鹿児島大学在学中の思い出など

冨山(理学部生物学科1979年4月入学1983年3月卒業)


ファイアーストームと寮歌についての個人的な感想

冨山清升(鹿児島市在住・鹿児島大学理学部教員)

私は、鹿児島大学理学部の教員ですが、理学部同窓会のホームページで七高造士館を紹介するお手伝いもいたしております。その中で、七高寮歌を紹介するコーナーを充実させてみました。現在、主要な七高寮歌は、ホームページを閲覧することで、全国どこでも誰でも簡単に試聴することが可能になっています。世代を超えて寮歌に思い入れのある方々も多く、時々お問い合わせも頂きます。何故、ここまで七高寮歌の紹介に力を入れているのか不思議に思われる方も多いようです。

旧制高校に興味を持つ人々の大半は、「寮歌」をキーワードにしているのではないでしょうか。しかし、寮歌の存在は、得てして、旧制高校→蛮カラ→寮歌というようなステレオタイプな見方を助長しているような気もします。旧制高校生が寮歌高唱だけをやっていた訳ではないことは当たり前なのですが、何故か旧制高校への興味は寮歌に集中しがちです。それだけ、自由自治の精神の神髄が、寮歌の歌詞なり曲なりに凝集されているということなのでしょうか。

寮歌については、個人的に、恐らく、同世代の他の者よりも少々変わった経験を持ち合わせています。私の出身高校は、九州のとある旧制中学の伝統を引き継いだ、いささか蛮カラな校風の学校でした。その高校では、文化祭の前夜祭では、校庭で火を焚いてファイアーストームを今でもやっています。ファイアーストームは旧制中学以来の伝統だと聞かされていましたが、旧制高校で行われていたファイアーストームを旧制中学が真似ただけの行事だったと思われます。

先日、母校の佐賀西高校のホームページを見ておりましたら、文化祭前夜祭のファイアーストームは今だに続けており、女人禁制・学生服制帽着用・寮歌斉唱の伝統はかたくなに守っているようです。むしろ県内でも有名になってしまって、観光客も見に来る盛況ぶりのようです。

佐賀西高校のファイアーストームは、前身の新制佐賀高等学校が発足した1949年(昭和24年)に始まったと記録にあります。旧制佐賀中学が新制高校に移行した際に、「高等学校」の行事として、旧制佐賀高等学校で行われていたファイアーストームの様式をそのままコピーしたものだと、在学時に旧制佐高出身の古株の教師から聞かされました。旧制佐賀中学時代もファイアーストームはやっていたようですが、公式の学校行事に組み込まれた形態としては新制佐賀高等学校になってからだと聞いています。

最初は、旧制中学の連中が、新制高校に移行した際、旧制高校の自由と自治の精神が何たるかも理解できず、形式だけを真似て、中身は旧制中学流の蛮風で下級生をしごく手法で始めたもののようです。その様式がそのまま伝統として定着して続いているようです。

新制佐賀高等学校は、佐賀市内にあった旧制佐賀中学校・旧制佐賀高等女学校・旧制成美高等女学校の三校が合併してできた学校で、旧制学校の定員をそのまま移行させたために、1学年20クラスの巨大高等学校だったそうです。校舎敷地は旧制佐賀中学のものを使用していたため、非常に狭隘で、かつ、あまりに巨大な高校だった故、1963年(昭和38年)に佐賀西高等学校・佐賀北高等学校・佐賀東高等学校の三校に分割されました。新制佐賀高等学校の校舎敷地は佐賀西高等学校に引き継がれました。

ファイアーストームもそれぞれ三校に引き継がれましたが、その後、佐賀東高校では、「女子も参加させよ」ということで、フォークダンスを取り入れるなど変形して、やがて行事として立ち消えになったようです。

佐賀北高校では、一部体育教師の横やりで、学生服着用が廃止され、体操服で歌うようになり、軍歌も歌うようになり、炎は最初の点火だけで薪くべも給油もなし、と、かな変容しているようです。軍歌が数多く歌われるのも佐賀北高のファイアーストームの特徴で、「同期の桜」「麦と兵隊」「加藤隼戦闘隊」「月月火水木金金」などが歌われており、旧制高校的ファイアーストームからはかなり変質してしまっています。旧制高校OBに言わせれば、「ファイアーストームの場で軍歌を歌うなどもってのほか」、ということになりましょうか。佐賀西高校のファイアーストームでは、現在でも軍歌は一切歌われません。

