第七高等学校造士館 校歌集


吉田賢龍 館長

吉田賢龍館長
新旧七高舘長

吉田氏は廣島高師校長へ

▽後任渡達文部園書館長

吉田七高舘長が廣島高等師範学校長に柴挿したる事は別項東京電話の通りなるが氏は大正二年十月前任舘長小西垂直氏の後を襲ふて七高舘長に任じ爾来在職七年の久しきに及び、苦心経営全く七高奮時の面目を一新し、健全なる校風を確立したるは全く青田氏が人格の力に蹄せざるを得ず、氏は膏に内にありて校風の改善に努力して七高七百の健児に悦服せられたるのみならず、外に向かっても、亦其の鎗力を分つに客ならず。

青年曾の講演に、婦人曾の指導に、社合致育に常に其蘊蓄を傾けて蓋力を辞せざりしが如き、吾等の常に敬慕して措かざる所なり、今や柴挿して本願を去らるゝに臨み坐に惜別の情に堪ず。

(大正九年四月二十九日鹿児島新聞より)
 広島大学教育学部のご好意により先生のご経歴がわかりましたので、紹介します。

 明治三年二月五日、石川県に生をうけ、明治二十四年京都府立尋常中学、同二十七年第三高等中学を卒業、東京帝国大学哲学科を三十年に卒業され、ただちに私立真宗東京中学主幹兼教授となられ、三十三年から三十七年まで同校の校長をつとめられたあと早稲田大学講師を経て、同四十年千葉県立千葉中学校長となり、四十四年第三高等学校教授に任ぜられ、大正二年十月十日七高造士館長事務取扱を命ぜられ、大正三年四月十四日館長に就任された。

ご在任中正五位に叙され、大正九年四月二十八日広島高等師範学校長に転任、九月には海軍兵学枚教授も兼ねられ、十四年には従四位勲三等瑞宝章を受けられた。

昭和二年文理科大学創立委員を委嘱され、昭和四年、広島高等師範学校長兼任のまま、広島文理科大学初代学長に任ぜられた。

そして、翌五年三月には、三回にわたり天皇陛下にご進講をされたが、同七年には勲二等瑞宝章を受けられ、昭和九年六月退官、従三位に叙せられ、翌十年広島文理大学名誉教授の名称を授けられた。昭和十八年一月五日、七十三才でなくなられた。

 昭和五年広島高師卒で、戦後鹿大教授を勤められた宮内文七氏のお話しによると、吉田先生は、附属幼稚園の園児たちからもその徳を慕われる、包容力に富んだ円満高潔な人格
者として評判の方だったそうです。

 蛇足ながら付記すると、先生は泉鏡花のご親友だったそうで、「日本近代文学大事典」(日本近代文学館編講談社刊) には、泉鏡花は「明治三十二年一月硯友社の新年宴会で神楽坂の芸妓桃太郎(本名伊藤すず)を知り、のち妻に迎えることとなる。(中略) 

三十六年三月三日、旧友吉田賢龍が金を工面してくれたことで、すずを落籍」と書かれています。また、鏡花の代表作といわれる「高野聖」は、飛騨越えをされた吉田先生の体験談をもとに鏡花が空想を駆使して書きつづられたものだそうです。

                       城 井 睦 夫(昭十七・三文甲)

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