戦争と第七高等学校造士館
長崎原爆被爆の記録

原爆はこうしてつくられ落とされた
−悲運の長崎と被爆した学友たち−

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五. 山本司令長官の戦死

(一) ガダルカナル攻防戦

 話を中学三年生の夏の頃に戻そう。

 優雅に過ごしていた四二年八月七日に、米軍によって開始されたガダルカナル反攻は、彼我の総力を挙げての決戦の様相を呈してくる。

 太平洋戦争開始以来、わずか八か月後のことである。

 日本海軍の航空機と艦艇による海上決戦、陸軍の再上陸による度々の奪回作戦に対して、アメリカの海兵隊は日本から奪取した飛行場(ヘンダーソン基地)を頑強に死守し、相互に消耗戦が展開されていく。

 空母をまじえた数次のソロモン海戦、航空機による大挙爆撃、戦艦による夜間艦砲射撃、上陸部隊の飛行場突入など、その都度はなばなしい発表が繰り返されるが、戦況は一向に好転せず、日本側はしだいに苦境に陥っているようだった。

 そして、彼我の物量の決定的な差が、おおっぴらに語られるようになる。

 年が明けて1943年(昭和18年)2月、遂に日本軍はガダルカナルから完全に撤退する。転進という格好のよい発表だったが、誰もがガダルカナルを奪回できず、放棄するのやむなきに至ったと理解した。
                   
 中学でも、ガダルカナル島は餓島(がとう)だという噂が広がる。ガダルカナルの激闘を通じて、どこからともなく、アメリカの物量作戦がいかに圧倒的かが伝わってくる。

 「大型の輸送船が次々に接岸しては、あっという間に揚陸して去ってゆく。

 飛行場はがんじがらめに防衛されていて、日本が一発撃てば、アメリカ側からは五十発も百発も撃ち返される。

 飛行機をいくら撃破しても、翌日には同数の飛行機が飛行場に並んでいる。

 飛行場の滑走路に大穴をあけても、アメリカにはブル何とかいう戦車のような機械があって、一時間もあれば元通りに修復されるらしい。日本では大勢の人がもっこをかついで、もたもたやっているのだから、比較にもならない。」

というような、噂話である。

 戦後ひもといたガダルカナル攻防戦は、まさに日米の決戦の場だった。

 海軍は、ミッドウェーで空母四隻を失う大打撃を受けたとはいえ、まだ十分な力を持っていた。

 数次にわたる空母戦も互角に渡り合う。巡洋戦隊の夜襲も成果をあげる。

 戦艦部隊のヘンダーソン飛行場に対する夜間艦砲射撃も、甚大な打撃を与え、相手を震えあがらせる。

 海軍航空隊はラバウル基地を根拠に、長駆ヘンダーソン飛行場を攻撃し、敵の航空機と十分以上に渡り合い、相応の成果あげている。
 
 これに対し陸軍は、敵の強靭な戦意と戦力を的確に評価しないまま、杜撰(ずさん)な作戦計画のもとに小出しの兵力で挑んだ結果、惨澹(さんたん)たる敗北を重ねる。 

 日米双方にとって、ソロモン諸島への補給はあまりに遠距離で、困難をきわめる。 

 凄まじい消耗戦の中で、兵員や物資を補給する輸送船団、その護衛艦艇、揚陸能力などの彼我の差がじりじりと表面化していく。

 特に、航空機と搭乗員の補給の差が顕著になるにつれて、次第に制空権は米軍の手に移り、海軍の艦艇も苦戦を強いられるようになる。

 上陸した陸軍部隊への輸送船による物資補給が困難になり、駆逐艦を、そして最後は潜水艦による夜間揚陸まで追い詰められる。

  ガダルカナルよりの撤兵を決断するまでに、上陸部隊のたどった密林での彷徨(ほうこう)は、陰惨そのもので、読むに耐えなかった。

 こうして、互角な戦いで始まったガダルカナル攻防戦は、激しい消耗戦のすえ、アメリカの完勝で終わり、以後日本側は各戦線でもっぱら守勢一方となり、ついに互角の戦いを挑めないまま終戦を迎える。


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