2000年の佐賀県議会で、男女参画機会均等法に関連した議会質問で、女性議員から「女人禁制のファイアーストームなど時代錯誤。女性も参加させるべきだ。」との質問が出され、物議を醸し出したそうですが、特に動きはなかったようです。

女人禁制なのは、現在では、昔のような男尊女卑のアナクロニズム的思考から出ているものではなく、「ファイアーストームは夜間に行われるため、下校時の女子生徒の安全が確保できない。」という理由が主なようです。事実、佐賀北高校では女子生徒をファイアーストームに参加させるべく、早朝にファイアーストームを実行した年があったそうですが、興奮の度合いが高まるにつれて、夜が明けて明るくなっていき、文字通り「しらけ」てしまったそうで、翌年から夜間挙行で男子生徒のみ参加にもどったと聞いています。

ファイアーストームは旧制高校の教育体系のモデルとなった、ドイツのホッホシューレで行われていた狩猟民族の一種のアミニズム的な色彩の強い儀式で、そのまま日本に直輸入されて、定着したものだと聞きました。

私が高校時代に経験したファイアーストームは、校庭の真ん中で火を焚いてその周りで寮歌を歌ったり、踊ったりするだけの行事でしたが、燃えさかる炎というものは、何かしら精神を刺激させるものがあるようで、火焔を見つめながら皆と歌っているうちに湧き上がってくる一種独特の高揚感は、経験してみないと理解できないものなのかも知れません。旧制高校生だった方々がファイアーストームに特に強くノスタルジアを感じるというのも判らないではありません。

高校に入学してすぐの行事だったと記憶していますが、校歌や応援歌に加えて、各種の寮歌を二十曲ほど覚えさせられました。ストームリーダーと呼ばれる三年生が各クラスに配置されて、寮歌をがなり立てて口伝で覚えさせられました。ただそのやり方が旧制中学流の実にファッショ的で、上意下達・絶対服従の有無を言わせない高圧的なもので、内心強い反発を感じたのも事実でした。

こういった状況でしたから、実際に、寮歌の練習には参加してはいたものの、面従腹背で本番のファイアーストームはボイコットで不参加の者も少数いました。中には、私の1年下の学年だったと思いますが、堂々とストーム委員長に「不参加」を申し出た者がおり、大もめになった事例もありました。

もともと寮歌は旧制高校生が自由の精神を発露する手段であり、歌いたいから歌っていたのだと解釈しています。私が高校時代に体験した寮歌は強要されたものであり、自由と自治の旧制高校の精神とはおよそかけ離れたもので、いわば旧制中学の寮歌だったと感じています。

が、当時覚えた寮歌の中に「北辰斜に」もあり、鹿児島大学入学後には、特に覚えることなく「北辰斜に」を歌うことができたという記憶があります。本当の寮歌らしい寮歌を歌ったのは、鹿児島大学に入学して、皆と一緒に歌った「北辰斜に」が最初だったと言えるでしょうか。本来の旧制高校的な寮歌、すなわち、歌いたいから歌う寮歌・皆と喜びを共有しつつ歌う寮歌・互いに精神を高揚させる寮歌は、やはり鹿児島大学に入学して初めて経験したものです。

高校のファイアーストームでは、楽譜に拠っていたせいか、「嗚呼玉杯に」や「北辰斜に」は原譜に基づく長調で歌っていました。「北辰斜に」は短調で歌うことが正調であり、七高造士館同窓生が聴いていたら、烈火のごとく怒られたことでしょう。

高校三年時の文化祭では、三年生男子の希望者がストームリーダーになることができましたが、当然のことながら、私は希望しませんでした。しかし、ファイアーストームの高揚感は楽しんでいました。

ストームリーダーは三年生男子でやりたい者は誰でもなれましたが、ストームリーダーを統括するストーム委員長は立候補制で三年生男子の投票で決めていました。ストーム委員長には“花の應援團”風の蛮カラ気質だけでなく、有る程度の漢籍や国文の素養が要求されました。ファイアーストームの開始時に、委員長は「檄」と呼ばれる自作の自由詩を朗詠しなければならず、ストーム委員長は与謝野鉄幹や土井晩翠の詩集が必読と言われたものです。

