した自伝のなかの 「七高時代」 のコピーをお送りしますから、ご笑覧ください。

 今後とも宜しくお願い申し上げますとともに、貴会のご発展をお祈りしております。

                            敬具           (平九・二・五)


註)同封された睦月中学校応援歌

一、
高松の下永遠に
輝く睦月健児等の
校章薫る秋の空
行け青春の血は満てり
血潮に燃ゆる睦月中
雄図りりしく輝かせ

二、
苦戦の涙にじむとも
堂々の容失わず
山風故に吹き巻くも
清々の意気いや高し
倒れてやまぬ睦月中
雄途りりしく輝かせ

今年度七高弓友会誌「弓友だより」に貴信を掲載致し度く、御高承賜ります様お願いします。
本店に対し折返し宇都宮良平様に平成九年二月十言付にて左記趣旨の返信を差し上げました.(堺)
          ×           ×
克明に事実関係を記述された貴翰拝論致しました。奇縁に結び継がれて、瀬戸内海に浮かぶ小島の中学校に歌い続けられている七高寮歌の旅物語に感動致しました。

お送りいたゞいた譜面のメロディは若干異なっていますが、あくまで七高造士館代表寮歌「北辰斜に」であります。

同封しました平成七年開校九十五年記念校歌集記載のコピーでも、曲は経時変化しています。(証、原曲と現在の曲併記)永い間歌い継がれて行く間、自然と歌い易い様に醸成され、風格を帯びて来たものと思います。

静かに息をしている歌の生命を感じます。


(11)台南第二中学校(旧制)

 戦前の旧制中学で、曲が用いられていた(中馬,1995)。


【その他の七高造士館寮歌の引用事例】

七高造士館寮歌「熱球血を啜りて」の曲を用いた全国の中高等学校の歌

「熱球血を啜りて」は七高造士館の大正九年に行われた復活対五高野球戦の応援歌です。その後、七高野球部歌としても歌われていました。

寮歌「熱球血を啜りて」の詳細は七高造士館寮歌「熱球血を啜りて」のページへ

愛媛県立宇和島東高等学校 熱球血をすすりて 〜野球部応援歌〜 mp3録音

山口県立山口高等学校 熱球 〜応援歌第二号〜 mp3録音

鹿児島県立大島高等学校 応援歌 巨龍雲を巻いて (mp3録音



巻頭言

流星落ちて住む處
橄攬の實の熟る
あくがれの南の國に
つどひにし三年の夢短しと
結びも終へぬこの幸を
或ひは饗宴の庭に
或ひは星夜の窓の下に
若い高らう感情の旋律をもて 
思ひのまに歌ひ給え
歌は悲しき時の母ともなり
うれしき時の友ともなれば
いざや歌わんかな北辰斜め

りゅうせいおちてすむところ
かんらんのみのうるるさと
あくがれのみんなみのくにに
つどいにしみとせのゆめみじかしと
むすびもおえぬこのさちを
あるいはうたげのにわに
あるいはせいやのまどのもとに
わかいたかろうかんじょうのせんりつをもて
おもいのままにうたいたまえ
うたはかなしきときのははともなり
うれしきときのともともなれば
いざやうたわんかなほくしんななめ


北辰斜に
一、
 北辰斜にさすところ
 大瀛の水洋々乎
 春花かをる~州の
 正氣はこもる白鶴城
 芳英とはにくちせねば 
 歴史もふりぬ四百年

一、
 ほくしんななめにさすところ
 たいえいのみずようようこ
 はるはなかおるしんしゅうの
 せいきはこもるはっかくじょう
 ほうえいとわにくちせねば 
 れきしもふりぬしひゃくねん

二、
 紫さむる黎明の
 靜けき波に星かぞへ
 荒涼の氣に咽ぶとき
 微吟消えゆくさつまがた 
 不屈の色もおごそかに
 東火をはく桜島

二、
 むらさきさむるしののめの
 しずけきなみにほしかぞえ
 こうりょうのきにむせぶとき
 びぎんきえゆくさつまがた
 ふくつのいろもおごそかに
 ひがしひをはくさくらじま

三、
 悲歌に耳藉す人もなく
 沈み濁れる末の世の
 驂鸞の夢よそにして
 疾風迅雨に色さびし
 古城の風に嘯ける
 健兒七百意氣高し

三、
 ひいかにみみかすひともなく
 しずみにごれるすえのよの
 さんらんのゆめよそにして
 しっぷうじんうにいろさびし
 こじょうのかぜにうそぶける
 けんじななひゃくいきたかし

四、
 南の翼この郷に
 三年とゞまる鵬の影
 行途は萬里雲わきて
 雄圖もゆる天つ日や
 かどでの昔叫びにし
 理想の空に長駆せん

四、
 みなみのつばさこのさとに
 みとせとどまるほうのかげ
 ゆくてはばんりくもわきて
 ゆうともゆるあまつひや
 かどでのむかしさけびにし
 りそうのそらにちょうくせん

五、
 あ
若き日の光榮は 
 今年十四の記念祭
 祝ふもうれし向上の
 旅の衣に散りか

 樟の下露Cらけく
 けふ南明の秋にして

五、
 ああわかきひのこうえいは
 ことしじゅうしのきねんさい
 いわうもうれしこうじょうの
 たびのころもにちりかかる
 くすのしたつゆきよらけく
 きょうなんめいのあきにして


【参考文献・引用文献】


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