第七高等学校造士館 寮歌集


昭和二十一年 第四十五回開校記念祭歌
碧瑠璃の空に


「碧瑠璃の空に」 一番・三番  七高さつき会・北辰会・有志 (「久遠の七高寮歌」2000より) (mp3録音

主旋律のみの演奏 (midi録音
伴奏付の演奏 (midi録音1) (midi録音2) 

歌唱合成;伴奏付き  (Vocaloid2:初音ミク;調整版:mp3録音
 (Vocaloid2 がくっぽいど 調整版:mp3録音
   (Vocaloid2 巡音ルカ 調整版:mp3録音  

昭和二十一年 第四十五回開校記念祭歌
碧瑠璃の空に
作詞 川口幹夫  昭和二十二文甲
作曲 福田垂穂  昭和二十二文甲 
一、
 碧瑠璃
(へきるり)の空に秋風滿ちて
 白雲漂ひ流るゝきはみ
 海濤
(かいとう)ゆたかにうねりてつゞく
 不知火
(しらぬひ)大海(おほみ)の水Cらかに
 鴎
(かもめ)は舞飛ぶ美はしき國
 あゝ我等
(われら)此處(ここ)に集ひて
 新生の狼火
(のろし)をあげむ
四、
 白鶴
(はっかく)はるばる翼を伸ばし
 南を求めて此の地に來
(きた)
 羽搏
(はばた)き休めて冬空になく
 荒涼果なき此の冬の野に
 淡雪降り積み靜かに消ゆる
 あゝ夜ふけ沈黙
(しじま)の中に
 只管
(ひたすら)に書(ふみを讀みゆく
二、
 朝
(あした)東に紅(くれなゐ)させば
 金光まばゆきその空に
 群雀群れ飛び幸をば謳
(うた)
 今燦爛
(さんらん)と明けゆく天地
 氣は滿ちさやかに光輝く
 あゝ見よや東
(ひんがし)はるか
 々と紫尾
(しび)の峯(ね)つゞく
五、
 夕風かすかに野に立ちそめて
 日輪靜かに沈みてゆけば
 西空茜
(あかね)の血潮と燃えて
 天草島山夢とぞ浮かぶ
 颯々
(ひょうひょう)風吹く飛鶴原頭(ひかくげんとう)
 あゝ今ぞ大地に立ちて
 唱
(うた)ひなん記念(かたみ)の祭
三、 
 北天矢筈
(やはず)の大嶺(たいれい)遠く
 C冽水湧く出水
(いずみ)の平野(ひろの)
 さやかに流るゝ小川の岸に
 無限のひゞきをなつかしく聞き
 さすらひ悲しき運命
(さだめ)を想ふ
 ああ胸に思ひを秘めて
 永久
(とことは)に旅をば續く

【作詞者 川口幹夫さんの紹介】

 七高寮歌「碧瑠璃の空に」♪の作詞者の川口幹夫さんは、1926年9月25日生まれ。鹿児島県川辺郡川辺町(現在の南九州市川辺町)の出身。川辺中学校卒業後、昭和22年文科甲類卒業。第七高等学校造士館・東京大学文学部卒業後、1950年にNHKに入局。

 NHKでは、数多くの音楽番組の演出や制作を手がけた。特に、毎年大晦日の夜に放映される「紅白歌合戦」を国民的な番組に育て上げた功績が大きい。制作局ドラマ部長を務めていた時期には、「大河ドラマ」をNHKの看板番組に押し上げ、若手ドラマ作家を積極的に登用した。

手がけた主要な番組; 「紅白歌合戦」、「黄金の椅子」「歌は生きている」「夢であいましょう」「歌のグランドショー」、「天下御免」「土曜ドラマ」「遠い接近」「男たちの旅路」「阿修羅のごとく」「紅い花」「シリーズ人間模様・ドラマ人間模様」「夢千代日記」「続・事件」「花へんろ」「あ・うん」「真田太平記」、「鳩子の海」「繭子ひとり」「水色の時」「おしん」、「勝海舟」「山河燃ゆ」「春の波濤」「いのち」「独眼竜正宗」「武田信玄」、「NHK特集」「シルクロード」「日本列島 動く大地の物語」「ウルトラアイ」、等々。

常に制作現場にありながら、専務理事・放送総局長・NHK交響楽団理事長などを歴任した。1991年〜1997年の7年間、制作畑出身者としては初めてNHK会長を務めた。

【主要な著書】 『主役・脇役・湧かせ役-テレビ「志」の時代』(1987;講談社)、 『合唱のための舞台作品 子どものためのミュージカル ポンタとキタキツネ 子どものためのミュージカル 』(1998;音楽の友社)、『会長は快調です! 』(1999;東京新聞出版局)、『小夜子へ-妻が遺した花がたみ 』(1999;集英社)、『冷や汗、感動50年-私のテレビ交遊録』(2004;日本放送出版協会)、『時代の証言者〈14〉「放送文化」―川口幹夫 』(2006;読売ぶっくれっと)、