ファイアーストーム本番時の参加生徒の服装は、学生服に制帽。ストームリーダーは、羽織袴に白襷と白鉢巻きを締め、裸足に自分で編んだ草鞋履という出で立ちでした。草鞋の鼻の緒で足の指がすりむけるため、親指と人差し指の間にカットバンを貼り付けていました。ストームリーダーは、めいめいが青竹に白い旗をくくりつけ、旗には「怒」とか「冴」とか自分の気に入った一文字を墨筆し、担当クラスの生徒の寄せ書きが書き込まれていました。ストーム委員長と副委員長は上下白無垢の羽織袴に、白襷と白鉢巻きを締めていました。昔は真剣の脇差しを帯びていたということでしたが、私の時代にはなかったようです。

ファイアーストームは女人禁制でしたが、多くの女子生徒が運動場の周囲を囲む塀の上によじ登って並んで座って見物していました。少数の女子生徒が炊き出し部隊で校内に入ってストームリーダーのための夜食を作っていました。一般男子生徒はいったん自宅に帰って、腹ごしらえをした上で夕方に登校していましたが、ストームリーダー連は事前準備が忙しく帰宅しなかったようです。

校庭の中央部に薪が積み上げられ、その周りを二重に、内側が3年生、外側が1,2年生の配置で、全校の男子生徒が炎を取り囲んでいました。中央部からやや離れたところに櫓が組まれ、上部にストーム委員長以下幹部連が陣取っていました。ストーム委員長のかけ声はマイクを用いていました。点火の後に、まず、ストーム委員長の檄文が朗詠され、校歌から順に各種の寮歌約20曲が歌われました。すべて櫓の上で副委員長の打ち鳴らす大太鼓の音に合わせて歌っていました。ストームリーダーは旗を打ち振って、担当クラスの男子生徒を鼓舞していました。

ファイヤーストームで歌われた歌は、不正確な記憶をたどると、「楠の青葉:佐賀西高校歌」「天山颪:佐賀西校応援歌」「天そそる:佐賀西校讃歌」「あゝ栄城の:旧制佐賀中学校校歌」「若紫に:旧制佐賀高等学校校歌」「南の遠く振古より;旧制佐高寮歌」「旧制佐高逍遙歌」「小島の磯に:旧制佐高不知火寮を去る日の歌」「騎馬を進めて:旧制佐高対福高戦野球応援歌;いざ北筑の敵来たれ」「都ぞ弥生:北大寮歌」「二高野球部遠征歌」「嗚呼玉杯に:一高寮歌」「北の都:四高寮歌」「伊吹おろし:八高寮歌」「紅萌ゆる:三高寮歌」「吾は湖の子:三高漕艇部歌」「北辰斜に:七高造士館寮歌」「妻をめとらば」「ふられ節:旧制佐高俗謡」「デカンショ節」「窓は夜露に:旅順高寮歌」 (五高寮歌「武夫原頭に」は、曲を「天山颪」で借用しているためか、歌われていませんでした)、などが記憶に残っていますが、まだあったかも知れません。

最近は、ファイアーストームの時間が、18時〜20時と短縮されたこともあって、歌われる寮歌も16曲程度に減っているようです。

歌う際の円陣は、二重円陣・一重の大円陣・4個の小円陣の3種類の陣型があり、円陣変更時には、ストーム委員長の発令下に、太鼓の乱打と法螺貝が吹き鳴らされる中、怒号を上げながら疾走しつつ円陣を組み換えていました。歌によって円陣の隊型が変わりましたが、ファイアーストーム特有の踊りが付いている歌もありました。校歌は直立不動、応援歌は拳突き出し、讃歌は腕振り、といった簡単な振り付けも付いていました。

円陣の外側には、薪くべ部隊と給油(灯油)部隊が控えており、時々、ストーム委員長の命令一下、皆が怒号を上げる中、薪くべと給油が行われていました。給油の後の、爆発するように吹き上がる炎が印象的でした。

