戦争と第七高等学校造士館
長崎原爆被爆の記録

原爆はこうしてつくられ落とされた
−悲運の長崎と被爆した学友たち−

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八. 原爆開発の進展

(六)運命の決定、日本への原爆行使

マンハッタン計画の急進展とともに、原爆投下先について予備検討がはじまる。

まず現れるのが、四三年五月五目の「軍事政策委員会」である。ブッシュ、コナント、パーネル、スタイアー、グローヴズの間で、最初の爆弾の投下地点について、次のような意見が交わされる。

 「最適の投下地点は、トラック島の日本艦隊であろうというのが大方の意見だった。スタイアー将軍は東京を挙げた。しかし、爆弾が爆発しない場合に備え、簡単には回収できないほど十分な水深のある場所を選んで、投下すべきであるとの指摘があった。

 日本人が選ばれたのは、彼等がドイツ人と比較して、この爆弾から知識を得る公算は少ないと見られるからである」

 いきなり日本が原爆行使先としてでてくる。文面からはドイツを完全に除外しきってはいないようだが、知識レベルが低いとして明確に日本を指向しているのは疑いない。

 ドイツに原爆開発を先行されるのを恐れてスタートしたマンハッタン計画であったが、英国の空中偵察でドイツにはそれらしい工場が見当たらないうえ、ノルウェーの重水工場は謀略破壊工作を実施済みで、すでにドイツの脅威は去っていた。

 加えて、イタリア上陸も迫り、ドイツに対する連合国の包囲網によって、その崩壊が視野に入りつつある。

 原爆完成が約二年先になるのを熟知している「軍事政策委員会」のメンバーにとっては、原爆行使先をドイツから日本に振り向けたとしても、それは至極当然のことであったろう。

 これを受けて、ブッシュは六月二十四日にルーズベルト大統領と会談した時の覚書に、

「大統領はドイツの進行状況を気にしており、ドイツへの原爆投下を想定しているようであった。私は、日本ないし日本艦隊への投下の話をし、ドイツでなく日本に対して使用する場合は、いままでの観点や力点が変わることについて会話した」

と記している。

 この時点では、大統領は依然としてドイツを指向していたようであるが、ブッシュとの会話で、原爆を日本に対して行使する方向に大きく傾いていったと思われる。

 それから一年、1944年夏頃になると、原子爆弾の開発が1945年夏頃になることがはっきりし、ドイツの崩壊がそれ以前になることも明確になってくる。

 こうした経過を経て、1944年九月、第二回ケベック会談の際、ハイドパークにおけるルーズベルト、チャーチルのトップ会談で、極秘裏に、

 「熟慮の上、多分日本に対して使用することになろうが、その場合、日本に対しては、降伏するまで爆撃が繰り返される旨を警告すべきである」

と合意する。

 ドイツを指向していた原爆行使先が、はっきりと日本に転換した運命の会議であり、広島、長崎の悲劇がここにはじまる。

 時期的にはグアム、サイパン、テニアン三島が陥落し、その責任をとって東条首相が退陣した頃で、われわれが旧制高校一年の夏の頃に当たる。

 この合意は、政策決定のトップにも知らされず極秘で推移して行くが、関係者はお構いなしに日本への投下を目指して諸準備を進める。

 ただ、具体的な投下先については、その後も、「軍事政策委員会」のメンバーや構成員の間で繰り返し討議される。

 日本の都市攻撃のほか、例えばトラック島の日本艦隊、日本近海の無人島への爆撃、連合国関係者を招集したデモンストレーション爆発実験などについても討議されている。
      
 しかし、これらの案は日本人に与える心理的効果が小さいこと、万一不発に終わった時の嘲笑(ちょうしょう)や不評、日本側に回収される危険性、海中に落下した不発弾に海水がしみこみ、遅れて連鎖反応が生ずる危険性、原爆の効果が把握しにくいなど、さまざまな議論が飛び交った末、退けられている。

 こうして、オッペンハイマー博士、ノイマン博士などが作成した目標選定の基準案が、その後の最終的基準作成のためのベースになって行く。

 1、日本人の抗戦意志を挫折させるような場所を選ぶこと

 2、軍事的な性格を多分に持っていること

 3、原爆の効果を正確につかめるよう、まだ被害を受けていない場所であること

 4、最初の目標は爆弾の威力をより限定的に決定できる程度の広さをもつこと

 なおこの頃には、戦後処理をめぐる連合国間の外交交渉が、活発に繰り広げられるようになる。

 1944年八月から十月にかけて、米英中ソの四大国代表による戦後の国際管理、拒否権、総会議席数をめぐる激しい討議が始まり、米英とソ連との対立が噴出してくる。

 国際連合「ユナイテッド・ネイションズ」の呼称は、ルーズベルト大統領の主唱で始まり、国際管理の機構についても米国主導で行われただけに、ソ連は拒否権や総会議席数をめぐって激しく対立する。

 拒否権についてはフランスからも、強い要求が出る。

 こうした争いは、翌四五年四月〜六月、サンフランシスコ会議で国連創設が決定するまで続けられた。

 これらの動きは当然のことながら、原子力にも波及し、すでに「最高政策グループ」の関心も、原爆が完成し、戦後を迎えた場合の国際的な原子力管理をどうするのか、友好国は、ソ連の扱いは、などに重点が移り、真剣な討議がはじまる。


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