長女の川口京子さんは童謡歌手として知られる。


川口幹生(1999) 小夜子へ.集英社,東京.pp.78-82.より引用。

 その頃、学校はようやく正規のルートに乗りはじめていた。その当時の記録を見るとこうある。

昭和21(1946)年10月25日
 本日より4日間、第45回記念祭行事を挙行。
 午前中。式典および記念祭歌の発表。

−−作詞・文三(文科3年)川口幹夫
   作曲・文三       福田垂穂

とある。第45回記念祭歌を紹介すると、次のようなものである。

《中略》

戦前戦中のたとえば「濁世の波を低く見て」といった、世を慨嘆したいわゆる国士風の章句は一つもない。五節はすべて自然を謳い、その中で生きる喜び、学ぶ楽しさを歌っている。これは私の書いたものではあるが、終戦翌年の若い学生たちの一つの心象を代表するものであったと思う。



【作曲者 福田垂穂さんの紹介】

 七高寮歌「碧瑠璃の空に」♪の作曲者の福田垂穂(ふくだ たりほ)さんは、1924年10月1日、朝鮮京城府(現在の韓国ソウル特別市)生まれ。本籍は東京市滝野川区滝野川町の出身。京城中学校卒業後、昭和22年文科甲類卒業。日本社会事業専門学校研究科卒業。明治学院大学卒業後渡米。ベッセル大学卒業(社会科学専攻)。ハートフォード大学院修了。ホープ大学名誉人文学博士。

 七高造士館の学生時代から司法省少年保護団体でボランティア活動に従事。卒業と同時に当時の戦災孤児・浮浪児と呼ばれた子どもたちと生活。児童養護施設、セツルメントハウス(アメリカ)のワーカーを経て、1957 年以降 1993 年まで明治学院大学教授。この間、社会学部長、副学長、学校法人理事を歴任。明治学院大学名誉教授。1993年から1997年3月まで、東洋英和女子短期大学学長。

 児童福祉の第一人者として、東京都児童福祉審議会委員長、同青少年問題協議会副会長、ユネスコ本部児童と家庭環境プロジェクト顧問の他、社会福祉施設、青少年団体多数の役員などを務めた。総理府、法務省、労働省、厚生省、東京都などの児童・青少年・女性関係の審議会委員なども歴任。

 音楽に造詣が深く、各種の作曲や指揮者も務めた。2002年6月16日没。

 父上の甚三郎氏も、七高造士館の明治40年法科の卒業生。

【主要な著書】 『収容施設のグループワーク 』;ジゼラ・コノプカ著(翻訳本:1967) 、『グループワーク教室―集団の活用による人間性の回復を探る 』(1979;有斐閣選書) 、『家庭論』(日本基督教団出版会)、『保育講座』(医歯薬出版)、『 片親家族における児童福祉に関する国際比較研究 』(1980) 、『親子関係の理論1―成立と発達―』(1984;岩崎学術出版社)、『病理と治療(親子関係の理論B)』(1985;岩崎学術出版社)、『これからの福祉施設体系 (明日の福祉) 』(1987;中央法規出版) 、『 福祉と関連サービス (明日の福祉) 』(1988;中央法規出版) 、『高齢化社会の地域と企業』(1994;同文舘出版)、『 子どもの権利』(1996;明治学院大学法学部立法研究会 編 信山社出版 版)

http://members.jcom.home.ne.jp/ichikawa.s/jlc/jlc_edu_etc01.html
福田垂穂先生を偲ぶ会
 本学大学院で児童福祉論を担当くださっておられた福田垂穂先生が、2002年6月16日、日本福音ルーテル保谷教会の説教中に倒れられ、武蔵野日赤病院に運ばれましたが、意識がお戻りになることなく、同日にお亡くなりになられました。先生には、ほんとうにお世話になり、少し御依頼しすぎたのかもしれないという気持はぬぐいされません。山崎美貴子先生が中心となり、明治学院大学にて先生を偲ぶ会がもたれ、最近の福田先生の話を私にするようにとの御依頼がありました。はなはだ適任ではないと思いつつ、先生への感謝の言葉を述べさせて頂きました。その元となった原稿です。

http://www.normanet.ne.jp/~jsdc/soudan/wny8/wny8.html 日本肢体不自由児協会
ボス・福田垂穂先生 逝く
 2002年6月16日(日)、保谷教会において行われていた特別伝導集会の説教中、突然たおられて、参会者の中の医師によって応急手当を受けながら武蔵野赤十字病院に運ばれましたが、心肺機能停止状態となり、そのまま天に召されていきました。午後一時過ぎのことでありました。
 前夜式・葬式は、ご遺志により18日・19日に高井戸教会において、ご家族とごく親しい方たちとの密葬として執り行われました。


http://www2s.biglobe.ne.jp/~matu-emk/fukuda.htm

福田垂穂

 7月20日(土)梅雨が明けて、カッと夏の日射しがさした。強烈な暑さの中で福田垂穂さんを偲ぶ会があった。東京、芝白金の明治学院大学である。福田垂穂って誰?と皆思うだろう。私の旧制第7高等学校の同級生だった人、もっとも同級生といったって、この人は、私が7高に入った1944年(昭和19)年に一年先輩だった。その前年43年に入学したが、体をこわして留年して一年あとの私たちの組に入ってきたのである。ドイツ語では「落ちる」ことを「ドッペル」という。