ファイアーストームの最中に、他校の愚連隊が構内に侵入してきて、背後から生徒を殴りつけるという事件があったそうで、それ以降、生徒による自警団が組織され、ファイアーストームの最中には、要所要所に竹刀を持った警護役が交替で立って外部を監視していました。

ファイアーストームの最後は「窓は夜露に:旅順高寮歌」を繰り返しエンドレスで歌い続けて流れ解散となっていました。最後は全員が委員長のいる櫓を取り囲むように集合してくるのですが、ストームリーダー連は櫓にしがみついて旗を振りつつ感極まって号泣するのが通例でした。

最後に一般参加の男子生徒が校門から出ていく際には、ストームリーダーが全員整列して立って見送っていました。「有り難う」とか「頑張った」とか、全員と握手をしたり、抱き合ったりしておりました。ファイアーストームは18時に始まって、21時頃に帰宅していました。

その後の「反省会」は学校当局からきつく禁止のお達しが出ていました。しかし、ファイアーストーム後、ストームリーダー連は、ストーム委員長の手配した会場に集合して、公然と大々的な打ち上げ会を催すのが通例だったそうです。当然、煙や般若湯入りだったと聞いていますから、現在では、さすがにそこまではやっていないと思います。

佐賀西高校は周囲が狭い路地だったため、周囲は見物の人出で溢れているだけでした。しかし、佐賀北高校の場合、幹線道路に面しているため、毎年、ファーヤーストームの際に、暴走族が示威行為で学校周辺を爆音を鳴らしながら走り回り、騒然としていました。生徒が帰宅時に暴走族に襲われて殴られるという事件もあり、校外の要所には教員や補導員が立って目を光らせていました。

佐賀西高校の男子生徒は、誰もがファイアーストームの洗礼を受けるため、高校卒業後、寮歌ファンになる者も多いようです。「ファイアーストームこそが西高の伝統・男の世界」、と高校時代の主な懐古の対象にもなっているようです。ファイアーストームが、男子生徒にとっての一種の通過儀礼(イニシエーション)としても働いているようです。

私自身は、「北辰斜に」は別格として、高校に入学した当初、寮歌を半強制的に覚えさせられて歌わさせられた体験に引きずられてか、寮歌に対するあまり良い印象がありません。それでも、高校時代に嫌々歌っていた寮歌であっても、三年間も歌い続けておれば、当時覚えた寮歌約二十曲は今でも口ずさむことができます。

数年前に、郷里の佐賀での宴会の席で、旧制佐賀高等学校卒とかいう老大先生と佐高対福高戦野球応援歌「いざ北筑の敵来たれ」を一緒に歌いましたら、大感激されたという妙な経験もありました。鹿児島大学は北海道大学出身の教員も意外に多く、時々つきあいで北大寮歌「都ぞ弥生」も歌っています。あまり歌う機会のないように思える寮歌ですが、思わぬ所で、覚えていた事が役に立つ場合もあるようです。

ちなみに、私は、旧制佐高寮歌は四曲覚えていますが、七高寮歌は鹿大在学時代に歌っていた「巻頭言+北辰斜め」と「熱球血を啜りて」以外は歌えません。昔覚えた歌というものはその当時の思い出とセットになって記憶に留められるべき存在であって、いまさら新たに七高寮歌を覚えようという強い動機もありません。ただ、ホームページで七高寮歌を紹介するために、さんざん楽譜から音楽を起こす作業をやってきましたので、メロディーが頭の中にこびりついており、現時点では、歌詞を見ながらでしたら、主要な七高寮歌ならかなりの曲数を歌唱できるとは思いますが (これとて実際に声を出して歌ってみたことはほとんどないのです)。

現在の鹿児島大学では、私が在学していた時代には、寮生の友人が「花玉こうに」「楠の葉末」「赤き血潮」「朝日に燃ゆる」「天に五色の」などを歌っていたのを記憶していますので、学生寮や一部サークルでは口伝で七高寮歌が伝わっているようです。

現在、特に寮歌好きということではないのですが、寮歌に何となく親しみを感じるのは、良くも悪くも、高校時代に体験したファイアーストームの強烈な印象のせいでしょう。

(終わり)

※東京七高会会誌に投稿した文章に一部加筆したもの。

2007年7月20日(金)


ホームページにもどる  冨山(清)S54入生物の目次にもどる