 福田さんは一年先輩だったが、ドッペツてきて一年あとの私たちの組に入ってきたのだ。出身は京城公立中学校(今のソウルである)である。温和で重厚でいかにも一年先輩という雰囲気があった。だから我々も、又、同級生ではあるが、「福田さん」とさん付けで呼んだ。事実、年も二つ上だし、7高生活を一年でも経験していて貫禄も十分だった。

 その「福田さん」と私が断ち難く結ばれたのは戦後になってからである。私たちが兵隊に行っていた間に、7高はアメリカ軍の猛爆を受けて、鹿児島、鶴丸城跡にあった歴史的な校舎をすべて焼失していた。復員してきた私たちに、学校からは「新校舎を探している。学校再開は追って通知する」といってきた。ほぼ市内が焼失した鹿児島市に授業出きる建物がある筈はない。熊本県境に近い出水郡高尾野町に古い海軍航空隊があった。ここの兵舎をそのまま使うことにきまって授業再開は昭和20年10月26日ときまった。今でも鶴の飛来地としてこのあたりは有名だが、当時でもシベリヤからの鶴は海を渡って出水に飛んできていた。

 我々は出水郡の五つの町村にそれぞれ下宿して高尾野校舎に通ったのである。勿論食べるものはほとんどないあの戦後風景の中である。だが集まった我々は一様に、平和のありがたさを実感していた。「もう戦さで死ぬことはない。安心して本が読める」 何はなくともそのことが有難かった。兵舎を少し変えて授業をうけたのだが、荒涼たる風景の中でも、やはり青春は緑だった。

翌昭和21年(1946年)我々は3年生になった。 何もない中で色々な活動が始まった。 秋になった。 久しぶりに自由な中で「記念祭をやろう」ということになった。そしてその日取りがきまり、併せて記念祭歌を作ろうということになった。掲示板にはデカデカと「記念祭歌募集!」の紙がはられた。

 応募してみよう!と私は思った。 死なずにすんだ、その安らぎ、何かをやろう、何かがやれる!その胸の高鳴り! 私は夢中になって詩を書いた。

 昔の旧制高校の歌は、殆んど学生の手になるものだが、そのどれもに共通するものがあった。自由、独立、孤高、「治安の夢にふけりたる栄華の巷低く見て、、、、」とか「誰か立たざるこの時に、、、」とか世を嘆き悲憤慷慨する歌が多かった。 戦いから帰った私にはそのたぐいの歌はもうごめんだった。

 碧瑠璃の空に秋風満ちて
 白雲ただよひ流るるきはみ
 海涛ゆたかにうねりて続く
 不知火大海の水清らかに
 鴎は舞い飛ぶ 美はしき国
 ああ我等ここに集ひて
 新生の狼火(のろし)をあげむ

 以下五節あるが、すべてこれ北薩地方の海や山や川や鳥や自然の風物を歌っている。 旧仮名遣いで書かれたこの歌の中に私は「もう戦争はごめん。たぐいない日本の自然のみを歌って、新しい時代への狼火にしよう」と思っていた。 記念祭歌選定委員会はこの歌を昭和21年度の記念祭歌に選んでくれた。

 そして作曲を、やはり文科三年の福田垂穂さんに依嘱したのである。 福田さんは、この長い長い歌詩に淡々としかし思いをこめた曲をつけてくれた。

 その思い出の人、福田さんが亡くなった。明治学院大学で副学長をしていた福田さんは、大学にとって極めて大切な人であった。 特に児童福祉の世界では大変な仕事をたくさんしている。

 この福田さんが6月16日、日曜日に急逝した。しかも日曜の礼拝に行った教会で倒れ、そのまま逝ったのだ。 敬虔なクリスチャンだった福田さんらしい神への召され方だと思うが残念でならない。 7月20日の偲ぶ会には学生を含めて沢山の人が集まった。 皆が福田さんの在りし日の温顔を思い起していた。私も又、あの時のあの記念祭歌を思い起していた。 8月9日には長崎で札幌ミュ−ジカルの公演をやる。私が脚本を担当した修道師ゼノさんのお話だ。

 そういえばあの長崎原爆の日、私たちは長崎造船所で動員されていた理科の友だちを14人も一度に失っている。 6月も7月もそして又8月もことしは心の痛む日がつづけて何日も来る。


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